武田勝頼についてPart6
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0001武田信玄
2018/06/19(火) 11:33:48.27ID:Wp2nkCuuhttps://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1527734172/
0371人間七七四年
2018/07/14(土) 22:11:36.73ID:IvDwajqa0372人間七七四年
2018/07/15(日) 05:36:48.30ID:Y6i++O1Z落ち武者狩りにあってとても到達できんやろ
0373人間七七四年
2018/07/15(日) 10:28:08.75ID:XZfA4EdJ0374人間七七四年
2018/07/15(日) 12:00:43.48ID:jjZDgKo00375人間七七四年
2018/07/15(日) 12:40:22.07ID:NMJaREmb>福島らが岐阜城を取り囲んで別働隊が揖斐川か長良川押さえたらどうするの?
長篠城に包囲軍をおいて戦力分散した勝頼みたいな考えだなw
別動隊なんて兵力が少なければ各個撃破されるだけじゃないか
0376人間七七四年
2018/07/15(日) 12:45:04.98ID:cFjFtwFm越後に行くなら北条夫人は北条に返してるだろうし
0377人間七七四年
2018/07/15(日) 13:15:35.07ID:Z2SGXwMr川を渡河するのに、どれだけ犠牲払うつもりだよ。岐阜城包囲に1万数千、川に2万も配置されたら渡河は厳しいぞ。
0378人間七七四年
2018/07/15(日) 15:29:35.45ID:VjAwEEcI0379人間七七四年
2018/07/15(日) 16:05:03.18ID:0XvkkZiS関ヶ原や大坂陣といったスレなら参加した武将それぞれの話題に振れるから大きく外れることもないだろうが
勝頼の話に自分が戻せばいい
戻せる力ないなら戻るまで黙ってるが賢明
0380人間七七四年
2018/07/15(日) 17:00:25.14ID:5DtI6eNN勝頼が北条夫人を北条に返して勝頼と信勝は越後に逃亡
越後で景勝と一緒に最後の戦いに臨もうと思っていた所で本能寺の変勃発
史実通り信長と信忠死亡
勝頼はどうする?
(状況)
景勝に兵1000を借りて北信から南下。森は美濃へ逃走。河尻は一揆で身動きが取れず北条は上野で滝川と対峙。
上野で北条が足止め食らってる間に勝頼は一気に甲斐に突入
旧武田家臣団は勝頼派と徳川派に分裂
約5000に膨れ上がった勝頼軍は甲斐で元武田家臣団の曽根、岡部の徳川先鋒部隊と激突
0381人間七七四年
2018/07/15(日) 17:21:04.20ID:TcHS2nnY甲陽軍鑑
安倍宗貞、木曾の説得を進言するも長坂釣閑斎が反対する
信豊を総大将に鳥居峠で激突し敗北
信長公記
今福昌和が大将として兵を率い、藪原側から鳥居峠へと進撃
苗木久兵衛(遠山友忠)父子が木曾軍に合流し、奈良井側から鳥居峠へと進撃
鳥居峠で両軍は激突し勝利
馬場昌房は深志城に籠り引き続き織田・木曾軍と対峙
この戦いで跡部治部丞、有賀備後守、笠井、笠原(これらは諏方関係者)ほか、40余りの将の首を取る
甲乱記
(昔信玄が木曾にしたように)正規軍を今福、側面を馬場で攻撃することで攻略を狙う
今福昌和を大将に諏方衆を中心とする兵3千騎は奈良井から鳥居峠へ向かう。
この地は狭く難所でかつ残雪が深く足場は極めて悪く一方で木曾は慣れている
先陣は善戦するも木曾方の別動隊が側面を突いて一気に武田方崩れ始めたところで
諏訪頼豊、諏訪頼忠、秋山紀伊守の軍が別ルートから援助にまわってきて再度持ち直す
その間、木曾の側面をつくはずの馬場昌房を大将とする深志衆は馬場が古畑、西牧を先鋒に派遣するもこの2人が木曾に内応
それを知った岩岡父子も見限り、彼らは反乱軍を結成
馬場昌房は鳥居峠に向かうことを断念し籠城する
今福ら諏方衆も敗北する
武田三代軍記
大将・武田典厩(信豊)、副将・神保冶部、3千の軍勢で木曽に向かい、鳥居峠で激突し敗北し兵を引く
これを受けて勝頼は馬場昌房、多田治部右衛門に深志城を守るよう指示し彼らは深志城で籠城する
0382人間七七四年
2018/07/15(日) 17:34:07.14ID:jjZDgKo0甲斐信濃の民衆は長篠以降の重税徴兵で勝頼を恨んでるから
1000人程度の兵を借りて来たところで蜂起した住人達に越後に叩き帰される
0383人間七七四年
2018/07/15(日) 18:23:03.64ID:3nA6Meny長篠以降にあれだけよく戦争したよな。
織田信長は岩村奪回後は西に傾注していたし、徳川家康だけなら高天神と二俣の守りを特に固めてその間に立て直しを図るべきだったのに。
0384人間七七四年
2018/07/15(日) 20:17:12.63ID:NMJaREmb頭が勝頼だなぁ
1万岐阜城に残して2万で長良川、揖斐川と広範囲に陣を敷くのか?
戦力分散したら敗けだって言ってんのにw
岐阜城まで最短で東に突っ切ってくるかもしれないし、関ヶ原北まで進んで回ってくるかもしれない
秀信だって東軍が木曽川をどこから渡ってくるか分からないから分散配置して陣を敷いた
そして負けた
そんな広範囲に布陣したら各個撃破だって言ってんだけどな
宇喜多などが合流すれば2万じゃ劣勢なのに
東軍はテレポートできる設定なのか?
0386人間七七四年
2018/07/15(日) 22:58:37.17ID:3v09HIB9実際にそれを疑わせる書状が残っていたと思う
0388人間七七四年
2018/07/16(月) 14:10:58.72ID:CRUoVeg4木曽川>>>長良川>揖斐川
木曽川は広く深いから渡河ポイントは限られ
そこで野戦築城すれば効果はある
揖斐川なんて川上のほうは中洲やら浅い場所なんていくらでもあるから
渡れる場所はいくらでもあるから意味がなかろう
渡河防衛を根本的に理解してないんだろう
0389人間七七四年
2018/07/16(月) 15:44:42.97ID:oC7M4opF0390人間七七四年
2018/07/16(月) 17:10:57.76ID:oZV3V0Ur秀信にそんな勝ち無いかあ〜
0391人間七七四年
2018/07/16(月) 18:15:28.62ID:X1rHktPn一日で落とされたという共通点があるな
0392人間七七四年
2018/07/17(火) 12:36:23.58ID:uB6v3AYQ間違ってはいないけど、落城の決定的要因は別だろう。
城の内情を知る者が攻城側にいる理由が致命的。
岐阜城・旧稲葉山城は名城と言われているが、よく落とされている。
道三、義龍、信長、信忠が城主の時は難攻不落。
龍興、信孝、信秀の時に落城or開城。
…こうして見ると、知名度の割に、義龍は信長相手に健闘している。
0393人間七七四年
2018/07/17(火) 12:56:22.22ID:vCZBYbQX義龍、信玄、謙信が死んでくれたのは運が良すぎる
その分一気に本能寺でツケ回ってきたけど
0394人間七七四年
2018/07/17(火) 13:02:54.55ID:zkTkzukI信玄は北信濃と駿河に時間掛けすぎて自業自得(というか信長の運に相乗りしてるし)
謙信も無駄に関東に出ていってタイムオーバー
両者とも後継者の選定にあとを濁して大問題引き起こしてるし
0395人間七七四年
2018/07/17(火) 13:39:01.08ID:UKLK2Vky兵力が足りなきゃ普通に守りきれないって感じじゃ。
0398人間七七四年
2018/07/17(火) 15:21:12.03ID:BEUhFSs8極端な話大阪城を5000名では守れないようなもんだな
0399人間七七四年
2018/07/17(火) 15:36:57.81ID:i7PHMOK9氏真が松平を敵と認識したのが1561年4月だから、信長が東方に意識しなくてすんだのもその時期からと言える
さあこれから尾張北部と美濃に全力入れようってときに義龍はくたばった
0400人間七七四年
2018/07/17(火) 16:04:15.89ID:kAvdB06g毛利も元就が元気にもっと長生きしてたら強的だったろうし信長は強運だな
0401人間七七四年
2018/07/17(火) 17:10:49.05ID:nQdFcpCi信玄は行き当たりばったりと非難されることがあるが信長も義龍が死んだから北上したって面もあるな
義龍が死んだから三河との同盟に本腰になったのかもしれんし
0402人間七七四年
2018/07/17(火) 19:11:59.29ID:P3gTtOoi全否定はしないが信長の場合、斎藤とはその数年前から敵対関係だからなあ
(しかも友好関係を放棄したのは斎藤側)
一方信玄は諸説あるけどギリギリまで今川とは友好関係だった上に、
上杉という外交的にももめない侵攻先があったから一緒にはしにくいよ
まあ謙信倒すのがほぼ無理ゲーではあるのだが
0403人間七七四年
2018/07/17(火) 19:33:01.71ID:nQdFcpCi0404人間七七四年
2018/07/17(火) 19:45:43.51ID:wxJVPjCQピンチになったら朝廷や将軍義昭の力を使って停戦交渉
信玄や謙信には貢ぎ物で気分を良くしたり外交をフルに使ってるからな
織田当主が勝頼だったら即滅んでる
0405人間七七四年
2018/07/17(火) 20:07:51.83ID:YNyXvHQp運を生かす力の差だね。
朝倉義景は運に恵まれたけど生かす力がなかった。織田信長は運を最大限生かした。
0406人間七七四年
2018/07/17(火) 20:11:42.08ID:l/HWD9a3そのために義昭を担いだし
京を抑えることが何より重要だから上洛を急いだ
0407人間七七四年
2018/07/17(火) 21:21:13.79ID:hc68wFuL一時期だけでも京都抑えれたかもしれん
0408人間七七四年
2018/07/17(火) 21:31:35.38ID:l/HWD9a3天下統一していたのは義景だったと思うよ
義昭がわざわざ来てくれたんだもん
0409人間七七四年
2018/07/18(水) 12:38:56.70ID:sE/WmHOj朝倉義景な。後世の後知恵だが、宗滴の背中を見て思うところは無かったのか?
武田勝頼が羨むほどの運と力があった筈。
0410人間七七四年
2018/07/18(水) 13:31:47.55ID:qbhYFwJN越前は畿内から近い割りに案外中央政権から束縛されずに力を蓄えられる
独特のポジションなんだろうな
近江の浅井も臣従させてたし
0411人間七七四年
2018/07/18(水) 14:37:09.92ID:VV84hofP宗滴が何でも自分でやり過ぎなんだよ。
80歳になっても現役だし。
義景に経験積ませるために、自分は補佐に徹して義景を戦場に叩き込むべきだったわ。
0413人間七七四年
2018/07/18(水) 16:44:04.25ID:80/+g+P5孝景や氏景は自分から畿内の抗争に首を突っ込んでいたけどな。義景はそういう経験してないから、あんなに惰弱になったんかな?
0414人間七七四年
2018/07/18(水) 17:22:26.48ID:rGyEzYiA義昭を引き留めなかったことと信長の上洛要請を拒否したことは失策だったわ
三好みたいに一過性の政権で終わると踏んだのだろうけど
信長が地盤を固めるうえで徳川以外の同盟国は無いほうがよかったのかもしれんけど
0415人間七七四年
2018/07/18(水) 21:33:30.06ID:m2F9Y8VE孝景はそれを利用して越前を領国にしたわけで
既に越前で安定してる義景が、危険に晒してまで義昭に協力するメリットはないよ
0416人間七七四年
2018/07/19(木) 01:05:48.25ID:1VRUQXcv如何も、織田と朝倉は先祖代々の因縁が有って宿敵同士だったみたいなんだよ。
元々管領の斯波氏の領地は越前と尾張なんだけど、何方かと言うと越前の方が本国だったみたい。
応仁の乱の時、越前は守護代の甲斐氏が守ってたんだけど、敵方に寝返った朝倉氏に負けて
しまうんだよ。
そんで政治工作で越前の正式な守護に任命されて下剋上をはたす。
斯波氏は尾張に逃亡して、その時に元々越前の豪族だった織田氏もお供したと。
だから、織田氏主観では主君を越前から追い出した逆臣の家柄が朝倉氏。
逆に朝倉氏主観で此方は越前の正式な守護、織田氏は尾張守護代で家格が
全然違うとね。
まあ、そういう経緯だから織田に頭下げるのは屈辱だろうね。
0417人間七七四年
2018/07/19(木) 01:05:57.10ID:vIYoxrXX大内細川三好と畿内抑えたはいいが結局京放棄したり衰退したりしてるし
斯波や畠山一色武田も将軍家と関わってるうちに本国の方が疎かになって衰退してる
これから下剋上するならともかく既に国のトップならメリット薄い
信長だって一時は京放棄しそうになったり、大内細川三好みたいに包囲網作られて大変な目に遭ってるし
0419人間七七四年
2018/07/19(木) 02:02:01.34ID:LOvcTJEZ彼が亡くなった後、少しずつ落ち目に
なってくんだよね。
加えて義景のあまりに消極的なやり方に
呆れて朝倉家内部のゴタゴタが絶え間なく
繰り返されている。
朝倉家の人材不足もあるけど、あまりに
宗滴1人に頼り過ぎたつけが出たような
感じだったわな。
浅井が織田を切ったのも朝倉宗滴が
浅井と六角の中に入ってうまくやった
のもあっただろう。
その頃の朝倉家にとって織田家は明らかに
格下だったから。
しかしそれから三年経って肝心の宗滴が
いなくなり、織田信長の台頭。
戦うか降伏が二つに一つ。
義景は降伏はあり得ないが攻めてきたら
迎えうつというあまりに消極的な
やり方をして滅亡に突き進んだ。
0420人間七七四年
2018/07/19(木) 02:09:20.27ID:LGsnIzJD0421人間七七四年
2018/07/19(木) 05:26:29.95ID:G+JIA0us0423人間七七四年
2018/07/19(木) 09:47:21.87ID:LGsnIzJD軍事外交と一括りにしているのになぜ外交だけ?
まあ信玄は信長が動けない信長包囲網に乗じて攻めているだけ勝頼より数倍マシですよ
と言うか信玄亡き後に重臣含めて大局で戦略や外交できる奴が一人もいなかったんだよな
0424人間七七四年
2018/07/19(木) 10:57:04.24ID:MpVxhUDs信玄が全部1人でやってたからな晩年は。
甲陽軍鑑でも信玄の決断が絶対で、勝頼にさえ関与させてないとあるし。
勝頼は信玄から全然当主としてのあり方や帝王学を受けてないから、大局なんか無理ありすぎ。
0425人間七七四年
2018/07/19(木) 11:29:57.57ID:LGsnIzJD山県や馬場らが存命でも信玄亡き後の大局を見れてないのもアレだよな
山県や馬場らは手駒としては優秀だが大局は信玄頼りだったのか
甲陽軍鑑通り勝頼がダメすぎたのか
0426人間七七四年
2018/07/19(木) 11:54:35.23ID:MpVxhUDsというか、信玄がおかしいとしか言えない。
三条氏が生きていて遠慮があったから1570年までは勝頼に関与させなかったのはまだ理解できる。
しかし三条氏が死去した後まで、勝頼に内政や中枢に関与させない、権力を移譲しないとあまりに異常な行動をしている。
勝頼は当主として何の経験も、有力な藩屏も持たずにいきなり当主になったから、これでは大局なんか見れないよ。
0427人間七七四年
2018/07/19(木) 14:58:13.84ID:y06HweNI武田の家臣団が外交に明るいとは思えんなあ
つーか、勝頼の代になってから外交の主導権まるで握れてないよね、武田家
0428人間七七四年
2018/07/19(木) 15:26:31.60ID:x1WpXyZt徳川が遠江で暴れ出したので撤退の必要があり、追撃食らう可能性を考えると講和するしかなかった
上杉が黄金渡したって話はどこまで本当か知らんが
武田と戦う意思がないことを示すうえで奥信濃の割譲は仕方ないだろう
どーせもう武田に抑えられてるので取り返すなら戦うしかないけど
そんな余裕が上杉にあるわけもない
だから武田としては領土も獲得したし北の脅威もなくなったので
これからは徳川との遠江に兵力を集中できるという意味で上杉との講和に反対する奴はいなかっただろうと推察する
まるでやる気がなかった北条と手切れする可能性はこの時点ではほとんど考慮されてないだろう
0429人間七七四年
2018/07/19(木) 15:50:31.27ID:aHY+C4KM0430人間七七四年
2018/07/19(木) 19:09:40.10ID:AvJNNO1Oじゃあどうすりゃいいんだよって言われると困るが
0431人間七七四年
2018/07/19(木) 19:23:09.09ID:r2dM75lDそもそも当事者である北条が出て来ない
時点で動き辛いから。
それに他国の内乱に干渉したくないと思うのは
当然の考え。
滅ぼしてしまったら骨の髄まで恨まれる
武田を滅ぼした織田家にしても信長が
死んだどさくさに紛れ甲斐にいた川尻
秀隆が殺されている。
北条が出て来ないのを確認して、勝頼は
中立を宣言する。
そのまま春日山まで行き両者の停戦を
結ぶ。
そうして景虎にしばらく時間を稼いで
もらってあわよくば北条の支援を
得ることを期待したんだと思う。
しかし武田が去ったあと、このタイミングを
待っていた景勝は一気に責めて景虎を
殺してしまう。
救援するタイミングを逃して悔しがった
北条は景虎の敗死を武田の責任にした。
武田にしてみたらとんだトバッチリだが、
状況からして北条に心中するか、独立した
道を歩むかの選択を迫られ、独立の道を
進んだ。
両者が力が拮抗した状況なら当然の決断
だが、武田は力が落ちていたので上杉にも
北条にもなめられ、結果いいように利用された
と考えられる。
武田にとっては非常に不運な上杉家の内乱で
あり、長篠で勢力を失った武田家はこれを
うまく乗りきれなかったのは極当然とも
言える。
0432人間七七四年
2018/07/19(木) 20:36:50.88ID:LGsnIzJD信長や家康も十代で家督継いでるんだからまともな経験はないぞ
信玄だって信虎に不遇な目に逢わされてたから21歳ぐらいで無理矢理家督奪取するし
28歳で家督を継いだなら年齢としては相応
十代で家督継がされるよりは戦場経験もあるだろう
0433人間七七四年
2018/07/19(木) 20:51:48.34ID:LGsnIzJD28歳までに何も教育を受けてないという言い訳されても城主経験や信玄に従軍して戦場経験は積んでるんだからな
秀吉子飼いの奴等も戦場で功を挙げて出世して大名になってるんだからな
0434人間七七四年
2018/07/19(木) 22:17:32.75ID:kFLrtDWN決定的な原因は謙信が死んだことであるのは間違いないな
0436人間七七四年
2018/07/19(木) 23:06:28.37ID:uBqfpVsl理由は勝頼が、単身で敵に突っ込んでいく
ことがあったから。
大将であり次期当主なのに自覚がないというか
向こう見ずというか・・・
諌めてはいたけれど、元々諏訪家を継がせたのもあって、信用出来る重臣を置いたりすることが出来なかった。
取り敢えず次の信勝までの繋ぎ程度の位置でしかなく、勝頼を中心に周りの歴戦の敵に戦いを
仕掛けることは、滅亡にもつながるから、
まずは守りを固めその後上方で動きがあれば
一度は京都に出よ。
って感じだと思うな。
長篠の後も大将なのに石垣を登ったり、やはり
勝頼は大将の器ではなかったんだろう。
特に親類衆から下に見られていて、その屈辱を
晴らすには戦って勝つしかなかった・・・
0437人間七七四年
2018/07/19(木) 23:07:39.53ID:HdY+0vG9なんだそれは
0438人間七七四年
2018/07/19(木) 23:33:16.69ID:CpLrIJa60439人間七七四年
2018/07/20(金) 00:33:38.60ID:zl7V+iOU調略や外交交渉もできるタイプでもあったな
すぐに家臣を無礼討ちするから人斬り兵部と呼ばれていたが
0440人間七七四年
2018/07/20(金) 00:35:38.88ID:SB1CaE0Xあの朝倉義景ですら信長に天下は朝倉さんが
取ったらいいよ
って超低姿勢になるまで追い込んだわけだから
宗滴相手ならもっと厳しい状況になっただろう。
肩書きにびびって信長配下の雑魚が腰引けてしまいそうだしね。
まあ実際もし生きてたら信長はめっちゃ低姿勢
になって、それこそ天下二分くらいの条件まで
出して直接対決を交わしたんでないか?
そうこうしてる間に死んでくれたらもうけものって感じで。
まあ朝倉宗滴が足利将軍から上洛の依頼受けてどうゆう対応取るかてのはあるけど、多分引き受けただろうから、京都に最初に上がるのは
朝倉家だったかも・・・
そうなったら歴史は当然変わる。
まあもしもの話で実際は信長はとことん強運だったから。
ついでにちょっと話は変わるけど信長が上洛する以前に、将軍家の依頼を受けて波多野氏が
八千の軍勢を率いて京都の守備のために上洛
したことがあったんだと。
その時の波多野氏の心境はどんなだったろう?
まあちょっとした達成感があったと思うな。
まさかその数年後に尾張の当時名もない織田信長に殺されるとは夢にも思わないだろう。
何か胸熱・・・
0441人間七七四年
2018/07/20(金) 01:08:33.45ID:841q4ff1それはまぁ若いし武功もないから周りを納得させるためにやらざるを得なかっただけじゃないの?
0442人間七七四年
2018/07/20(金) 01:19:17.19ID:YLo0xK+4もともとそういう性格なんだと思うよ
だからこその長篠の無謀な開戦や天目山での斬死なわけで
0443人間七七四年
2018/07/20(金) 07:49:18.44ID:xD2K7Md60444人間七七四年
2018/07/20(金) 10:10:40.97ID:G/zcmqzh先頭に立って部隊を指揮するのは当然と言えなくもない
義信が死んだのが全てだな
0446人間七七四年
2018/07/20(金) 15:02:39.24ID:ay/Em0VBむしろ継承後も先頭に立つ戦い方を要求される立場だった方が問題だろ。
陣代以上としては周りも見てなかったわけだし。反抗的な親族家臣粛正する余裕があればね
0447人間七七四年
2018/07/20(金) 18:10:12.14ID:zl7V+iOU軍事 70
知略 3
外交 5
内政 20
こんなイメージ
0448人間七七四年
2018/07/20(金) 18:55:56.88ID:d2+eVAjN0449人間七七四年
2018/07/20(金) 19:01:22.08ID:IK4KckhD0450人間七七四年
2018/07/20(金) 19:08:34.23ID:EtMEM8A3あんなところに移転させて意味あったのか?
まだ甲府に城作ったほうがマシだった。
そもそも韮崎のあの地。城下町はできていても無茶苦茶狭かったと思うよ。
単に山の上に作りたかっただけみたいな気がするんだよねあの城。
0451人間七七四年
2018/07/20(金) 19:10:45.85ID:d2+eVAjN甲斐だけ治めるならそれでいいかもしれんが
0452人間七七四年
2018/07/20(金) 19:47:33.75ID:zl7V+iOU新府城の築城で武田氏の財政をかなり悪化させ、真田家文書からもかなりの突貫工事で進め
しかも強行移転したから家臣領民に大混乱を起こさせ、人心が武田氏から離れたとも言われてる
内政力は正直無いかと
0453人間七七四年
2018/07/20(金) 20:49:06.00ID:k4usBKEN0454人間七七四年
2018/07/20(金) 21:03:46.63ID:9ctS4QhEいや築城がトドメになったと思う。
ただでさえ長篠敗戦後の立て直しで金を必要にしていた。部隊編成に鉄砲を重視するようになった。
これに加えて、新しい築城。しかもわずか1年弱の突貫工事をやっている。財政がこれで悪化しないわけがないよ。
0455人間七七四年
2018/07/20(金) 21:20:36.10ID:k4usBKEN新府築城は織田の侵攻に備えた段階だから
新府が原因とかではない
0456人間七七四年
2018/07/20(金) 21:21:01.29ID:pTI/EANT0457人間七七四年
2018/07/20(金) 21:23:57.68ID:k4usBKEN物資を運搬するのに適していたようだけどね
0459人間七七四年
2018/07/20(金) 22:31:42.98ID:k4usBKENそれは結果を知ってるから言えることであって
織田徳川の脅威が刻一刻と迫ったあの状況での判断は間違っていない
0460人間七七四年
2018/07/20(金) 22:43:04.82ID:9ctS4QhEいや間違ってるって。
それなら外交にもっと力を入れるなり、甲府に築城したらいい。甲府に築城なら新府ほど負担は無かったし、何より突貫工事すぎて酷すぎる。
0461人間七七四年
2018/07/20(金) 23:02:01.90ID:k4usBKENそんな質の低い感想言われてもな
もうちょっと理解してからにした方が良いぞ
0462人間七七四年
2018/07/20(金) 23:24:36.74ID:YLo0xK+4いやあ、当時から反対者いたと思うよ
金ないのに今更城なんか造っても防御で役に立つか不透明
人が城なわけで
そもそも新府城は西北は堅くないし
0463人間七七四年
2018/07/20(金) 23:58:26.09ID:zl7V+iOUそれで間に合わずに焼き払った時点でな
焼き払う前に降伏を申し出て切腹しとけよ
領民やその後のことなんざ何にも考えてない
0464人間七七四年
2018/07/21(土) 00:07:10.13ID:K0KuGojq実際その後は甲府城が躑躅が崎の目と鼻の先に建てられてる
勝頼時代の甲斐・信濃・駿河・上野の4か国になってしまうと新府城の輝きが増す
0465人間七七四年
2018/07/21(土) 00:49:18.22ID:4UuzB4ze理解が乏しいなあ。
いや、知識が乏しいのか。
0466人間七七四年
2018/07/21(土) 01:24:30.83ID:OTrDid98パワー系池沼だった。
0467人間七七四年
2018/07/21(土) 01:31:20.10ID:5b5c4eI3新府から甲府のせいぜい1日程度の距離でそんなに輝きが増すのか疑問
だいたい当時は北条と一番戦ってたのに
0468人間七七四年
2018/07/21(土) 01:32:58.57ID:K0KuGojqむしろ北条と戦ってたから間合いを取りたいという考えも合理的
北条が郡内に攻め込んできたこともあったしね
0469人間七七四年
2018/07/21(土) 01:38:32.48ID:5b5c4eI3物流が良いというなら何故後年韮崎は全く栄えなかったのか
間合いをとるとか意味不明
甲府を失ったら甲斐に価値なんかないし、家臣もついて来ない
0470人間七七四年
2018/07/21(土) 02:00:07.93ID:OTrDid98防衛網を構築するなら国境地帯に壁なり塀なり防衛城を建てるべきで
韮崎なんかに作っても無駄。
0471人間七七四年
2018/07/21(土) 02:05:21.81ID:K0KuGojq君には戦略的な視点が欠けてるから何言っても無駄というか
議論する価値もない
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