そういや織田秀信と東軍による岐阜城の戦いは元城主の池田がいたから籠城はよくなかった、みたいな話あるけれど
鳥居元忠と西軍による伏見城は前パートのスレの話だと伏見城在番を奉行衆大体経験してるわけで、それならある程度城の構造とかもわかってそうだけどこちらは10日くらい持ちこたえてるよね

もちろん岐阜城と伏見城なんて構造も規模もてんで違うから単純比較にはならないけれど後詰が全然来ない籠城で、攻め手に城の構造に精通した人間がいるといった共通項もあるんでどういった差が明暗を分けたのかってのは知りたいですね
あ、ただ秀信が無能だったからだよみたいなのは身もふたもないというか、彼なりに勝算あっての行動だとは思うんで、無能以外の理由も知りたいですね