小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可は
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』