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武田勝頼 Part16

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0001人間七七四年2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq
新スレ 武田勝頼 Part16です。
勝頼関連について、どうぞ。

http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280

前スレ 武田勝頼 Part15
0639人間七七四年2019/04/02(火) 19:11:21.53ID:jf796Fi0
>>637
11月晦日なら1ヶ月半。
最初に言い出した奴は時間の計算もできないのか?

それで20日余りは何してたんだか。
朝倉義景が武田信玄が余りにチンタラしてるから撤退した可能性はあるかもしれんね。
0640人間七七四年2019/04/02(火) 19:12:21.51ID:qohUsCFx
十二月の出陣までは城の普請をしてたらしい

信玄の侵攻ルートなど鴨川氏との論争も読んでて悲しくなった

鴨川氏の主張は主に書状の内容を吟味してこれは偽書、これは時系列がおかしいなど想像するだけで大変さが伝わるもの

対して本多氏の主張は三河物語、依田記、甲陽軍鑑などの引用が多くて、都合のいい時だけ依田記の信憑性は怪しいから〜とここでいつも見ているような主張
あとは鴨川氏の書状の解釈にイチャモンつけてて、鴨川氏からの明確なレスが無いから決着がついたと一方的な勝利宣言してる
(これもここでいつも見てるような流れ)
0641人間七七四年2019/04/02(火) 19:13:31.19ID:jf796Fi0
>>638
駿河方面からわざわざ来て、そこから天竜川をわざわざ北上して二俣城に向かった、と? 何でそんな遠回りして貴重な時間を浪費したんだろ? 浅井朝倉本願寺よく怒らなかったな。
0642人間七七四年2019/04/02(火) 19:13:32.84ID:9sgQQee1
甲芸同盟の時の勝頼も長篠で負けてたのに毛利との書状に
尾張美濃攻めるつもりと書いてたな
あれを見て勝頼は尾張美濃を目指してた!って言うつもりかな?
目指せる余力など無かったのに(笑)
0643人間七七四年2019/04/02(火) 19:15:11.79ID:jf796Fi0
新説が出るたびに、武田信玄が名将とはとても思えなくなる。
0644人間七七四年2019/04/02(火) 19:17:52.44ID:fRctfAla
>>641
信玄目線だと、自分は浅井朝倉本願寺の度重なる要請に応じたわけだからそんな文句言われる筋合いないし、自分が一番大勢力だから偉い
自分も駿河方面から来たことについては疑問が多いが、奥平宛の手紙はどうにも否定しようがない
0645人間七七四年2019/04/02(火) 19:17:56.06ID:8OpHPR7n
>>632
時間かけていいなら固くても掛川包囲しとけばいいのに
他にも馬場とか山県が別働隊で三河攻めたりしてたからもう一度そっち攻めさせるでも良いし

>>631
徳川系の研究してる学者
武田系の本出すのは初な気がする
まあ西上戦なら徳川のことでもあるので問題ないはず
読んでないから断言できないけど
0646人間七七四年2019/04/02(火) 19:19:14.30ID:qohUsCFx
本多氏が駿河経由の遠江侵攻が信玄自身のルート

鴨川氏は信玄は信濃経由で駿河から入った部隊は別働隊
0647人間七七四年2019/04/02(火) 19:19:14.61ID:wTj6Vvve
二俣城攻撃開始の時期は十一月七日の穴山信君の書状を根拠に翌日頃から始まったのだろうとしてるんだけど、ちゃんと読んでないみたいだね
0648人間七七四年2019/04/02(火) 19:22:41.35ID:fRctfAla
>>646
鴨川氏は古文書専門すぎて無理がある解釈が多い
駿河の別働隊(信玄いないから兵力も大したことない)がどうやって掛川か高天神城を素通りして本隊と合流すんだよっていう
0649人間七七四年2019/04/02(火) 19:25:28.24ID:8OpHPR7n
>>636
>1572年冬に高天神城主の小笠原が
そんなのあった?

>>638
>これは奥平道紋宛の手紙みたら降ってるとみるのが妥当
妥当か?根拠が悃望だけで微妙
0650人間七七四年2019/04/02(火) 19:25:30.48ID:qohUsCFx
美濃侵攻説も期待してるようなもんじゃない

当初美濃侵攻が本流であったが遠山城の投降により三河方面侵攻に切り替えたという説は無理がある
(美濃侵攻と三河では兵站が違い過ぎるからだ)

当時の大名間の抗争は国境付近の境目に関わる揉め事がほとんどで、武田家としては美濃と三河どちらの揉め事も解決するのが目的だったが正しいらしいよ

ちなみに家康領が目的ではない最大の理由が三方ヶ原の戦いの後、浜松城を放置したからありえないとか
(うーん、5chレベル)

一つ一つの文章が自説の展開より先に他説の批判から入るのでいちいち読んでて不快になる
(これも5chっぽい印象)
0651人間七七四年2019/04/02(火) 19:31:52.45ID:qohUsCFx
ま、流し読み程度だけど自分は要点を共有したので「読めば分かる」と言ってる人は修正点あるならちゃんと指摘してくださいな

個人的には影武者いっぱいいたらしい信玄はどっちのルートにもいたから情報がどっ散らかってるんじゃないかと思う
0652人間七七四年2019/04/02(火) 19:32:06.67ID:fRctfAla
>>649
>>638
>>これは奥平道紋宛の手紙みたら降ってるとみるのが妥当
>妥当か?根拠が悃望だけで微妙

それじゃない
天竜川を渡るということ、渡る前に当城主小笠原がいること
これを両方満たすのは信玄が駿河から侵攻して高天神城を降したか、素通りしたかのどちらかしかない
山縣もいないのに別働隊は論外
0653人間七七四年2019/04/02(火) 19:35:05.52ID:GzxprgQW
疑問なんだけど
西上作戦の時に高天神城が武田に落ちていたなら

1572年に武田へ

1573年〜1574年のいつ徳川に?

1574年に勝頼に攻められ6月に落城
援軍に来ていた信長は家康に詫びて金を大量に置いていった(信長公記より)


いつ徳川の手に戻ったの?
0654人間七七四年2019/04/02(火) 19:37:37.20ID:wTj6Vvve
>>651
単なる読書感想じゃん
0655人間七七四年2019/04/02(火) 19:39:15.58ID:8OpHPR7n
>>648
信玄の関東遠征時の別働隊の小山田とかのこととか考えれば、
それぐらいなら普通に出来るんじゃないか?

>>652
『当』はこちらそちらあちらとか含むから、渡る先に小笠原がいるとも考えられる

>山縣もいないのに別働隊は論外
ちょっと何言ってるかわからない
0656人間七七四年2019/04/02(火) 19:41:05.53ID:3y835Exv
>>654
文句あるなら反論したら?
本当に読んだの?
0657人間七七四年2019/04/02(火) 19:41:17.53ID:qohUsCFx
>>654

詳しく書いてある

誰か
読めばわかる


こんなこと書いてありました

どれが第三者にとって有益か

もちろん要約だけしか伝えなかったら誤解される恐れもあるだろうけど情報出さないよりは出して訂正された方がいいと思うよ
0658人間七七四年2019/04/02(火) 19:42:09.42ID:H6EmisG3
>>655
西から東に天竜川渡るのは更に無理がある
0659人間七七四年2019/04/02(火) 19:43:15.15ID:qohUsCFx
>>655
まさにその解釈について本に書いてありましたよ

鴨川氏の相手側だとする解釈は無理がある
当だったら普通は自分の方を示すだろうと解釈するほうが自然だと
0660人間七七四年2019/04/02(火) 19:45:23.15ID:8OpHPR7n
>>653
615で書いたように
自分は降伏したんなら
郡上の遠藤なんかと同じで、一応降伏を匂わせた使者だしたレベルの話で
家康から見ても寝返ったわけじゃないんだと思う

>>653
確か平山氏は73年の武田撤退後徳川に再度寝返った、としていたと思う
0661人間七七四年2019/04/02(火) 19:48:58.19ID:8OpHPR7n
>>658
違う、武田家臣の小笠原が三河とかにいたらって話

>>659
そちらという意味でも使われたりするんだから、それじゃあ根拠が足りない
筆者がそう思ったって感想文にしかならないよ
何か他に傍証みたいなの書いてないの?
0662人間七七四年2019/04/02(火) 19:49:46.47ID:gyrQNDv/
とりま平山は逆張り野郎だから
彼が何か言ったら正反対が真実だと思って間違いない
0663人間七七四年2019/04/02(火) 19:51:43.43ID:8OpHPR7n
>>659
あるいは、その時代地域、若しくは書いた人間である信玄が
『当』をこちらという意味でしか使っていないみたいなデータとか書いてない?
0664人間七七四年2019/04/02(火) 19:53:59.59ID:H6EmisG3
>>661
小笠原信嶺が天竜川の西にいたとしよう
だとしても信玄が天竜川の東から西に渡ったのは事実であり、掛川か高天神城を素通りしたというのも否定出来ない
素通りしたにしては速すぎるし、信玄の印鑑を別働隊が持ってただの、小山田あたりが敵の領内を素通りするだの無理がある
0665人間七七四年2019/04/02(火) 19:55:19.37ID:qy74+2OT
小笠原長忠は斬首だっつうの
0666人間七七四年2019/04/02(火) 19:57:12.98ID:qohUsCFx
>>661
当の解釈の他にもつらつら書いてありましたよ
通勤経路にあるから興味あるのであれば明日もう少し読み込んできますが

本当に全体的に雑な印象なんですよね
鴨川氏の説否定から入って自分の都合いい事だけ書いてハイ論破!みたいなそんな感じ

他の歴史研究家の方がこの点については更なる検証の必要性を感じるとか断定はできないみたいな一歩引いた表現があって逆に信頼できる
0667人間七七四年2019/04/02(火) 20:01:36.67ID:wTj6Vvve
>>657
訂正って何を?
0668人間七七四年2019/04/02(火) 20:05:14.26ID:KY+I9q6X
>>662
じゃあやっぱり長篠の三千挺は正しかったってのはウソなの?
0669人間七七四年2019/04/02(火) 20:08:16.78ID:qgMaWDHf
>>647
訂正というかみたいな指摘ね

自分は城の明け渡し時期についてしか書いてなくて指摘もらったのは開戦タイミングだから訂正とは少し違うけど
0670人間七七四年2019/04/02(火) 20:12:54.09ID:GzxprgQW
>>660
徳川に再度落ちたという歴史資料はあるんですか?
西上作戦では書状だけで落ちたと言うのは無理があるんじゃないですか?
それを根拠とするなら徳川に再び寝返ったというのをセットで出ないと
偽書または間違った情報だという扱いのが優勢だと思いますね
戦国時代では良く間違った情報が飛び交いましたからね
最近では本能寺の変の後の明智光秀の居場所を柴田勝家が間違った
情報しか得ていなかったという書状が見つかってましたね
0671人間七七四年2019/04/02(火) 20:14:26.53ID:8OpHPR7n
>>664
別に別働隊が敵の領内素通りは別に無理ないだろ、
部隊分けて敵領焼き打ちさせるとか関東遠征でもやったし、
総兵力で上回ってるならそうおかしなことじゃない、
信濃から遠江平野部まで出てきた武田の部隊もいるのだからそっち警戒して
徳川主力は動けないんだし。

>信玄の印鑑を別働隊が持ってただの
何それ?

>>666
なんか微妙そうですね
自分は読みに行くのはGWでいいや
0672人間七七四年2019/04/02(火) 20:23:38.30ID:8OpHPR7n
>>670
>徳川に再度落ちたという歴史資料はあるんですか?
自分が知る限り、二次史料江戸時代の軍記物でも見たことない
72年に高天神が降伏したと言う学者もその後どんな風に徳川に戻ったかという史料や根拠を示したことはないはず
0673人間七七四年2019/04/02(火) 20:27:37.68ID:8OpHPR7n
2000年代初め辺りのその説が出た頃は複数の学者がその説に従って降伏したって書いていたけど、
今はどうなんだろ、平山氏と今スレで話題になった本多氏ぐらい?
0674人間七七四年2019/04/02(火) 20:30:26.14ID:wTj6Vvve
>>640
これも間違って書いてるね
本田氏の信玄侵攻ルートは芝裕之氏が提唱したものを支持したもの
本田氏はそれを武田氏の朱印状などの発給文書の月日を地図上に落として明らかにしたと書いてある
進軍ルートを三河物語や甲陽軍鑑を根拠としたなんて事は書いてない
0675人間七七四年2019/04/02(火) 20:39:18.80ID:qgMaWDHf
>>671
付近、遠方だったかな?
村の代表が安全を保障するため信玄の陣所を訪ねて証書を貰いに行ってたとか
印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
=別働隊ではありえないという指摘だったかと
0676人間七七四年2019/04/02(火) 20:39:35.70ID:H6EmisG3
>>671
小笠原は信嶺のこと→なんで信濃先方衆の一人に過ぎない小笠原信嶺の懇望が出てくるのか意味不明

印鑑→信玄本隊は南伊奈から侵攻し、鴨川氏は駿河からの別働隊が信玄の印鑑持って奥平に書状書いたとか主張してたはず(うろ覚え)

別働隊が駿河から天竜川渡った?掛川城は一番防御を固めてただろう堅城なのに、山縣や秋山以外の家臣にリスクある別働隊を任せたなんて到底思えない
任せたとして、こんな別働隊なんのメリットがあるというのか
0677人間七七四年2019/04/02(火) 20:47:04.73ID:qgMaWDHf
>>674
前半は前スレの補足で後半は別の話題
紛らわしい書き方でしたね

軍鑑や三河物語の記述がよく引用されてるのは前の話題の二俣城攻めの前後です

言うまでもなく侵攻ルートについては軍鑑などにも記載が無いので引用はされていないです
(だから論争になってると思いますが)
0678人間七七四年2019/04/02(火) 20:58:36.08ID:xGFHE2ij
浜松城を攻めなかったのは単純に織田の本格的な介入を招くからでしょ?
西上作戦時織田は手一杯とよく言われるけど実際はこの時期そこそこ余力が出てきている

・一向一揆は地元で暴れる分には脅威だが、外征能力は殆どない(信玄すら戦力に数えてない)

・朝倉勢は内応・サボタージュが続発して組織崩壊中

・浅井勢は一向一揆と組んで秀吉を攻めるも敗北、逆に秀吉や勝家が小谷城下に攻め込んでくる始末
0679人間七七四年2019/04/02(火) 21:04:06.89ID:wTj6Vvve
>>677
三河物語にしても二俣攻めの様子を一次史料の補足的に引用してるだけで、重要な開戦の日付、降伏の日付は一次史料からちゃんと引用してる
まるで引用史料が軍記をメインみたいな誤解する書き方は違うんじゃないの
0680人間七七四年2019/04/02(火) 21:30:52.65ID:qgMaWDHf
そこは鴨川氏の文章との対比なので

鴨川氏の場合は書状を引用するにも背景の解説を入れたり前後の書状や相手の返信なども紹介して妥当性を表現している
強引な解釈というのも散見してると思いますが

本多氏の場合は自説の背景として軍記の引用が多い
書状から日付を引用してても唐突に出てきて書状に記載されてる内容の妥当性についての検証などはあまり無い

>>637に書いてある箇所などがまさにそれで、その北条氏政が持ってた情報は正しいのか?という根拠については説明してくれない

スタンスの違いだから好みに合う合わないは当然あるだろうけど、そういう傾向の本でしたよって書いたまでです
0681人間七七四年2019/04/02(火) 21:39:20.85ID:9sgQQee1
>>680
平山も書状の内容と前後の流れの検証しない唐突気味だよな
新説ならぬ珍説で功績を主張したい
または本を売りたいがために前後の流れの検証をしないのが多いこと
0682人間七七四年2019/04/02(火) 21:43:41.87ID:gyrQNDv/
要約すると本田と平山は法螺吹きだから話半分に聞けという事でしょ
0683人間七七四年2019/04/02(火) 21:47:04.95ID:wTj6Vvve
当初から水の手を断つ城攻めは三河物語に詳しいとあるが、そのことを裏が取れる一次史料の山県昌景書状を文章付きでちゃんと載せてあるよ
氏政書状に関しても二俣攻めに参戦してた伊豆州清水氏からの報告に基づくもので信憑性は高いと説明されてあるが
0684人間七七四年2019/04/02(火) 21:51:07.58ID:qgMaWDHf
最新の研究成果というならば、この説は複数の根拠に基づいていて確実性が高い
一方この説は根拠となる史料が少なく未だ検証が必要な段階であるとか
そんな感じのスタンスでまとめてほしいと思う
大学で教えてるような立場であるなら尚更

他人の説を批判して客観的に見てそれってまだ双方論証できてなくない?と思われるような内容についても
「未だに〜と記述されており誠に遺憾」みたいな文章が続くと著者に対して微妙な印象が強くなる

還暦をとうに超えてるおじいちゃんなので仕方ない部分もあるんだろうなとは思うけど
0685人間七七四年2019/04/02(火) 21:56:37.30ID:8OpHPR7n
>>675
>印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
>=別働隊ではありえないという指摘だったかと
それは普通はありえないはずだよな、何のための印だってなる
ぶっちゃっけ別働隊が信玄の名で好き勝手出来るってことだし

>>676
何聞きたいのかさっぱりわからない
レス番ずれてない?そうでないならもう少しちゃんと整理して書いて
0686人間七七四年2019/04/02(火) 21:58:45.87ID:wTj6Vvve
詳細は本田氏の拙論、武田氏研究49号の武田信玄の遠江侵攻経路を読んでって書いてあるじゃん
0687人間七七四年2019/04/02(火) 22:04:30.69ID:qgMaWDHf
>>683
全体の話の流れがね

当初から水の流れを断つ方針で攻め込んでいたようだ
→だから時間はかかっていない

通説では12月とされているが北条氏政の書状から日付を逆算すると11月には終戦している
→なので二俣城は一ヶ月で陥落させている

これだけ書いてサラッと次の話題に進まれちゃってますからね

他説を否定する根拠も本多氏が主張する内容の根拠も全然浅いなーという印象しか無かったです

論文や研究紙に詳細書いてますって書くだけじゃこの本の内容自体に価値は無いですよね
(そういうとこも正に今のこのスレの流れのようだ)
0688人間七七四年2019/04/02(火) 22:07:06.80ID:H6EmisG3
>>685
1.鴨川氏が主張する小笠原信嶺程度の信濃先方衆の「懇望」のため信玄が天竜川を東から西に渡ると奥平宛に書くのは不自然極まりないと思わないか?

2.本当に掛川や高天神城の敵の領内を山縣秋山以外の別働隊が敵中突破したと思うのか?天竜川を渡るのもリスクがあるのに

3.奥平宛に信玄の名前と印で天竜川を渡って浜松へ向かうと書いているのに、その軍に信玄がいないということは無理がありすぎではないか?
0689人間七七四年2019/04/02(火) 22:07:44.62ID:8OpHPR7n
そういえば本多氏って小山評定で白峰氏と論争してた人だっけ?

>>682
>>686
本『多』氏な
ちなみに戦国時代の歴史学者だと他に本多博之って人もいる。
0690人間七七四年2019/04/02(火) 22:08:10.89ID:wTj6Vvve
そりゃ信玄の遠江侵攻についての著書じゃないから、本筋のこと以外に紙面を割くわけないでしょ
さらっと流し読みした程度で書評するなんてほぼレッテル貼りに近いでしょ
0691人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:19.08ID:wTj6Vvve
>>689
誤変換失礼
0692人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:19.44ID:qgMaWDHf
>>685
鴨川氏のそれに対する反論としては偽印や本物の証書でも西上作戦の時のものではない可能性など信憑性を証明するのは本当に難しいと説明されてましたね
実際に偽印が用いられた証書の紹介と解説など含めて

これに限らずですが、ありえないはずだ だけで結論としない姿勢は好感が持てます
0693人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:50.58ID:GzxprgQW
関ヶ原合戦での8月5日の三成の書状では田辺城が開城したと書いていたが
実際に開城したのは9月18日で三成書状は間違った情報だったと確定した話
もあったように書状には間違った情報が含まれていることを
注意するべきですね
当事者じゃなくて伝聞してる情報は特に
0694人間七七四年2019/04/02(火) 22:12:09.80ID:wTj6Vvve
>>687
当初から水攻めは
0695人間七七四年2019/04/02(火) 22:13:48.18ID:qgMaWDHf
>>690
それであれば>>585>>588のような表現はまずくないですかね

この本読んでも話題についての詳細は少ない
それであれば『武田氏研究49号の武田信玄の遠江侵攻経路』こっちを参考史料として掲示すべきかと
0696人間七七四年2019/04/02(火) 22:15:56.80ID:wTj6Vvve
>>687
当初からの水攻めしたから時間かかってないなんて書いてないな
篭城方は善戦し城は容易には落ちなかったと書いてある
当初から水攻めの根拠も山県昌景書状で確認取れるわけだが
0697人間七七四年2019/04/02(火) 22:17:43.82ID:H6EmisG3
>>695
二俣城の件はともかく、信玄が駿河から侵攻したこと、高天神城が落ちてたか信玄を素通りさせたことは間違いないでしょ
鴨川氏の主張は支離滅裂だから
0698人間七七四年2019/04/02(火) 22:18:15.62ID:wTj6Vvve
>>695
その論争の顛末が書いてあるわけだから問題ないでしょ
論争の内容が具体的に知りたければ書かれてる参考文献を調べればいいだけだし
0699人間七七四年2019/04/02(火) 22:20:49.12ID:8OpHPR7n
>>688
1 この時期の小笠原信嶺は奥平の取り次ぎだか寄り親じゃなかった?
長篠城守備の費用のため井伊谷に土地宛がわれるのは信玄死亡前後ぐらいだったから、
まだその時点じゃ関係ないと言えなくもないが、完全に無関係なら長篠の守備なんてならないだろうから、
この時点でそれなりに奥平小笠原の関係が深くても不自然とは思わない

2 他の例から考えるなら十分可能だと思う、天竜川渡るもその地点まで来れば信玄の本隊と合流してるんじゃ

3 既に書いたが無理だろ、たとえ別働隊が勝頼でも厳しいだろ
0700人間七七四年2019/04/02(火) 22:25:22.57ID:8OpHPR7n
>>698
>降伏してない説の鴨川氏が、降伏してた説の本田氏の批判に具体的な反論が一切できずほぼ決着
つか具体的な反論出来ないってどういうことなんだ?
過去に本多氏が鴨川氏への論文だして、それへの具体的な反論が何年たってもなかったとかでそう言ってるのか?
他の人のレス読む限りは違うような印象受けるんだが
0701人間七七四年2019/04/02(火) 22:25:22.58ID:9sgQQee1
>>693
遠く離れた場所の書状だとこうなるわな
北条氏政の書状から逆算とか一番信用しちゃいけないソースだわな
0702人間七七四年2019/04/02(火) 22:26:15.38ID:qgMaWDHf
読んだ本人の感想が「なんだこれ?5chの自称歴史研究家?」程度だとしか思えなかったという状態なんですが

論争の顛末のレベルが低いというか自分の主張に対してバイアスかかってるなーという意味で

二俣城が一ヶ月で落ちたのか信玄が高天神城降服させたのかさせてないのかは別の問題だと思いますよ

ただこの本だけではどちらの説の根拠とするのも厳しそうだなという印象です
どこかのレスにあったようないい本だとは全然思えなかったですね
0703人間七七四年2019/04/02(火) 22:27:53.15ID:8OpHPR7n
>>692
そういうものなのか
軍鑑か何かじゃ死ぬ前に予め自分の花押だか何か残した空白の紙を大量に残したとかあったけど
史実でもそういったことあるのか……
0704人間七七四年2019/04/02(火) 22:29:30.90ID:H6EmisG3
>>699
奥平と小笠原信嶺がある程度知己であろうことは知っているがそういう話でなく、小笠原信嶺がなんで信玄に西上を懇望するんだ?
百歩譲って山縣が天竜川の西で早く信玄と合流したいというなら分かるが、唐突に小笠原が西上を懇望したと読むのが鴨川氏の主張
3が無理というなら駿河から侵攻したのは信玄本隊ということだね
0705人間七七四年2019/04/02(火) 22:33:03.86ID:wTj6Vvve
>>700
再度の反論はあれども当城主小笠原が信嶺であることや、信玄が南進部隊にいたことの新たな主張は無く龍の朱印を預けたという事例の提示もなかった
要するに主要な論点に対する積極的反論が無かった、とのこと
0706人間七七四年2019/04/02(火) 22:35:01.57ID:8OpHPR7n
>>702
確かに
・二俣城がどれぐらいで落ちたか
・信玄本隊はどのルートを通ったか
・高天神は降伏したのか
の三つの問題あるみたいだな

>>704
仮に三河長篠方面担当していたとするなら、さっさとこっち方面に来てほしいと思うのはおかしくないと思うが
特に信玄本隊が駿河から入って遠江でも東の方にいたとするなら

逆に高天神の小笠原は何で西上を懇望するんだ?
小笠原の位置なら掛川落としてくれとか、天竜川東の徳川勢力の排除望むんじゃ?
0707人間七七四年2019/04/02(火) 22:41:41.80ID:H6EmisG3
>>706
懇望する、は降伏を願い出るという意味もある(こっちの方が用例が多い)
だから本多氏は小笠原は降伏したと主張している

小笠原信嶺はそこまで大身じゃないので違和感しかない
山縣の別働隊はそんなあちこち兵力を分散してたとは思えないから小笠原信嶺も山縣の旗下にいたはずだし
0708人間七七四年2019/04/02(火) 22:42:08.00ID:8OpHPR7n
>>705
やった最初に聞いた答えが返ってきた
つまりこういうこと?
鴨川氏論文→本多氏論文で鴨川氏に意見→鴨川氏反論→本多氏反論になっていないと先月の本で言ってる

他の人のレス読むと反論になっていないと先月の本で言ってるのは
鴨川氏の説否定から入って自分の都合いい事だけ書いてハイ論破!みたいらしいが
そこは読んで判断する

>>704
むしろ馬伏塚の小笠原なら位置的に天竜川渡って浜松攻めてと頼みそうな気がする
0709人間七七四年2019/04/02(火) 22:53:10.18ID:8OpHPR7n
>>707
別方面の勢力に動いてもらう時に使う用例も十分多いと思うが
降伏で使う場合は、開城条件とかとセットがほとんどじゃ

小笠原信嶺は山県らと比べると一段落ちると思うが信玄が小笠原に宛てた書状とかもあるし
そんな変なことか
0710人間七七四年2019/04/02(火) 22:58:54.59ID:wTj6Vvve
>>708
本多氏論文2010→鴨川氏による本多氏論文への批判2012→本多氏反論2013→鴨川氏再批判2015するも主要な論点に対する積極的反論無し→本多氏反批判2017
10年近くやってるみたいね
0711人間七七四年2019/04/02(火) 23:00:37.29ID:H6EmisG3
>>709
信玄が駿河から遠江に入り、奥平に手紙書く際に
1.高天神城主小笠原長忠が降伏を願い出たから今から天竜川渡って浜松向かうよ
2.城主小笠原信嶺が要請してきたから今から天竜川渡って浜松向かうよ

2は違和感ありすぎ、掛川城か高天神城はどうしたのよって突っ込みたくなる
0712人間七七四年2019/04/02(火) 23:03:48.09ID:H6EmisG3
わざわざ「城主」小笠原と書く意味も分からないし、小笠原信嶺の身に何があったんだよと心配になるレベル
0713人間七七四年2019/04/02(火) 23:14:51.54ID:GzxprgQW
西上作戦の時に小笠原長忠が武田に降ったなら
所領安堵なら人質は絶対に取られるはず
その後に徳川に寝返ったなら勝頼に人質は処刑されてるはず
徳川に寝返ったのはいてか徳川から安堵された書状もない等
ごっそり抜け落ちたことになりますね
0714人間七七四年2019/04/03(水) 00:40:37.87ID:vC4KHP/B
>>647
それならそれで、10月15日の段階で二俣城を包囲していた(馬場が)のに、信玄は20日以上も何処で何していたの? になります。
0715>2019/04/03(水) 01:48:26.67ID:ILDye0kT
>>451

天正7年(1679年)3月下旬、北条氏を打倒するため、伊勢天照大神宮御宝殿へ北条氏政追罰の願文を奉じました。
0716人間七七四年2019/04/03(水) 01:56:38.05ID:mlnQx8PK
信玄って行動がトロいなあ。
時間がかかれば、織田信長の後詰が来るのは分かり切ってる。
ならば1日も無駄にせず、すぐに行動するべきだろう。
冬とはいえのろますぎる。

そういえば、本多とか言う奴は美濃へ侵攻するとか言ってるが、冬の時期にどうやって信濃から美濃へ侵攻するのか説明してほしいな。
0717人間七七四年2019/04/03(水) 02:04:38.81ID:ILDye0kT
>>451
https://ameblo.jp/bd20159/entry-12379671347.html
>勝頼は天正7年3月に伊勢天照大神宮御宝殿へ祈願文を出した。
>当時御館の乱の結果、北条との同盟が決裂した時に北条氏政追罰の願文である。
>『妙心寺史』によると鉄山宗純に起草させたもので、文自体は鉄山が勝頼の意を汲んで
>文章を練り、勝頼がその文書を認めた者である。詳細は笹本正治氏『武田勝頼』に詳しいが、(以下略

天正7年3月に甲相決裂
だってさ
0718人間七七四年2019/04/03(水) 03:08:34.01ID:ar/BEH/l
0741 モノノフ名無しさん(神奈川県) 2019/04/01 21:22:53
新元号の出典が太宰府にあるとは。
紅白を逸してまで開催した男祭りへの想いがようやく花開いた。
本当にももクロchan達は関わる人たちを皆笑顔にするよね。
次はどんな笑顔へ繋げるのか楽しみ。
0719人間七七四年2019/04/03(水) 05:44:16.29ID:utrNhxyy
平山優
「高天神城は、元亀3年10月から始まった武田信玄最後の作戦(いわゆる西上作戦)で降伏しているんだってば」
https://twitter.com/hirayamayuukain/status/932276013580435456
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0720人間七七四年2019/04/03(水) 05:52:58.39ID:utrNhxyy
高天神城が、元亀三年武田信玄の侵攻を受けて降伏した旨記載されている参考書は
本多隆成『定本徳川家康』
柴裕之『徳川家康』
平山優『武田信玄』
0721人間七七四年2019/04/03(水) 05:59:38.21ID:utrNhxyy
城主小笠原氏助は、信玄に降伏しているんですよ。そして武田軍の撤退と家康の反撃で、再度徳川方に従属しているのです。天正2年の武田勝頼の高天神城攻めは、その失地回復という意味合いが強いのです。
https://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/932279200387436544
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0722人間七七四年2019/04/03(水) 06:25:00.46ID:bUBJBkv5
前にも平山の本で暴れてた奴いなかった?
確か平山が甲州征伐で織田軍が餓死や逃亡者で崩壊寸前だったとかを書状一枚で言って奴
同一人物か?
0723人間七七四年2019/04/03(水) 07:39:12.70ID:utrNhxyy
武田氏滅亡より

平山優は勝頼推しなのでリップサービスも含まれてるかな
http://imgur.com/jsvnA5F.jpg
http://imgur.com/NmBz9Nn.jpg

ID:qgMaWDHfが書いてる内容は鴨川 達夫と本多 隆成の著書で鴨川氏のスタイルの方が好みという程度で別にどちらの論説を支持してる訳でもないと思うよ
0724人間七七四年2019/04/03(水) 08:06:42.33ID:xOnAjSNt
しかし、長篠の敗北は痛恨の極みだったよね 同じ負けるにしても、負け方が酷すぎるからな
何よりこれまで武田の軍事を支えてきた重臣たちが殆ど討ち死にしてしまうという
絶対にしてはいけない負け方をしたからな
恐らくこの報を聞いた感のいい信長は「武田は終わった・・・」とすぐに思っただろうね
それぐらい武田の運命を大きく決定づけた敗北だったと思う
高天神や御館も滅亡の原因の一つだけど、もし長篠以前の有能な武田武士が生きていたら
あんな悲惨な裏切りやら離反劇は食い止められたかもしれないし・・・
やっぱり長篠での人材の喪失と言うのは武田にとって致命的だったと思う
その上で高天神と御館での信用の喪失がトドメを刺した
0725人間七七四年2019/04/03(水) 08:28:56.87ID:bUBJBkv5
>>723
3月23日 山口秀景書状で兵の兵糧欠乏
3月24日 信長が兵糧を配給
3月26日 北条氏政より米千俵が諏訪へ届く


兵糧については解決してるのに織田は崩壊寸前だったは無理があるな
0726人間七七四年2019/04/03(水) 08:59:15.17ID:2S4+6xKE
兵糧が欠乏気味
信州の豪雪による氷結
岐阜から甲府への行軍過程で逃亡者が出た
→これらは事実

織田軍は崩壊寸前だった
→これは論理の飛躍で根拠がない

こういう事ですね
0727人間七七四年2019/04/03(水) 09:10:05.60ID:VsqouB7a
山岳地帯の大勢力への戦だったのに相手が雑魚すぎて無人の野を行くが如しの進軍で
後方勢力地からの補給が追い付かなかっただけだろ
相手が動けないうちに出来るだけ戦果を拡大するのは間違ってない、勝頼は最期まで動けず自害したけど
0728人間七七四年2019/04/03(水) 09:41:59.42ID:hOQYomsX
>>724
長篠のあとも武田は結構もってたろ
信玄の負の遺産という重荷がいっぱいあったのに勝頼も頑張ったよ
0729人間七七四年2019/04/03(水) 10:14:14.49ID:KVmCKoDm
>>728
>>417
長篠ではその負の遺産らが勝頼を逃がすために殿軍を引き受けて
散っていき、長篠後も崩れることなく反逆者も未然に防ぐ結束していた
勝頼主導による北条との手切れからの徳川北条による二面攻撃
高天神城のみごろし、新府城建設や度重なる防衛戦の戦費による重税で
小笠原信嶺などの武田家臣の忠誠心が失われてしまったんだよな

むしろ、勝頼=信玄の負の遺産
0730人間七七四年2019/04/03(水) 10:20:18.50ID:5DixtKSR
当時の慣例としては高天神城の小笠原氏助が降伏したならば
小笠原氏助が浜松城攻めの先鋒を必ず務めなければならない。
少なくとも武田家はそういう決まりが厳然としてあった。
城主を最前線に立たせて人質として使うのが一番確実だしね。
0731人間七七四年2019/04/03(水) 10:23:13.33ID:7jjpub26
高天神城の見殺しは大きかったと思うよ
あの城には各国から部将が集まってたようだし、「どうせ先方衆は盾にされて見殺しにされる運命なんだ」というのが共通認識になっちゃったんだろうな
0732人間七七四年2019/04/03(水) 10:24:37.62ID:5DixtKSR
ちなみに籠城する場合は新参の武将(敵方から寝返ってきたものなど)を
馬丸出しの警護につかせた。
馬丸出しは城の入り口を守ってるが城門の外にあるので万一そいつらが裏切っても
致命傷にならないから。これは武田家独特の軍法だった。
0733人間七七四年2019/04/03(水) 12:10:15.62ID:qn/+JQyf
>これは武田家独特の軍法だった。

どういった史料からわかることなの?
0734人間七七四年2019/04/03(水) 12:27:12.49ID:S+f6JWva
裏切った奴が先鋒務めた例なら数多あるが軍法まで決まっとるんか
0735人間七七四年2019/04/03(水) 12:34:03.49ID:J0njK6Rv
小笠原は通説じゃ、三方原に徳川方で参戦してるし、戦死者には小笠原の姓を持つのが複数いるのだが
0736人間七七四年2019/04/03(水) 13:23:02.17ID:qn/+JQyf
寛永諸家系図伝によると小笠原安次の息子の安広が三方が原で討死しているが
これが高天神の小笠原氏と何か関係あるの?
彼らの本拠である三州欠城ってのは高天神城のことだったの?
0737人間七七四年2019/04/03(水) 13:34:49.64ID:qn/+JQyf
他に三河国の幡豆小笠原氏の小笠原信元も戦死ではないけど「三方が原合戦の時、大権現の供奉す」とあるし
>>736の安広の弟の安勝が三方原で負傷して出仕をやめるとか書いてある
この合戦に複数の小笠原氏の者がいたのは間違いない

小笠原なんて珍しい苗字のものが日本中探しても高天神以外にいるとは考えられないし
これで高天神城が武田に下ってないことは確定したね
0738人間七七四年2019/04/03(水) 13:52:18.14ID:PjzD+2eO
そもそも高天神城が武田信玄の頃に降っていたなら、甲陽軍鑑が記録しないわけがない。

徳川方にしても記録を残さないのがおかしい。

だいたい、駿河から高天神城を通るとしたら、掛川からいつ横腹を突かれるかわからないし、途上にある久野や浜名を落とさずに進軍してるから、こちらは兵站としては使えない。

城を残して進軍したらどうなるかは、岡城や栂牟礼城を残して北上した島津軍から見てもお察しだし。
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