>>175
武勇的に考慮しますれば、信玄、信長、謙信、家康、氏康、といった有名戦国大名達の後継者達の中でも
随一ともいっていいのではないかとは思うのですが、いかがなものなのではございましょうかねえ。
>>91
一体、なにをどうやったらそんな話になるのか、とは思う次第ではございますので、
資料やら史実やらを基になさられましての、具体的なる御回答の方などを御早めによろしくお願いいたしますかねえ。

で、まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられようとなさられながら、
>>13 >>14 >>16 >>17にありますように、
普通に貴方こと必死な織田ファンさんがID切り替えやら複数端末やらによる多数派装いを、
ネット廃人的なご生活などをなさられながら、一日中貼りつかれながら、
捏造曲解やらレッテル貼りやらにご狂奔なさられようとなさられながら、
必死におやりになられておられますように思われますが、
信玄は5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻計画を計画しておりまして、
これらが行われますれば、三方向から美濃に侵攻をして、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、 普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、
そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。