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■上杉謙信女性説6■

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0001人間七七四年2018/11/11(日) 18:59:27.52ID:POioVUUl
前スレ
■上杉謙信女性説5■
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1217040430/

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上杉謙信=女性説を今こそ語る
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1109480398/
■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説2■■
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1113183967/
■■徹底史料分析!■上杉謙信女性説3■■
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1121256498/
■■■徹底史料分析!上杉謙信女性説4■■■
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151242169/


関連スレ
【毘】上杉家を語る 拾【義】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1210126105/
【酒と涙と】上杉謙信は女の子その6【軍旗と萌と】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151063379/
上杉謙信女性説
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1472896603/
0002人間七七四年2018/11/11(日) 19:00:27.70ID:POioVUUl
●おもな史料リファレンス●

『上杉史料集』(井上鋭夫校注、全3巻、新人物往来社、1969)
北越軍談・上杉三代日記・北越耆談・川中島五箇度合戦之次第・松隣夜話・上杉将士書上・久知軍記・古案記録草案
『上杉文書目録』( 米沢図書館編、1969)
『上杉家御書集成』(全2巻、上越市史専門委員会中世史部会編、上越市史叢書6)
『上越市史』(資料編全7冊、通史編全7冊、別冊1、上越市史編纂委員会)
『甲陽軍鑑』(土橋治重、矢立出版、1981)
『サンデー毎日』の「読物専科」に書いた「血戦川中島」と、『問題
小説』7月号・8月号に書いたものと、『歴史読本』に書いた「謙信
論考」の3本を1冊にしたものという。謙信女性説の原典的存在。

スレ必読書
『上杉謙信は女だった』(八切止夫、2002年復刻、作品社八切意外史)\800
『疾風上杉謙信』(2001年、学研歴史群像シリーズ)\1600
『上杉氏年表』(矢田俊文・池亨、2003年、高志書院)\2500
0003人間七七四年2018/11/11(日) 19:02:42.54ID:POioVUUl
<謙信女性説の主な論拠>
・謙信の死因は大虫(婦人病)虫気(腹痛・陣痛)である、と歴史書に書いてある。
※大虫については「孫太郎虫売り」江戸中期から昭和初期までの、いわば行商人
(矢切氏も実際に見た可能性あり)。ひき札(広告)に【大虫】と出しており、それが【生理】を示す、
とされる。※虫気については「虫気之由申候間(腹痛だなどと言ってことわられた)」(信玄書状)
・毎月10日前後に腹痛をおこし、合戦を取りやめている。(生理周期には疑問が出されている)
・謙信の武勇を称えた当時の唄で、謙信は女性扱いである。
・スペイン国王フェリペ2世宛ての、日本についての報告書で、謙信は女性と書かれている。
・156cmと男性としては小柄なのに、「大柄」と評される。
・杉浦岱典の『戦国武将の墓相』(秋田書店)によると、「謙信が女性であり、かつ
 終始離れなかった男性の存在を示している」 「さらに二基の五輪塔の近くに、
 もう一つ小さな墓があるのだが、これが誰の墓であるにせよ驚くべき事実を暗示している。
 謙信は「こども」を産んでいた!」 取材時に明治18年柏崎生まれの古老から
 「謙信女性説」を教えられた。としている。
・一般に流布している髭面の謙信肖像画は明治31年作の版画。
・伝謙信自画自讃像や佛画には髭がない。主観的には女に見えなくもない。
・直筆書状に「かしく(かしこ)」や「女き(女騎)」「早く帰りたいし、心細い」などの記述。
・鎌倉鶴岡八幡宮への願文に「后神功皇后…忽化男形(たちまち男性化)」と、男性化願望の記述。
・義輝の正室(近衛前久の妹)や太田資正の妹(三戸駿河守正室)、
 宇都宮広綱の正室(佐竹義重の妹)との書状交換が多数認められる
・那谷寺に謙信の愛用の琴が現存している(花嫁修業をしていた)
0004人間七七四年2018/11/11(日) 19:02:58.99ID:POioVUUl
<男性説側の主な反論>
・幼女は寺で修行しない。
(同時代の男性名の女性武将、井伊直虎=次郎法師の例があると反論あり)
・家臣等が往来している近隣諸国の文献にそれらしいものがない。
(女性を傍証する文献は直筆書状にある=上記と反論あり)
・厳しい女人禁制の高野山に2回登山。
(登山は「上杉年譜」江戸時代の編纂記録で、伝承の域を出ないと反論あり)
(女性でも普通に登山出来たとの反論あり)
・生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
(名前と同様に、男性を装っていた場合は当然ありうると反論あり)
<すでに論破された男性説側の反論の一例>
・謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記(女には絶対つけない戒名)
(江戸時代につけられた高野山清浄心院=江戸中期創建、ので
お取り潰しを回避するために捏造された可能性が高い)
0005人間七七四年2018/11/11(日) 19:18:33.35ID:ztxMMiNN
謙信は花嫁修行をしていた!
謙信愛用の琴が那谷寺に現存
2017年初公開

ttps://www.47news.jp/476119.html

「上杉家から前田家に贈られたとされる. 上杉謙信の琴や、豊臣秀吉から千利休に. 贈られた茶釜などの所蔵品を公開します。」
0006人間七七四年2018/11/11(日) 20:40:46.23ID:0ogrCy5U
バーカ
0007人間七七四年2018/11/11(日) 20:41:41.15ID:0ogrCy5U
なんで勝手に新聞に書いていない「花嫁修業をしていた」とか捏造文をくっつけてるんだこのアホは
0008人間七七四年2018/11/11(日) 21:08:27.08ID:ztxMMiNN
>>7
里に帰れ
0009人間七七四年2018/11/11(日) 21:16:25.19ID:ztxMMiNN
前スレより

669 人間七七四年 sage 2018/09/29(土) 01:22:43.92 ID:t3CmWvi9
高野山もそもそも当時の女性に大人気だったのに女人禁制がどうとか見当違い過ぎるしな
女性に人気あったんだし謙信が高野山に行っても別に変じゃないだろ

670 人間七七四年 sage 2018/09/29(土) 02:30:10.01 ID:t3CmWvi9
高野山に関してはスレではそもそも登山は伝承なだけで登ってないって見解だけど
男装すれば女性でも普通に入れたって説もあるし(私はこの説支持)
男説側の女人禁制は間違いじゃないけど一方で高野山は比叡山と違って当時の女性に人気があったからね
だから女性である謙信が二回行ってもむしろ不思議でもなんでもない

ttps://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/koya/kouyasanzanmeguri.html
高野山への参道としては俗に「高野七口」と呼ばれる街道が通じており、かつては各入口に女性のための籠り堂として女人堂が建てられ、女人信者は御廟を拝みたいと、女人堂から女人堂へ八葉蓮華の峰々を辿ったといわれ、この道を「女人道」と呼んでいます。

671 人間七七四年 sage 2018/09/29(土) 02:31:50.42 ID:t3CmWvi9
男装しなくても普通に登山出来た

ttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/5103787.html
女人禁制は、建前では空海の開山以来からかもしれませんが、女人堂を建てて女性はここまでと規制したからには、山上の寺院まで参詣する女性がいたからではないか、と思ったからです。
江戸末期の紀行文(現代語訳)を読んでみますと、下男を連れた女性が、女人堂で案内人を頼んで堂々と山上巡りをして宿坊に泊まった例があります。
女性向けの「御守り」が山上で売られていることから、女性も普通に高野山参りができたと推測しています。
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