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戦国ちょっと悪い話47

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0001人間七七四年2019/05/08(水) 19:17:00.45ID:MDWkvrbn
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

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0133人間七七四年2019/06/08(土) 19:10:39.72ID:yXxB6Pg/
>>132
自殺まだ?
0134人間七七四年2019/06/09(日) 03:07:24.08ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事。御制禁なり。万一殺した輩には一切を売ってはならない事。

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129
0135人間七七四年2019/06/09(日) 21:52:07.77ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね
0136人間七七四年2019/06/09(日) 22:00:08.11ID:hwQ6Bi9R
当地方のキリシタン一同を驚愕させ、少なからぬ恐怖を懐かせた事は、龍造寺(隆信)が大村の領主
ドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。

ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。

パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。

事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン協教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。

しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。

これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。

その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。

蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋
0137人間七七四年2019/06/09(日) 23:29:16.21ID:ZfkTXeho
龍造寺がキリスト教のバックを考慮したんなら、手前味噌ながら方向性は正しいな
0138人間七七四年2019/06/10(月) 02:49:05.49ID:2hX+mQxB
すみません>>134の訳を訂正します。失礼しました。

>一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
> (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)
0139人間七七四年2019/06/10(月) 11:40:11.60ID:QN0NvVBL
>>133
ほらよ
http://i.imgur.com/GFhTg.jpg
0140人間七七四年2019/06/10(月) 12:58:13.75ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな
0141人間七七四年2019/06/10(月) 13:30:40.56ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。
0142人間七七四年2019/06/10(月) 13:44:22.19ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな
0143人間七七四年2019/06/10(月) 14:56:31.46ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた
0144人間七七四年2019/06/10(月) 16:54:35.54ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…
0145人間七七四年2019/06/10(月) 17:30:23.91ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな
0146人間七七四年2019/06/10(月) 17:42:52.27ID:eZpNrclM
中央日報日本語版20190610「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(1)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000032-cnippou-kr
1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。
日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。
ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に
沙也可の手紙が届いた。

「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の
朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が
認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、
72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。

壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を
聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の
紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の
神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。

紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと
同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は
緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と
関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。

沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを
記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や
金忠善(沙也可)の子孫が集まった。

ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の
朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が
和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が
和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。

碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図して
この場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を
表しているようだ」と語った。
0147人間七七四年2019/06/10(月) 17:44:37.40ID:eZpNrclM
韓国朝鮮ネタは荒れがちだけど一応。なんかやっぱり向こうでは全て事実扱いなんですね。
まあ日本側の検証はほぼwikipediaの記述の通りですが。
wikipedia沙也可
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8F%AF

参考文献にあげられてる、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 十五〜十七世紀における兵器の受容と伝播』が
最近の研究の元ネタ。
宇田川氏は秀吉の朝鮮侵略は悪!と書いてしまうスタンスの人ですが、自分の専門分野で手を抜くようには見えない。
0148人間七七四年2019/06/10(月) 18:30:43.06ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」
0149人間七七四年2019/06/10(月) 21:40:54.03ID:7oRtE5B8
>>146続き
日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。
沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。
「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。


和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が
勇気ある人物と評価している」と述べた。

沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に
立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。
ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を
率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。

「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長は「特に罪のない民衆を残酷に殺すことで豊臣は有名だった」と
し「沙也可は豊臣が戦争をすることに我慢できなかったようだ」と話した。
また「当時、リスクを負って裏切りと変わらない帰化をしたのは強い信念と決意があったからだと考える」と
語った。

当時、朝鮮としても沙也可を受け入れるのは容易な選択ではなかった。いつまた裏切るか分からない敵軍の
武将に名前を与えて正二位まで昇進させたのは大きな決断だった。
辻会長は「李舜臣(イ・スンシン)の艦隊に倭軍は全滅した。沙也可でなくとも壬辰倭乱の結果は
変わっていなかっただろうが、火縄銃と大砲のおかげで朝鮮人の犠牲を減らしたとは思う」と述べた。

2000年代に韓日関係が急激に改善し、沙也可はいわゆる「韓日友好協力のアイコン」として扱われた。
関連研究も活発になった。2012年には沙也可が建てた鹿洞書院がある大邱市(テグシ)達城郡(タルソングン)に韓日友好館もオープンした。
日本では今でも辻会長を中心に毎年、沙也可をテーマにした朗読劇の会を開き、小学・中学生を対象に沙也可の
平和思想などに関する授業をしている。

辻会長は「日韓関係にはいつも悪いことばかりあったわけではない」とし
「今は徴用工問題などいくつか難しいことが絡んでいるが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に一度、
沙也可の碑を訪れてほしい」と語った。
0150人間七七四年2019/06/10(月) 21:43:16.36ID:7oRtE5B8
典型的なタイプだね辻会長w
0151人間七七四年2019/06/10(月) 23:10:25.14ID:aEXzpoP0
雑賀衆の鈴木某にも可能性があるだけなのに孫市の子孫と決めつけちゃっているのか
町おこしのためなら何でもありってことなのかな
0152人間七七四年2019/06/11(火) 07:40:18.96ID:YeS6rj2+
村上海賊の娘とかもそうだけど、村おこしのためなら真実なんて知るかって感じがどうもなぁ…。
0153人間七七四年2019/06/11(火) 07:42:30.70ID:DbFOGen+
武田信玄「せやな」
0154人間七七四年2019/06/11(火) 13:25:46.77ID:5PkrBIp7
そういえばNHKの時代考証を担当していた人の本で
「武田信玄が鮑の煮貝を戦陣食として始めた」
という説があるから大河に出そう!
となりそうだったのを

山梨日日新聞「山梨百科事典」に
「江戸時代末期に駿河の魚問屋が伊豆で取れた鮑を加工して
甲斐に送り込んだのが最初で、甲州勤番の武士や文客が江戸にもたらしたのが評判となり甲州名物として定着した」
と書いてある以上、信玄時代に出すのは不適切、
と阻止した話があった。
土産物店のサイトだと武田信玄うんぬん書いてるところが多いようだけど
0155人間七七四年2019/06/11(火) 14:08:49.60ID:tf9swAlS
我等が安土山に立派なガザを建てたことは、当地方に於いて非常に有意義であった。信長は特権として
城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。

説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。
0156人間七七四年2019/06/11(火) 14:51:43.19ID:DbFOGen+
>>154
真田丸のときに政宗が陣中でずんだもち食べてたな。
0157人間七七四年2019/06/11(火) 17:12:34.08ID:gtIYJBnM
>>154
歴史家の人えらい!
0158人間七七四年2019/06/11(火) 17:18:48.15ID:3yhMAURC
韓国とタッグ組んで歴史ネタで町興しに乗り出そうとしたっていえば、沖縄石垣島のオヤケアカハチ=洪吉童説もね。
こちらは実在人物どころか小説の登場人物なのでw

オヤケアカハチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%81
0159人間七七四年2019/06/11(火) 17:38:31.74ID:3yhMAURC
なお沖縄では、このアカハチは赤毛の大男だったということでオランダ人との混血児というのが
地元一部で喧伝されてたりもしますが、そもそもポルトガル人の東南アジアのマラッカ到達が
1509年、オランダ人に至っては1600年のアダムズ・ヨーステン一行のリーフデ号到着が初ですよね。
でもアカハチ死亡年は1500年・・・

後世、勝手に膨らまされたイメージって全国どこも一緒だなあw
0160人間七七四年2019/06/12(水) 10:21:46.54ID:JWWpnTmp
日本人のルーツは朝鮮半島にあるっていうのにねえ
韓国アレルギーなのかな?
友でいるのが苦痛というのがネトウヨの総意だろうけど
交わることで分かることもあると思うぜ
0161人間七七四年2019/06/12(水) 10:27:47.34ID:/BP8IaVo
テコンダーっぽいなw
0162人間七七四年2019/06/12(水) 11:21:54.40ID:VNQ8hdgF
ハイハイ
0163人間七七四年2019/06/12(水) 13:23:43.53ID:ZTSqhw30
ハイサイ
0164人間七七四年2019/06/12(水) 20:16:00.45ID:h/jQFdtC
一、(前略)この時節、伊豆の宗雲(北条早雲)が出て小田原を乗っ取った事は、明応4年(1495)
  乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
  きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
  御代の比較になさるべし。(中略)

  まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
  て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
  これを聞いて申すには、

  「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
  うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
  羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。

  上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
  出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」

  との菅野・上原両人の口により、(後略)

一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
  今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
  孫は、少しも深き事なく候。

  宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
  下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。

  この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
  子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
  をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
  へ渡す。

  これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
  なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
  珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)

――『甲陽軍鑑』
0165人間七七四年2019/06/12(水) 20:23:10.63ID:h/jQFdtC
>>164
北条宗雲は古来〜は上杉憲政に家臣が申し上げた五ヶ条からの抜粋です
0166人間七七四年2019/06/13(木) 01:18:22.30ID:NpktaL/T
今、ビジタドール及び同行者が、都への往復に危険に瀕し、恐怖を抱いたことについて少しく述べるのは
不適当なことではあるまいと思う。第一の危険と恐怖の原因は、山口の王なる毛利 Mory が豊後より都に
赴く路に当たる領内の諸港、特に日本全国に於いて有名である塩飽 Xiuaqui の港に通知を発して、そこを
通過するパードレ達を捕らえるように命じたことが豊後に聞こえたことである。パードレはまた豊後滞在中に
我等の友人の一人から、決して塩飽の港に入らないよう注意を受けたが、都に赴くには毛利の両国に沿った
港湾を通過せざるを得ないので、その危険は甚大であった。

また一層恐怖を加えたのは、乗船の船頭が、我等の大敵である坊主が所領する、大坂と称する市の者で
あった事である。ただし船頭は豊後の王の家臣の如き者で、塩飽にも、その妻子のいる大坂にも、毛利の何れの
港にも決して寄港しないことを王(大友宗麟)と約束したので、恐怖は幾分除かれた。ただし彼は異教徒で
あったので、大いに信頼することは出来なかったが、これ以外に信用すべき船が他に無かったため、
ビジタドールはパードレ4人及びイルマン3人と一緒にこの船に乗り、船頭は常にいかなる事があっても、塩飽に
寄らないと言い、また毛利の領内の町を通る時は、パードレ達を隠していた。

遂に塩飽の前に着くと、船頭は「塩飽に入港せざるを得ないが、決して不幸の起こることはない故、安心する
ように」とパードレに伝えさせた。この伝言を聴いて、この船頭が約束を破り、また異教徒が己の利益の
ためなら容易に陰険なる処置に出ることを思って、諸人皆大いに恐れたが、我等は彼に対して反対する力が
無いために、様々に交渉した後、彼の望むように任せること止むなきに至り、パードレ達は一切をデウスの
御手に任せ、同所に滞在している一昼夜の間は絶えず恐怖を感じていた。しかるにデウスの摂理は、その地の
司令官が前日数レグワ離れた場所に毛利(毛利氏の拠点か)を訪問し、その帰任はパードレ達の出帆後となるよう
計らい給うた。

第二の危険は右に劣らず、パードレ達に対するデウスの摂理もまた少なからざるものであった。堺に近づいた時、
南蛮(日本においては我等をこう称した)のパードレの長が、沢山の宝を持って通過するという噂が立ち、
常にこの海を横行する海賊が多数集まり、堺より6,7レグワの一港に寄港することを聞いて、同港へ行き
安全に略奪を行おうと考えていた。ところが風が強くなり、パードレがこの日のうちに堺に着くことを希望した
ため、船頭にかの港に寄って順風の機を失う事の無いように頼んだ。船頭は同港において納税の必要(海賊への
通行料であろう)があると言って初め拒絶したが、パードレを満足せしむるため、日本の慣例に従い税を堺より
送る事として航海を続けた。
海賊たちが待ち受けていた港に寄らなかった所に、我等の主の摂理が認められた。

海賊たちは我々の船が通過するのを見て、多数の船に乗って出港したが、中にパードレの船よりも大きなものが
二艘あって、ほとんど追いつこうとしたが、風が止んで櫂を用いることが必要となった。兵士たちは敵が
近づくのを見て戦闘の準備を始め、船は急進して逃げた。敵もまた同じ速度で追撃して堺の港まで進み、
小舟は我等の船とともに港に入ったが、大船はパードレの船のようには海岸に近づくこと出来ず、小銃の
着弾距離の所に停まった。もし航路がさらに長いか、また右の船がもう少し小さければ、我々が海賊から
逃れることは出来なかったであろう。この時我々の恐怖がどれほどであったか、尊師も推察されるであろう。

既に港に着いて、キリシタン及び多数の異教徒が小銃その他武器を持って駆けつけたが、海賊たちに
150クルサドを与えて協定を遂げた後、我等ははじめて安全と成るを得た。

堺より豊後へ渡る際の危険もまた右に劣らぬもので、海賊のことと、再び毛利の領内を通過しないことを考え、
路を島々の外(四国の太平洋側の航路を取った)に取り、この航路に1ヶ月を費やしたが、この間
日本の船の不自由の他に、数回非常なる暴風雨に遭い、デウスを想うのみであった。1回は非常に激しい
颱風に遭い、港に入ったが、風は24時間継続した。またある日海賊の船が1艘来た。それのみでは恐怖は
感じなかったが、合図をして他の船を招くのを見て恐れ驚き、この間に一昼夜を経過した。
暴風雨または海賊の危険は、この種の航海においてはパードレ達の常に遭遇するところであって、デウスの
御手に縋り摂理に頼って、常に種々の危険より免れるのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)
0167人間七七四年2019/06/13(木) 22:17:55.95ID:igVSyUJR
塩飽のアルファベットカッコ良すぎ
0168人間七七四年2019/06/14(金) 12:23:58.89ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)
0169人間七七四年2019/06/14(金) 12:52:11.46ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』
0170人間七七四年2019/06/16(日) 01:09:37.03ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)
0171人間七七四年2019/06/16(日) 01:45:44.25ID:kYm8Gowg
足利義昭、島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭)


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久)

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』
0172人間七七四年2019/06/17(月) 01:26:50.49ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った
0173人間七七四年2019/06/17(月) 11:38:38.46ID:aBrfMfav
貞安和尚(聖誉貞安・天正七年の安土宗論での浄土宗の代表の一人)の談義(説教)で、
「今日は彼岸の最後の日ですが、このような日に奇特にも上臈衆(高位の女性たち)がお参りになりました。
そこで阿弥陀如来のご誓願にある女人成仏のお話を申したいと思いますが、しかしこれは、
詳しく話せば談義が長くなり、またあらましのみを語れば少々理解しにくくなります。どうしましょうか、
皆様の望み次第にしたいと思います。」

そう仰られたが、談義についてのことなので返答する者も居なかった。そこで貞安和尚が
「上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?」
と尋ねたところ、彼女らは一斉に咲いだした。

これに長老(住職)は彼女らをきっと睨んで
「あなた方の気持ちの有り様はよくない。」
と申された。

(きのふはけふの物語)

まあ少々猥談的なお話ですね
0174人間七七四年2019/06/18(火) 09:53:54.35ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)
0175人間七七四年2019/06/18(火) 16:18:05.19ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』
0176人間七七四年2019/06/18(火) 19:03:01.58ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ
0177人間七七四年2019/06/19(水) 12:22:42.43ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ
0178人間七七四年2019/06/19(水) 17:14:14.53ID:MKvkS746
戦も含め、全てはストーキングでもっていたってね
これは史実にない真実や、どや???
0179人間七七四年2019/06/20(木) 00:37:47.96ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…
0180人間七七四年2019/06/20(木) 08:43:33.06ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる
0181人間七七四年2019/06/21(金) 00:17:36.40ID:ktoSxB+q
国王(大友宗麟)にパンヤリヤン Pantaliao というキリシタンの一子(大友親盛)が有る。彼は年齢16歳で、
彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。

この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。

ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。

付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。

彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。
0182人間七七四年2019/06/21(金) 14:36:04.55ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
0183人間七七四年2019/06/21(金) 14:43:58.60ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…
0184人間七七四年2019/06/21(金) 16:27:20.84ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな
0185人間七七四年2019/06/21(金) 20:51:41.49ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ
0186人間七七四年2019/06/21(金) 20:52:28.59ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような
0187人間七七四年2019/06/22(土) 15:45:10.78ID:mfU706rp
キリシタン嫌いってこれに通ずるものがあるな
https://video.twimg.com/ext_tw_video/859189019443437569/pu/vid/1280x720/k7p3G9VXkFpS2bfu.mp4
0188人間七七四年2019/06/23(日) 01:25:56.85ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる
0189人間七七四年2019/06/23(日) 07:58:39.53ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて
0190人間七七四年2019/06/23(日) 22:57:31.83ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』
0191人間七七四年2019/06/24(月) 13:09:15.22ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで
0192人間七七四年2019/06/24(月) 20:14:25.64ID:WVVwlE18
千少庵(千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休
0193人間七七四年2019/06/25(火) 08:38:11.01ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw
0194人間七七四年2019/06/25(火) 11:15:08.85ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?
0195人間七七四年2019/06/25(火) 23:29:17.61ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの
0196人間七七四年2019/06/25(火) 23:35:41.04ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな
0197人間七七四年2019/06/25(火) 23:36:17.61ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな
0198人間七七四年2019/06/26(水) 18:00:25.69ID:4xrHW1M3
【令和の戦い 参院選2019】静岡 野党間の遺恨
https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/politics/12487659?genreid=4&;subgenreid=113&articleid=12487659&cpid=10130017

国内 産経新聞
6/25 23:28 .

徳川家康が晩年を過ごした駿府(すんぷ)城など徳川ゆかりの地が数多く点在する静岡県。JR静岡駅前には合戦の指揮で使う「采配」を
握りしめる「徳川家康公像」がそびえ立つ。その家康像を背に、250年以上の太平の世の礎を築いた家康公の威光を借りるようにして
徳川宗家19代目の徳川家広がマイクを握った。

「私たちがこうして豊かな生活を享受しているのは菅直人内閣のおかげだ」

立憲民主党から出馬する徳川は23日、街頭演説で東京電力福島第1原発事故に触れ、対応に当たった菅政権のおかげで日本が救われたと強調した。
静岡が抱える浜岡原発の廃炉も訴え、消費増税中止や「アベノミクス」批判を展開した。

徳川が静岡選挙区(改選数2)を選んだのは「先祖代々縁が深い」から。選挙カーに徳川家の家紋である「葵(あおい)の御紋」を施すなど、地の利を
生かして支持拡大を狙う意図が随所ににじみ出る。地元の選対関係者は「静岡で『徳川』の知名度は抜群だ。顔立ちもゆるキャラっぽい。
トップ当選を狙いたい」と鼻息は荒い。






19代様のあまりのご見識の高さに昇天してしまいそうな東北民です
列藩同盟もその場で崩壊するねこりゃ
0199人間七七四年2019/06/26(水) 21:37:30.77ID:kvO1uRbV
い、いま静岡では義元が見直されてるところだから(震え声)
0200人間七七四年2019/06/26(水) 23:02:59.75ID:vELgf2jt
廃嫡されてるとかじゃないのこの人
0201人間七七四年2019/06/26(水) 23:04:51.66ID:sprWiwgc
大殿乱心!
(以下、悪い話に続く)
0202人間七七四年2019/06/27(木) 01:52:22.96ID:D2BorQg4
もし菅が有能だったら今京兆とか言われたんだろうか…
0203人間七七四年2019/06/27(木) 11:28:14.79ID:kNBXT4tI
令和の御世に主君押込が復活するとは・・・。
0204人間七七四年2019/06/27(木) 11:38:10.51ID:6EbNIj5T
顔つきには血筋を感じないでもない
0205人間七七四年2019/06/27(木) 16:33:56.02ID:s44NIbyz
南部下野殿(宗秀)改易は信玄公28歳の時。山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりでは
なく兵法上手であった。ある時に信州諏訪において南部殿家中の者・石井藤三郎という男を南部殿
が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。

折しも勘介はその近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。勘介は刀を取り
合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。子細は30日の内に平癒したから
である。とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。

それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。この南部下野殿も甘利備前(虎
泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、少しは武辺の覚えもあるといえど噂で常に無穿鑿
なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。

無分別で山本勘介を憎み、「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと
思うが、ましてや兵法使いが手傷を負っている」(国郡をもたぬ者の城取陣取、又外科医者もふか
き事あるまじきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たる)などと言って山本勘介を尽く悪口な
された。

目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・
五味新右衛門を御使になされ、すなわち書立をもって仰せ下された。その御書の趣は「南部下野が
山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である」とのことである。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』


山本勘介は一代で手傷を蒙ること63ヶ所なり。この内20ヶ所は信玄公の御家においてである。
子息(二代山本菅助)も若いながら2,3度良き事があった。一昨年に長篠において討死なり。

――『甲陽軍鑑(品第四十三 軍法之巻)』
0206人間七七四年2019/06/27(木) 23:54:43.76ID:vCWOOG6J
>>205
先祖の話だわ
これだけは今の時代まで親族から伝え続けてるわ
肥後守がまともな人で良かったと感謝もしてる
0207人間七七四年2019/06/28(金) 00:11:30.82ID:DTOY7Kmh
>>206
肥後守って南部宗秀の息子の河西肥後守満秀か
0208人間七七四年2019/06/28(金) 00:48:38.43ID:f3R5LZ75
>>207
そそ、肥後守が先祖なので自動的に下野守も先祖なんだわ
0209人間七七四年2019/06/28(金) 01:15:39.49ID:Or38vN5M
信玄公は書立をもって仰せ下され、その御書の趣は「南部下野(宗秀)が山本勘介という大剛の兵を
悪口したのは無穿鑿である」とのことである。(>>205

一、山本勘介のような小身の者の城取・陣取はまことらしからぬとの事は、物を知らぬ申されよう
  である。唐国周の文王が崇敬した太公望も大身ではあるまじき事。

一、兵法使いが手傷を負っているというのは、一入武士道無案内である。兵法とは手傷を負わぬと
  いうことではあるまい。手傷を負って相手を仕ほすのが本当の兵法である。ことさら其の方の
  被官・石井藤三郎が白刃のところへ、棒で向かって組倒したのならば、たとえ勘介が死んでも
  屍の上まで誉れであろうに、それを嫉むのは無穿鑿である事。

一、其の方南部の手柄は、家中の者である笠井と春日が両人で仕ったのを、自分の手柄のように申
  されたと聞き及んでいる事。

「この3ヶ条をもって成敗仕るべきであるが、それでは山本勘介もきっと迷惑に思うだろう。ここを
勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ」との仰せで改易致され、奥州会津へ行って南部下野は
飢え死になされたのである。

(南部宗秀の)70騎・足軽・旗本・その他は方々へ分かつ。春日左衛門・笠井備後は前述の南部両
おとな(老臣。3ヶ条中の春日・笠井)の子である。以上。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』
0210人間七七四年2019/06/28(金) 01:36:42.06ID:xIEGq9+P
そういえば十六代目の徳川家達は貴族院議員時代、シーメンス事件の余波でうっかり総理大臣になりかけたらしいと聞いた
0211人間七七四年2019/06/29(土) 01:57:08.33ID:vUiZFcjS
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

『駿府記』

7月7日、水野監物(忠元)が江戸より御使のために参着。(注釈:中略。七夕賀のことに係る)こ
れについて上意を得られたという。

江戸御番衆中の柴山権左(注釈:右)衛門は去る月25日、その小姓に科あってこれを殺した。する
とかの小姓の傍輩が側にいて抜刀し、権左衛門を刺し殺して逐電した。幕府はこれを聞こし召し、方
々へ追い掛けさせ給い、ついにかの者を虜にしてきた。

かの者が語って言うには、日頃約束して曰く「たとえ主人といえども理不尽のことがあれば、その仇
を報いるべし」との由で、連署して徒党を結んだのでこのようになったという。よって拷問して尋問
なさると、その党類を一々に白状した。その族は世に言うところの“哥部妓者(かぶき者)”である。

下鬢髪を切って狂紋所を染め、大刀長柄(原注:その刀には戯言を刻んだ)を帯びてその容貌は尋常
ならず。件の輩はかの白状を聞いて逃げ散ったが、これを捜索してゆうに70余人を搦め捕らえなさ
る。その他に逃げ去った者は5,60人。この如き者は、面々の家中に1人2人はいた。

さて穂坂長四郎など若年の数十人を拘束し、これをもってその所領を離されて、その番頭にその身を
預け置かせなさるという。

(徳川家康の)仰せに曰く、悪党を禁じ召されることは政道の肝心であり、すなわち駿府においては
この如き類はあってはならず、御糾明なさるものであるという。(注釈:『武徳編年集成』には「糾
明すべしとの旨を、町司の彦坂光正に命じられた」とある)

『慶長年録』

大鳥井逸兵衛(大鳥逸平)と申すかぶき者がいて召し捕らえられた。これは2,3年以来、江戸中の
若き衆、並びに威張る下々までが皆一味同心して“逸兵衛組”と称し、一同の思いをなして互いに血判
の起請文を書いた。

その趣は、「この組中はどのような事があろうとも、互いに身命を捨てて見馴染むべし。たとえ親類
父主でも思い替え、兄弟よりも頼もしくあるべし」と申し合わせた。

大将分は大風嵐之助・天狗摩(魔)右衛門・風吹は散右衛門(藪右衛門)、下の組頭は大橋摺右衛門
と申す者で、江戸中に充満して(注釈:『慶長見聞書』に7,8百とある)所々で辻斬りは絶えず。
その喧嘩は数度に及んだので、御法度に仰せ付けられ、「下々で左様の者は召し捕らえて断罪を仰せ
付ける」との由を仰せ出された。

ここに柴山孫作と申す者の家来はその組の小頭であった。孫作は聞いて大いに驚き、他所からの訴人
もいない中で「成敗してしかるべし!」と25日、権左衛門(孫作)は家来の者2,3人に申し付け
置いてかの者を呼び出し「手討ちに仕るべし!」と用意した。すると残る家来どもは皆かの者の組に
なり、「主にも替えてはならない!」と申し合わせて誓紙を書くと、家来は寄り合わせて主の権左衛
門を打ち切って出奔仕った。

これよりなおもって御法度は強くなり、方々の路次に関をそえて在々所々まで御穿鑿なされた。6月
の末に神田の町において夜五つ過ぎ、月夜に笠を着て通る者がいた。不思議であると申して町よりこ
れを捕らえて引いて来て見れ、ばかの主を殺した者である。すなわち宿を尋ねて道具を取り寄せ穿鑿
したところ、一味の悪党の名を書いた帳があった。その類5百人余りなり。

大将の大鳥井逸兵衛を御調べなさればその宿は八王子にあり、すなわち召し捕らえに遣したのである。
逸兵衛は高幡という所の不動堂に相撲見物に行っていたので、大久保石見(長安)家中の町奉行・内
藤平左衛門という者が高幡へ行き、謀って逸兵衛を召し捕らえた。

平左衛門も大力で逸兵衛も相撲の達者、互いに取り合い上下へ返すのを、逸兵衛は大勢より縄を受け
て江戸へ引いて参る。青山権之助(成国)の所に逸兵衛を召し置き、色々と御穿鑿し、水火の責めに
及ぶも逸兵衛は同類を1人も白状申さず。
0212人間七七四年2019/06/29(土) 01:58:56.39ID:9XrjuxYh
この逸兵衛は元来は本多百助(信勝)の小者で、勘解由と申していたずらな倅である。さる慶長の初
めに秀忠公御上洛の御時、百助が御供に参った時に伏見で小者どもが毎晩御殿の近所の辻で、草履の
詰め開き、馬の受け取り渡しを稽古致し、あまりにうとうとしたので、後に御法度になった。その大
将を召し捕らえ、百助の小者も大将で出奔致して佐渡へ逃げ入った。

それから大久保石見の家中で辻喧嘩など一両度首尾の良いことがあり、大久保石見守の目代・大久保
信濃と申す者が逸兵衛を侍に取り立てて召し使った。さて天性この者は利根で弓を上手に撃ち習い、
鉄砲も達者、兵法は槍、総じて侍の嗜みを残さず稽古致した。そのため中小姓に取り上げたうえ、馬
なども乗ることを許された。

その後、本多百助方より構い申すので大久保信濃はすなわち故主へと戻し、逸兵衛が百助方へ帰った
時、逸兵衛は下々4,5人を連れ、弓盾を持たせて犬を引かせ、乗り掛けてやって来た。百助もこの
体を見て「召し使っても詮なし」と衣服などを取らせ、4,5日過ぎると信濃方へ送った。その後、
討ち者などを首尾良く致し、さて信濃に暇を受けて江戸へ来ると、かぶき者の組を立てて棟梁となり、
ついにはこの如くとなった。

(注釈:『武徳編年集成』に「歌舞妓組の棟梁となり、八王子の下原康重作の刀に『生過二十五』と
いう文字を彫った物という。これを使って闘諍辻斬を好んだが、その刀はまことに下作ながら骨の切
れることはその類無し。逸平はこの年25歳なり」とある)

本多佐渡守(正信)・土屋権右衛門・米津勘兵衛(田政。初代江戸北町奉行)方において色々取り調
べたが「一度も申すまい!」との由を申し、何程強く御責めになるとも「同類は申すまい!」と全く
申さず、水責めの又者が脛をひしいでも申さぬ故、米津勘兵衛は「あまりに申しかねるならば、尿水
をくれて問え!」と申し付けた。

逸兵衛は大いに怒って「侍たる者に左様の拷問とは前代未聞なり! いかに罪科の重き者であるとも、
『官人の尸(屍)は平土の上に置かず』と聞く。これにより官人は尸の号あり(武士は死を称えられ
るということ?)。侍はまた侍の法による拷問の作法がある。

なんとまあ、物を知らぬ奉行かな! 左様の問い様をするならば、其の方の子息・勘十郎も私めと同
類だ! 勘十郎にも尿水をくれて問え!」と申して、その後は口を閉ざした。聞く人は「さてさて、
この逸兵衛は只者にあらず」と皆舌を巻いた。

(注釈:『慶長見聞書』には「御馬廻衆の御歴々7,8人を白状致す。その後、方々より白状あって
以上百人ばかりが出奔し申したのを召し出し、切腹、改易、追放なされた」とある)

7月7日、水野監物をもって駿河へこの由を仰せ上げられ、その後逸兵衛は江戸中を引き渡して機物
にかかり(磔にされて)同類は皆成敗。3百人ばかりが切られ、この内無体に死に申した者もいた。

これは当5月に同類が辻喧嘩を致し、相果て申した者がいて、これはこの組の中の牢人である。その
ため同類にあらずといえど、知人と寄り合って代物を用意致し、寺へ送って弔い仏事を致した。その
帳を寺から出したので、帳に付き代物を致した者は罪なくして切られ申す。後日にこの事は知られ、
「奉行衆の誤りではないか」と人は申した。

9月、江戸で今回逸兵衛の同類になった衆で方々に御預けとなった衆は、

米津勘十郎。勘兵衛の子。津軽へ。
岡部藤次。奥州南部。
井上左平次。半九郎(井上正就)の兄。佐渡へ。
保坂長四郎。金右衛門(大坂夏の陣の旗奉行)の子。越後村上へ。村上周防(忠勝)に御預け。
坂部金大夫。越後柴田(新発田)へ。溝口伯耆(宣勝)に御預け。

(注釈:『慶長見聞書』には以上の他に内藤小伝次、大久保源之丞の2人を加える。また『武徳編年
集成』には逸平を梟首したこと、及びその党を斬戮したことを7月に係けている)
0213人間七七四年2019/06/29(土) 01:59:33.88ID:9XrjuxYh
『津軽旧記』

慶長16年(注釈:17年)、柄木田勘十郎(米津勘十郎)御預け。これは公儀御町奉行・柄木田勘
兵衛(米津田政)の子息なり。大取市兵衛と申すも(者の?)御穿鑿に付き、御預けの旨。後に元和
3年、御許しによって罷り上り申す。

(注釈:これより先に煙草の事に因り、悪徒が組を成して京都にいたこと、並びに茨組のことは14
年7月の煙草禁止の条に見える。

この後、寛永6年10月18日、幕府は京中に令して町人が長刀を帯びることを禁じ、ついで慶安元
年2月22日にはその長刀を帯びてかぶきの体を為すことを禁じ、5年正月20日に至り、さらに大
いにかぶき者を逮捕した。かぶき者・町奴・男伊達・侠客などの事がまたその条に見える。

ついで同年2月3日には町人がかぶきに扮することを禁じ、また幡随院長兵衛が殺されたことは明暦
3年7月18日に。任侠の徒を禁ずることは同月22日に。水野成之を刑したことは寛文4年3月2
7日に。さらに男伊達の徒を禁ずることは寛文5年6月に。平井権八を磔にしたことは延宝7年11
月3日に。男伊達の者らが町家に強請することを禁ずることは宝永7年4月に、各々条あり。参照す
べし)

【参考】(>>169

――『大日本史料』
0214人間七七四年2019/06/29(土) 06:49:03.76ID:ziUySTGo
男伊達に草生える
0215人間七七四年2019/06/29(土) 08:59:39.43ID:/SeNJM5V
>>211-213
かぶき者の勢力がすごいことになっとるwこういうの放置してるとそのうちヤクザの組になるんだろうなー
0216人間七七四年2019/06/29(土) 11:04:07.74ID:00Yqoxvp
警察官とヤクザは人間的には同類っていわれてますし
0217人間七七四年2019/06/29(土) 20:55:20.66ID:2+Bij+Sw
まとめの8778
「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について
の「豊国祭礼図屏風」の太刀の鞘に
「生きすぎたりや廿三」と書かれているように
かぶき者の間ではかなりの流行語だったようで
0218人間七七四年2019/06/29(土) 21:38:24.11ID:giT/Oas0
隆慶一郎の小説でよくあるあれだ
0219人間七七四年2019/06/30(日) 00:39:14.11ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)
0220人間七七四年2019/06/30(日) 18:00:42.20ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ
0221人間七七四年2019/07/02(火) 00:24:13.86ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御?居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。
0222人間七七四年2019/07/02(火) 19:02:50.69ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。
0223人間七七四年2019/07/02(火) 19:52:44.70ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに
0224人間七七四年2019/07/02(火) 20:17:55.08ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw
0225人間七七四年2019/07/03(水) 02:38:55.24ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)
0226人間七七四年2019/07/04(木) 01:54:58.94ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』
0227人間七七四年2019/07/04(木) 03:31:42.40ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?
0228人間七七四年2019/07/05(金) 01:56:33.78ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
0229人間七七四年2019/07/05(金) 18:08:57.65ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。
0230人間七七四年2019/07/05(金) 21:28:01.80ID:+PSLviV1
森武蔵守土岐三河守を討つ

可児郡兼山城烏峰は、永禄年中に信長公の下知によって森越守可勝(越後守可行)が城主であった。その
子・三左衛門可成を経て、武蔵守長可に至って当時は信濃にいたのだが、信長の凶変(本能寺の変)を知
ると急いで帰って領地の可児郡木曽川を限り、恵那・土岐三郡の内7万5千石を有す。ただし妻木領はそ
の他である。

さて妻木(広忠)の舎弟・喜十郎頼明、及び妻木長兵衛頼知の嫡男・久右衛門惟知両人は森長可へ降って
旗下となる。惟知は名を“日本六蔵”と改める。

長可は久々利城を降さんとの意あり。されど三河守(久々利頼興)は文武二道の達人なので、容易に討つ
ことはできないため、方便をもって討とうとする。天正11年(1583)正月、使者を送り、とにもか
くにも打ち続いている疎遠を謝罪し、さて軍議仕りたいので御大儀ながら御来駕を待っている由を、慇懃
に申し送った。

三河守は返答して「口上の委細は承知したけれども近頃は不快(病気)に付き重ねて折を得て、もって参
上致そう」と使者は復命した。長可は重ねて使者を遣わして言う。

「御所労に付き御出馬なき由ですが、当節は取り分け穏やかならぬ砌ですから御疑いもありましょう。貴
殿は信長公の御噂でも、『近辺に肩を並べる者はなし。味方にしたいものだ』と仰せられた程で、貴公よ
り他に頼む方はおりません。御疑いを散ずるがため、舎弟の仙千代(森忠政)を人質に遣わしますので、
隔意なく水魚の思いをなされてしかるべきです。もし御来駕が長引くに及びますれば私めが推参申します」

と、清げなる若武者を仙千代に作り立てて乗り物に取り乗せ、侍2人を差し添え日本六蔵を使者にして、
程なく久々利へ赴いた。三河守に対面して弁舌あざやかに言い、巧みに述べたところ三河守は易々と方便
に落ちて気を許し、「再三の御使者、殊に人質まで御念の入ったこと痛み入る。それならば明日参上して
御意を得申すべし」とのことであった。

よって人質ばかり返し置き(残し置き?)、程なく日本六蔵は首尾良く立ち帰り、ただちに登城してこの
由を武蔵守に告ぐ。武蔵守は喜ぶこと限りなく、ただちに佳酒美肴をもって歓待した。

翌朝、三河守は烏峰に入る。武蔵守は対面してその厚遇に至らざることなし。三河守曰く「御相談の事が
あるとして再度の使者、殊に我が疑いを散ずるがために人質を送られた心底分明、どうして疑おうか。故
に舎弟の仙千代殿と同道して来城したものである」と仙千代を返す。

武蔵守はいよいよ喜び「御承諾のことは大慶浅からず。さてまた相談の事とは他でもない」と雑談を繰り
返し繰り返し、酒を持たせて饗応した。その時の吸い物は鹿だという。台所は狼狽えて生の鹿を出した。

盃が終わって三河守は退城しようとする。かねて合図していた者ども8,9人はこれを送った。城の坂の
東にかかり、板の洞の大道に達する頃に「帰られよ」と言って、三河守が何心なく馬に乗ろうとしたとこ
ろを、戸田勘右衛門(勘左衛門)が抜き打ちに肩先から脇腹にかけて切り落とせば、従者も案に相違して
驚き入り、抜き合わせようとしたが敵い難く是非もなし。皆散々に逃れ帰った。

かくして三河守の首を取り、実検に備える。長可は「仕済みたり」と喜んで久々利を押領し、戸田勘右衛
門を置いて守らせた。

――『妻木戦記』
0231人間七七四年2019/07/07(日) 04:07:09.23ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ

岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。

高山の城主・平井頼母方へ森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。

 来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。

 さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
 は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
 岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
 城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。

 しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
 の如し。

         天正11末年(1583)正月      平井頼母佐

                  森武蔵守殿

この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。

与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。

平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。

平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。

この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。

時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。
0232人間七七四年2019/07/07(日) 04:14:45.25ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可は
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』
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