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関ヶ原合戦の真実 Part9

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0001人間七七四年2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/
0521人間七七四年2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV
歴史にIfは無いけど…大津城攻めの末次元康、小早川秀包、立花宗茂この部隊15000が松尾山に陣取ったらどうなっただろうか。この部隊が主戦派なんだよね。流石にこの部隊が松尾山に布陣してたら南宮山の毛利秀元や吉川広家も動かざるを得ないよね。
逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。
0522人間七七四年2019/02/26(火) 12:43:31.14ID:USBAJKCx
>>518
井伊と本田はイメージあるが
他の二人がようわからん
0523人間七七四年2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV
>>522
酒井忠次と榊原康政

酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。

榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。

自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。
0524人間七七四年2019/02/26(火) 14:02:29.75ID:USBAJKCx
>>523
なるほど

井伊も本多も自分で戦うからすごいね

井伊はやり過ぎだが
0525人間七七四年2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt
松平忠吉「あれ?……俺は?」
0526人間七七四年2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF
あっという間に味方の最前線を駆け抜けた井伊直政、松平忠吉の軍勢は、今日の戦で最強と見られていた島津勢に攻めかかり、静かだった高原盆地は、あっという間に動揺と混乱、修羅の坩堝と化した。
東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。
0527人間七七四年2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dW
>>506
その書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか
0528人間七七四年2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn
>>523
三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな
0529人間七七四年2019/02/26(火) 22:43:44.86ID:DslkMrnF
だからこそ三者は、類い稀な友情で結ばれ、信長48歳、秀吉63歳、彼らから天下平定事業を託された家康は、19歳にして建てた厭離穢土欣求浄土を、59歳にして、関ヶ原に打ち立てのである。
0530人間七七四年2019/02/26(火) 22:48:38.55ID:JQBgtYjO
ということは豊臣にとって代わる気満々で関ヶ原に臨んだってことかな
0531人間七七四年2019/02/26(火) 22:51:45.43ID:JQBgtYjO
ああ
煽るとかそういう意図じゃないんだけど、家康の豊臣を排除した政権運営への意欲って関ヶ原前からだったのか後だったのかなと思って
0532人間七七四年2019/02/26(火) 23:03:08.81ID:2qmGUMyX
とってかわるというよりは
西軍挙兵によって豊臣に公儀性というものが全くないことが証明されて
もう豊臣政権というものを家宰として維持することが不可能という認識にはなったんじゃないかな
とはいえ誰かが公儀をやらなければいけないし、江戸に幕府を開いて直接諸侯の首根っこつかんで抑える形にシフトしたって感じ

誰かが言ってたけど天下人ってむしろみんななりたくない、他人に押し付けて自分は要職ポジション確保してうまい汁すすりたい、でも誰かが天下人やらなきゃいけないっていう貧乏くじの押し付け合いが当時の共通認識であるって考え方も意識した方がいいかも

それはそれとしてちょっと上の方のはロマンに酔いすぎな記述の仕方な気がするなぁ
0533人間七七四年2019/02/26(火) 23:05:01.00ID:HANAgwzp
色々な見方があるだろうが後じゃないかな
関ヶ原が起きなくても秀吉利家亡きあとの家康の豊臣政権での立場は鎌倉幕府の執権、室町幕府での管領相当の立場だし
結果的に関ヶ原で反徳川派が一掃されたことで単独政権の可能性が出てきただけで起きなくても政権の第一人者ではあった
0534人間七七四年2019/02/27(水) 00:17:15.31ID:Pj1w2Wda
家臣を押さえつけられない時点で家としては死に体だからね
形式的には豊臣政権の内紛という構図だけど
豊臣家がどっちにも肩入れしなかった(できなかった)ことにより地位の失墜は免れなくなってしまった
なら何もできない豊臣家より勝った方の徳川家に天下を任せたほうがいいなってことになる
0535人間七七四年2019/02/27(水) 00:30:24.25ID:4oLe2Dje
聚楽第行幸で公認されていた武家関白制の関白・豊臣長者一家を虐殺するのは明確な謀反行為だからね。秀吉秀頼の豊臣に公儀性はないよ。
秀吉の死後は内大臣が最高位の武士なので、仮の公儀を運営する資格を持つ。1601年に関白が、1603年に征夷大将軍が任命されたあとは
公家関白制のもと、将軍の実効支配体制だ。鎌倉室町江戸と続く伝統な流れ。豊臣はあぶくみたいなもんだ
0536人間七七四年2019/02/27(水) 01:36:19.12ID:IoU7MPC3
家康の方は豊臣旗下にはいる前からしっかり組織が固まってたしなあ
0537人間七七四年2019/02/27(水) 05:59:11.95ID:Q5QzTiAT
>>532
一応別の選択肢として、統一政権を完全に無力化して
都合のいい時だけ利用する古ぼけた神輿にするって手はあるがな
要は諸大名が好きに政権運営や領地拡大をする戦国時代に時計の針を戻すって方法だな
つーか、家康はこっちのルートもアリな筈なんだよね
内府違いの条々出された時点で「じゃあ好きにやらせてもらうわ」って選択肢もあったと思う
0538人間七七四年2019/02/27(水) 12:15:25.28ID:Bsm9wVUp
>>527
横からだけど島津家文書だと思う。
違ってたらごめんね。
0539人間七七四年2019/02/27(水) 16:46:14.47ID:1r2PHvdH
>>537
まぁそうなんすよね、動乱の時代カムバックも十分あり得たんですよね
だからまぁ関ケ原って動乱に巻き戻るかどうかに諸侯がノー!と突っぱねたものなんですよね
勿論毛利や上杉は大諸侯で動乱のがうまい汁吸えるから挙兵したんでしょうけど
0540人間七七四年2019/02/27(水) 22:27:03.51ID:KpQV53yb
>>536
別の主君に仕える気はないから官位も感状もいらないとか
他の主君に仕えるくらいなら切腹するとか面倒くさい家臣も居るけどね
0541人間七七四年2019/02/28(木) 01:42:55.64ID:Z2BM86Zf
>>537
まあ、あの時点で自分の領地に引き篭もる選択肢も有る事は有る。
但し、その場合は一度は膨大な討伐軍が来るんじゃ無いの?
0542人間七七四年2019/02/28(木) 07:16:39.58ID:QU7ChQlj
>>540
そんな中石川数正はかなり異質な配下だったんだな
0543人間七七四年2019/02/28(木) 08:32:16.80ID:iYNG1a0i
西三河の領主だけに尾張の影響も受けやすいとか
0544人間七七四年2019/02/28(木) 18:18:23.23ID:N/5zygS1
家康のお祖父ちゃんも父ちゃんも部下にやられた可能性高いし家康自身が三河一向一揆で部下の離反多くて苦労してるのに三河という土地柄だから部下がしっかりしてるってのはないんじゃね
むしろ家康が自力で信用できる部下たちを作った上で、のちのち後世の人たちが三河武士は忠実という風聞を作ったんでしょ
0545人間七七四年2019/02/28(木) 19:45:44.37ID:KQrcomlm
父親の時は領内乱れまくりだしね
0546人間七七四年2019/02/28(木) 19:56:37.43ID:2IwWMeA1
家康が偉大なんだよ。
三河人は不器用で武闘派な狂犬みたいなものだ。主人と認めなければかみ殺す。一向宗にドハまりした狂信者もいれば、石川数正みたいなのもいる。
その三河人をたばねあげて忠誠を誓わせ、秀吉に嫌がらせをされて左遷されてもついてくるくらい統率したのだから家康がすごいわけさ。
さすが信長が唯一の同盟者と認めただけのことはある。
0547人間七七四年2019/02/28(木) 19:59:57.05ID:yeTnUQ9H
唯一の同盟者とかさらっと嘘をつくんじゃありません
0548人間七七四年2019/02/28(木) 20:23:23.60ID:2IwWMeA1
秀頼の爺さんは裏切っただろ?妹を妻にむかえておきながらいきなり後方から奇襲して
0549人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:21.63ID:q9eBVSml
>>541
そのリスクがあるのは認めるよ、割と博打な決断だしね
ただし賭ける価値はあるとみる、毛利と上杉にとって強大な中央政権は結局邪魔だからだ
早い話が毛利と上杉に密使を送ってこう言えばいい
「味方になれとは言わん、征伐への従軍を拒否してくれたら毛利は播磨以西、
上杉は東北や北陸でどう動こうが徳川は関知しない」と
つまり毛利に西国、上杉に東北や北陸での優位性を認めるという事、
もっと言うなら「中央政権なんか無視して地方で好き勝手やろうぜ!」って事だ
まあ絶対とは言わんが話に乗ってくる可能性はあると思う
0550人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:43.64ID:tSlZOTPb
家康は飽くまでも大坂方との和議を望んでおり、大坂に集まった浪人衆が元凶と考えていたが、秀忠ら主戦派の勢いを止められなかったのである
0551人間七七四年2019/02/28(木) 20:35:53.76ID:nE89rieY
ぶっちゃけ秀頼くんがバカ殿すぎて大揉めした結果だからなぁ、あれ
秀頼くんに最低限の器量さえあればつつがなく続いてたよ

お話の大坂の陣だとさすがにそれじゃああんまりだから花のようなる秀頼さまなんてしてるけど
0552人間七七四年2019/02/28(木) 20:48:42.23ID:2IwWMeA1
秀頼はまずダイエットしないとね。武士の頭領になりたいなら馬に乗れないと話にならないよ。20歳前後の若武者なんだし。
家康のように武術の達人とは言わないまでも、香取神道流や新陰流を学んで印可を受けるとか、弓の腕を磨くとか、毎日馬で朝駆けしたり鷹狩りしたりしないと。
しかし、160キロをこえた疱瘡アバタ顔のデブを花のようにってどの花なんだろうな。ホトトギスの花とかか
0553人間七七四年2019/02/28(木) 20:53:58.48ID:kUKf71LC
>>552
死ねガイジ
0554人間七七四年2019/02/28(木) 21:20:49.54ID:oOTlw0Ka
>>552
家康が秀頼は産まれながらの大将の器と称してるからそんな奇形体格なわけ無いだろ。
0555人間七七四年2019/02/28(木) 21:25:52.83ID:i8/xWqaL
島津家臣の覚書を何点か。しかしこの手の覚書って後年に行く程、
長く詳しく派手になっていくものだね
0556人間七七四年2019/02/28(木) 21:26:26.01ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書

一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、

  六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、

  備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、

  此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、

  然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、

  南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、

  自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、

  我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、
0557人間七七四年2019/02/28(木) 21:27:39.42ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、

  岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、

  上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而

  一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
  
  何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、

  此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、

  其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、

  過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、

  きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、

  刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、

  人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、

  敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、
0558人間七七四年2019/02/28(木) 21:28:09.37ID:i8/xWqaL
  敵之間四五間參候迄は、菟角之樣子無之軆に仕而參、間三間計に罷成候時、皆々刀をぬき、ゑいとう聲を上切通被申候時、

  年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、

  御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、

  然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、

  西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、

  少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、

  さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、

  如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、

  何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、

  南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、
0559人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:21.67ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、

人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、

  一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、

  何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、

  其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、

  我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、

  早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、

  後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、

  そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
0560人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:55.84ID:i8/xWqaL
  扨被討候事一定に而候と申候處、そなへ之内より馬を乘出、歸宅被成候を人々見申候、扨者心替にに而無之由人々被申候、

  左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、

  此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、

  惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、

  最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、

  楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々
0561人間七七四年2019/02/28(木) 21:30:22.62ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書木脇休作働之次第

一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、

  此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、

  貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、

  其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、

  惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、

  其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、

  御共に而御下向に而候、
0562人間七七四年2019/02/28(木) 21:32:08.90ID:i8/xWqaL
大垣城に再び籠城しようとしたら、本丸から火の手が上がり
もう落城していたので諦めたというのが少し気になりますね
0563人間七七四年2019/02/28(木) 21:45:47.39ID:i8/xWqaL
あと小西に触れられていないのは、何でかなと思うですが
0564人間七七四年2019/02/28(木) 21:54:17.65ID:6DaPn8es
ちゃんと訳せよ
0565人間七七四年2019/02/28(木) 22:47:31.83ID:KQrcomlm
>>562
何が気にかかるの?
0566人間七七四年2019/02/28(木) 23:58:33.76ID:i8/xWqaL
>>565
>>54書状だと西軍自ら外郭をを燃やしたはずなのに
自ら防御力低下させた城にわざわざ籠城しようとするかな
0567人間七七四年2019/03/01(金) 00:47:11.69ID:poeiOndE
大垣城は小規模な城で大軍を収容する能力はなく集結した西軍は城の周りに陣城を築いて駐屯していたわけで
この外曲輪を三成らが移動するときに敵に利用されないように焼いてっただけだから城自体は無傷
0568人間七七四年2019/03/01(金) 02:21:11.97ID:bmuvUISK
>>554
社交辞令というのもあるしねぇ
たとえば北の将軍様との会談で面と向かってデブともいえまいw
0569人間七七四年2019/03/01(金) 03:07:24.97ID:2brakp2y
??「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」
??「世になきお太り」
??「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」
0570人間七七四年2019/03/01(金) 23:01:33.37ID:YnbGhLUF
6月15日付兼松正吉宛前田玄以・長束正家・増田長盛連署状

急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、
  七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、
  急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、
  被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、
  為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、
  其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、

六月十五日    増右     長大     徳善
              長盛     正家     玄以

金松又四郎殿
         御宿所



6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、
応日数可被相渡候、則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、

六月廿五日       長大     増右    徳善
                 正家     長盛    玄以

草津(近江)にて二日分
      新庄東玉(直忠)
      駒井中務(重勝)殿

亀山(伊勢)にて二日分
     岡本次兵衛殿

あつた(尾張)にて二日分
    羽柴左衛門大夫(福島正則)殿

すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
    田中兵部太輔(吉政)殿

見付(遠江)にて一日分
    堀尾信濃守(忠氏)殿

島田(駿河)にて一日分
    山内対馬守(一豊)殿

駿府(駿河)にて一日分
    中村式部少輔(一氏)殿

神原(駿河蒲原)にて二日分
    同人
0571人間七七四年2019/03/02(土) 06:17:19.21ID:YypkSGSt
栄養状態も良くなく天下人ですらハイカロリーの食事ができ無い戦国時代では、そもそもBMI40越えるまで太る事ができない。
体重計も無い時代に見た目の体重43貫なんてのは書いた人間の主観に過ぎず「猪のような大男」と言ってるのと同じだよ。 
茶々の家系は普通に大男が多いわけだから母親にと思えば何もおかしくは無い。
身長はあってるとして体重もせいぜい100キロ程度だと思うぞ。
0572人間七七四年2019/03/02(土) 06:38:01.44ID:5ToCR+Pg
>>556
宇喜田と石田をそれぞれ壊滅させた軍が攻めて来たので、その間を抜けて大垣城に戻ろうとしたら、
南宮山付近で落城しているのが見えたので、伊勢路の駒野坂方面に逃げて行ったってことでいいのかな
0573人間七七四年2019/03/02(土) 11:38:38.42ID:K7IXs2IA
>>571
米やら武具やらの計量をするのに使うだろうから
たぶん城内に重さを測れるテンビン秤もあったんだろうけど
でかい天秤に秀頼を乗せて計量するの想像したら、かなりシュールな光景だな
0574人間七七四年2019/03/02(土) 12:35:56.60ID:lwoO24Pw
すくなくとも「呆れるぐらいぶざまに肥っている」と思われ記録された事実がある
0575人間七七四年2019/03/02(土) 15:24:11.06ID:pDrOl5Od
>>571
秀頼はハイカロリーなかまぼこが大好物だったんでちけお
0576人間七七四年2019/03/02(土) 18:29:08.78ID:RKcGEcQw
家康みたいに晩年に肥るならまあわかるけど、本当に青年期に肥っていたなら堕落しすぎだわ
0577人間七七四年2019/03/02(土) 19:10:29.09ID:YypkSGSt
だから肉も乳製品もない当時の食事で肥満になる事はあり得ないって
0578人間七七四年2019/03/02(土) 19:12:30.42ID:OOGlj+PU
秀頼はデブ?
いわゆる大柄な体格って事じゃないのか?
0579人間七七四年2019/03/02(土) 19:19:10.88ID:tt15F0uW
16歳「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」当代記
20歳「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」セバスチャン・ヴィスカイノ(1612年面会)
22歳「世になきお太り」長澤聞書 長澤九郎兵衛

+          +  。
 *  、-'ヾ'''ヾ`"''','、、 ,         _____
  _-'"         `;ミ、      /:::::::::::::::::::::::::\〜
 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ    /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜
 >ミ/         'γ、` ミ   |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜
 了| "~`、  "~"`   {,',; ;} 。  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ〜
 "7 `⌒`   ⌒   }ミ:. {   |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜
  '|   /       レリ*    |ノ  (∵∴ ( o o)∴)〜
+  i  (       }ィ'     |∪< ∵∵   3 ∵> ハァハァ
   `  ー---    /|` +     \       ⌒ ノ
    ヽ  ̄    / |__        \_____/
     `i、-- '´   |ソ:
      ↑               ↑
   想像上の秀頼         現実の秀頼

豊臣秀頼
身長196cm
体重161キロ (明良洪範)
BMI41.91
適正体重84.52kg
適正体重より+76.48kgオーバー

BMI 体型イメージ
http://pbs.twimg.com/media/CBy3u20UsAEefCo.jpg

疱瘡(天然痘)の顔 塩田三郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Saburo_Shioda.jpg
0580人間七七四年2019/03/02(土) 19:33:07.45ID:jVUpAc4o
>>577
秀頼の親父は肉や乳製品を食ってた
0581人間七七四年2019/03/02(土) 20:00:32.73ID:tt15F0uW
1キロ体重を増やすには7000カロリーが必要になる。

秀頼の場合は適正体重から76キロの脂肪をたくわえるわけだから、53万2000カロリーが必要

5年かけて太ったなら、1年で106400カロリー。日割りすると291カロリー。どんぶりを1杯よけいにごはんを食べると秀頼になる。
3年かけて太ったなら、1年で17333カロリー。日割りするとで485カロリー。どんぶり1杯に肉屋魚をおかずにつけて食べると秀頼になる。

鱒寿司を朝から20貫食べてたらしいから、まあそういうことだろう。
0582人間七七四年2019/03/02(土) 20:40:46.07ID:tE1fbnso
肉は普通に食ってるよね
残ってるレシピでも狩猟で捕った肉を使った料理ありますし
0583人間七七四年2019/03/02(土) 21:16:38.68ID:0Mlc5R7S
家康なんかは得意料理は鶴鍋とか
0584人間七七四年2019/03/02(土) 22:06:22.22ID:tt15F0uW
すき屋の牛丼とかもカロリーはかなり高い。

https://www.sukiya.jp/menu/in/gyudon/

とろーり3種のチーズ牛丼のメガ盛を運動してないやつが3食食べたら間違いなく秀頼化するね
ジュースだのポテチだの食べたら間違いなく秀頼だ
0585人間七七四年2019/03/02(土) 23:30:29.86ID:fXVzaEZL
将来デブになろうが、武芸も大将としての心構えも見つけていなくても
神輿としての可致なら充分あるからな
だから西軍首脳陣は、秀頼の居る大坂城を押さえて、家康を糾弾すれば西国や畿内の武士は勿論、
東軍に参加している連中もこぞって味方し、家康を孤立させられると思ったんだろう
実際は東軍の連中は想像外の勢いで反攻してくるは、味方に付くと思っていた連中は
敵に回るはで、右往左往する羽目になったわけだけど
0586人間七七四年2019/03/03(日) 06:50:39.88ID:yebzqX4T
西軍の奉行連中って、なんであれだけ自分たちに都合のいいように物事考えられるんだろう
0587人間七七四年2019/03/03(日) 07:18:43.23ID:/kBjQxbj
秀吉がいた時はそれで日本を支配出来てたからだろ
0588人間七七四年2019/03/03(日) 07:36:17.19ID:6q3y7kJz
奉行連中はいつまで経っても秀吉時代の感覚が抜けないのが問題だよ
秀吉時代なら自分たちが豊臣の威光を掲げてふんぞり返っていれば
日本中の大名が平伏して言うことを聞いていたから
秀吉の死後も同じことができるという妄想が捨てられない
0589人間七七四年2019/03/03(日) 09:38:08.40ID:O7AA6f+B
政治的に追い詰められての決起だから希望的観測にすがらざるを得ないというのもあるだろう
0590人間七七四年2019/03/03(日) 10:32:39.39ID:745W9Jgr
結果的に家康は強かったが、さすがにやってみるまで分からない部分はあるよ。
のべ10万人近い戦力を動員したのだから。
0591人間七七四年2019/03/03(日) 10:50:03.15ID:REu463Pi
動員したは良いけど、増田宛の三成の書状を見ると
士気は下がりっぱなし、金銀米錢は足らずという有様だからなぁ
0592人間七七四年2019/03/03(日) 12:18:38.07ID:DaMH+Jso
奉行のくせに兵站を確保できなかったのか
鍋島の動きもあるだろうが商人たちが渋ったのかな
信用がないとは自分たちは思ってなかっただろう
0593人間七七四年2019/03/03(日) 12:24:23.24ID:c6hWtElo
>>586
ろくに戦場にでてきてない連中が多いからじゃないかな
0594人間七七四年2019/03/03(日) 12:32:12.08ID:pk03zuUF
【25日、四川省、地震、M4.9、2人死亡】 ポッポ住民「北海道のイブリと同じシェールガス採掘のせい」
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1551579433/l50
0595人間七七四年2019/03/03(日) 12:45:48.48ID:MpJuQuQR
>>586
奉行は自分らが下した命令=豊臣政権の命令とみなしていたけど、
諸大名は奉行の命令=秀吉の命令としかみなしてなかった、って事だろうな
結局は秀吉が作ったのは秀吉政権であって豊臣政権じゃなかったんだろう
…ただ、関ヶ原前の家康はかなり奉行寄りの思考っぽいんだよな
家康が政権から距離を置いた動きをしだすのって、関ヶ原後だし
0596人間七七四年2019/03/03(日) 14:53:07.44ID:yebzqX4T
>>592
秀吉の命令下における、兵糧やそれを運ぶ人馬の準備、輸送路の安全の確保のノウハウはあっても
自力の範囲でそれを行うノウハウはなかったんじゃないかな。ましてや十万近くの兵の兵糧準備するのって
普通に大変だし
0597人間七七四年2019/03/04(月) 02:35:08.68ID:yjoI5G0V
三成は下の者にやっとけと言うだけだったろうしな
0598人間七七四年2019/03/04(月) 16:50:03.63ID:zNWeki6D
福島正則なんだけど関ヶ原の合戦時に明石全登隊と正面から戦ったけど押されて後退したというのをどこかで見たけどあれは本当なんですか?
それを見てた黒田長政と細川忠興に肥後の守(加藤清正)ならあの様な失態は無かった。と言われたとか。
後ろに居た京極高知、藤堂高虎、井伊直政、本多忠勝隊が合流して宇喜多隊を撃破したとあります。
数で宇喜多隊のが多いから押されるのはあれとして加藤清正なら押され無かったという事ですか? 福島正則って良く黒田長政と細川忠興に馬鹿にされてるけど1流の戦上手じゃなかったんですか? 後世における福島正則ディスと加藤清正アゲを食らった感じもしますが。
0599人間七七四年2019/03/04(月) 18:02:12.96ID:3B44e09o
福島は宇喜多明石に比べれば小勢だし押される場面もあるだろうし
序盤から後続の藤堂高虎が加勢するのも当たり前、それでも明石隊より少ないくらい
朝鮮では何度も敵軍を退けてると三成書状に書かれてるし海戦では李舜臣も破ってる
晩年増長して改易食らってるからイメージは悪いけど武将としては有能やろ
0600人間七七四年2019/03/04(月) 18:29:17.41ID:ozs1/cZj
どっからの出典なのか言ってくれないと
後世の創作なら論ずるに値しないレベルだし
0601人間七七四年2019/03/04(月) 19:29:07.55ID:pM+n29ex
レスありがとうございます。福島正則が武将として優秀なのは理解してます。
しかし加藤清正と良く比較されて清正は神様扱いな所があるのに対して福島正則は余り良い事を聞かなかったので気になりました。

出展先は武功雑記です。
後世の創作かもしれませんね。

スレ汚し失礼致しました。
0602人間七七四年2019/03/04(月) 21:51:52.78ID:wrcpghNW
そもそも戦の経過が昔と今じゃ研究の結果、大分変わったしね
>>556とか>>557読んで見ると、大谷は結構奮戦したみたいだけど
宇喜多や石田、島津あたりはあっさりと崩壊した感じを受ける
0603人間七七四年2019/03/04(月) 22:04:13.71ID:EN8BOnLb
武功雑記は元禄時代の成立だからなあ。関ヶ原からおよそ百年後。
同時代史料にはそもそも福島が宇喜多に押された云々の話自体存在しない。
0604人間七七四年2019/03/05(火) 05:58:58.97ID:uUCym9OL
最近なんて西軍は二時間で瞬殺されたなんて説もあるしな
0605人間七七四年2019/03/05(火) 07:36:12.54ID:jgYjrskF
東軍が解散始めた時間も残ってないのかな。
0606人間七七四年2019/03/05(火) 07:51:45.18ID:KPbvoykA
関ヶ原の戦いはなかった
0607人間七七四年2019/03/05(火) 12:45:18.69ID:kDkxvUhv
文禄2年1月11日付石田正澄・長束正家宛
前野長泰・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛連署状

此使者昨日路次迄出候処、先手小西方より注進御座候、
又黒田甲斐守・隆景より注進御座候間、重而申上候、

一 小西手前兵粮一切無御座候間、とかく在陣不相続候之処、
  自大明罷立候大明御詫言之儀申候付而、
  其取?を仕可打入支度仕候処、加藤主計先手之者越度之儀、
  又こもかい辺相動候衆新城不被攻落手負数人出来、
  其外舟手之儀など、事々敷北京へ申越候ニ付而、
  数万人唐人罷出小西手前へ取懸候由注進候間、
  都より一勢かせんほい迄打出隆景人数さき?押出、
  黒田甲斐守小西所へ可令加勢由申遣候処、
  今月四日より七日まで昼夜責申、七日ニ及一戦、
  壱万計討捨候へ共、敵も不相甘、小西兵粮無之ニ付而、
  小早川先手城迄四日路計打入由、重而注進候間、是非も無御座候事、
一 黒田甲斐守陣所へも右付打入以前ニ三万計取懸候を切崩千三百余打捨候事、
一 甲斐守手前兵粮久御座有間敷候、隆景申談差引無由断可相動候事、
一 都ニハ先書ニも如申上候、
  去秋手前?苅田以下たくわへ候兵粮正月中分可有之候、
  其外ニ去年洛中・洛外改置候兵粮、京着之刻、
  各扶持方卅日分請取候残、壱万四千石御座候事、
一 都有人数、宰相殿・前但・加遠・治部少輔・刑部少輔・右衛門尉
  此人数壱万七千之高にて御座候、跡之つなき三ヶ所、河端之城、
  内裏蔵相抱候ハて不叶城、六御座候、聊無由断普請以下申付候事、
一 自是釜山浦之間、随分此中せんさく仕、つなきの城々丈夫ニ御座候やうに仕候、
  此以前之分にてハ異儀無御座候へ共、
  加藤主計先手之者越度以来小西先手引取候間、
  国々逆徒等つのり可申候条、無人之手前如何御座候ハん哉と存候、
  別ニ可相加人数も無御座候、
  又十日路・十五日路わきに有之人数引出候事も合期不仕候、
  其上相加候ても兵粮無御座候、
  とかく各不罷渡以前ニ廿日路・卅日路わき?の国々へ無人ニて入すこし候故、
  右之分ニ御座候事、
一 隆景なとハ各罷渡候てより、道筋先手へ引出候故、
  先々迄路さき是ほどニも相続申候、又先手打入候ても別条無御座候事、
一 加藤主計なと遠国へとひこし入過申候間、跡々人数可被引出由、
  度々申遣候へ共、静謐之由申候て、不罷出候間、是非も無御座候事、
一 去年も如申上候、とかく釜山浦へ兵粮相届候やうに可被仰付事肝要ニ奉存候事、
一 此方警固之衆被仰付候へ共、今之分にてハ順風に成候者、
  釜山浦辺へ敵舟出候を此方警固おさへ候事成かね可申と存候、
  其子細ハ此方舟之内ニハ敵かこひ舟ほとの舟ハ一艘も無御座候、
  敵かこひ舟ハこもかい面ニも打見へ候分三百艘あまりも有之由申候、
  又都川へ去年氷はらさる以前ニおし入候も二百艘余乗入申候間、
  被成御校量かこひ舟の儀をも急度被仰付尤奉存候、
一 兵粮さへ御座候者、各申合、何程唐人罷出候共、打果可申候、
  何も手前?兵粮無御座候、
  又かりそめの陣替も五日路・十日路御座候間、御人数差引合期不仕事、
一 福島左衛門太夫手前なとへハ去年以来はや五・六度も敵三万・四万にて取懸申候、
  度々切崩五百・三百充討捨申候へ共、敵人数ハへり不申候、
  此方ハ手負重く次第ニ無人ニ成申候、道具以下も損申候事、
0608人間七七四年2019/03/05(火) 12:45:29.16ID:kDkxvUhv
一 なこやへ御着座之由候間、両三人ニ一人渡海仕候て可得
  御諚と存候ツれ共、此節爰元一人成共引抜罷越候儀、如何御座候条、
  使者を以申上候、兵粮被仰付、釜山浦ニ慥之物主急度可被仰付事肝要奉存候、
  此以後ハ跡々つなき城間々自由ニ御座有間敷候条、御注進申上候も難相届存候、
  路次つなきの城一ヶ所・二ヶ所自然きれ候所御座候をも相続候ほと
  御人数をも被仰付被差渡候様ニ御披露肝要奉存候、恐々謹言、

 正月十一日
     増田右衛門尉 長盛
     大谷刑部少輔 吉継
     石田治部少輔 三成
     加藤遠江守  光泰
     前野但馬守  長泰

長束大蔵太輔殿
石田木工頭殿
0609人間七七四年2019/03/05(火) 12:51:22.81ID:kDkxvUhv
一応参考までに挙げてみた。
石田が明確に讒言と言えるようなことを報告しているのは、
加藤清正が勝手なことして言うこと聞かないと報告している。
福島正則については敵を撃退したと活躍を報告している。
当然石田含め奉行衆は補給関連にも係わってる。

まぁ加藤清正からしたら秀吉の大明攻略を忠実に実行しただけなんだろうなとは思う。
こっちは快進撃してるのにあいつらなにもたもたしてるんだ?って。
0610人間七七四年2019/03/05(火) 13:35:22.26ID:yHDkNo94
>>598
押されたあと他隊と合流して撃退に転じたなら釣り野ぶせだの待ち伏せだの言えるわけで
そもそも押し一辺倒になるほうが不自然だよな
0611人間七七四年2019/03/07(木) 21:01:27.70ID:7l+TTUUM
>>602
宇喜多に襲いかかった先陣の大将というのが福島、井伊あたりで
東の三成の陳に襲いかかった別の大将というのが黒田、藤堂あたりなのかな?
0612人間七七四年2019/03/07(木) 23:51:53.45ID:WF9eZz6T
黒田、藤堂は男色なのかい?
0613人間七七四年2019/03/08(金) 00:40:55.24ID:PY4mgNWO
意外と陣と陳は昔は同じ意味らしく、奇跡的に間違いではない文章という
呂布伝に引く英雄記だと陥陣営が陥陳営と書かれてるとかなんとか
0614人間七七四年2019/03/08(金) 13:12:00.60ID:+h2B44/t
>>586
奉行連中が良く言及されるけど、直江兼続の自信の強さも大概だしなぁ
最上や伊達に対する上から目線の言動は何なのかと思う
0615人間七七四年2019/03/08(金) 13:59:29.06ID:qI1bg1vg
遠く離れてるからなんか言っても相手がこないと甘く考えてたんだろ直江
0616人間七七四年2019/03/08(金) 15:34:11.16ID:a9qUjsmh
景勝が意外とヘタレだから補うためじゃねえか
景勝は外面だけは立派な武士に見えるけど能力的には毛利輝元と大差ない感じ
家臣団のおかげ
0617人間七七四年2019/03/08(金) 17:09:58.40ID:PY4mgNWO
御館の乱も家督すでに譲られてた景勝が神余氏の内通疑惑に対して強硬な態度とった結果上杉憲政やら家臣団キレされてお家騒動になったようだし
そのお家騒動収拾のために活躍した新発田氏に舐めた態度とって安田は腹切るわ新発田氏反逆するわの大惨事起こしてるしで
遠かろうが近かろうが相手バカにした態度とり続けてる気がする景勝兼続主従
0618人間七七四年2019/03/08(金) 17:52:59.56ID:fDyNMKVL
関ヶ原の合戦の結果が伝わると上杉家の誰よりも早く本多正信に土下座して戦犯どころかシレっと徳川との交渉役ヅラをしている
直江兼続の変わり身の速さ。
0619人間七七四年2019/03/08(金) 19:43:05.53ID:FLaUivv1
交渉役は本庄繁長じゃないの?
0620人間七七四年2019/03/08(金) 20:44:52.07ID:iqUgDsQ4
>>616
主君をさしおいて、さしでがましいというか越権行為だよな直江
0621人間七七四年2019/03/08(金) 22:50:39.60ID:cuix4JIB
大坂の陣で徳川秀忠から感状を貰って喜んでる直江兼続を皮肉った安田能元。
直江兼続は親豊臣から真っ先に親徳川になったイメージはあるな。
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