関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part15
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0359人間七七四年
2018/06/18(月) 20:42:11.56ID:/KLorNgO7月30日付真田昌幸宛石田三成書状からは、
美濃、尾張(福島が味方する前提かな?)で人留めを実施して
上杉征伐から帰ってくる者一人一人をねちねちと問い詰めるつもりでいた。
しかし戦況は刻一刻と変化していき、
8月5日付真田昌幸・信之・信繁宛石田三成書状では、
福島説得中、だめなら伊勢方面隊といっしょに清洲を攻撃するつもり、となる。
上杉征伐から帰ってきた連中(東軍先発隊)が尾張、三河辺りまで来ていると認識はしている。
8月6日付真田昌幸宛石田三成書状では
上杉征伐から帰って連中はほぼ東軍という認識になっていると読み取れる。
同時に加賀野井重望という者が三河池鯉鮒で口論になって水野忠重を刺殺したらしい、
同場に居た堀尾吉晴も負傷
と報じ(発生日時は7月19日か?)し、
中村一氏も病死した(7月17日死去か?)と報じている。
池鯉鮒事件と中村一氏病死については、8月10日付佐竹義宣宛石田三成書状でも報じられている。
これらのことから、西軍は諜報活動を怠っていたと思っていたが、
人数は少なかったかもしれないが、浜松、三河、尾張辺りに物見は出していたと思われる。
で、8月6日に浜松、三河方面からの物見が帰ってきて、早速書状に認めたのではないかなと。
ちなみに家康も池鯉鮒事件については
7月25日付上田清兵衛・鈴木次兵衛・鈴木久兵衛(水野忠重家臣)宛徳川家康書状で
水野勝成を後継とするよう伝えている。
次に東軍先発隊については、一団丸ごと清洲に向かったのではなく、
先発隊と後続隊があった模様で、少なくとも池田輝政、藤堂高虎、井伊、本多は後続。
8月5日付福島正則宛徳川家康書状では、
池田輝政、藤堂高虎、井伊直政を送ったのでよく相談し云々。
あとは参考として8月11日付田中吉次(非吉政)宛加藤嘉明書状に
今日池鯉鮒まで来た、城下を通してほしい、とある。
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