武田勝頼 Part16
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0001人間七七四年
2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq勝頼関連について、どうぞ。
http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280
前スレ 武田勝頼 Part15
0018人間七七四年
2019/03/23(土) 16:31:54.75ID:oIS4mqKuしかし、埋蔵量が少なく、品質も良くなかったから現在も輸入に頼らざるをえない
0019人間七七四年
2019/03/23(土) 17:35:56.51ID:vqujsp/T未だと0.03%くらいらしい
0020人間七七四年
2019/03/23(土) 17:50:04.35ID:kxLFLkED0021人間七七四年
2019/03/23(土) 18:01:13.63ID:vqujsp/T最終的には信忠と松姫の子供が武田継ぐ流れだったんだろうな
0022人間七七四年
2019/03/23(土) 18:05:44.07ID:AxvDVZBO0023人間七七四年
2019/03/23(土) 18:22:44.41ID:GEaWcvy0北畠も後にアレな事にはなったが、全滅したわけではないし
0024人間七七四年
2019/03/23(土) 18:56:26.24ID:J4Bku9He一揆に惨殺されなければ養子送り込んで乗っ取っただろうな
あと岩村遠藤も秋山が来なけりゃ乗っ取れてた
0025人間七七四年
2019/03/23(土) 20:00:01.12ID:rrSOsgDr0026人間七七四年
2019/03/23(土) 20:14:18.55ID:Som3Cbp30027人間七七四年
2019/03/23(土) 22:56:39.73ID:tBmtl0l5勝頼が生まれた年に一族の誰か反乱起こしてたような
0028人間七七四年
2019/03/23(土) 23:13:38.08ID:TcVaYyT6その後、うまく立ち回り関ヶ原の戦いで功をあげ高島藩主として大名に復帰と記されてるな
0029人間七七四年
2019/03/23(土) 23:30:09.09ID:TcVaYyT6ポテンシャルとしては諏訪湖周辺は凄まじいものがあったのに。
江戸時代では下諏訪は交通の要衝として栄えたよね
0030人間七七四年
2019/03/24(日) 00:01:02.65ID:k6Cz3nB9甲斐は内陸で水運に使える河川も無かったから
0031人間七七四年
2019/03/24(日) 00:28:34.62ID:DTppBaiM諏訪地域 標高760m
武田家臣「なぜもっと山に行かねばならぬのか?」
諏訪は治安の良くなった江戸時代でも
難所がある中山道の宿場町として賑わっただけで
自力で経済力で栄えては無かったですぜ
0032人間七七四年
2019/03/24(日) 00:40:37.05ID:k6Cz3nB9三河、遠江との物流はかなり収益を生んだ筈
飯田街道や青崩峠は塩の道として古来から難所ながらも人、物の往来は盛んだった
0033人間七七四年
2019/03/24(日) 00:44:10.79ID:M/DW+yAs0034人間七七四年
2019/03/24(日) 00:46:11.65ID:VyainpRR今川が生きていたら塩止めみたく下流でストップできる権限もあるし
0035人間七七四年
2019/03/24(日) 00:51:18.27ID:K9rE6wVyもちろん水運益。
0036人間七七四年
2019/03/24(日) 00:52:57.27ID:K9rE6wVyいずれも経済力が凄かった。
だから信長との戦争で10年間も苦しめる事ができたわけだけど
0037人間七七四年
2019/03/24(日) 00:58:35.07ID:K9rE6wVy浮かべられなかったのと、なにより日本住血吸虫で死ぬから船で物資を気軽に運ぼうとか
思えなかったんじゃね?
だから現在も甲府盆地の川では魚釣りする人が居ないし、水が綺麗なのに泳ぐ人も居ない
つーか河川敷に誰一人近づかない。
0038人間七七四年
2019/03/24(日) 01:01:39.64ID:DTppBaiM甲府盆地 標高300m
諏訪地域 標高760m
0039人間七七四年
2019/03/24(日) 01:03:57.57ID:K9rE6wVyその後は生糸生産のメッカとなり
さらにオルゴールとか時計とか精密機械工業のメッカになったろ
普通に水が豊富で交通が便利で水運も使えるからだと思ってるんだが
0040人間七七四年
2019/03/24(日) 01:09:06.46ID:k6Cz3nB9生糸と精密機械の製造には向いていたんだろうが
交通に関しては鉄道が通るまではド田舎じゃね?
0041人間七七四年
2019/03/24(日) 01:10:23.69ID:DTppBaiM北部は淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24m、
中央部の天王寺交差点付近で16m、帝塚山付近で14mの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6m
0042人間七七四年
2019/03/24(日) 01:14:46.70ID:K9rE6wVy京極とか六角とか浅井、朝倉などが湖畔に居た時はさほどはポテンシャルが生かされず
織田家が占有して一気に経済力が高騰したんだよな
元から大津、草津などは栄えてたけど湖畔全体を底上げしたでしょ
0043人間七七四年
2019/03/24(日) 01:29:37.91ID:DTppBaiM上町台地(大阪) 標高2〜38m
琵琶湖 湖面標高84m
甲府盆地 標高300m
諏訪地域 標高760m
0044人間七七四年
2019/03/24(日) 01:38:46.93ID:M/DW+yAs六角は全盛期の三好とやりあうぐらいの勢力だったんだが。
あと近江京極氏の全盛期は応仁の乱ぐらいまで。
0045人間七七四年
2019/03/24(日) 01:43:45.27ID:DTppBaiM急になって遡れない
川を遡る時はなるべく小舟にして曳き子と呼ばれる者を
舟の両側に付けて数日かけて人力で引き上げていかなければならない
海運水運の利点は陸上から攻撃されずに荷を運べること
毛利水軍が本願寺に兵糧を運んだようにね
戦国時代の治安の悪い時に荷運ルートが川沿いと限られて
曳き子を斬られたら荷を奪われる水運を誰がやろうか
0046人間七七四年
2019/03/24(日) 01:51:17.02ID:DTppBaiM踏み荒らすということで江戸時代でも藩を跨いで了承を
えなければならなかった
後、曳き子が歩けるように川沿いの道を整備
川底を深くする土木工事もね
曳き子は重労働だったために早死にしてたという話もある
0047人間七七四年
2019/03/24(日) 02:16:06.08ID:VyainpRR今川が重税の津料を課したら誰も利用しなくなって終わり
戦に金がかかる戦国時代に武田がそんなもんに大金掛けて整備するってのが有り得ない
今川が邪魔になるから攻めて奪ったら塩も手に入るし海運もできるようになるからやっぱ河川水運要らないわってなるw
0048人間七七四年
2019/03/24(日) 05:17:22.19ID:Uy8ExLXk駿河整備する間もなく大敗した長篠
糸冬
0049人間七七四年
2019/03/24(日) 07:58:46.15ID:gxPMBUA3単に自分が「こうだったらいいのになぁ」と言う願望をしつこく言ってるだけで
それが出来てたら、江戸時代でやってるっての
0050人間七七四年
2019/03/24(日) 08:24:28.74ID:K9rE6wVyなんとなくそうは思いにくい。商業の中心地も甲府になるだろうか、相当微妙だと思う
0051人間七七四年
2019/03/24(日) 09:01:20.87ID:VyainpRR兵糧不足にならないために征伐兵は精鋭に絞れと陣触れして山への物資輸送は困難と判断している
それを山への輸送もしたことがない現代っ子が ぼくがかんがえたさいきょうのすいうん と言ってるだけだしな
0052人間七七四年
2019/03/24(日) 09:21:12.79ID:oXl/GzC10053人間七七四年
2019/03/24(日) 10:14:29.62ID:1f5lcefj0054人間七七四年
2019/03/24(日) 10:31:57.30ID:CreOYu8l長篠の決断は経済は無関係。
あれは明らかに勝頼に責任がある。
開戦前に出した手紙からして思い上がりも激しいし。
0055人間七七四年
2019/03/24(日) 10:56:51.77ID:1f5lcefjあそこまで自信満々な手紙書いてる以上は
軍議で四天王が猛反対したとかそういうイメージがわかないんだよねぇ
四天王は「敵の罠だと言い張ってて」勝頼は「敵は手立てを失ってる」って判断したわけでしょ?
さすがにあの時期なら四天王や親類衆が反対すれば勝頼に突撃命じる権限はない
0056人間七七四年
2019/03/24(日) 11:05:25.30ID:1f5lcefjhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190321-00000003-kts-l46
バイクは燃料タンクくらいしか傷ついてないように見える
0057人間七七四年
2019/03/24(日) 11:22:26.23ID:VyainpRR0058人間七七四年
2019/03/24(日) 12:20:53.94ID:ZZV0o/mq本国を留守にしてる状態で、負けるかも逃げるかもなんて手紙書けるか?
0059人間七七四年
2019/03/24(日) 12:38:20.12ID:at4lJaI10060人間七七四年
2019/03/24(日) 12:50:05.12ID:41OIvOzWこういう反論ってブーメランだよな
勝頼はむしろ反対だったが軍議の雰囲気がイケイケで
「今更俺が止めようなんて言えない」って事実があったとも考えられるんだよなぁ
でも手紙にはそんなこと書けない
0061人間七七四年
2019/03/24(日) 13:20:34.80ID:ekn7UAHh0062人間七七四年
2019/03/24(日) 13:25:31.76ID:QwIWFTUX家臣との軋轢があったとかって勝頼や武田家に対するフォローな気がする
特に問題ないけど長篠の戦いでは大敗しました、というよりは勝頼が家中を
まとめるためにあせっていたとか、古くからの家臣団はわかっていたと書けば
まだ頑張り次第で何とかなった感がだせる
0063人間七七四年
2019/03/24(日) 13:35:42.44ID:rThLYE3I0064人間七七四年
2019/03/24(日) 13:54:04.68ID:VyainpRR敵は手立てを失ってるからこちらから乗り込んでやるという書状通りの行動をしたからな
むしろ勝頼の意思だろうな
0065人間七七四年
2019/03/24(日) 14:10:38.72ID:CreOYu8l勝頼らは何を思って勝てると考えたんだろうか?
0066人間七七四年
2019/03/24(日) 14:22:17.85ID:VyainpRR信長公記=長篠城にはすぐに行かずに設楽原の窪地に兵を潜ませて少数に見せた
勝頼の書状=敵は手立てを失い行き詰まって縮こまってる有り様だからこちらから乗り込んでやる
策にかけた者と策にかかった者でお互い合致している
0067人間七七四年
2019/03/24(日) 16:41:47.88ID:LqbVV2lfこれから逆転しようと思ったら並大抵の戦術じゃ無理
資料は見つかってないがなんらかの勝てる奇策が勝頼にはあったんじゃないだろうな
0068人間七七四年
2019/03/24(日) 16:46:25.08ID:oPeD6QuIあのまま進出しなければどうしたんだろうな
最終的に長篠城が落城寸前になれば動くしかないよね?
0069人間七七四年
2019/03/24(日) 17:21:15.03ID:k6Cz3nB9ノブはリアリスト
武田が策に乗って来なければ長篠を見捨てるだけ
家康は泣いて縋りつくかもしれんが
0070人間七七四年
2019/03/24(日) 18:01:53.81ID:DTppBaiM陣城に突撃し続けたのは川中島で啄木鳥戦法破られたのを
織田にやろうとしたんじゃないかって話は過去スレにあったね
0071人間七七四年
2019/03/24(日) 18:50:23.26ID:k6Cz3nB9織田の正確な兵数も把握できていなかった
謙信は武田の兵力と動きを正確に把握できていたからあんな離れ業ができた
要するに信玄期から武田の防諜はユルユルで情報駄々洩れだった
0072人間七七四年
2019/03/24(日) 19:01:59.95ID:QwIWFTUXwikiで見ただけなんで細かい日程は確かではないけど、前年の高天神城攻めと
長篠城攻めの時期は5月上旬と同じくらいの時期。んで織田領から東海道ルートで
移動した場合の距離は大体同じくらい
高天神の時は6/17に吉田城にようやく着いたのに対し、長篠では5/18に設楽が原に
着いてる。だから武田から見ると、長篠の時は相当早く援軍に来たことになるので、
兵数はしれてる(しかも防御柵を立ててる)と考えた可能性がある
んでほっとけば後から援軍が追加されるだろうから、先手を取って攻めたんじゃ
ないかと思う
0073人間七七四年
2019/03/24(日) 19:09:21.39ID:k6Cz3nB9292 人間七七四年 sage ▼ 2019/01/15(火) 20:39:44.88 ID:tEMVUZbH [2回目]
>>261
勝頼 『くっ、織田の援軍が来てしまったか・・・ん?思ったより兵が少ないな・・・』
馬場 『信長殿は自ら先陣を切る事を好むとの事。黒衣衆のみ引き連れて来たのでは』
内藤 『なれば主力は何らかの手違いで遅れておるのやも知れませぬな』
山県 『勝頼殿!これは信長殿を討ち取る好機ですぞ!!』
勝頼 『うむ!御旗盾無し御照覧あれ!!』
0074人間七七四年
2019/03/24(日) 19:12:13.81ID:QwIWFTUX援軍の出発時期に差が出ていた
まあこれは武田側が詳しく知り得る情報ではないけど、何度も徳川領を攻めるなら
織田側も事前に準備をするだろうし、長島一揆がその間に滅んでいるので抑えに
回していた兵力も出せるし、警戒すべき勢力もないので素早く進軍できると
考えると、武田側の見込みが甘かったんじゃないかと思う
0075人間七七四年
2019/03/24(日) 19:21:32.88ID:VyainpRR兵糧の準備から必要ないし、援軍に間に合わなかった対策を講じて早く出陣できたってことだな
野戦築城もあまりにも早く出来てるから木材も事前に用意してたんだろう
0076人間七七四年
2019/03/24(日) 19:34:19.12ID:rThLYE3I0077人間七七四年
2019/03/24(日) 20:10:14.45ID:K9rE6wVy鬼畜島を見習おう
0078人間七七四年
2019/03/24(日) 20:10:47.68ID:K9rE6wVy0080人間七七四年
2019/03/24(日) 23:18:10.21ID:zHVJKG3k一枚岩で無かったのはあり得ると思うけどね
家督相続の段階で血判起請文を提出させたり
あと重臣つっても一括りには出来ず、山県や内藤らの譜代家老は勝頼に意見できたのか微妙だし、逆に穴山辺りは一門衆として破格の扱いだったことから発言力は強かったのではないかな
0081人間七七四年
2019/03/25(月) 01:16:56.35ID:tE6VZUqr長篠敗北の理由は勝頼のせいになってないと思う
その後に死んだ奴らに罪押し付けて
だから勝頼の突撃強要説とかああいうの真に受けない方が良いと思う
0082人間七七四年
2019/03/25(月) 07:28:20.74ID:F+R3GqN9北条との手切れを批判する内容はたまに目に付くが
長篠の件について言及してるものは見当たらないからな
つまり武田家内では長篠での勝頼の判断は真っ当と思われていたって事
0083人間七七四年
2019/03/25(月) 09:05:46.60ID:6sKCNRYZ1572年生まれなんだな
こいつは甲陽軍鑑の原作者ではないとされるが実際はどうなんだろうな
高坂が本当に執筆したのか
0084人間七七四年
2019/03/25(月) 09:20:41.94ID:5xiP2nTa高坂は途中の1578年に死んで、その甥が引き継いだ。1582年に高坂の息子は殺されてるので、その間にどうなったのかは不明。
0085人間七七四年
2019/03/25(月) 09:30:47.91ID:+/r3HaKz最初は破竹の勢いで進撃してたけど一度大打撃食らったら
二度と攻勢に出れずに終了
ワンセットしかない主力すり潰したら終わり
0086人間七七四年
2019/03/25(月) 09:50:21.59ID:5xiP2nTaかつて信玄が今川、諏訪、上杉と外交でコケにしてきたけど、このときはまさに武田が織田にコケにされてるんだよな。
0087人間七七四年
2019/03/25(月) 09:52:55.94ID:+/r3HaKz上杉謙信死んだらもう和睦のチャンスはない
かと言ってこの時点で和睦したら謙信が川中島に出てくる
勝頼は織田の援軍来ないと確実に負けるw
0088人間七七四年
2019/03/25(月) 10:17:46.52ID:9C+bCYKE勝頼が半ば独断かつ強引に「御旗盾無し」の誓いをやったからだと思う
これをやられるともう家臣たちは反論なんてできない
信玄以来そういう習わしだから
御旗盾無しの誓いをやるとどんな理由があろうと主従が最後までその誓い通り行動しなきゃならない
勝頼はそれを勝手に家臣たちに通告もなく一人で「織田軍に突撃をかけると御旗盾無しの前で誓って来た」と言ったに違いない
だから家臣たちは勝頼がそこまで言うなら仕方ないと、最期まで付き合ってやっただけ
そしたら案の定くっそみそのボロ負けになっただけ
0089人間七七四年
2019/03/25(月) 10:33:34.04ID:5xiP2nTa0090人間七七四年
2019/03/25(月) 10:35:27.34ID:9C+bCYKEそれまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、
それ以上の議論は止めなければならなかったのです。
「御旗・楯無」は共に武田家の家宝であり、絶対に従わなくてはならない最も神聖なものでありました。
御旗(みはた)というのは新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」であり、
源氏の直系を示す旗であり、「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことであり、
「この鎧に勝る楯無し」がその語源です。
実は、長篠の戦いの前夜、武田軍側は「引くべきか、攻めるべきか」で議論が紛糾した。
長老達は「引くべき」と主張し、若手は「攻めるべき」と主張し意見が分かれまとまらなかったのです。
このため、勝頼が「御旗・楯無も御照覧あれ、明日は戦いで勝負をつけよう!」というと、その瞬間、
その場にいたすべての人は議論を止め、戦が始まったと伝えらています。
その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構えの鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。
途中から体制を立て直し、作戦を変えることも出来たでしょうに、勝てぬ戦と知りながらも引くことは許されなかったのでしょう。
この結果天下無敵と言われた武田の騎馬隊もほぼ全滅してしまったのです。
この時武田軍が勝っていればそれから先の歴史は大きく変わっていたのは確かだと思います。
0091人間七七四年
2019/03/25(月) 10:39:48.41ID:9C+bCYKE「御旗、盾無し御照覧あれ」
と棟梁が宣言した場合、家臣はそれに反論することは許されないというのが武田家のしきたりだったから
この言葉は、会議で決定したことを宣言する場合に使われていたと同時に
反対する家臣に対抗できる、棟梁としての言ってみれば唯一最後の特権的手段だと言えると思う
0092人間七七四年
2019/03/25(月) 12:20:27.44ID:XEoj33RZこの時点でもうねw
0093人間七七四年
2019/03/25(月) 12:33:17.84ID:5xiP2nTa0094人間七七四年
2019/03/25(月) 12:39:14.35ID:9C+bCYKE間違いなく、突撃に対する強い反対意見もあったってことは想像できるし
その反対意見を逆に突撃賛成意見も強くて、勝頼自身も突撃したかったから
反対意見を抑え込むために、伝家の宝刀「御旗盾無し」の宣誓をしたんだと思う
0098人間七七四年
2019/03/25(月) 13:33:50.29ID:9C+bCYKE御旗盾無しの誓いをやったのは確かでしょ
0099人間七七四年
2019/03/25(月) 13:43:39.63ID:OQwUwsO4条件も何も、話を聞く以前に門前払いだったから無理だろう
使者をずっと安土に留め置かれたそうだし
上杉にも同様の対応をしている
信長の書状でも「詫び言」という言葉を使っているから、その時点では和睦という形は不可能だと思う
0100人間七七四年
2019/03/25(月) 13:45:10.56ID:OQwUwsO4やってない
というか一次史料にないから確証がない
0101人間七七四年
2019/03/25(月) 13:47:13.84ID:WlQmgUiy長篠の時も当然やったとみるのは自然
0103人間七七四年
2019/03/25(月) 14:19:49.84ID:ZTsncnZT甲乱記の話かな?
確かあれには北条との手切れを批判してたよ。
0105人間七七四年
2019/03/25(月) 19:04:45.34ID:fl+fJSc2長篠の大敗後から甲州征伐までに大半の家臣の忠誠が落ちていった
勝頼の政策が悪かったんだろうね
0106人間七七四年
2019/03/25(月) 19:08:52.41ID:6sKCNRYZ0107人間七七四年
2019/03/25(月) 19:49:44.82ID:lrB358JQ0108人間七七四年
2019/03/25(月) 20:19:54.26ID:4ocXCcSP財政的にかなりひっ迫してた
そういう意味では信玄が最後の遠征で尾張まで進出して
水運等の利権を奪取するという考えは正しかったと思う
ただそれも失敗したのに武田軍は大規模遠征を止めず
長篠の大敗北後は鉄砲装備率の向上等で税金が増え続ける
しかも北条と敵対し徳川からは常に侵攻され一年中戦争してる状態で財政は火の車
最後は甲州征伐で民が離反し滅亡
0109人間七七四年
2019/03/25(月) 20:40:07.53ID:9sLzplIbそれなら既定路線の通り越後に侵攻する方がはるかにマシだと思うけど
0110人間七七四年
2019/03/25(月) 21:16:27.06ID:9C+bCYKEそこは分からいが、まあ強欲信玄のことだからねぇ
駿河欲しがったのも水運や金山目当てもあっただろうし
あの時、体の不調を押してまで織田に喧嘩を仕掛けたわけだから
三方ヶ原で徳川を叩いた後だっただけに、あのまま体調に変化が無ければ
尾張ぐらいまでは手中に入れたかったんではないかと思うけど
兵站がね・・・
0111人間七七四年
2019/03/25(月) 23:30:54.93ID:F+R3GqN9大体、二俣落としても三方ヶ原で完勝しても
三河遠江の国人達はほとんど武田に靡かなかったじゃないかwww
武田に従わない勢力を片っ端から叩き潰して尾張まで行くつもりかい?
何年かかるんだろうね
武田に矢作川は渡れないよ
0112人間七七四年
2019/03/26(火) 01:02:17.50ID:5sVqaU1w家臣が裏切るのにも理由がいる。なかったら小山田みたいに不忠義で殺される
大敗したから裏切りるじゃ、次の就職の面接で信用されないで落とされる。
大名の方が家臣を見捨てて裏切ったのなら、こんな奴には付いていけないという理由が出来る
つまり、高天神城を見捨てたことは、家臣に裏切る口実を与えてしまった
0113人間七七四年
2019/03/26(火) 08:05:31.58ID:Hs38GgMC5人でやっと回る仕事を2人でやれとか言って、従業員からめっちゃ恨まれてるからな
あんなもん2人で回る仕事じゃないってーの
マジで応援欲しい時に絶対に人を入れない
その理由がコスト削減すれば「自分の評価と出世に繋がるから」だからな
それで従業員が一斉に辞めていったわ
勝頼もそういう部下の苦しい状況が分からなかったんだろうな
しかも高天神見捨てた理由が信長との和睦したいがために顔色を窺ってのものだからな
自分勝手な理由にも程があるわ
そりゃ部下から見限られて当然だってーの
0114人間七七四年
2019/03/26(火) 08:50:06.54ID:x8/Qa2ix信玄は諏訪、高遠、長尾、足利、今川、北条、徳川、そして織田と、相手を常に虚仮にするような外交を展開しまくっていたから。勝頼の時代に織田に虚仮にされたってわけだ。
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