トップページsengoku
1002コメント514KB

関ヶ原合戦の真実 Part9

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください

前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/
0622人間七七四年2019/03/08(金) 22:52:02.22ID:iqUgDsQ4
いきり直江、即徳川の犬
0623人間七七四年2019/03/09(土) 05:20:54.75ID:+jk6i/6z
>>621
まあ、上杉家の家臣として御家大事を最優先で考えたのなら
直江のその態度はアリといえばアリだろう
その為だったら、自分の名誉や直江家の行く末なんかどうでもいいとは思ってるようだし
0624人間七七四年2019/03/09(土) 05:38:22.07ID:ffK73Yku
>>615
情報収集力も低そうな感じだしなぁ
0625人間七七四年2019/03/09(土) 06:14:43.12ID:9bhOey2+
イキリバカの典型だよなあ直江
景勝さしおいてでしゃばりすぎだし関ヶ原後に腹切るぐらいすべきアホ
0626人間七七四年2019/03/09(土) 06:28:39.36ID:QjkvWEuM
兼続さんはあの兜こそが売りなんだよ!
0627人間七七四年2019/03/09(土) 12:10:04.80ID:uWwwHpA9
実際あの兜の前立てがなかったらここまで知名度持てたかと思うと
やっぱキャッチーなビジュアルって大事だよね
0628人間七七四年2019/03/09(土) 20:05:44.03ID:le7X5X+k
直江兼続って内政はまぁ良いとして軍事と外交が駄目過ぎる。小早川隆景や鍋島直茂や堀直政らの陪臣と比べると凄く劣る。
0629人間七七四年2019/03/09(土) 21:00:25.14ID:HRhYd+VS
結局愛宕を売りにしてただけのありがちな男だったよな直江
0630人間七七四年2019/03/09(土) 22:05:29.61ID:oyPNVcbe
直江状が三成と結託して書いた物だとしたらなかなかの策士だと思うがな
0631人間七七四年2019/03/09(土) 22:08:11.56ID:9UBTDwnj
>>630
創作だぞ
0632人間七七四年2019/03/09(土) 22:21:30.12ID:uWwwHpA9
あれは徳川が上杉討伐のために畿内を空けたのを利用して西軍首脳が勝手に巻き込んだだけよ
上杉もびっくりしたろうね

なんかこの構図、朝倉討伐中の織田の背中狙って勝手に朝倉巻き込んだ浅井と一緒
0633人間七七四年2019/03/09(土) 23:30:08.31ID:xkY2HX4m
関ヶ原もとい山中の話をしようか
0634人間七七四年2019/03/09(土) 23:53:12.52ID:auFCP9I5
>630
直江状の真贋は別としても西軍も上杉もボロ負けなのに策士も何も…
0635人間七七四年2019/03/10(日) 10:41:59.06ID:UwMMaVTo
八月四日 直江兼續書狀寫

追而其方越後へこし候事無用に候、可越由申遣用所相調尤候、書狀披見上方へ之飛脚申付候由尤候事、以上

一 越後一揆之儀者度々如申付候、あか北には先々手を不付、あか○春日山山の方へ成次第おこし候やうに可申付候、

  久太郎も上方○之御ふれ狀によつて此方次第と存軆ときこへ申候、咒哉溝口、村上事は勿論候、侍之筋目公儀に候条、

  兩人領分は先々取除候、其外は成次第可申付候事、

一 方々聞合、御備も今月廿日時分まて尤かんよふに存候条、先々一揆等にふかく人數を遣候事無用に候、太軆さへすみ候へは、

  成事にて候条、其心得專一候、此方之儀、最上、正宗討果候事、輒候へ共、内府之手成しられす候まま、

  手をみきりこらへ候指向候、一大事尤つつしみかんよふに候、越後之一揆成次第と可存候、爲其申遣候、謹言

   八月四日    兼續(花押)

     山田喜右衞門尉殿
0636人間七七四年2019/03/10(日) 10:42:31.89ID:UwMMaVTo
八月五日 直江兼續書狀寫

追而爰元之儀今少見合可罷移候、御歸は今月中相極候条、各御相談、萬事不可有御油斷候、下々齋幷先方衆へも傳言申度候、以上

御狀披見、白川表より日々注進、内府いまた小山在陣之由申候条、其元無御油斷御仕置專一候、簗川之御加勢入置候、珎儀者可申述候、

次に佐竹より使者、昨日罷越候、從義宣如御斷者、今度上方之儀に付而、内府より證人こわれ候得共、不通に申きり候条、

定而手切可有之候、左樣に候はは、御加勢申請度との事に候条、ふかくふかく請申て、使者かへし申候、可御心安候、

又御奉行中諸國へ被遣候ヶ条書狀之寫進之候、猶自是可申入候、恐々謹言

                      直山
   八月五日                兼續

   岩備州
      御報
0637人間七七四年2019/03/10(日) 10:43:18.03ID:UwMMaVTo
八月十二日 直江兼續書狀寫
     
追而勢三方所勞之由、無心元存候、無油斷御養生專一に候、以上

御便札本望至極存候、白川表彌無事之由、珎重存候、其許御在陣衆以御相談、御普請等可被仰付之段、乍御太儀可然御事に候、

宮中より珎敷到來次第、可預御狀候、將又此方無相換義、白石表之儀、郡近邊へ打出候人數、一昨々何も引除候に而付、百姓等先以還往申候、

上方之樣子、正宗も聞屆候故と存候、又最上口之儀も南部仙北衆上説を聞候て引払之故、最上無正軆取亂候由申來候、油利は庄内一味仕候、

小野寺殿も同前に候、越後之儀、村、溝無別条と計に而も不相濟候条、四五日已前、堀兵殿を遣申候、定而可相濟候、自然停候はは、

仕やう共有之事候、可御心安候、一兩日中に佐竹より使者之由申來候、自然若松へ參候はは、御左右可申入候、恐々謹言、

                      直山
   八月十二日             兼續

   岩備殿
      御返事 
0638人間七七四年2019/03/10(日) 10:43:54.62ID:UwMMaVTo
九月三日 直江兼續条書寫

  覺

一 奧口御無事之儀、兩使御相談にて可被相濟候、連々如御申候、御不足之儀候共天下江御奉公と思召、白石なとの事に無御構、
  
  公儀さへ能候はは御調尤候、

一 關東御出馬之砌、政宗御同陣被申上候歟、不然は家老五三人も相濟、人數五千も三千も被相立候而、萬一御弓矢御むつかしき事出來候とも、

  關東御靜謐中別心無之樣、御堅め第一に候事、

一 最上之儀は政宗同前に付、延々見合候と聞得申條引詰承屆候て、手堅相濟候者、最上存分之儀可相調、自然不相濟存に而、

  日を送軆に候はは、外聞も不可然候條、一動可申付、左樣に候はは、若政宗より手切に申來候共、推返し使者を被遣、

  先々無事御つつけ可然候、其内に自米沢御左右可申入候事、

一 此中御意候、簗川城とりかへられ候儀、當城と白石之つなきにも相成、又は簗川のかはりにも可相成、地形御覽しつもり、

  政宗無事可相濟休に申來候はは、急御普請に御取次可然候、左樣に候はは栗刑も可被相招候事、付城引つめられ二三百にて可相抱御分別專一候、

一 自此口奧口筋御出勢は、最上手成次第と存候、彼表の樣子追而可申述候事、

   以上


                      直山
   九月三日               兼續

   本庄越州樣
      參人々御中
0639人間七七四年2019/03/10(日) 10:44:30.62ID:UwMMaVTo
九月四日  直江兼續書狀

御狀披見、仍昨日爰元迄罷越候、最上表先度可相働處、少々懇望之儀候条、延引候、二三日中に相濟可申候、可御心安候、正宗も右同然に候、縱働成候共、人數無不足候、

上方之儀、所々城落之由、心地よき義候、猶重而可申入候、恐々謹言


                      直山
   九月四日                兼續(花押)

   甘備
     御報
0640人間七七四年2019/03/10(日) 10:45:08.37ID:UwMMaVTo
九月八日  直江兼續書狀寫

追而、佐竹へ被遣候返礼、披見仕候、關東の儀、無相替儀候、以上、

御書拜見、仍而此表之儀、度々申上候最上付延々仕不相濟候、明日當地罷立、相動可申由存、先衆は今日より遣申候、人數も相調候条、

御心易可被思召候、敵地へ討入候事者、十二三之時分たる可、其内追々注進可申上候、此等之段可然樣に御披露、恐々謹言、

                     山城守
   九月八日 亥刻           兼續
         助次郎殿
0641人間七七四年2019/03/10(日) 10:46:31.18ID:UwMMaVTo
九月二十一日  直江兼續書狀寫

追而直に可申上候へ共、無 御心元可被思召候条、貴所御心得之樣になされ尤候、爰元之儀は、可御心安候、以上、

幸便之条申入候、仍而只今白川より申來候は、上方散々に罷成候由相聞得申候、左樣に候へは、關東口は心安罷成候条、

但馬守米沢へ被指越、自然正宗白石おもてか米沢邊へ相動候時分、いつかたへ成共懸助候樣に被仰上尤候、當表儀、隨分申付候条、

見合候て、御直馬之御左右申上候儀も可有之候、内々其御用意專一候、大切之儀に候条、うらかたなとも御させ候て内々御心持候へく候、

自然此口へ加勢か、又正宗罷出候はは、兩國共に相濟候樣に支度候、とかく此方之儀は急度申付候条、御氣遣有之ましく候、恐々謹言、

                      直山
   九月廿一日              兼續(花押)

   安上樣
      參人々御中
0642人間七七四年2019/03/10(日) 10:47:20.44ID:UwMMaVTo
十月四日  直江兼續書狀

追而今度不慮出來仕候樣子、具易だ申上候、とかく已來は御吉事とそんする事に御さ候、以上、

御書拜見、仍而今度之無仕合、中々迷惑仕候、半途に在陣、可致言上由存候へ共、庄内境目へ相動候故、彼庄仕置、又彼是有進處、

昨日當地荒戸まで打入申候、於此地、領中仕置申付、重而可致言上候、仙道表御仕置彼是に付而、安田上総介、今日相立可申候、

御人數もそんし申さす候、ひたち少手負申候、くるしからす候条、御心安可被思召候由、御披露候、恐々謹言、

                     山城守
   十月四日               兼續(花押)
   助次郎殿
0643人間七七四年2019/03/10(日) 10:49:02.25ID:UwMMaVTo
最上の事は完全になめている感じだし、伊達にに関しては読みは甘いし
家康の動きはつかめていないような感じだね
0644人間七七四年2019/03/10(日) 11:54:58.62ID:M4Mznzkh
関東をろくに攻め切れてもいないのに強気だな
まあ弱気というわけにもいかないだろうが。
0645人間七七四年2019/03/10(日) 13:15:26.48ID:g1a2Ebk/
そもそも堀と上杉の対立ってそんなに緊迫してたのかね?
家康が上杉の討伐に出た理由ってどこまでこじつけでどこまで真実味があるのか。
0646人間七七四年2019/03/10(日) 13:28:11.11ID:y1VLlYsi
筆頭大老が大名から訴えを受けて、勧告した上で、その勧告を拒絶された状況だからなぁ
0647人間七七四年2019/03/10(日) 13:57:40.83ID:ddC+SuOR
>>645
朝日軍道は秘密裏に建設しようとしてたから危ない橋を渡っている感覚はあったと思うよ
戦国大名の感覚で領国を整備したつもりなんだろうけど
豊臣政権下だとその感覚が問題ということになりかねない
揉め事は戦争ではなく豊臣政権を通じて解決する事になってるから
加えて告発者の中に元家臣がいる以上言いがかりとして追求を逃れるのは難しいんじゃないか
0648人間七七四年2019/03/10(日) 15:37:26.72ID:mFqkJemk
7月27日付上泉主水他宛直江兼続書状でも
家康が岩槻から引き返したと情報が入っているが実儀ではないだろう
と言ってるし実際動きは全く把握できてなかったんだろうな
0649人間七七四年2019/03/10(日) 16:01:46.11ID:qx45RaNj
この辺の情報戦は全て家康の手のひらの上
0650人間七七四年2019/03/10(日) 23:57:04.04ID:Z4zoUI9r
石田三成は笹尾山に陣を敷いてはいなかったというのはマ?
0651人間七七四年2019/03/11(月) 02:04:31.06ID:nScw1ZTo
諸説あるって感じ
いわゆる通説は、関ヶ原の50年後に小浜藩主がまとめた
関ヶ原合戦始末記が元なんだな

それに対して、同時代の人の書状や覚書を活用して異説を唱える人が出てきてる
まだ決着はついてない
0652人間七七四年2019/03/11(月) 07:43:46.29ID:KCPaiuUs
主戦場山中(やまなか)説
0653人間七七四年2019/03/11(月) 18:48:57.80ID:9E+X+vH6
通説の戦域は、合戦の翌年に成立した『内府公軍記』にはもうある
0654人間七七四年2019/03/11(月) 19:06:58.66ID:rW6/n506
>>653
翌年じゃないな。少なくとも数年後。
0655人間七七四年2019/03/11(月) 19:14:30.12ID:dh2bLYtd
本来は関ヶ原にいなかった鍋島とかが西軍にいるし、あまり当てにはならない様な気がするかな
吉継が馬上で死んだっていうのは他で見たことないと思ったので気になるけど
0656人間七七四年2019/03/11(月) 20:56:49.95ID:9E+X+vH6
>>654
いや、『言経卿記』に慶長六年十二月七日に太田牛一の関ヶ原合戦に関する本ができたとある
0657人間七七四年2019/03/11(月) 20:59:04.77ID:9E+X+vH6
>>655
その辺は後年の版で修正されている
なればこそ、最初期のが慌てて執筆されたことが伺える

恐らく、牛一が家康に売り込もうとしたのだろう
0658人間七七四年2019/03/11(月) 21:33:33.77ID:9XxNTQhv
>>655
牛一の頃だとやっぱり大谷吉継は輿ではなく、馬に乗れるくらいの健康状態って認識だったのかな
まあ今だと癩病じゃなく眼病だったみたいだった話になっているようだけど
0659人間七七四年2019/03/12(火) 07:04:31.74ID:I31RLVHC
関ヶ原合戦はなかった説だと、すごく小さな戦いだったことになってるけど、
それじゃあそのあとの急激な西軍方のあきらめがわかんない
大合戦だったからこそ西軍方は諦めたわけで
宇喜多秀家が負けたぐらいじゃ降参にはならないでしょ
0660人間七七四年2019/03/12(火) 10:06:59.07ID:/NIbFMY1
ツイッターやネットでテクノロジー犯罪と検索して、まじでやばいことを四代目澄田会の幹部がやってる
被害者に対して暴力団以外にタゲそらしをしてるがやってるのは暴力団で普段外に出ることが少ないため遊びで公共の電波と同じような電波を使って殺人をしてる
統失はほとんどが作られた病気で実際は電波によって音声送信や思考盗聴ができることが最近明らかになりつつある
警察や病院では病気としてマニュアル化されてしまっているのが現状で被害者は泣き寝入りしてる
被害者がリアルタイムで多い現状を知って、被害者間でしか本当の事だと認知できていない
実際にできると思われていない事だから、ただの幻聴ではない実際に頭の中で会話ができる
できないことだと思われているからこそ真面目に被害を訴えてる
海外でも周知されつつあることを知ってほしい。
このままだとどんどん被害が広がる一方


#テクノロジー犯罪
#四代目澄田会

[参考]
https://black.ap.teacup.com/yamisiougn01/6.html
https://tekunoroji-hanzaihigai.jimdo.com
https://blogs.yahoo.co.jp/patentcom 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63)
0661人間七七四年2019/03/12(火) 11:22:53.58ID:dhtldici
×関ヶ原合戦はなかった
○関ヶ原合戦は「決戦」ではなかった
0662人間七七四年2019/03/12(火) 12:05:01.00ID:uiub4aMo
>>659
数えかたによるけど、50000から80000くらいの戦力が
一日で敗退、降服、寝返りによって無力化してるわけで、
影響甚大でしょ

戦いがいわゆる堂々とした野戦でなく追撃戦で決まったというだけで。
0663人間七七四年2019/03/12(火) 14:06:27.68ID:6Xq6K9Ck
決戦ってそもそも両者がこの場所で何月何日に一大会戦だ!と意気込んで戦うことよりも
片方が完璧に相手の術中にはまったり、認識不足の結果意図せず大勢力と戦う羽目になることのが多いんじゃないですかね

戦争ってあくまで目的じゃなく手段ですから、大勢力同士ぶつかったら勝った方も損傷大きいこと多いですし、負けたら立ち直れなくなりそうですから双方基本は避けたいものでしょう
0664人間七七四年2019/03/12(火) 16:13:34.26ID:Ujh/XC4P
史料を読んだ感じ松尾山を攻めようと陣を構えていたところに、東軍が予期せず攻めて来たみたいな印象を受けるけど、どうなんだろう
さすがに物見くらい出していたとは思うが
0665人間七七四年2019/03/12(火) 16:26:30.49ID:hZ23KI5z
>>664
包囲されている大垣城から出てきたんだから、捕捉される可能性は頭に入れていたとは思うんだけどねえ
0666人間七七四年2019/03/12(火) 16:52:42.17ID:cNCWFc+L
>>665
南宮山の毛利勢が既に東軍へ降伏していることを知らないからね
0667人間七七四年2019/03/12(火) 16:54:09.28ID:OoK26zj0
捕捉される可能性があるから先に空堀掘ってあった関ヶ原でいったん陣敷いて
東軍が迷わず死地に飛び込んできたから案の定捕捉されて決戦って流れでしょ
0668人間七七四年2019/03/13(水) 08:06:18.60ID:fx5GOUg6
吉川広家の寝返りを信じて関ケ原に向かった家康の度胸はすごいな
たとえ騙されても秀忠の軍と合流して一合戦する余裕はあるのか。。。
0669人間七七四年2019/03/13(水) 08:39:57.32ID:hSq1tRw6
なんだかんだで東軍先鋒の半分は南宮山監視に回っていたし
0670人間七七四年2019/03/13(水) 09:11:02.76ID:mcR1arwv
要は関ヶ原にいたるまえに雌雄は決していたので、関ヶ原「決戦」ではなかったということか
0671人間七七四年2019/03/13(水) 09:39:50.40ID:FpvjDXFV
勝負は戦う前に決している。
兵法の鑑ですね
0672人間七七四年2019/03/13(水) 11:40:58.47ID:f6TNiTeS
くだらない事言ってないで、
みんなで第六天魔王の歌でも歌おうぜ!
信長疾走曲!
https://www.youtube..../watch?v=r6zvrY5D4GI
0673人間七七四年2019/03/13(水) 11:46:25.18ID:Q1gMHuGR
どちらか一方でも敵を撃滅する目的で戦闘した場合は決戦らしいので
西軍が意図してなかった場合でも、これは決戦らしいですね

単純に軍事用語の定義と一般で認知されてる定義にズレがあるだけのようで
0674人間七七四年2019/03/13(水) 16:43:36.64ID:KWr5DLVJ
>>668
何方かと言うと、関ケ原に陣を敷けば家康は止まるって予想の気もしますよねえ?
あそこは、教科書に書いて有る様な絵に描いてるような死地なんですよねえ?

あそこで、普通に南宮山の毛利が退路寸断してたら普通に東軍惨敗して無いのかな?
幾ら野戦の名人の名声持ちでも、あそこまで見え見えの死地に入って惨敗したら戦死する気が
する。
0675人間七七四年2019/03/13(水) 17:52:57.70ID:GfN41VKT
布陣図自体かなり信ぴょう性低いし
それで裏切っても家康に逃げられたら徳川との絶滅戦争始まるし
単純に領土ひろげたかっただけの毛利からしてもリスクでかすぎでしょ

つーか、徳川もある程度毛利から信頼できる言質取れたから行ってるでしょ
0676人間七七四年2019/03/13(水) 18:05:18.70ID:GfN41VKT
ていうか西軍は二重引きの最中捕捉されて撃滅されてるんだから、毛利が反攻してもこれ幸いと退却して毛利だけが孤立するぞ

一回毛利は東軍素通りさせてる以上西軍にも毛利裏切りはバレてるし
0677人間七七四年2019/03/13(水) 18:42:54.32ID:zSv6m+x3
>>674
毛利軍の前には毛利軍と同等の戦力の東軍先鋒軍右軍が抑えについてる
調略成功した上に保険もばっちりですよ
0678人間七七四年2019/03/13(水) 21:38:43.21ID:l6cwpzHL
吉川広家は伊勢方面でかなり頑張ってるけど
本当に家康派だったのだろうか
0679人間七七四年2019/03/13(水) 21:57:41.50ID:NIrGKal0
黒田長政に早々に内通しているから最初はその気だったけど
思っていたより当初の西軍の勢いが良くて、もしかしてと思い
伊勢方面では頑張ったけど、その後の西軍の為体を見て
やっぱり駄目だなと思い、改めて内通したってところじゃないかな
0680人間七七四年2019/03/13(水) 22:10:36.28ID:zSv6m+x3
広家は最初は東軍と頻繁に音信してたけど伏見城陥落後に西軍が思いのほか順調に勢力広げるとパタッと止めて
岐阜城陥落でまた書状のやり取りせっせと始める分かりやすい行動しとる
0681人間七七四年2019/03/13(水) 23:32:22.43ID:0lJPJ/cP
南宮山の抑えとして
浅野幸長 5000
池田輝政 6500
山内一豊 2600
有馬豊氏 2300

とあるけど池田輝政は家康の娘婿だから分かるけど
浅野幸長の正室が池田輝政の妹だから?
山内一豊は掛川城を明け渡したから?
有馬豊氏は家康の養女を妻としてたから?

この四人の家は幕末まで残ってるから準一門扱いだったのかな?
0682人間七七四年2019/03/13(水) 23:52:42.99ID:ZvDr02Zm
先陣先陣とでしゃばってやかましくいうより、黙って後備えにまわるような者のほうが内府公のウケはよかったのでは、ありますまいか。
ただ、当方聞くところによると、浅野6500、池田4500、山内2000、有馬900と聞いておる…
0683人間七七四年2019/03/14(木) 00:18:55.94ID:pWnnW1mp
>>681
それ全部木曾川の上流渡河組。堀尾もたしか大垣の押さえだっけ?
下流渡河組が今度は先陣を、とか言ったんじゃないかな?
0684人間七七四年2019/03/14(木) 00:45:21.11ID:dsR1v4qb
>>681
東軍先鋒隊が岐阜城を攻めた時に2軍に分かれて進撃したんだが渡河して米野で防衛軍破って岐阜城に迫った部隊がその面子
もう一方の軍は福島黒田藤堂らで竹ヶ鼻城を落としてから岐阜城に到着してる
先鋒隊の2大主力部隊の片方をまんま毛利軍の抑えに当ててるという事
0685人間七七四年2019/03/15(金) 13:38:45.56ID:p5yuS+ky
>>680
吉川家は自家弁護の為の創作、色々頑張っているしね
0686人間七七四年2019/03/15(金) 13:44:30.57ID:YT3JuF3s
長府、清末、徳山と比して、岩国は一段格下扱いをうけているところとかね
0687人間七七四年2019/03/15(金) 21:53:59.53ID:PcydVXCA
創作だったら島津も負けていないと思うが
0688人間七七四年2019/03/15(金) 22:09:53.54ID:wl8DMb7A
張り合われても
0689人間七七四年2019/03/16(土) 12:53:03.32ID:nXNgneTW
>>687
伏見城籠城の約束、夜襲策を拒絶された、終戦直前迄戦せずに退陣、家康本陣目指し敵の真ん中を強行突破、
井伊直政に鉄砲で致命傷を与える、他にも何かありましたっけ?
0690人間七七四年2019/03/16(土) 13:13:45.25ID:YB19u0GI
>>689
充分でしょうが
0691人間七七四年2019/03/16(土) 20:17:43.47ID:fEoBzEZw
なんか調べれば調べるほど金吾を討とうとした刑部が逆にやられたようにしか見えんな
0692人間七七四年2019/03/16(土) 20:27:58.88ID:kCWragNb
筑前中納言の変心を予期していた大刑少は、一隊を差し向けて迎撃し、500メートル押し戻したという説は、今日では違うのですか?
0693人間七七四年2019/03/16(土) 20:39:20.13ID:FMUBpbX4
島津は最初からノリノリで西軍だぞ
三成には恩があるしね
0694人間七七四年2019/03/16(土) 21:38:42.49ID:bh2tImGn
島津、というか主に義弘がノリノリ
義久は本気で中央の事変にかかわる気なかったんじゃねーかな
確かこの頃、義久と義弘での派閥争いが割と激化してたんじゃなかったかしら
0695人間七七四年2019/03/16(土) 21:43:45.34ID:kCWragNb
義久、義弘、忠恒の三頭建てで収拾のつかぬ混乱よ。それもこれも、重臣筆頭伊集院家を不用意に突いたことに、端を発しておる。
0696人間七七四年2019/03/16(土) 21:53:25.90ID:xOTKJ9Yd
>>687
まあ通説を纏めた参謀本部は薩長閥の影響たっぷりと承けているだろうしな
仮に伏見城籠城の件が事実だったとしても、西軍に参加した武将の中で
その命令を受けたのが島津だけだったかどうか怪しいし
0697人間七七四年2019/03/16(土) 22:24:09.32ID:z2EoXx4g
上杉征伐時の西国大名の任務が大坂京守護だから任地として伏見城在番の打診された中に島津が居ても別におかしくないし
返事しないうちにうやむやになった程度の打診されたから何だという話やね
0698人間七七四年2019/03/17(日) 00:12:58.05ID:xP55YhHw
>>679
もしかしてと思いw
0699人間七七四年2019/03/17(日) 01:51:49.66ID:G+IRxVI7
>>691
実際やられたんでしょ
0700人間七七四年2019/03/17(日) 06:43:57.53ID:ln6rmcqI
>>692
>>556 >>557の史料を見ると東軍の先陣と六、七度の合戦に及んでいたところ、小早川が攻めてきて壊滅した感じだし、
一隊を差し向ける余裕なんかなさそうだし、ましてや押し戻すなんて、とても無理そうだけどね
0701人間七七四年2019/03/17(日) 07:36:47.03ID:5R5zlkmX
東軍は大谷を攻めた部隊、宇喜多を攻めた部隊、石田を攻めた部隊の
三隊に分かれて攻撃してきたって事なのかな
0702人間七七四年2019/03/17(日) 16:42:09.34ID:HkrgBsZ6
宇喜多と大谷を攻めた福島藤堂を先鋒とする部隊
石田を攻めた黒田細川を先鋒とする部隊
基本的にはこの2隊やね。この2部隊の間を島津がそこそこ逃げたと。
0703人間七七四年2019/03/17(日) 17:18:05.16ID:1yRdmCJj
最強と自称する薩摩隼人
三河武士と対戦したら戦慄
九州と朝鮮でしか通用しなかった

九州征伐の折豊臣秀吉麾下の堀秀政に弱すぎと言われた薩摩隼人…

イキリの直江兼続
空気読めない石田三成

西軍が東軍に勝ってる所が見当たらない

なんでこんな無謀な戦いを起こしたのか謎すぎる

勝てるかも?と思ったんだろうが…どこで勝てると思ったのか

詳しい人教えて
0704人間七七四年2019/03/17(日) 17:34:53.24ID:PSF2pxTo
薩摩、最強に近い

三河より強いかも

柔軟性はなさそうだが
0705人間七七四年2019/03/17(日) 18:44:05.88ID:z3U4xraD
>>704
>>506によると島津義弘が「三河武士は人に非ず」と書いたそうな
0706人間七七四年2019/03/17(日) 18:53:18.55ID:HkrgBsZ6
島津が強いとか自称やでな九州以外では誰も言ってないという
0707人間七七四年2019/03/17(日) 19:14:06.82ID:PSF2pxTo
>>705
ソースが見たい

家康の旗本が精強だった可能性はある

しかし徳川がそんなに強ければ
義弘を取り逃がすことはなかったはず

それから旗本が三河者なら高齢者になるが
0708人間七七四年2019/03/17(日) 19:16:24.25ID:PSF2pxTo
義弘が自分で薩摩武士が精強だとは言わないんじゃないか

家康が三河武士は精強とは言ってないような

三河武士を継承した豊臣大名って誰?
0709人間七七四年2019/03/17(日) 19:23:52.28ID:0sNASvIb
加藤嘉明とか?
0710人間七七四年2019/03/17(日) 19:49:34.01ID:t0u+LtAB
よしあき隊が精強だったのか?

越後の堀隊が精強という話も聞かない
実際は精強だったかもしれんが
0711人間七七四年2019/03/17(日) 20:31:15.07ID:z3U4xraD
>>707
どんなに強くても義弘だって取り巻きがいるんだし一目散に逃げられたら取り逃がすぞ
0712人間七七四年2019/03/17(日) 20:33:33.75ID:t0u+LtAB
>>711
精強ならば追えばいい

それに80人も逃げてる
0713人間七七四年2019/03/17(日) 20:34:45.96ID:t0u+LtAB
あとは自分が強いと言いたいがために
相手が強いというパターン

相手が弱いならなんでやられたって話になる
0714人間七七四年2019/03/17(日) 20:39:51.79ID:z3U4xraD
>>712
>>517によると本多忠勝が見逃したってさ
資料が見たいね
0715人間七七四年2019/03/17(日) 21:30:14.14ID:1o2D8Dmx
>>714
ソースは出せないが
福島が相手にするなって言ったとも

死兵だし、義弘に対するリスペクトがあったのかなと

徳川の対抗勢力を残すほうが豊臣には有利
0716人間七七四年2019/03/17(日) 22:01:50.96ID:BMiTdDCY
小返しの五本鑓

出典 本藩人物誌

これに徳川家康旗本の事書かれてるよ
0717人間七七四年2019/03/18(月) 01:10:27.16ID:2sjE56YJ
>>713
歴史上では、屡々そのパターンもありますね、最後の勝利者に勝った事が有るのか引き分けに
した事が有れば最強って言われる、パターン。

諸葛亮が名将って言われる理由の殆んどが、後年北伐で司馬懿と睨み合いしてたって事だし。
事実上の晋王朝の始祖と引き分け「兵力差3〜5倍くらい」してたって部分有る。

実際は、あの時点での司馬懿の立場だと下手に諸葛亮に勝つと統一してしまって、逆に危険
ってのが有ると思う。
漢王朝創業の功臣、韓信の運命は当時有名だったでしょうからね。

東魏、趙、燕、斉って黄河以北を韓信が平定したんで高祖が勝利したんだし。
魏が曹叡在世中に統一してれば、司馬懿は多分消されてた。
0718人間七七四年2019/03/18(月) 01:22:44.78ID:fn6QhgvJ
>>717
司馬懿ほどの人物なら勝利してものらりくらりで何とかしそうだけど
0719人間七七四年2019/03/18(月) 02:24:12.61ID:TQNR3nld
薩摩の兵士が国内でやたら強いバーバリアンみたいに表現されるようになったのはどこからなんだろ
木崎原・耳川・沖田畷と、確かに有名な島津の勝ち戦は多いけど上でも言われてる通り、名人久太郎には弱兵扱いされてるようだし
強さと野蛮さの表現として用いられる肝練りと称される火縄銃くるくる回してロシアンルーレットの初出は江戸も後期の甲子夜話らしいし
0720人間七七四年2019/03/18(月) 09:47:16.50ID:uLGDsDAP
鹿児島県史料衆は鹿児島県立図書館のホームページで見られるけど、誰の項目のどの部分に書いてあるのかわからない
0721人間七七四年2019/03/18(月) 09:56:28.50ID:xNto81Yc
関ヶ原に司馬懿がいたらどう動くかな
間違っても西には行かないだろうけど
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています