>>3 >>4 >>5 宛続き
で、まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとなさられながら、
>>13 >>14 >>16 >>17にありますように、
普通に貴方こと必死な織田ファンさんがID切り替えやら複数端末やらによる多数派装いを、
ネット廃人的なご生活などをなさられながら、一日中貼りつかれながら、
捏造曲解やらレッテル貼りやらにご狂奔なさられようとなさられながら、
必死におやりになられておられますように思われますが、
それと似たような事はこれまでにも何度も指摘がされているようには思われるのですが、
信長などが謙信に対して信玄西上の時に1573年3月ごろに送った書状では、
「信玄率いる武田西上軍は織田徳川軍に敗北して山中に引きこもっている状態で、
近々撤収するだろうから、織田・上杉・徳川の三勢力で武田領土に侵攻して、
信玄を打ち倒そう。」的な話になっているわけでして、
果たして謙信がこれをどれだけ本気だったかは、その後も謙信は上記の書状通りでしたら、
武田西上軍が武田領国に撤収していようといまいと、武田領国に織田徳川と共に侵攻しているはずでしたのに、
そのような事は特にせず、普通に北陸とか関東の方に向かっているのが史実なわけですしねえ。
そもそも、根本的な問題としましては、織田は元々1572年11月20日の謙信宛の書状で、
「北陸一向宗とかの相手はまずは辛抱して、武田領土に侵攻して欲しい。
信玄さえ打ち倒してしまえば、北陸一向宗とかはどうとでもなる。」的な事を書いて、
謙信に武田領土への早期侵攻を要請しているわけなのではございますが、
謙信は結局は北陸の方を優先して、1573年の4月くらいまで遠征を続けたわけですしねえ。
謙信の優先順位が奈辺にあるのかが、非常にわかりやすいようには思われる次第なのではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。
そもそも、信玄西上の時期にも謙信はこれからも自身が関東に出陣する事を述べておりますし、
現に北陸がひと段落した後は謙信は武田とかを特に攻めずに関東に出陣をし、
北条側に攻められて苦しい状況になっていた、関宿やら羽生やら、を救援するために
1574年の末まで関東の各地で戦い続けているわけではございますし、
1574年の時期には勝頼とかも謙信が自身達と戦うどころの状況ではない事を重々承知していたようで、
2万5千もの大軍で高天神を攻めたり、徳川の主城である浜松を大軍で侵攻して蹂躙したりしているわけなのではございますが、
これらの事柄などなどに関しましての、御回答の方なども御早めによろしくお願いいたしますかねえ。