関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part21
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0001人間七七四年
2018/11/28(水) 20:19:51.02ID:xFPcOePC前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part20
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1539777606/
0002人間七七四年
2018/11/28(水) 20:20:43.33ID:xFPcOePC6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日 京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日 関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走
9月16日 伊勢亀山、桑名城など東軍に降伏し開城
9月17日 秀忠妻籠(信濃美濃国境付近)到着(38000)、佐和山城落城、大津城開城、大垣城から相良秋月高橋などが降伏
9月18日 東軍前田利長小松城を開城させる
9月19日 東軍前田利長北ノ庄城を包囲
9月20日 大垣城の福原長堯が降伏
9月20日 家康大津入城、秀忠大津に到着
9月24日 権中納言九条忠栄が家康へ戦勝祝い
9月25日 輝元大坂城退去、福島黒田らが大坂入城、増田長盛、高野山へ退去
9月27日 家康大坂入城
10月1日 恵瓊、行長、三成が斬首される
0003人間七七四年
2018/11/28(水) 20:21:07.25ID:xFPcOePC大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800
近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700
その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。
瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、
あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
それと「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」
これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。
毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)
なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。
■安濃津城攻城戦での吉川隊(秀元等他の毛利含めず)の死傷者数。
・戦死75名、負傷226名。死傷者計301名。
負傷内訳:銃創126名、槍創60名、矢創24名、刀創1名、銃槍創5名、銃矢槍創2名、
矢槍創8名、計226名。
吉川広家が推測で兵3000引き連れていたとしたら、安濃津城力攻めでの死傷率は10%と言える。
けっこう高いね。
毛利の他隊も同様の損害が出てるなら、南宮山の秀元&吉川は13500くらいかもしれない。
それと東軍先発隊の兵数については、一般的には渡河部隊約35000と言われているけど、
>>4にあるように福島覚書準拠でいくと49300〜58000くらい?となる。
かなり差があるのでこれをどう見るか、だけど。
0004人間七七四年
2018/11/28(水) 20:21:28.01ID:xFPcOePC上流渡河組:池田6500、浅野5000、堀尾4000、山内2600、有馬豊氏2200、松下重綱1000、
一柳直盛ら計21300〜22000
下流渡河組:福島6500、黒田1300、加藤1600、細川2000、田中4000、藤堂1500、筒井1000、
京極1500、本多俊政、生駒一正、松倉重政、神保相茂ら計20000〜22000
下流渡河組の後続として本多忠勝、井伊直政。
犬山城の抑えとして中村一氏代理の中村一栄ら3000〜4000
清洲城守備:石川康通、松平家清、奥平貞治、(松平忠吉)ら1050〜4000くらい?
長島城:福島正頼、援将山岡景友、計780余
これとは別で徳永寿昌、市橋長勝らが8月中旬頃より木曽川方面の西軍諸城攻略して暴れてる。
あと木曽川渡河後は大垣城からの後詰阻止隊として黒田、藤堂、田中の陣容。
伊勢の東軍方は、安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉(史実では
寡兵での上野城防衛は困難とし安濃津城の富田に合流)、
松阪城の古田重勝、岩手(岩出)城(三重県度会郡玉城町岩出)の稲葉道通、
あとは去就不明の桑名城の氏家行広。
池田家履歴略記 巻之三には
上流渡河組18250余、下流渡河組16730余、とある。
上流渡河池田隊:18250 下流渡河福島隊:16730
犬山城抑え:3000〜4000 清洲城守備:1050〜4000?
東軍先発隊総計約39030〜42980。 なお松平忠吉は駿府在番説と清洲滞在説あり。
0005人間七七四年
2018/11/28(水) 20:21:51.69ID:xFPcOePC大雑把に
7月19日朝 城方鳥居勢が城外に出て近隣を放火
19日夕方 西軍が伏見近郊に到着し始め散発的に銃撃戦がある
20〜21日 西軍が外堀に取りつく。銃撃戦が激しくなる
22日 宇喜多、小早川、鍋島到着
23〜24日 西軍の銃撃が昼夜に及ぶ
25日 宇喜多秀家が陣立てをあらため諸将の攻め口を決める
26〜28日 西軍昼夜銃撃
29日 石田三成督戦に訪れる
30日 西軍力攻め、総攻撃4回敢行。城方死傷50余、西軍死傷500余
8月1日午前0時 松ノ丸で甲賀者の内応により火災発生、名護屋丸にも延焼
これを機に西軍突入、松の丸、名護屋丸陥落
午前10時頃より総攻撃再開、島津、治部少丸突入、治部少丸陥落
午後3時 伏見城落城
こんなかんじ。たしかに石田が来るまでは銃撃戦ばっかり。
だが西軍もまともに兵力が到着したのは22日で、仕寄って堀埋めて
30日に力攻めしてみたが大損害。
8月1日に城方の内応が出たのでそれを機に陥落。
これ城方の内応がなかったらもっと長引いてた可能性あると思う。
力攻めの寄せ手の損害数が大きすぎる。
伏見城は相当な堅城だったということだと思う。
瀬田で東軍を迎え撃つ、という方針になるのも無理はないと思う。
この彼我損害比ではもっと早い日時に力攻めしてても落ちないと思う。
関東方面在番状況
宇都宮城:本丸結城秀康、蒲生秀行、二の丸小笠原秀政、三の丸里見義康、
宇都宮城総計約18000?
大田原城:大田原晴清、那須資景、福原資保、千本資勝、大田原増晴、岡本義保、
伊王野資友、服部正成及び伊賀衆。
黒羽城:本丸岡部長盛及び甲賀衆100、二の丸服部保英及び伊賀衆100、三の丸大関資増、千本義定
鍋掛:皆川広照、水谷勝俊
蘆野口:蘆野政泰、 伊王野口:伊王野資信、
烏山城:成田泰親
厩橋城:平岩親吉
高崎城:諏訪頼水
江戸城:本丸松平康元、石川家成、松平清宗?、菅沼定盈、諏訪頼忠
西の丸武田信吉、松平康忠、天野康景、
特記点としては、6月下旬頃より家康の指示で、大田原城、黒羽城は1000人規模の人足を
動員しての防備強化普請を行っている。
同じく宇都宮周辺も、秀忠、秀康らによって約一ヶ月間強化普請を行っている。
兵数については不明部分も大きく、わかる方いれば補足、訂正等よろ。
0006人間七七四年
2018/11/28(水) 20:22:12.08ID:xFPcOePCこれを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。
403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。
これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。
そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。
0007人間七七四年
2018/11/28(水) 20:22:40.60ID:xFPcOePC東軍21000〜23000対岐阜城2000〜3000.
それでも戦力比7〜11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1〜3日で落ちるだろう。
これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。
0008人間七七四年
2018/11/28(水) 20:23:01.93ID:xFPcOePC798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが
徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている
もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。
※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ 岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた
■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流
膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…
■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。
大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。
0009人間七七四年
2018/11/28(水) 20:23:28.96ID:xFPcOePC原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>6
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>7
岐阜城早期落城させない為の手段が>6の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700
8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。
東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>6の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8の1
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>8の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>8の3
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>6の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後
家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬〜9月上旬までが勝負
0010人間七七四年
2018/11/28(水) 20:31:05.15ID:xFPcOePC岐阜市 史跡岐阜城跡保存管理計画書
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/4567.pdf
http://www.city.gifu.lg.jp/secure/10437/3-4567.pdf
山上部・山林部の分布調査では、金華山及び周辺の山の尾根線上に多数の遺構が存在すること
が明らかになりつつあり、その多くが絵図に描かれた砦と対応する。また絵図や文献の検討の結
果、江戸時代に尾張藩が管轄した範囲が戦国時代の直接の城域である可能性が高く、その大半が
現在の金華山国有林として受け継がれていることが判明した。城下町を取り囲む惣構の土塁はこ
の直接の城域に対応しており、城と町が一体として成立・機能していたことを示唆している。調
査成果から岐阜城の城域を最大限に捉えると金華山に瑞龍寺山、上加納山を含んだ山塊全体、西
側の岐阜城下町とそれを取り囲む惣構、東側の達目洞を含んだ範囲となる。
国史跡岐阜城跡で石垣が新たに見つかりました!
http://www.city.gifu.lg.jp/32568.htm
一部抜粋
<山城としての岐阜城の評価について>
・ これまでの岐阜城の概念(山上の詰城+山麓居館という二元的構造)を
考え直させる大きな発見。
歴史遺産と都市文化創造V――都市城壁(惣構)を町づくりにいかす
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2006/03/0603hist-heri.pdf
近代岐阜忠節用水流域における都市形成に関する研究
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00063/2011/2011-04-0072.pdf
農林水産省東海農政局 木曽川水系土地改良調査管理事務所の案内
http://www.maff.go.jp/tokai/seibi/kensetu/kisocyou/html/pdf/014-99.pdf
上記より抜粋
忠節用水は古来、金華山麓に取入口を設けて、岐阜の旧称井ノ口村
の名を生んだといわれる農業用水である。天文3年(1543)の長良川の大
洪水により岐阜市忠節の地に取入口を移し、以来400余年幾多の変遷を
経て引水が続けられた。
関ヶ原当時の引水部や用水経路がいまいちよくわからないが、
惣構の水堀が用水兼用だったとするならば、非常用水源となりうるのではないだろうか。
また、水の手口という名称から、その麓、丸山の辺りが取水口じゃなかったのではないかと
思うがどうだろう?
0011人間七七四年
2018/11/28(水) 20:31:39.35ID:xFPcOePC白峰氏は考察論文、「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その1)―津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討
の中で以下のように述べられている。
本稿で扱う野間内海合戦については、前掲『三重県史』通史編、近世1に、
「九鬼義隆西軍に加勢」として立項され解説されている中で、「九月九日・十日両日
尾張知多半島(愛知県)先端部付近での戦闘」であり、
「当時の知多半島は、長島城主福島正頼が預かっていたとみられる(『新訂寛政重修諸家譜』
第二一)ので、北伊勢において東軍に付いた長島城の背後、
ひいては岐阜方面に集結しつつある東軍の背後を脅かす作戦を実行したのであろう。
この作戦には瀬戸内水軍が主となったものと思われ、
これに九鬼水軍が参加したかもしれない。」としている。
野間・内海合戦関連
愛知県史資料編13織豊3より引用
東軍の攻勢によって主戦場が尾張国内から木曾川を越えて美濃国西部へと
移っていく中、尾張・三河両国の海岸部では、西軍方に与した
志摩国鳥羽(三重県)の九鬼嘉隆の軍船が焼き打ちを行っており、
九月には毛利輝元の臣乃美景継・村上景弘らの軍船も伊勢湾に現れた。
毛利氏の水軍は九月九日未明に伊勢湾を渡って知多半島に押し寄せ、
各地で放火や合戦をおこなった。「慶長年中記」九月十日条にも
九鬼水軍による焼き打ちに関する記述がみえるが、
毛利氏の水軍もこれに加わっていた可能性がある。
慶長年中記 巻一
十日 熱田西の海辺四五ヶ所、是ハ敵方九鬼大隅(嘉隆)焼候よし、
岡崎?地鯉鮒(池鯉鮒)へ行に焼見ゆる、熱田海辺より五六町ほと大船一艘、
地ハ紫に白き桐のとうのまく張たる九鬼大隅守のミよし先へ被遣候、
御馬印持候ものさんたか橋にて 御目見いたし候、とかくの御意なし、
次は 慶長見聞書 二
同日(慶長5年7月21日)岩手(伊勢国)城稲葉蔵人(道通)手勢九百六拾人籠候処、
九鬼大隅守(嘉隆)町口迄取懸候へ共、堅固被相抱候間、
敵の人数引退申候、其後九鬼大隅守・堀内安房守(氏善)以下船手の衆卒し、
尾州・参州之灘浦を焼払、漁人村老男女僧侶に不限切捨狼藉前代未聞也、
尾州毛呂崎(師崎)江寄ンとす、
浦のもの内々近日従関東御上を聞て、其間敵をたるめ魚を取て日々に送り、
様々の音信におよひけり、
然るニ案のことく千賀孫兵衛(重親)一夜の内ニ而のりつけ、
大勢籠たるやうニ見せ、浦々に旗を立置候間、
敵驚寄せ不申、其間に松平紀伊守(家信)・小笠原新九郎(広勝)・
同安芸守(小笠原信元)次第ニ乗付申候間、
弥敵船驚きこきのき申候、右ノ海上浦々の悪行の天罰にや、
此口の寄手の大将達のすへ?迄後ニ皆たへはて申候、
武家の習殺業なくて不叶されとも、
分の敵を討て非分の者を不討とはかやうの事にや、
此時戸田三郎右衛門(忠次)・清水権之助(政吉)ハ
大野・とこなへ(常滑)に罷在候間、
舟を出し防候間、敵不叶舟をこきのき引取申候、
0012人間七七四年
2018/11/28(水) 20:37:22.36ID:xFPcOePC浦備前覚書 巻一 無尽集第七七冊
先年関か原御弓矢之時、伊勢地数船之御船指廻し、御国?ハ村上八郎左衛門殿
(景広)・乃美備後殿(景継)御船手不残被差出、
大坂よりハ菅野平右衛門殿(管達長)・村上彦右衛門殿なだ声古ヲ被差添御廻シ被成候、
伊勢之鳥羽ニ者九鬼大隅殿(嘉隆)大坂へ之御馳走ニ、
右之御方々大隅殿江御座候而方角万事御談合被成、
尾張灘手を御働被成御儀定ニ相澄、
おふミなと(伊勢国大湊)まて御座候而、彼表ニ而長々船中各御苦労被成候条、
一夜彼在所にて御休め被成之由、悉宿を取り御休息候処ニ、
乃美備後殿野せつちん(雪隠)へ参と被申、
五六丁家はつれへ被参候而都合被見合候処ニ、
彼在所より弐里間にて岩手と申城を敵方?持堅、
おふミなとの在所からも殊外手広不審ニ相見候条、
各うかと罷居儀ニ而無之候条、夕飯を仕廻、
夜入候者船へ各被召可然之通被申付而、悉船ニのり申候へハ、
夜半迄(過)ニ岩手?夜打ニ心懸人数差出、殊外物あぶなき躰にて、
下々共ニ備後殿御見合之段感入候、一日間ニて血地江御働ニ、
不残御渡り被成候、尾州之内大野と申浦江九月九日未明ニ被打入、
一段仕合能発向被成候、其次ニ二浦同前ニ候而、各御談合ニ、
今日之働ハ不残出来申候へ共、放火不仕候条、
明日之働ニハほうくわ(放火)を専ニ仕候様ニと仰事ニ候、
かたかミと申在所を未明ニ御働、一軒も不残放火仕り、
頓而其次野間の内海と申浦江御仕掛候処、
是ハ先代(源)義朝之御腹被召たる浦ニて候得者、
船本江人数差出相さゝへ候へとも、船よりの御仕掛丈夫候故、
終ニハにけくつし多分追討ニ仕り、
船本より一里半奥ニ義朝之御影御座候故、坊中江おひ入候故、
跡?足長仕ル儀ニてハ無之候条、各引取り候へと被仰付、
不残引取申候、礒兼加賀殿上下八人ニ而、
彼御影之寺放火不仕候へハ、此在所相働専ハ無之候条、
是非共ニ放火仕り引可申と被申候而ふかいりの故、
人数三十計討出取まき候条、別条子細も無之候間、
足床を見合高ミを取可相果覚悟ニ候、
壱人にても足を乱シ候而ハ不叶儀候之条、八人之者ハひつかけ相果覚悟ニ候、
其人数ハ加賀殿上下三人・乃美平左衛門殿上下弐人・
末永惣右衛門・世良源右衛門・末島(島末)与左衛門、
此八人ハ鉄炮弐丁御座候而、引懸五間ほとにて討候やうニと覚悟仕り候処、
敵も其覚悟ミきりはた?と不仕懸候処ニ、舟本江此聞候而、
乃美備後殿・村上八郎左衛門殿自身かけつけ候へハ、
のほりさきを見及引取申候故、無事ニ御しのき、
御両人衆殊外御しかり被成、(乃美)宗勝巳来上りはたらきの仕やうハ御存知ニ而、
深入沙汰之限りと被仰、無事ニ船本御引候事、
二日之間ニ六浦御働殊外出来候事、
誤字脱字はご勘弁。
0013人間七七四年
2018/11/28(水) 20:50:36.84ID:xFPcOePC関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/
大坂の陣はどうすれば豊臣方が勝てたか?Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1536754046/
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 5 【徳川】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1498216606/
二重公儀論について考察する [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1472608426/
【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その26
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1515338118/
【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1542893023/
誘導は上記適当スレへ。
過去スレ
part1
https://hanabi.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1477558509/
part2
https://hanabi.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1484991108/
Part3
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1487680538/
Part4
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
Part5
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1496748424/
Part6
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1499775019/
Part7
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1502195081/
Part8
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1505981945/
Part9
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1509028014/
Part10
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1512519887/
Part11
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1514907315/
Part12
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1517843376/
Part13
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1522672144/
Part14
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1525775487/
Part15
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1528335113/
Part16
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1530344370/
Part17
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1532773324/
Part18
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1535414790/
Part19
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1537715258/
Part20
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1539777606/
0014人間七七四年
2018/11/28(水) 20:51:55.42ID:xFPcOePC訂正等は遠慮なくよろです。
また、その他の案としては、美濃主攻案(P17>303)、北陸主攻案、早期尾張進攻案、
鳴海上陸作戦案(P15>702)、9月7〜10日赤坂挟撃案(P19>841)等あり。
また、上記諸表の兵力数は戦闘の損害による兵力減少を考慮しておりません。
0015人間七七四年
2018/11/29(木) 00:08:54.68ID:NgvzKf6B0016人間七七四年
2018/11/29(木) 11:46:15.75ID:JeTpzxhZ0017人間七七四年
2018/12/01(土) 17:48:54.22ID:jG4hoRvi館城みたいなのが多いのか、堅固なのが多いのか。
0018人間七七四年
2018/12/01(土) 18:23:30.34ID:QSXsYSjT0019人間七七四年
2018/12/01(土) 18:48:33.86ID:7JoTeUE/長岡が県庁だったのに
長岡藩が列藩同盟の精鋭だったばかりに
0020人間七七四年
2018/12/01(土) 22:52:54.99ID:YJt7g17vそこを拠点とか無理があるんじゃないのかな
西から来た人達にとっては消耗が激しいし行動が制限される
0021人間七七四年
2018/12/03(月) 00:05:03.50ID:Dd195Ykh西軍:徳川家康・大谷吉継・石田重家・伊達政宗・堀秀治・鍋島直茂・福島正則・小早川秀秋....etc
東軍:上杉景勝
これなら西軍楽勝だろう
0022人間七七四年
2018/12/03(月) 00:40:40.66ID:49K8Dq+60023人間七七四年
2018/12/03(月) 03:47:37.52ID:+0Pzkskh0024人間七七四年
2018/12/03(月) 17:08:44.87ID:PYCxwKP8敵に悟られんため味方も欺こう思いまして。
大津城なんか竹の柵で囲う程度でええんじゃ → 立花勢を関ケ原に呼び込む
大垣城なんか程々にしといたらええんじゃ → 三成の息のかかった九州勢を関ケ原に
宮津城なんかびびらす程度でええんじゃ → 小野木勢の大半を関ケ原へ
金吾、新庄侍従を決戦当日前に鉄砲玉を差し向けてはじいちゃる
0025人間七七四年
2018/12/03(月) 21:08:00.48ID:Uei/xEZ1そら家康が急に現れたらびびるわ
0026人間七七四年
2018/12/03(月) 22:57:24.36ID:Qm09ia8Q0027人間七七四年
2018/12/03(月) 23:36:29.16ID:a6DQ53a9三成が採用した策に西軍諸大名が服従する義務はない
別に三成は西軍大将でも軍事指揮権を委任されているわけでもないからね
三成が勝手に採用して勝手に戦えばいいだけだ
0028人間七七四年
2018/12/04(火) 06:56:51.13ID:nkIOxqIv0029人間七七四年
2018/12/04(火) 08:01:40.08ID:9LD2qjvBもしこうなってしまったら家康は戦う前に敗北決定。
福島正則を筆頭に小山会談で家康に加担した武将たちも戦意喪失。
0030人間七七四年
2018/12/04(火) 08:10:21.12ID:9LD2qjvB家康から所領安堵を約束されたとはいうけど、そもそも中国地方の所領は
毛利家が自分たちの努力で勝ち取ったものだから、いかに家康が豊臣政権の重臣とはいえ
彼にどうこう言われる筋合いはないだろうな。
0032人間七七四年
2018/12/04(火) 13:02:01.29ID:9LD2qjvB0033人間七七四年
2018/12/04(火) 13:35:45.33ID:6d493WpLまあ、誰でも疑問に思うのは、秀頼を前線「大垣か佐和山あたり」に出せば済む事って
話ですよね。
東海道の豊臣恩顧はあの時点は完全に豊臣家の家臣だから、家康が命令しても無視を
するでしょうね。
0034人間七七四年
2018/12/04(火) 13:44:23.13ID:OOcak8o1秀頼は西軍じゃねーよ
0035人間七七四年
2018/12/04(火) 14:28:33.99ID:c5El1wbzミサイルあったら勝ったと言ってることほぼ同じだわ
0036人間七七四年
2018/12/04(火) 15:26:00.11ID:BJif2DD7仮に発案者が輝元だとしてそれをやろうとしたら他の西軍の大部分が敵に回る
少なくとも五奉行、宇喜多、大谷、小西は敵に回ると見ていいし小早川を始め意図せず西軍に組み入れられた連中も同調する
むしろ大坂城内の連中が西軍首謀者だった場合ですら秀頼を大垣に出すことは有り得ないレベル
あと豊臣恩顧の東軍諸将は奸臣の手から秀頼を救出するためって名目で士気が上がる(拐われて担ぎ出されてるのが明白だから)
もちろん万一にも殺せないから戦いにくくはなるが、それ以前に西軍がいなくなって戦争にならない
0037人間七七四年
2018/12/04(火) 16:07:34.23ID:x3LfrD2e0038人間七七四年
2018/12/04(火) 16:32:52.24ID:9LD2qjvB家康のことだからその後にいろいろな策を講じて挽回するのは間違いないだろう。
それを阻止するためには三成は合戦前に送った家康への弾劾状を基に
秀頼の名の下に家康を処分しなければならない。
まず家康を大老の地位を剥奪する。そして家康の領地は上総・下総を残して全ての領地を没収。
0039人間七七四年
2018/12/04(火) 17:28:16.01ID:tbh3xfl+毛利も上杉も、豊臣政権なんぞに自分の領地の事をどうこう言われたくなかったから、
瀬戸内周辺を自領下にしようとしたり、最上領を攻めて越後にちょっかい出したんじゃないの?
別にその辺に文句付けるのは勝手だけど、それ言い出すと
戦国時代よもう一度が絶対の正義になっちまうぞ、豊臣政権が勝手に決めた領地配分に
諸大名が従う理由が何一つなくなってしまうからな
>>38
内府違いの条々なら出したじゃん、どうなったかはあえて言わんけど
というか、それを出したから西軍諸侯は家康に従う大名などいるまいと高をくくってたんだが
0040人間七七四年
2018/12/04(火) 18:45:09.40ID:JFEffv0n0041人間七七四年
2018/12/04(火) 20:01:57.50ID:4CDWC90U0043人間七七四年
2018/12/04(火) 20:52:20.52ID:ETsqEBtaは秀吉の遺言だったろ
0044人間七七四年
2018/12/04(火) 21:37:42.96ID:tbh3xfl+秀頼を戦場に連れ出して〜とか、秀頼に西軍を官軍と言わせて〜とかいう人が時々いるけどさ、
それって西軍による豊臣政権のまぎれもない私物化だし、
秀頼(豊臣家)の意思を無視した行動そのものだって事に気が付いてないんだろうか?
西軍は家康が政権を専横して天下を好き勝手してるとか言ってるけど、
天下を好き勝手してるのは一体どっちなんだと言いたくなるぞ、こんなやり方
家康の専横は許さんが、西軍連中ならOK!って酷いダブスタだと思う
一応釘をさすけど、勝てば官軍とか絶対言うなよ
それ言った瞬間、秀吉死後の家康の行動を全肯定する事になるからな
家康に抵抗した人物が全て愚かな悪人という事になってしまう
勝てば官軍とはそういう事だ、それに納得できない人がいるからこういうスレが立つんだろ?
0045人間七七四年
2018/12/04(火) 22:05:46.59ID:BJif2DD70046人間七七四年
2018/12/04(火) 22:25:52.68ID:nkIOxqIvこれで七将の溜飲を下げます
0047人間七七四年
2018/12/04(火) 23:05:45.15ID:sjs+EX0k勝った方が道義的に正しかったというのとは全く逆の意味だし
家康が正しくないから西軍を勝たせるべきとかそんなスレでは全くない
0048人間七七四年
2018/12/05(水) 04:12:46.05ID:lCKC9Q3l秀頼だけ拉致して連れまわしても効果は疑問。
あくまで豊臣は家臣同士の争いとして中立というより傍観してる状況では
幼君を拉致した、としかとられないと思うが。
秀頼の拉致はマイナスの効果のほうが大きいと思う。
0049人間七七四年
2018/12/05(水) 05:26:57.80ID:9KgPWKk/0051人間七七四年
2018/12/05(水) 12:57:50.78ID:+NgR+3FT0053人間七七四年
2018/12/05(水) 16:34:43.80ID:MzZrDmz4でもさ、本来秀頼成人するまで論功行賞ってのも「家康に蔵入地横領させない為」有ったはず
ですよ。
既に、豊臣家の蔵入り地を自分だけの判断で横領してるじゃん。
0054人間七七四年
2018/12/05(水) 16:53:12.79ID:Z8BKmbTZそもそも論功行賞を秀頼成人までストップさせなさいなんて無理難題遺す方が悪いレベルちゃうか
家康を秀吉が生前から警戒してたなんて史料からは全く読み取れないし、むしろ弟よりも席次を上にするレベルに贔屓してる
0055人間七七四年
2018/12/05(水) 20:10:12.47ID:vT5hvAzK唯一得をしている(ように見られてる)集団が論功行賞を停止なって言ったらどうなるか
それも自分達の政治的影響力を守るためときたら
0056人間七七四年
2018/12/05(水) 22:06:21.92ID:HZ0FQMnDやはり利用できるものは何でも利用して自分に有利な状況へ持って行けた者が勝てる。
0057人間七七四年
2018/12/05(水) 22:21:01.47ID:4mhcXAIB0058人間七七四年
2018/12/05(水) 22:25:49.42ID:Oq6CBDh30059人間七七四年
2018/12/06(木) 00:06:06.19ID:9WzQ1i/2蔵入地は元から収支が不透明で奉行による不正の温床になっていたからね
増田や長束や玄以の城からは関ヶ原後に石高の規模を遥かに超える金銀が発見されており
相当な横領が横行していたのは間違いないことだ
朝鮮に行かされて疲弊した状態で自分たちのなけなしの米が奉行に横領されていたら
加藤たちが怒るのも無理はない
蔵入地の制度は問題がありすぎて解体するしかないのが実情だった
0060人間七七四年
2018/12/06(木) 00:28:29.16ID:lUEYdPYv>蔵入地は元から収支が不透明で奉行による不正の温床になっていたからね
増田や長束や玄以の城からは関ヶ原後に石高の規模を遥かに超える金銀が発見されており
相当な横領が横行していたのは間違いないことだ
ソースくれ
0061人間七七四年
2018/12/06(木) 09:43:53.84ID:V+7uphr6西軍を倒してしまったら面白いかも
秀頼様を救出じゃああって張り切って
0062人間七七四年
2018/12/06(木) 10:46:20.15ID:9cIE12vvかといって講談だけで語ることもできない。
客観的な推測もおりまぜながら、真実の関ヶ原をまとめるべき。
0063人間七七四年
2018/12/06(木) 11:13:38.57ID:Py7DOUkc今は真実扱いでも史料発見1つで変わる可能性もある
0064人間七七四年
2018/12/06(木) 11:17:08.21ID:Cxk/T+oa0065人間七七四年
2018/12/06(木) 11:20:57.60ID:m6C1uFpZ解釈は変わるもんだから、変わったら変わったで好意的に受け止めればいいし
たとえ後々新史料なりで解釈が変わって間違ったアプローチしてたやつと同じ解釈になっても、それはたまたま答えがあっただけで過程は間違ったままだし
0066人間七七四年
2018/12/06(木) 21:04:33.43ID:VRPND+4n井伊・本多の同意なくして軍令違反はしないと思う。
上流池田隊の早期渡河もタイミングが早かったというだけで、
渡河する予定であったのは間違いないし。
ところで一次史料と二次史料の違いがいまいちわからんのだけど。
太田和泉守記や水野勝成覚書や吉川広家の覚書等、
当人は関ヶ原当時生きていて、ただ書いたのが後年というだけでしょ?
公家の日記や当時の書状にしたって風聞、誤記、勘違いはあるわけで、
関原軍記大成とかの軍記物みたいに既に当時の人間が生きていない時期に
成立したものなら信憑性に疑問もわかるけど、
当時生きていた人の書いたものの信憑性はそれなりにあると思うんだがなぁ。
0067人間七七四年
2018/12/06(木) 22:22:17.39ID:Py7DOUkcもちろん一次にもそれが含まれてる場合もあるけどね
どっちにしろ1つの史料では確定とは言えない、複数の史料をつき合わせて、真実に近づけるだけだ
0068人間七七四年
2018/12/06(木) 23:07:23.55ID:aJ6ArGkB後になってから書き残すために編纂されたのが二次資料
どちらも誤記や事実の隠蔽がある可能性があるけどその性質が全然違う
一次資料が二次資料より絶対正しいとは限らない
けどどういう意図のもとにそれぞれの資料が作られたのか踏まえて検証する必要がある
0069人間七七四年
2018/12/07(金) 00:18:10.28ID:qojIeiRv加賀藩と手紙のやり取りとかしてそうに思うけど。
0070人間七七四年
2018/12/07(金) 00:30:29.00ID:eoWkuNGa手紙だと生活支援してくれる旧臣らに宛てた手紙があるが、復帰を望んでいたらしい
真田昌幸と同じ境遇だな
0071人間七七四年
2018/12/07(金) 03:07:15.60ID:2J7wAG1oまぁ前田のリップサービスかもしれんけど
0072人間七七四年
2018/12/07(金) 08:04:39.41ID:qLNostTc合戦後は大阪城を退去したあと大幅な領地削減。
0074人間七七四年
2018/12/07(金) 09:03:17.18ID:ELTuk1Ni本来なら輝元は敗戦の責任を取って死罪か最低でも切腹が妥当なところだろ
それを領地削減で済ませるのは素晴らしい温情としかいえない
むしろ家康が処分を下す前に輝元が自発的に切腹して武士の意地を見せればよかっただけ
0075人間七七四年
2018/12/07(金) 10:27:11.34ID:0eCBLJuwんで調べたら自発的な行動の証拠がゾロゾロ出てきて見過ごせなくなったから相談して落とし所を探ったって認識してる
0076人間七七四年
2018/12/07(金) 12:23:23.51ID:LcDUn/Qaのうのうと生き永らえるテル
0078人間七七四年
2018/12/07(金) 16:42:17.62ID:2J7wAG1o0079人間七七四年
2018/12/07(金) 16:49:01.09ID:sqrjX/Fo0080人間七七四年
2018/12/07(金) 17:21:18.10ID:iGUxARkD0081人間七七四年
2018/12/07(金) 17:44:14.24ID:YeWrWGiv0082人間七七四年
2018/12/07(金) 18:00:13.20ID:qLNostTc元就自身は安芸の国人から苦労して成り上がったから晩年まで獲得した領地で
もうお腹いっぱいだろうけど、子孫は天下取りの野望は捨ててほしくはなかったな。
0083人間七七四年
2018/12/07(金) 18:08:20.29ID:9w69zDL8大友戦でもあれだし
元就がいないと戦争で機能しないの?
ナポレオン軍のような戦場では有能な将軍は沢山いても自分で戦略を立てて軍隊を動かせる将軍は片手の指にも満たない、みたいな
だとすると元就の遺言は自分以外は肥大化した毛利を動かせない、という意味もあるのかな
0085人間七七四年
2018/12/07(金) 18:28:30.23ID:qLNostTchttp://or2.mobi/data/img/217432.jpg
0086人間七七四年
2018/12/07(金) 18:32:21.86ID:qLNostTc0087人間七七四年
2018/12/07(金) 21:06:49.05ID:6bDDFQn8そこな、確かに家康に騙された訳だけど、あの場合信じる方も問題有るよね。
市況板に定期的に湧く、露骨な詐欺や乞食を信じる奴と同じだし。
あそこ迄露骨な詐欺だと、逆に家康を余り責められん気もするんだよね。
シャープを騙した鴻海の会長みたい。
0088人間七七四年
2018/12/07(金) 21:38:12.50ID:u9F8/z97先に恵瓊たちに巻き込まれただけつってペテンにかけようとしてるの、毛利側やろ
んで大坂捜索したらその話とは違ってごろごろ主犯の証拠が出てきたから更にペナルティってなったんやろ
正直これで家康が詐欺した云々は言いがかりレベルやろ
0089人間七七四年
2018/12/07(金) 22:19:09.87ID:eoWkuNGa最近は三成らの挙兵もそこに輝元が主導的に関わってるのも家康は予想してなかった説も強くなってきた
家康はずいぶんと油断してたと思うんだ
0090人間七七四年
2018/12/07(金) 22:44:18.17ID:u9F8/z97家康むしろかなりの瞬間湯沸かし器だし、異様にリカバリーが上手いだけで最初から思い通りに行ったことなどないレベルの行き当たりばったりだと思う
リカバリーがうますぎてあれは家康が最初から謀略してたんだって認識した人間から印象ついていったんだろうけどさ
0091人間七七四年
2018/12/08(土) 07:10:31.95ID:iSvgImMTじゃなけりゃ輝元だって篭城すんだろ。
0092人間七七四年
2018/12/08(土) 07:12:14.02ID:iSvgImMT徳川に引導渡したのは毛利だし、雪辱は果たしてるしな。
0093人間七七四年
2018/12/08(土) 08:18:43.38ID:KkojeROR大坂夏の陣なみに語る意味がない
0095人間七七四年
2018/12/08(土) 14:13:11.60ID:3srGw1mx0097人間七七四年
2018/12/08(土) 17:32:33.98ID:KkojeRORついてくる奴いるのか?
0098人間七七四年
2018/12/08(土) 17:43:01.08ID:WyejwVKm0099人間七七四年
2018/12/08(土) 19:35:07.54ID:BPBJK6ik0100人間七七四年
2018/12/08(土) 19:37:39.13ID:XejPob1I■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています