>>432 宛続きその3
次に、貴方こと必死な織田ファンさんが8スレ515において御喚きになられておられましたようにも思われます、
平山氏の著作である「武田信玄」におきましても、
貴方がおっしゃられているような事は特に書いてないようには思われる次第ではございますし、
平山氏の著作である「武田信玄」におきましても、郡上遠藤云々が誤算だなどとは一言も書いておらず、
朝倉の一時撤収については書いておられますが、このスレの過去スレなどでも何度も指摘をしてきましたように、
2月には信玄が朝倉が再出陣する報告を受けて、それを東老軒に伝えている書状を出している事などを
普通に書いておられたりするわけなのではございますが、これらの事柄などなどに関しましても、
おはやめに御回答の方などを御早めによろしくお願いいたしますかねえ。

そのような事を述べておられるのは、貴方が必死に前に喚いておられました、
平山氏の歴史群像の記事のようには思われる次第ではございますが、
前にも何度も指摘をしておりますように、歴史群像のようなエンタメ性も強い雑誌では、
結構学者さんもその時その時で異なる論旨の記事を書いていたりもするわけではございますしねえ。
これまでにも、何度も指摘がされてきたようには思われる次第ではございますが、
歴史群像のまた異なる記事である「信玄の外交と版図」というのでは、普通に遠藤・朝倉・一向一揆・浅井・松永・六角・蒲生、などが
信玄と結んでいた事を普通に書いておりますし、遠藤などが武田軍の美濃侵攻に合わせて蜂起する計画だった事も普通に書いておりますし、
「しかし、こうした遠大な計画は、ついに信玄の死によって発動されることなく、」
「信長・家康は窮地を脱する事ができたのである。」と書いており、信玄の死亡によって、
その戦略計画が中止となる事になった、的に普通にかいておられるようには思われる次第なのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましても、なにとぞなにとぞ御早めに具体的なるご回答の方などをなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。