>>118 >>119 宛続き
何度も書いてますが
1565年当時の武田は西上野の方で長尾上杉と戦争をしていましたので、織田の提案に応じて同盟をした、
というだけの話で、単にこの時の同盟は織田との不戦同盟であって、対今川への具体的な攻守同盟になっていくのは、
信長の書状などを考慮していきますに、1568年の7月以降のようですね。
この不戦同盟自体が今川の心証的によくない、という場合、当時の今川は独立した三河の松平にも勝てなくて、
武田と織田が戦った場合に援護とかできないのですが、武田が今川の心証の為に西上野・北信濃・飛騨で長尾上杉と戦いつつ、
美濃でも今川の為に織田と戦え、という話になっていくので、武田が不戦同盟をしたのを今川がそこまで非難していいのかと思うのですけどね。
武田は1565年の織田との不戦同盟の後も、普通に今川との同盟継続に固執していて、
義信未亡人を返すように求めた今川に対して、「義信夫人は返すけど、武田と今川はこの後も同盟関係だ、という誓約書を書いて欲しい。」的に求めて、
今川は誓約書を書きつつ、義信夫人も受け取って、そのまま長尾上杉との同盟交渉をしていった事で、
武田も織田との不戦同盟を対今川の同盟にして、徳川と共に今川と戦っていく、という経緯なのですが。