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武田勝頼 Part16

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0001人間七七四年2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq
新スレ 武田勝頼 Part16です。
勝頼関連について、どうぞ。

http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280

前スレ 武田勝頼 Part15
0714人間七七四年2019/04/03(水) 00:40:37.87ID:vC4KHP/B
>>647
それならそれで、10月15日の段階で二俣城を包囲していた(馬場が)のに、信玄は20日以上も何処で何していたの? になります。
0715>2019/04/03(水) 01:48:26.67ID:ILDye0kT
>>451

天正7年(1679年)3月下旬、北条氏を打倒するため、伊勢天照大神宮御宝殿へ北条氏政追罰の願文を奉じました。
0716人間七七四年2019/04/03(水) 01:56:38.05ID:mlnQx8PK
信玄って行動がトロいなあ。
時間がかかれば、織田信長の後詰が来るのは分かり切ってる。
ならば1日も無駄にせず、すぐに行動するべきだろう。
冬とはいえのろますぎる。

そういえば、本多とか言う奴は美濃へ侵攻するとか言ってるが、冬の時期にどうやって信濃から美濃へ侵攻するのか説明してほしいな。
0717人間七七四年2019/04/03(水) 02:04:38.81ID:ILDye0kT
>>451
https://ameblo.jp/bd20159/entry-12379671347.html
>勝頼は天正7年3月に伊勢天照大神宮御宝殿へ祈願文を出した。
>当時御館の乱の結果、北条との同盟が決裂した時に北条氏政追罰の願文である。
>『妙心寺史』によると鉄山宗純に起草させたもので、文自体は鉄山が勝頼の意を汲んで
>文章を練り、勝頼がその文書を認めた者である。詳細は笹本正治氏『武田勝頼』に詳しいが、(以下略

天正7年3月に甲相決裂
だってさ
0718人間七七四年2019/04/03(水) 03:08:34.01ID:ar/BEH/l
0741 モノノフ名無しさん(神奈川県) 2019/04/01 21:22:53
新元号の出典が太宰府にあるとは。
紅白を逸してまで開催した男祭りへの想いがようやく花開いた。
本当にももクロchan達は関わる人たちを皆笑顔にするよね。
次はどんな笑顔へ繋げるのか楽しみ。
0719人間七七四年2019/04/03(水) 05:44:16.29ID:utrNhxyy
平山優
「高天神城は、元亀3年10月から始まった武田信玄最後の作戦(いわゆる西上作戦)で降伏しているんだってば」
https://twitter.com/hirayamayuukain/status/932276013580435456
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0720人間七七四年2019/04/03(水) 05:52:58.39ID:utrNhxyy
高天神城が、元亀三年武田信玄の侵攻を受けて降伏した旨記載されている参考書は
本多隆成『定本徳川家康』
柴裕之『徳川家康』
平山優『武田信玄』
0721人間七七四年2019/04/03(水) 05:59:38.21ID:utrNhxyy
城主小笠原氏助は、信玄に降伏しているんですよ。そして武田軍の撤退と家康の反撃で、再度徳川方に従属しているのです。天正2年の武田勝頼の高天神城攻めは、その失地回復という意味合いが強いのです。
https://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/932279200387436544
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0722人間七七四年2019/04/03(水) 06:25:00.46ID:bUBJBkv5
前にも平山の本で暴れてた奴いなかった?
確か平山が甲州征伐で織田軍が餓死や逃亡者で崩壊寸前だったとかを書状一枚で言って奴
同一人物か?
0723人間七七四年2019/04/03(水) 07:39:12.70ID:utrNhxyy
武田氏滅亡より

平山優は勝頼推しなのでリップサービスも含まれてるかな
http://imgur.com/jsvnA5F.jpg
http://imgur.com/NmBz9Nn.jpg

ID:qgMaWDHfが書いてる内容は鴨川 達夫と本多 隆成の著書で鴨川氏のスタイルの方が好みという程度で別にどちらの論説を支持してる訳でもないと思うよ
0724人間七七四年2019/04/03(水) 08:06:42.33ID:xOnAjSNt
しかし、長篠の敗北は痛恨の極みだったよね 同じ負けるにしても、負け方が酷すぎるからな
何よりこれまで武田の軍事を支えてきた重臣たちが殆ど討ち死にしてしまうという
絶対にしてはいけない負け方をしたからな
恐らくこの報を聞いた感のいい信長は「武田は終わった・・・」とすぐに思っただろうね
それぐらい武田の運命を大きく決定づけた敗北だったと思う
高天神や御館も滅亡の原因の一つだけど、もし長篠以前の有能な武田武士が生きていたら
あんな悲惨な裏切りやら離反劇は食い止められたかもしれないし・・・
やっぱり長篠での人材の喪失と言うのは武田にとって致命的だったと思う
その上で高天神と御館での信用の喪失がトドメを刺した
0725人間七七四年2019/04/03(水) 08:28:56.87ID:bUBJBkv5
>>723
3月23日 山口秀景書状で兵の兵糧欠乏
3月24日 信長が兵糧を配給
3月26日 北条氏政より米千俵が諏訪へ届く


兵糧については解決してるのに織田は崩壊寸前だったは無理があるな
0726人間七七四年2019/04/03(水) 08:59:15.17ID:2S4+6xKE
兵糧が欠乏気味
信州の豪雪による氷結
岐阜から甲府への行軍過程で逃亡者が出た
→これらは事実

織田軍は崩壊寸前だった
→これは論理の飛躍で根拠がない

こういう事ですね
0727人間七七四年2019/04/03(水) 09:10:05.60ID:VsqouB7a
山岳地帯の大勢力への戦だったのに相手が雑魚すぎて無人の野を行くが如しの進軍で
後方勢力地からの補給が追い付かなかっただけだろ
相手が動けないうちに出来るだけ戦果を拡大するのは間違ってない、勝頼は最期まで動けず自害したけど
0728人間七七四年2019/04/03(水) 09:41:59.42ID:hOQYomsX
>>724
長篠のあとも武田は結構もってたろ
信玄の負の遺産という重荷がいっぱいあったのに勝頼も頑張ったよ
0729人間七七四年2019/04/03(水) 10:14:14.49ID:KVmCKoDm
>>728
>>417
長篠ではその負の遺産らが勝頼を逃がすために殿軍を引き受けて
散っていき、長篠後も崩れることなく反逆者も未然に防ぐ結束していた
勝頼主導による北条との手切れからの徳川北条による二面攻撃
高天神城のみごろし、新府城建設や度重なる防衛戦の戦費による重税で
小笠原信嶺などの武田家臣の忠誠心が失われてしまったんだよな

むしろ、勝頼=信玄の負の遺産
0730人間七七四年2019/04/03(水) 10:20:18.50ID:5DixtKSR
当時の慣例としては高天神城の小笠原氏助が降伏したならば
小笠原氏助が浜松城攻めの先鋒を必ず務めなければならない。
少なくとも武田家はそういう決まりが厳然としてあった。
城主を最前線に立たせて人質として使うのが一番確実だしね。
0731人間七七四年2019/04/03(水) 10:23:13.33ID:7jjpub26
高天神城の見殺しは大きかったと思うよ
あの城には各国から部将が集まってたようだし、「どうせ先方衆は盾にされて見殺しにされる運命なんだ」というのが共通認識になっちゃったんだろうな
0732人間七七四年2019/04/03(水) 10:24:37.62ID:5DixtKSR
ちなみに籠城する場合は新参の武将(敵方から寝返ってきたものなど)を
馬丸出しの警護につかせた。
馬丸出しは城の入り口を守ってるが城門の外にあるので万一そいつらが裏切っても
致命傷にならないから。これは武田家独特の軍法だった。
0733人間七七四年2019/04/03(水) 12:10:15.62ID:qn/+JQyf
>これは武田家独特の軍法だった。

どういった史料からわかることなの?
0734人間七七四年2019/04/03(水) 12:27:12.49ID:S+f6JWva
裏切った奴が先鋒務めた例なら数多あるが軍法まで決まっとるんか
0735人間七七四年2019/04/03(水) 12:34:03.49ID:J0njK6Rv
小笠原は通説じゃ、三方原に徳川方で参戦してるし、戦死者には小笠原の姓を持つのが複数いるのだが
0736人間七七四年2019/04/03(水) 13:23:02.17ID:qn/+JQyf
寛永諸家系図伝によると小笠原安次の息子の安広が三方が原で討死しているが
これが高天神の小笠原氏と何か関係あるの?
彼らの本拠である三州欠城ってのは高天神城のことだったの?
0737人間七七四年2019/04/03(水) 13:34:49.64ID:qn/+JQyf
他に三河国の幡豆小笠原氏の小笠原信元も戦死ではないけど「三方が原合戦の時、大権現の供奉す」とあるし
>>736の安広の弟の安勝が三方原で負傷して出仕をやめるとか書いてある
この合戦に複数の小笠原氏の者がいたのは間違いない

小笠原なんて珍しい苗字のものが日本中探しても高天神以外にいるとは考えられないし
これで高天神城が武田に下ってないことは確定したね
0738人間七七四年2019/04/03(水) 13:52:18.14ID:PjzD+2eO
そもそも高天神城が武田信玄の頃に降っていたなら、甲陽軍鑑が記録しないわけがない。

徳川方にしても記録を残さないのがおかしい。

だいたい、駿河から高天神城を通るとしたら、掛川からいつ横腹を突かれるかわからないし、途上にある久野や浜名を落とさずに進軍してるから、こちらは兵站としては使えない。

城を残して進軍したらどうなるかは、岡城や栂牟礼城を残して北上した島津軍から見てもお察しだし。
0739人間七七四年2019/04/03(水) 13:55:11.08ID:qn/+JQyf
そうだよな
山本勘助の活躍はじめ甲陽軍鑑は全部史実を書き留めてるもんな
書かれてない時点で明らかだわ
0740人間七七四年2019/04/03(水) 13:57:19.18ID:5H/fCh43
>>739
甲陽軍鑑にも誤りはあるらしい。Enpediaでは信虎期の年代におかしい点があるとか。

でも武田信玄の功績を書き留めないのはおかしいですよね。
0741人間七七四年2019/04/03(水) 14:01:45.10ID:e8gmQ/Uv
>>738
では天竜川を渡って浜松に向かうと書いた信玄の書状はどう考えるんだ?
0742人間七七四年2019/04/03(水) 14:08:01.82ID:FXG90mcf
>>741
いや、天竜川を北上して二俣城に向かい、二俣城を落としてから南下、では?

もし駿河から高天神城を通過して、それから二俣城に向かったなら、そのルートしか考えられない。

二俣城を無視して浜松城に向かった、とでも?
0743人間七七四年2019/04/03(水) 14:18:03.06ID:e8gmQ/Uv
>>742
天竜川渡った後に、あるいは渡る前に天竜川沿いを北上して二俣城向かったと普通は考える
浜松の前に二俣城向かったのはどうでもいい話であって、要は信玄は駿河から侵略したということ
その途上に掛川と高天神があるから少なくとも素通りはしたということ
既出の通り小笠原信嶺が書状に出るくるのは無理がありすぎることから信玄の書状に出てくる小笠原は氏助で間違いない
ただし降ったと書いたのは信玄のブラフである可能性がある
0744人間七七四年2019/04/03(水) 14:34:51.13ID:FXG90mcf
>>743
二俣城はどうでもいい城ではないよ。
山城で経済的な価値はないが、青葉街道を経て伊那へ入る際の要衝だし、遠州北部のど真ん中に位置するから、遠州の他の城にいつも圧力をかけられる城だし。
0745人間七七四年2019/04/03(水) 14:37:55.56ID:e8gmQ/Uv
>>744
そういう意味じゃない
本題は信玄が駿河から侵略したのかどうかだろ
天竜川渡った後にどこ向かったかは本題とは逸れるからどうでもいいという意味
0746人間七七四年2019/04/03(水) 16:35:56.55ID:KVmCKoDm
高天神城が1572年に武田に降り、1573〜1574年に徳川に寝返り
1574年6月に武田に攻められたなら勝頼は裏切り者絶許状態なのに
小笠原与八郎長忠の処遇について駿河の富士郡にて一万貫文を
安堵されてるのは違和感はあるね
小笠原与八郎長忠の駿河の富士郡に国替の判物は存在するのに
その前の徳川に寝返った歴史史料や人質は誰がなったのか
徳川に寝返ったのに人質が処刑された史料も無し

↓とは明らかに違うんだよね

菅沼正貞 … 明確な裏切り行為は無かったが長篠城を武田の援軍到着前に
      徳川に開城したから内通の疑いをかけ幽閉、獄死

奥平信昌 … 信玄没後に徳川に寝返ったため、人質を即刻処刑し
      絶許で長篠城攻めへ

菅沼定直・今泉道善 … 長篠の敗戦後に勝頼の田峰城入城拒否したため、
     後日、城内の老若男女を族滅、定直と道善は生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復

木曽義昌 … 即刻、人質処刑後に絶許で木曽征伐へ
0747人間七七四年2019/04/03(水) 17:37:33.40ID:5H/fCh43
小笠原長忠って最後は信長か家康に殺されてるんだよね。過去の裏切りで。

1572年に裏切ってるなら、家康は人質は間違いなく殺してるだろうなあ。
0748人間七七四年2019/04/03(水) 18:46:47.59ID:eq5Kk4cq
根拠が例の書状一通のみで解釈も別れる、
それ抜きにしても周囲の状況前後の状況から見て、降伏は無かった書状で嘘言ってる可能性が一番高い
0749人間七七四年2019/04/03(水) 18:59:42.65ID:bUBJBkv5
信玄の書状を全て信じるなら駿河侵攻は今川が上杉と共謀して滅ぼそうとした武田の正当防衛になるからな
0750人間七七四年2019/04/03(水) 19:02:55.81ID:5H/fCh43
>>749
あれは酷すぎる。
自分は織田徳川と結んで今川を攻めようとしたのに。
0751人間七七四年2019/04/03(水) 19:17:08.16ID:OHGRXlId
>>748
降伏はなかったとしても駿河から攻めてるのは事実だから高天神城を素通りできないとする>>738の主張は成立しなくなる
どっちにしても高天神城は信玄にとって無害だったわけだ
0752人間七七四年2019/04/03(水) 19:26:43.17ID:Zi9/xAae
>>747
北条氏滅亡の折に家康が処断したんだったはず
0753人間七七四年2019/04/03(水) 19:49:04.41ID:LTDjYEbf
>>751
駿河から侵攻した、という根拠あるいは史料って何かあるの?
0754人間七七四年2019/04/03(水) 20:17:49.32ID:utrNhxyy
http://imgur.com/XHk8JiF.jpg

小笠原が懇願した通り軍を進める
と読むか
小笠原が降伏してきたから軍を進める
と読むか...
0755人間七七四年2019/04/03(水) 20:28:44.57ID:utrNhxyy
鴨川氏は小笠原は遠江高天神城の小笠原じゃなくて信濃松尾城主の小笠原信嶺だと主張してるみたいだけど
0756人間七七四年2019/04/03(水) 21:05:45.26ID:TlquFwos
>>753

>>754
0757人間七七四年2019/04/03(水) 21:17:19.90ID:5H/fCh43
>>754
駿河から、とは何処にも書いてないと思うんだけど? 何でこれで、駿河から? になるわけ?

仮に高天神城の小笠原長忠が降伏あるいは要請してきたとしても、それが「駿河から」と解釈するには余りにおかしくないか?

天竜川、とあるけど、別に天竜川は上流にもあるし。信濃から遠江に侵攻した時点で小笠原には応じた、とも解釈できないの?
0758人間七七四年2019/04/03(水) 21:24:46.99ID:TlquFwos
>>757
天竜川上流から渡って浜松向かうとかおかしいだろ
途中に二俣城もあるし
更にこの時期遠江南部の寺社に信玄の禁制が相次いで発給されている
ちなみにこれについては鴨川氏は別働隊に信玄朱印を預けたと無茶苦茶な主張をしている
0759人間七七四年2019/04/03(水) 22:05:30.80ID:eq5Kk4cq
途中に敵城あるのは駿河高天神のルートでも同じ
通説のルートだと二俣の南辺りで天竜川渡って南下して三方ヶ原
一言坂の徳川みたいに下流で天竜川渡ったわけじゃない

まあ天竜川上流っていってもあなた達が具体的にどこからを上流と言ってるかわからんが
0760人間七七四年2019/04/03(水) 22:12:35.63ID:utrNhxyy
http://imgur.com/OMvMTRU.jpg
主張している内容としてはどちらも決定打に欠ける
ただ本多氏の文章の方が雑な印象なのは否めない
0761人間七七四年2019/04/03(水) 22:29:07.55ID:utrNhxyy
http://imgur.com/uMGxJRO.jpg
遠江北部にあった判物の存在について取りに来たんだよと適当とも取れる反論
朱印についても信玄本陣に無いなんてあり得ないと断定しちゃう本多氏

歴史研究家としてはいささか軽率な印象はあるかな
0762人間七七四年2019/04/03(水) 22:34:05.55ID:mCMmB6tn
>>760
リンク先の部分読んだだけなので勘違いかもしれないが
この本多氏って人自己否定してね?

北部の寺院から南部の陣地に使い送ってそれに対し発給した発給者が受給者の近くにいる必要無いなら
最初の日付が進むたびに受取人の所在地が東から西へ進んでるから武田軍が駿河から西に進んだも
武田軍が動いていなくても遠距離からの受取人は時間かかったで成り立っちゃうぞ
0763人間七七四年2019/04/03(水) 22:41:42.66ID:utrNhxyy
>>762
「武田信玄の「西上作戦」を研究する」で検索すれば全文読めるので興味あれば

この件に関してはどちらの言い分も疑問点は残る感じだけど鴨川氏の偽書についての解説は勉強になる
0764人間七七四年2019/04/03(水) 22:45:23.69ID:TlquFwos
奥平宛の書状には論点が多くあって、
1.信玄は駿河から来たのか
2.小笠原とは信嶺なのか氏助なのか
3.高天神城は降伏したのかどうか
4.三カ年の鬱憤とはいつからどうして鬱憤になったのか

鴨川氏は信玄は信濃から来て小笠原は信嶺と、駿河からの別働隊が信玄の朱印を持って遠江で禁制を発給したと主張しているわけで、少なくとも別働隊が遠江から西上したのは否定していない
本隊でもない別働隊が遠江を敵中突破し、かつ朱印を預けられているとか苦しすぎる言い訳で信玄はやはり駿河から来たとするのを否定するのは難しい
当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当
降っていたかどうかは、まだ決定打に欠ける
ちなみに他の最前線の武田研究者の平山、丸島、柴、柴辻はみな本多氏寄りだろう
そんだけこの論点に限っては鴨川氏の苦しさが目立つ
0765人間七七四年2019/04/03(水) 22:54:51.99ID:VZKwNSWl
>>764
上の方の書き込みにもあったけど

>当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当

この部分はちょっと理解できなかった

信嶺は松尾城主なんじゃないの?
遠江、三河の調略も担当していたのであれば山家三方衆も調略がなったこのタイミングで出馬を促すのはありえなくはないのでは?
0766人間七七四年2019/04/03(水) 22:56:49.13ID:kK7q/e8q
丸島柴辻が小笠原降伏したとか言ってたの10年以上前のことじゃ?
今でもも言ってるの?
0767人間七七四年2019/04/03(水) 23:14:03.50ID:TlquFwos
>>765
信玄が奥平宛にそちらの松尾城主小笠原信嶺の懇望で天竜川上流を渡って浜松に向かうよと書くのはどう解釈するのか
信玄は駿河から来ているならまだ少しは分かるが、鴨川説はそうですらない
奥平宛の書状の結びはあとは山縣昌景に聞いてくれとあり、小笠原信嶺でなく山縣がこの方面軍の指揮官だったはずだし
0768人間七七四年2019/04/03(水) 23:27:54.54ID:TlquFwos
>>766
近年出版された武田家臣一覧辞典には小笠原氏助は信玄に降ったと普通に書いてある
0769人間七七四年2019/04/04(木) 00:04:31.39ID:Z/KJnI31
そもそも高天神城が降ったことに関しての書状って奥平宛だけしかないの?

普通なら、所領安堵なり加増なり約束した書状が残ってないの? 勝頼が小笠原に加増を約束したのはあるんだし。
0770人間七七四年2019/04/04(木) 03:48:34.96ID:8+0gMZ2D
>>767
内容としては郡上遠藤宛に書いた書状と似たような内容なので違和感無いと思ったけど
少なくとも鴨川説だけ全否定する程とは思えなかった

松尾城主小笠原が山家三方奥平の取次役
山家三方衆は山県昌景の寄騎に編入されている
そして浜松には家康に差し出した人質がいる

奥平の離反を信濃先方衆の小笠原信嶺が取り次いでいたとしたら自然に読める文章になる

逆にこの時点で武田に属している奥平に向かって「そちら側の高天神城」では意味が通らない

何らかの補足史料が無いのであれば、この書状だけで高天神城が信玄に降ったとするのは軽率なんじゃないかな
0771人間七七四年2019/04/04(木) 05:23:48.31ID:Ht/D3PSz
>>770
まず、貴方は信玄はどこから侵攻したと考えてるのか
鴨川氏はここで大きく無理をしてるから分が極めて悪い
取次とは重臣か近臣しか担わないから小笠原信嶺がやることは絶対ない、奥平の取次は山縣だろう
小笠原信嶺が人質の解放のため懇望するというのも無理がある
素直に信玄は奥平に貴方達のため浜松向かうと書けばいいはずで
あと小笠原信嶺のことをそちらの城主小笠原と呼ぶのも変すぎる、素直に小笠原掃部とか書けばいい
三カ年の鬱憤晴らすべく出陣したはずなのに小笠原信嶺の懇望により浜松攻めるというのも変
当城主小笠原が氏助の場合は当はこちらのという意味になる
補足資料は既出の通りこの時期南遠江の寺社に禁制の発給が相次いでる点にある
無論、これだけで小笠原の降伏があったとは断定できないが、信玄が高天神城を通ったことは間違いないはず
0772人間七七四年2019/04/04(木) 06:01:16.63ID:V6MP+Pyc
>>771
信濃から伊那谷、青崩峠を越えて遠州に入った武田軍は、馬場の別働隊が遠州東部と南部の城を荒らしていた、が通説だから、禁制が出てるから駿河から侵攻した、は全く根拠になりません。

信濃から侵攻した場合でも禁制は出していてもおかしくないはず。だいたい、武田は信玄が死ぬ少し前に畿内確か山崎に対して空手形に近い禁制を出したりもしています。
0773人間七七四年2019/04/04(木) 06:05:23.38ID:V6MP+Pyc
そもそも、駿河から侵攻した、が事実なら、遠州北部の天野は武田にいつ降ったんですかね? 天野景貫は、武田信玄が青崩峠から侵攻してきたから武田に降伏したはずなんですが。

高天神城が降伏したのが事実なら、小笠原が道案内するのが当たり前だし、そもそも二俣城攻めで降伏したばかりの小笠原が真っ先に攻め手に使われるはずですが、その傍証はあるのでしょうか?
0774人間七七四年2019/04/04(木) 06:58:09.03ID:sBmi6rfJ
当たり前だ、〜筈だ、と言うならば、「当」の解釈も懇望の解釈も圧倒的多数の事例に基づいて当たり前に解釈しないとね
当たり前に解釈すると、鴨川氏の解釈は成り立たないな
0775人間七七四年2019/04/04(木) 07:14:00.24ID:8+0gMZ2D
>>771
自説があるわけじゃないので侵攻ルートについてはわからない
けれど鴨川説を否定する根拠は弱いと感じてる

>取次とは重臣か近臣しか担わないから小笠原信嶺がやることは絶対ない、奥平の取次は山縣だろう
小笠原宛に発した書状は他にもある、山縣だろうというのは推測だと思われるがその根拠は??

>小笠原信嶺が人質の解放のため懇望するというのも無理がある
小笠原信嶺は遠江三河の国衆調略を担当していた説もあるらしいが、離反させる条件に人質開放のため尽力を要求するのはそんなに不自然な事だろうか?
無理があると言い切る根拠は??


素直に信玄は奥平に貴方達のため浜松向かうと書けばいいはずで
あと小笠原信嶺のことをそちらの城主小笠原と呼ぶのも変すぎる、素直に小笠原掃部とか書けばいい
三カ年の鬱憤晴らすべく出陣したはずなのに小笠原信嶺の懇望により浜松攻めるというのも変
当城主小笠原が氏助の場合は当はこちらのという意味になる
0776人間七七四年2019/04/04(木) 07:17:50.94ID:8+0gMZ2D
後半部分はあなたの感想であって全く同意できない
城主小笠原と書くのが不自然と断定するのではなくその理由を検討してみるべきでは??

小笠原の懇望により浜松へ向かう(人質開放のため)
家康には三ヶ年の鬱憤を晴らしてやるつもりだ

文章として普通に成立すると思われ、むしろあなたが強引に一文繋げて解釈しようとする姿勢を不自然と感じたが
0777人間七七四年2019/04/04(木) 08:06:00.03ID:OlnKQbpy
>>762
http://imgur.com/Rc27Ubp.jpg

全く同じ指摘を注釈5に記載してるね
あとはここで何人か指摘してる本多氏が根拠もなく断定しちゃう軽率さを注釈4に書いてる
0778人間七七四年2019/04/04(木) 09:57:13.17ID:6Qt0+jEc
人質解放とかじゃなく、奥平安心させるため、もう浜松に向かうぐらい武田は余裕あるって見せてるだけじゃ?
0779人間七七四年2019/04/04(木) 10:00:15.59ID:6Qt0+jEc
>>777
本多氏って学者としてどうなんだ?
素人に指摘されるレベルかよ
0780人間七七四年2019/04/04(木) 10:20:25.47ID:CaaFY70g
学者なら武田側からじゃなく徳川側からの史料や複数の史料を擦り合わせて総合的に結論をだしていくもんだと思うけどね
書状にも間違って伝聞していることが多々見受けられるからね
0781人間七七四年2019/04/04(木) 10:22:57.66ID:Ht/D3PSz
>>772
通説があるから根拠がないと言うのは酷い論法
信濃から来て犬居城入り、その後別働隊が遠江東部と南部を荒らしたという史料を出すべき
武田の研究者で信濃主張してるのは鴨川氏だけでは?
0782人間七七四年2019/04/04(木) 10:25:40.47ID:Ht/D3PSz
>>775
小笠原信嶺レベルは取次にならない
この時期取次やるのは跡部か山縣か土屋がほとんど
奥平は山縣の陣中にいるんだから山縣が取次と考えるのが自然
ちなみに小笠原信嶺も山縣の与力だから同じ陣中にいる
0783人間七七四年2019/04/04(木) 11:25:12.46ID:XIHfm9NL
>>779
鴨川の専門は中世史料
本多は東海地域史と徳川家康研究

書状の解釈については鴨川の専門なので、本多の指摘はレベルが低いと感じてそう
0784人間七七四年2019/04/04(木) 11:30:19.21ID:XIHfm9NL
>>782
思う、自然、無理がある、間違いない

鴨川氏が指摘しているように史料もなく断定するのはまるで説得力ないよ
0785人間七七四年2019/04/04(木) 11:32:34.90ID:Ht/D3PSz
>>784
断定していない
そもそもこの論点については鴨川氏の方が史料を掲示できず反論できずに止まっている
0786人間七七四年2019/04/04(木) 12:23:23.56ID:8+0gMZ2D
鴨川氏の方は駿河方面、遠江北部どちらにも判物と朱印状があるのだから両方の可能性を考えなければならない
そして他の史料から信玄が北のルートにいた可能性が高いのでは?と主張している

対して本多氏は遠江北部のものは駿河方面に取りに行ったに違いない(根拠なし)
信玄が駿河から来たのは上記の通り確定だから奥平宛の書状は高天神城降伏に違いないとしている

自分が出した根拠に乏しい推論を根拠にしちゃって次の判断材料の根拠にしちゃってるんだよ
これは武田関連スレを荒らし回ってる菅沼とかと同レベルの酷さだと思う
0787人間七七四年2019/04/04(木) 12:31:20.32ID:xCHeYw/Q
本多無能だな
0788人間七七四年2019/04/04(木) 12:41:25.96ID:6Qt0+jEc
文書の日付の位置にいたと考えると一言坂とかなかったになるのかな?
0789人間七七四年2019/04/04(木) 12:52:13.48ID:XIHfm9NL
>>780
ほんこれ

まして本多は徳川家康を研究している専門家なのに、そっち側から検証をまったくしないのは怠慢だと思う

鴨川であれば少なくとも私には徳川の史料で高天神城の降服を裏付けられるものが見つけられなかったと記載するだろうね
0790人間七七四年2019/04/04(木) 12:54:44.76ID:0T4VEqAw
ちょっと上で言われてた二俣城の話といい
信長公記や武田の当事者からの攻囲した時期〜落城時期は合致してるのに
当事者ではない北条氏政の書状の日付から逆算とか
一番アホなことをやってるように見える
0791人間七七四年2019/04/04(木) 13:21:06.19ID:V6MP+Pyc
駿河から侵攻したなら、なぜ天竜川から北上して二俣城を目指す、なんて凄い遠回りをわざわざしたのか?
二俣城を1ヶ月で落とした→甲陽軍鑑や信長公記にそんな記述はない(二つに時系列の間違いがたまにあるのは事実だが、二俣城に関しては信用ができないのか?)
二俣城を早々に落としてから、20日から1ヶ月以上も動かずボーッとしていた武田信玄。仮に病気でも酷すぎる。

本多氏にはよく説明してほしい。
0792人間七七四年2019/04/04(木) 14:39:04.71ID:CaaFY70g
仮に本多某の言う通りとしても1572年以降の二年間に小笠原が武田徳川にコロコロ転属したという史料や人質の移動
人質の処刑に関する史料が無いから奥平信昌親子みたいに武田に属していながら徳川とも交渉していたのと変わらない
大勢力に挟まれて両天秤にかけるのは戦国武将なら誰もがやっていることだから本を売るのにインパクトがない
だから本多某は論理の飛躍で降伏していたと言い出したんだろう
本多某の論を肯定したとしても小笠原と武田は密約(徳川勢力を遠江から駆逐したら降るetc)をしていたが信玄病死で御破算になったと考えるのが妥当な線
0793人間七七四年2019/04/04(木) 15:10:16.32ID:uMvYn+E/
小笠原降伏の話なんか今出た話でも何でもなく、インパクトだの本を売るためだのそんな物を売りになるわけないでしょ
論説でなく本多氏人格攻撃してるだけだね
そもそもの話、信玄の駿河侵攻ルートは芝氏が提唱したもので本多氏はそれを支持して補強してたものなので
0794人間七七四年2019/04/04(木) 15:29:29.07ID:XIHfm9NL
人格は知らないけど史学者としての姿勢は叩かれてもしょうがないお粗末なものだと思うよ

推論につぐ推論からの断定ばかり
0795人間七七四年2019/04/04(木) 15:39:18.19ID:0T4VEqAw
>>585あたりから降伏確定、反論が無く決着とドヤ顔してたID:wTj6Vvveが
結局は赤っ恥になっただけでしょう
0796人間七七四年2019/04/04(木) 17:20:56.47ID:yNUrBAr1
研究史では決着してるが
鴨川氏は反論せず多数の研究者が芝氏、本多氏説を引用してる状態なんで
ここで素人が喚いてるだけだよ
0797人間七七四年2019/04/04(木) 17:29:09.40ID:nGRhAk66
多数の研究者とは誰?
0798人間七七四年2019/04/04(木) 17:33:37.21ID:XIHfm9NL
多数の研究者が引用したところでその説の裏付けがなされるわけでもないし

本多氏が>>780で指摘してるような検証作業を怠ってるのは事実ですよ
0799人間七七四年2019/04/04(木) 17:37:07.03ID:OlnKQbpy
多数の歴史研究家の誤った認識を正した実績が鴨川氏にはあるんだけどね

詳細はリンク先参照
http://shizuokacastle.web.fc2.com/pick_up/genki2_yes_or_no/genki2_yes_or_no.html
0800人間七七四年2019/04/04(木) 17:52:53.07ID:tcJ04KpD
根拠が一つしかないのに、周囲の状況も碌に考察せずに内容の真偽も確かめず
降伏したと断言するようでは学者として正直信用できない。
本多平山はもとからだけど、俺の中で他の学者も評価下がった。
0801人間七七四年2019/04/04(木) 18:17:05.30ID:6wxsSsVN
9 人間七七四年 sage 2019/03/23(土) 07:54:24.52 ID:OxZ5lGmc
新刊の徳川家康と武田氏は素晴らしい本だ

589 人間七七四年 sage 2019/04/02(火) 12:48:40.88 ID:wTj6Vvve
あと二俣城は一ヶ月かからず落城してたこととか、信玄の本筋が美濃侵攻だったことだとか、信玄の西上作戦の最新研究が詰め込まれてる良著だった


内容スカスカなのに突然絶賛はじめたり、やたら強引に擁護してるからまさかの本人自演説までありえるなww
0802人間七七四年2019/04/04(木) 18:32:43.64ID:fhAtfgSd
なぜか支持されない鴨川説
0803人間七七四年2019/04/04(木) 18:54:54.23ID:VoGF0p0g
結論は平山と本田は逆張りシッタカ野郎だから無視してよいと
0804人間七七四年2019/04/04(木) 18:58:40.27ID:VoGF0p0g
当たり前だが科学(自然科学、人文科学)の世界に政治(多数決)を持ち出してはならない。
そういう姿勢だから慰安婦問題や南京大虐殺も世界世論の多数決で「事実認定」されてしまったんだ。
0805人間七七四年2019/04/04(木) 19:01:17.81ID:GITO+4Dc
そもそも最近、一次史料(書状)ばかりが重要視されて、軍鑑や公記などは軽視されてるけど、書状ばかりに頼って軍鑑、公記に記録がないことをあった、みたいに言うのは大丈夫なんだろうか?
0806人間七七四年2019/04/04(木) 19:04:30.27ID:XIHfm9NL
本多は現段階で判断に足る史料が見つかってないものを断定してしまう姿勢に問題が大いにあり

その点については
東京大学教授の鴨川氏>静岡大学名誉教授の本多氏
の力量差が如実に現れている

両者の著書を読み比べればそれは一目瞭然で大人と子供ほど違いが大きい
0807人間七七四年2019/04/04(木) 19:19:27.63ID:SC2Fu9/4
鴨川は「〜という解釈は不可である」「大坂出陣を控えて古文書研究とは!」という筆致が好きになれない
0808人間七七四年2019/04/04(木) 19:20:22.15ID:fhAtfgSd
鴨川氏の解釈も正直強引なところあるからなあ
両者共に決め手にかけとるわな
0809人間七七四年2019/04/04(木) 19:24:23.56ID:VoGF0p0g
鴨川市は人格的に問題があって多数決になると負けるんだろ
でも学問とは何の関係もないけど
0810人間七七四年2019/04/04(木) 19:28:34.92ID:XIHfm9NL
>>808
鴨川氏の説が支持されるときは複数の史料による裏付けがなされてる場合
まさに理詰めで証明しているので他の研究者が認めざるをえない状態になる

反対に支持されないのは史料が不足していたり氏の判断が多分に含まれてる場合
そういった場合は追加の史料発見待ちになる
0811人間七七四年2019/04/04(木) 19:29:18.83ID:XIHfm9NL
このスレで言えば

多数の史料の整合性を考慮して判断する
(鴨川氏のスタンス)
ID:CaaFY70g
ID:V6MP+Pyc
ID:8+0gMZ2D

史料一点のみや歴史家が引用しているというだけで史料による裏付けに乏しくても事柄を断定してしまう
(本多氏支持)
ID:wTj6Vvve
ID:TlquFwos
ID:Ht/D3PSz

こんな感じ
どちらの説が正しいか以前の問題で史料による裏付けは軽視しても問題ない事なのだろうかと思うな
0812人間七七四年2019/04/04(木) 19:29:47.25ID:VoGF0p0g
おそらくは>>792の言う通りで
当時の国境あたりの国人領主はほぼ全員が近所の複数の大領主に両属してたんだと思うぞ。
そうじゃないと自領が戦地になって痛い目を見るのが必至だから。
0813人間七七四年2019/04/04(木) 19:33:11.94ID:fhAtfgSd
さすがにそろそろ勝頼の話を
脱線しすぎだ
0814人間七七四年2019/04/04(木) 19:34:54.38ID:VoGF0p0g
かつてアルメニアという国がかなり長い年月にわたって
古代ローマとパルティア王国に両属してたものな。
ローマの地図にはアルメニアはローマ領土として載り、
パルティアの地図にはパルティアの領土として載る状態。
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