関ヶ原合戦の真実 Part9
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0001人間七七四年
2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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関ヶ原合戦の真実 Part8
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0521人間七七四年
2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。
0523人間七七四年
2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV酒井忠次と榊原康政
酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。
榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。
自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。
0525人間七七四年
2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt0526人間七七四年
2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。
0527人間七七四年
2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dWその書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか
0528人間七七四年
2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな
0529人間七七四年
2019/02/26(火) 22:43:44.86ID:DslkMrnF0530人間七七四年
2019/02/26(火) 22:48:38.55ID:JQBgtYjO0531人間七七四年
2019/02/26(火) 22:51:45.43ID:JQBgtYjO煽るとかそういう意図じゃないんだけど、家康の豊臣を排除した政権運営への意欲って関ヶ原前からだったのか後だったのかなと思って
0532人間七七四年
2019/02/26(火) 23:03:08.81ID:2qmGUMyX西軍挙兵によって豊臣に公儀性というものが全くないことが証明されて
もう豊臣政権というものを家宰として維持することが不可能という認識にはなったんじゃないかな
とはいえ誰かが公儀をやらなければいけないし、江戸に幕府を開いて直接諸侯の首根っこつかんで抑える形にシフトしたって感じ
誰かが言ってたけど天下人ってむしろみんななりたくない、他人に押し付けて自分は要職ポジション確保してうまい汁すすりたい、でも誰かが天下人やらなきゃいけないっていう貧乏くじの押し付け合いが当時の共通認識であるって考え方も意識した方がいいかも
それはそれとしてちょっと上の方のはロマンに酔いすぎな記述の仕方な気がするなぁ
0533人間七七四年
2019/02/26(火) 23:05:01.00ID:HANAgwzp関ヶ原が起きなくても秀吉利家亡きあとの家康の豊臣政権での立場は鎌倉幕府の執権、室町幕府での管領相当の立場だし
結果的に関ヶ原で反徳川派が一掃されたことで単独政権の可能性が出てきただけで起きなくても政権の第一人者ではあった
0534人間七七四年
2019/02/27(水) 00:17:15.31ID:Pj1w2Wda形式的には豊臣政権の内紛という構図だけど
豊臣家がどっちにも肩入れしなかった(できなかった)ことにより地位の失墜は免れなくなってしまった
なら何もできない豊臣家より勝った方の徳川家に天下を任せたほうがいいなってことになる
0535人間七七四年
2019/02/27(水) 00:30:24.25ID:4oLe2Dje秀吉の死後は内大臣が最高位の武士なので、仮の公儀を運営する資格を持つ。1601年に関白が、1603年に征夷大将軍が任命されたあとは
公家関白制のもと、将軍の実効支配体制だ。鎌倉室町江戸と続く伝統な流れ。豊臣はあぶくみたいなもんだ
0536人間七七四年
2019/02/27(水) 01:36:19.12ID:IoU7MPC30537人間七七四年
2019/02/27(水) 05:59:11.95ID:Q5QzTiAT一応別の選択肢として、統一政権を完全に無力化して
都合のいい時だけ利用する古ぼけた神輿にするって手はあるがな
要は諸大名が好きに政権運営や領地拡大をする戦国時代に時計の針を戻すって方法だな
つーか、家康はこっちのルートもアリな筈なんだよね
内府違いの条々出された時点で「じゃあ好きにやらせてもらうわ」って選択肢もあったと思う
0539人間七七四年
2019/02/27(水) 16:46:14.47ID:1r2PHvdHまぁそうなんすよね、動乱の時代カムバックも十分あり得たんですよね
だからまぁ関ケ原って動乱に巻き戻るかどうかに諸侯がノー!と突っぱねたものなんですよね
勿論毛利や上杉は大諸侯で動乱のがうまい汁吸えるから挙兵したんでしょうけど
0540人間七七四年
2019/02/27(水) 22:27:03.51ID:KpQV53yb別の主君に仕える気はないから官位も感状もいらないとか
他の主君に仕えるくらいなら切腹するとか面倒くさい家臣も居るけどね
0541人間七七四年
2019/02/28(木) 01:42:55.64ID:Z2BM86Zfまあ、あの時点で自分の領地に引き篭もる選択肢も有る事は有る。
但し、その場合は一度は膨大な討伐軍が来るんじゃ無いの?
0543人間七七四年
2019/02/28(木) 08:32:16.80ID:iYNG1a0i0544人間七七四年
2019/02/28(木) 18:18:23.23ID:N/5zygS1むしろ家康が自力で信用できる部下たちを作った上で、のちのち後世の人たちが三河武士は忠実という風聞を作ったんでしょ
0545人間七七四年
2019/02/28(木) 19:45:44.37ID:KQrcomlm0546人間七七四年
2019/02/28(木) 19:56:37.43ID:2IwWMeA1三河人は不器用で武闘派な狂犬みたいなものだ。主人と認めなければかみ殺す。一向宗にドハまりした狂信者もいれば、石川数正みたいなのもいる。
その三河人をたばねあげて忠誠を誓わせ、秀吉に嫌がらせをされて左遷されてもついてくるくらい統率したのだから家康がすごいわけさ。
さすが信長が唯一の同盟者と認めただけのことはある。
0547人間七七四年
2019/02/28(木) 19:59:57.05ID:yeTnUQ9H0548人間七七四年
2019/02/28(木) 20:23:23.60ID:2IwWMeA10549人間七七四年
2019/02/28(木) 20:29:21.63ID:q9eBVSmlそのリスクがあるのは認めるよ、割と博打な決断だしね
ただし賭ける価値はあるとみる、毛利と上杉にとって強大な中央政権は結局邪魔だからだ
早い話が毛利と上杉に密使を送ってこう言えばいい
「味方になれとは言わん、征伐への従軍を拒否してくれたら毛利は播磨以西、
上杉は東北や北陸でどう動こうが徳川は関知しない」と
つまり毛利に西国、上杉に東北や北陸での優位性を認めるという事、
もっと言うなら「中央政権なんか無視して地方で好き勝手やろうぜ!」って事だ
まあ絶対とは言わんが話に乗ってくる可能性はあると思う
0550人間七七四年
2019/02/28(木) 20:29:43.64ID:tSlZOTPb0551人間七七四年
2019/02/28(木) 20:35:53.76ID:nE89rieY秀頼くんに最低限の器量さえあればつつがなく続いてたよ
お話の大坂の陣だとさすがにそれじゃああんまりだから花のようなる秀頼さまなんてしてるけど
0552人間七七四年
2019/02/28(木) 20:48:42.23ID:2IwWMeA1家康のように武術の達人とは言わないまでも、香取神道流や新陰流を学んで印可を受けるとか、弓の腕を磨くとか、毎日馬で朝駆けしたり鷹狩りしたりしないと。
しかし、160キロをこえた疱瘡アバタ顔のデブを花のようにってどの花なんだろうな。ホトトギスの花とかか
0555人間七七四年
2019/02/28(木) 21:25:52.83ID:i8/xWqaL長く詳しく派手になっていくものだね
0556人間七七四年
2019/02/28(木) 21:26:26.01ID:i8/xWqaL一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、
六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、
備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、
此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、
然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、
南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、
自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、
我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、
0557人間七七四年
2019/02/28(木) 21:27:39.42ID:i8/xWqaL一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、
岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、
上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而
一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、
此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、
其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、
過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、
きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、
刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、
人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、
敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、
0558人間七七四年
2019/02/28(木) 21:28:09.37ID:i8/xWqaL年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、
御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、
然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、
西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、
少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、
さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、
如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、
何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、
0559人間七七四年
2019/02/28(木) 21:29:21.67ID:i8/xWqaL一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、
人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、
一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、
何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、
其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、
我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、
早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、
後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、
そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
0560人間七七四年
2019/02/28(木) 21:29:55.84ID:i8/xWqaL左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、
此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、
惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、
最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、
楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々
0561人間七七四年
2019/02/28(木) 21:30:22.62ID:i8/xWqaL一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、
此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、
貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、
其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、
惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、
其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、
御共に而御下向に而候、
0562人間七七四年
2019/02/28(木) 21:32:08.90ID:i8/xWqaLもう落城していたので諦めたというのが少し気になりますね
0563人間七七四年
2019/02/28(木) 21:45:47.39ID:i8/xWqaL0564人間七七四年
2019/02/28(木) 21:54:17.65ID:6DaPn8es0566人間七七四年
2019/02/28(木) 23:58:33.76ID:i8/xWqaL>>54書状だと西軍自ら外郭をを燃やしたはずなのに
自ら防御力低下させた城にわざわざ籠城しようとするかな
0567人間七七四年
2019/03/01(金) 00:47:11.69ID:poeiOndEこの外曲輪を三成らが移動するときに敵に利用されないように焼いてっただけだから城自体は無傷
0569人間七七四年
2019/03/01(金) 03:07:24.97ID:2brakp2y??「世になきお太り」
??「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」
0570人間七七四年
2019/03/01(金) 23:01:33.37ID:YnbGhLUF急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、
七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、
急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、
被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、
為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、
其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、
六月十五日 増右 長大 徳善
長盛 正家 玄以
金松又四郎殿
御宿所
6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状
今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、
応日数可被相渡候、則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、
六月廿五日 長大 増右 徳善
正家 長盛 玄以
草津(近江)にて二日分
新庄東玉(直忠)
駒井中務(重勝)殿
亀山(伊勢)にて二日分
岡本次兵衛殿
あつた(尾張)にて二日分
羽柴左衛門大夫(福島正則)殿
すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
田中兵部太輔(吉政)殿
見付(遠江)にて一日分
堀尾信濃守(忠氏)殿
島田(駿河)にて一日分
山内対馬守(一豊)殿
駿府(駿河)にて一日分
中村式部少輔(一氏)殿
神原(駿河蒲原)にて二日分
同人
0571人間七七四年
2019/03/02(土) 06:17:19.21ID:YypkSGSt体重計も無い時代に見た目の体重43貫なんてのは書いた人間の主観に過ぎず「猪のような大男」と言ってるのと同じだよ。
茶々の家系は普通に大男が多いわけだから母親にと思えば何もおかしくは無い。
身長はあってるとして体重もせいぜい100キロ程度だと思うぞ。
0572人間七七四年
2019/03/02(土) 06:38:01.44ID:5ToCR+Pg宇喜田と石田をそれぞれ壊滅させた軍が攻めて来たので、その間を抜けて大垣城に戻ろうとしたら、
南宮山付近で落城しているのが見えたので、伊勢路の駒野坂方面に逃げて行ったってことでいいのかな
0573人間七七四年
2019/03/02(土) 11:38:38.42ID:K7IXs2IA米やら武具やらの計量をするのに使うだろうから
たぶん城内に重さを測れるテンビン秤もあったんだろうけど
でかい天秤に秀頼を乗せて計量するの想像したら、かなりシュールな光景だな
0574人間七七四年
2019/03/02(土) 12:35:56.60ID:lwoO24Pw0576人間七七四年
2019/03/02(土) 18:29:08.78ID:RKcGEcQw0577人間七七四年
2019/03/02(土) 19:10:29.09ID:YypkSGSt0578人間七七四年
2019/03/02(土) 19:12:30.42ID:OOGlj+PUいわゆる大柄な体格って事じゃないのか?
0579人間七七四年
2019/03/02(土) 19:19:10.88ID:tt15F0uW20歳「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」セバスチャン・ヴィスカイノ(1612年面会)
22歳「世になきお太り」長澤聞書 長澤九郎兵衛
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了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜
"7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜
'| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)〜
+ i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵> ハァハァ
` ー--- /|` + \ ⌒ ノ
ヽ  ̄ / |__ \_____/
`i、-- '´ |ソ:
↑ ↑
想像上の秀頼 現実の秀頼
豊臣秀頼
身長196cm
体重161キロ (明良洪範)
BMI41.91
適正体重84.52kg
適正体重より+76.48kgオーバー
BMI 体型イメージ
http://pbs.twimg.com/media/CBy3u20UsAEefCo.jpg
疱瘡(天然痘)の顔 塩田三郎
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/Saburo_Shioda.jpg
0581人間七七四年
2019/03/02(土) 20:00:32.73ID:tt15F0uW秀頼の場合は適正体重から76キロの脂肪をたくわえるわけだから、53万2000カロリーが必要
5年かけて太ったなら、1年で106400カロリー。日割りすると291カロリー。どんぶりを1杯よけいにごはんを食べると秀頼になる。
3年かけて太ったなら、1年で17333カロリー。日割りするとで485カロリー。どんぶり1杯に肉屋魚をおかずにつけて食べると秀頼になる。
鱒寿司を朝から20貫食べてたらしいから、まあそういうことだろう。
0582人間七七四年
2019/03/02(土) 20:40:46.07ID:tE1fbnso残ってるレシピでも狩猟で捕った肉を使った料理ありますし
0583人間七七四年
2019/03/02(土) 21:16:38.68ID:0Mlc5R7S0584人間七七四年
2019/03/02(土) 22:06:22.22ID:tt15F0uWhttps://www.sukiya.jp/menu/in/gyudon/
とろーり3種のチーズ牛丼のメガ盛を運動してないやつが3食食べたら間違いなく秀頼化するね
ジュースだのポテチだの食べたら間違いなく秀頼だ
0585人間七七四年
2019/03/02(土) 23:30:29.86ID:fXVzaEZL神輿としての可致なら充分あるからな
だから西軍首脳陣は、秀頼の居る大坂城を押さえて、家康を糾弾すれば西国や畿内の武士は勿論、
東軍に参加している連中もこぞって味方し、家康を孤立させられると思ったんだろう
実際は東軍の連中は想像外の勢いで反攻してくるは、味方に付くと思っていた連中は
敵に回るはで、右往左往する羽目になったわけだけど
0586人間七七四年
2019/03/03(日) 06:50:39.88ID:yebzqX4T0587人間七七四年
2019/03/03(日) 07:18:43.23ID:/kBjQxbj0588人間七七四年
2019/03/03(日) 07:36:17.19ID:6q3y7kJz秀吉時代なら自分たちが豊臣の威光を掲げてふんぞり返っていれば
日本中の大名が平伏して言うことを聞いていたから
秀吉の死後も同じことができるという妄想が捨てられない
0589人間七七四年
2019/03/03(日) 09:38:08.40ID:O7AA6f+B0590人間七七四年
2019/03/03(日) 10:32:39.39ID:745W9Jgrのべ10万人近い戦力を動員したのだから。
0591人間七七四年
2019/03/03(日) 10:50:03.15ID:REu463Pi士気は下がりっぱなし、金銀米錢は足らずという有様だからなぁ
0592人間七七四年
2019/03/03(日) 12:18:38.07ID:DaMH+Jso鍋島の動きもあるだろうが商人たちが渋ったのかな
信用がないとは自分たちは思ってなかっただろう
0594人間七七四年
2019/03/03(日) 12:32:12.08ID:pk03zuUFhttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1551579433/l50
0595人間七七四年
2019/03/03(日) 12:45:48.48ID:MpJuQuQR奉行は自分らが下した命令=豊臣政権の命令とみなしていたけど、
諸大名は奉行の命令=秀吉の命令としかみなしてなかった、って事だろうな
結局は秀吉が作ったのは秀吉政権であって豊臣政権じゃなかったんだろう
…ただ、関ヶ原前の家康はかなり奉行寄りの思考っぽいんだよな
家康が政権から距離を置いた動きをしだすのって、関ヶ原後だし
0596人間七七四年
2019/03/03(日) 14:53:07.44ID:yebzqX4T秀吉の命令下における、兵糧やそれを運ぶ人馬の準備、輸送路の安全の確保のノウハウはあっても
自力の範囲でそれを行うノウハウはなかったんじゃないかな。ましてや十万近くの兵の兵糧準備するのって
普通に大変だし
0597人間七七四年
2019/03/04(月) 02:35:08.68ID:yjoI5G0V0598人間七七四年
2019/03/04(月) 16:50:03.63ID:zNWeki6Dそれを見てた黒田長政と細川忠興に肥後の守(加藤清正)ならあの様な失態は無かった。と言われたとか。
後ろに居た京極高知、藤堂高虎、井伊直政、本多忠勝隊が合流して宇喜多隊を撃破したとあります。
数で宇喜多隊のが多いから押されるのはあれとして加藤清正なら押され無かったという事ですか? 福島正則って良く黒田長政と細川忠興に馬鹿にされてるけど1流の戦上手じゃなかったんですか? 後世における福島正則ディスと加藤清正アゲを食らった感じもしますが。
0599人間七七四年
2019/03/04(月) 18:02:12.96ID:3B44e09o序盤から後続の藤堂高虎が加勢するのも当たり前、それでも明石隊より少ないくらい
朝鮮では何度も敵軍を退けてると三成書状に書かれてるし海戦では李舜臣も破ってる
晩年増長して改易食らってるからイメージは悪いけど武将としては有能やろ
0600人間七七四年
2019/03/04(月) 18:29:17.41ID:ozs1/cZj後世の創作なら論ずるに値しないレベルだし
0601人間七七四年
2019/03/04(月) 19:29:07.55ID:pM+n29exしかし加藤清正と良く比較されて清正は神様扱いな所があるのに対して福島正則は余り良い事を聞かなかったので気になりました。
出展先は武功雑記です。
後世の創作かもしれませんね。
スレ汚し失礼致しました。
0602人間七七四年
2019/03/04(月) 21:51:52.78ID:wrcpghNW>>556とか>>557読んで見ると、大谷は結構奮戦したみたいだけど
宇喜多や石田、島津あたりはあっさりと崩壊した感じを受ける
0603人間七七四年
2019/03/04(月) 22:04:13.71ID:EN8BOnLb同時代史料にはそもそも福島が宇喜多に押された云々の話自体存在しない。
0604人間七七四年
2019/03/05(火) 05:58:58.97ID:uUCym9OL0605人間七七四年
2019/03/05(火) 07:36:12.54ID:jgYjrskF0606人間七七四年
2019/03/05(火) 07:51:45.18ID:KPbvoykA0607人間七七四年
2019/03/05(火) 12:45:18.69ID:kDkxvUhv前野長泰・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛連署状
此使者昨日路次迄出候処、先手小西方より注進御座候、
又黒田甲斐守・隆景より注進御座候間、重而申上候、
一 小西手前兵粮一切無御座候間、とかく在陣不相続候之処、
自大明罷立候大明御詫言之儀申候付而、
其取?を仕可打入支度仕候処、加藤主計先手之者越度之儀、
又こもかい辺相動候衆新城不被攻落手負数人出来、
其外舟手之儀など、事々敷北京へ申越候ニ付而、
数万人唐人罷出小西手前へ取懸候由注進候間、
都より一勢かせんほい迄打出隆景人数さき?押出、
黒田甲斐守小西所へ可令加勢由申遣候処、
今月四日より七日まで昼夜責申、七日ニ及一戦、
壱万計討捨候へ共、敵も不相甘、小西兵粮無之ニ付而、
小早川先手城迄四日路計打入由、重而注進候間、是非も無御座候事、
一 黒田甲斐守陣所へも右付打入以前ニ三万計取懸候を切崩千三百余打捨候事、
一 甲斐守手前兵粮久御座有間敷候、隆景申談差引無由断可相動候事、
一 都ニハ先書ニも如申上候、
去秋手前?苅田以下たくわへ候兵粮正月中分可有之候、
其外ニ去年洛中・洛外改置候兵粮、京着之刻、
各扶持方卅日分請取候残、壱万四千石御座候事、
一 都有人数、宰相殿・前但・加遠・治部少輔・刑部少輔・右衛門尉
此人数壱万七千之高にて御座候、跡之つなき三ヶ所、河端之城、
内裏蔵相抱候ハて不叶城、六御座候、聊無由断普請以下申付候事、
一 自是釜山浦之間、随分此中せんさく仕、つなきの城々丈夫ニ御座候やうに仕候、
此以前之分にてハ異儀無御座候へ共、
加藤主計先手之者越度以来小西先手引取候間、
国々逆徒等つのり可申候条、無人之手前如何御座候ハん哉と存候、
別ニ可相加人数も無御座候、
又十日路・十五日路わきに有之人数引出候事も合期不仕候、
其上相加候ても兵粮無御座候、
とかく各不罷渡以前ニ廿日路・卅日路わき?の国々へ無人ニて入すこし候故、
右之分ニ御座候事、
一 隆景なとハ各罷渡候てより、道筋先手へ引出候故、
先々迄路さき是ほどニも相続申候、又先手打入候ても別条無御座候事、
一 加藤主計なと遠国へとひこし入過申候間、跡々人数可被引出由、
度々申遣候へ共、静謐之由申候て、不罷出候間、是非も無御座候事、
一 去年も如申上候、とかく釜山浦へ兵粮相届候やうに可被仰付事肝要ニ奉存候事、
一 此方警固之衆被仰付候へ共、今之分にてハ順風に成候者、
釜山浦辺へ敵舟出候を此方警固おさへ候事成かね可申と存候、
其子細ハ此方舟之内ニハ敵かこひ舟ほとの舟ハ一艘も無御座候、
敵かこひ舟ハこもかい面ニも打見へ候分三百艘あまりも有之由申候、
又都川へ去年氷はらさる以前ニおし入候も二百艘余乗入申候間、
被成御校量かこひ舟の儀をも急度被仰付尤奉存候、
一 兵粮さへ御座候者、各申合、何程唐人罷出候共、打果可申候、
何も手前?兵粮無御座候、
又かりそめの陣替も五日路・十日路御座候間、御人数差引合期不仕事、
一 福島左衛門太夫手前なとへハ去年以来はや五・六度も敵三万・四万にて取懸申候、
度々切崩五百・三百充討捨申候へ共、敵人数ハへり不申候、
此方ハ手負重く次第ニ無人ニ成申候、道具以下も損申候事、
0608人間七七四年
2019/03/05(火) 12:45:29.16ID:kDkxvUhv御諚と存候ツれ共、此節爰元一人成共引抜罷越候儀、如何御座候条、
使者を以申上候、兵粮被仰付、釜山浦ニ慥之物主急度可被仰付事肝要奉存候、
此以後ハ跡々つなき城間々自由ニ御座有間敷候条、御注進申上候も難相届存候、
路次つなきの城一ヶ所・二ヶ所自然きれ候所御座候をも相続候ほと
御人数をも被仰付被差渡候様ニ御披露肝要奉存候、恐々謹言、
正月十一日
増田右衛門尉 長盛
大谷刑部少輔 吉継
石田治部少輔 三成
加藤遠江守 光泰
前野但馬守 長泰
長束大蔵太輔殿
石田木工頭殿
0609人間七七四年
2019/03/05(火) 12:51:22.81ID:kDkxvUhv石田が明確に讒言と言えるようなことを報告しているのは、
加藤清正が勝手なことして言うこと聞かないと報告している。
福島正則については敵を撃退したと活躍を報告している。
当然石田含め奉行衆は補給関連にも係わってる。
まぁ加藤清正からしたら秀吉の大明攻略を忠実に実行しただけなんだろうなとは思う。
こっちは快進撃してるのにあいつらなにもたもたしてるんだ?って。
0610人間七七四年
2019/03/05(火) 13:35:22.26ID:yHDkNo94押されたあと他隊と合流して撃退に転じたなら釣り野ぶせだの待ち伏せだの言えるわけで
そもそも押し一辺倒になるほうが不自然だよな
0611人間七七四年
2019/03/07(木) 21:01:27.70ID:7l+TTUUM宇喜多に襲いかかった先陣の大将というのが福島、井伊あたりで
東の三成の陳に襲いかかった別の大将というのが黒田、藤堂あたりなのかな?
0612人間七七四年
2019/03/07(木) 23:51:53.45ID:WF9eZz6T0613人間七七四年
2019/03/08(金) 00:40:55.24ID:PY4mgNWO呂布伝に引く英雄記だと陥陣営が陥陳営と書かれてるとかなんとか
0614人間七七四年
2019/03/08(金) 13:12:00.60ID:+h2B44/t奉行連中が良く言及されるけど、直江兼続の自信の強さも大概だしなぁ
最上や伊達に対する上から目線の言動は何なのかと思う
0615人間七七四年
2019/03/08(金) 13:59:29.06ID:qI1bg1vg0616人間七七四年
2019/03/08(金) 15:34:11.16ID:a9qUjsmh景勝は外面だけは立派な武士に見えるけど能力的には毛利輝元と大差ない感じ
家臣団のおかげ
0617人間七七四年
2019/03/08(金) 17:09:58.40ID:PY4mgNWOそのお家騒動収拾のために活躍した新発田氏に舐めた態度とって安田は腹切るわ新発田氏反逆するわの大惨事起こしてるしで
遠かろうが近かろうが相手バカにした態度とり続けてる気がする景勝兼続主従
0618人間七七四年
2019/03/08(金) 17:52:59.56ID:fDyNMKVL直江兼続の変わり身の速さ。
0619人間七七四年
2019/03/08(金) 19:43:05.53ID:FLaUivv10621人間七七四年
2019/03/08(金) 22:50:39.60ID:cuix4JIB直江兼続は親豊臣から真っ先に親徳川になったイメージはあるな。
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