>>364 >>365 >>366
まーたいつも通りに必死になって、 >>9 >>10にありますように、必死になって複数端末とかをID切り替えを
なさられながらの、必死な多数派装いなどをなさられながら、 レッテル貼りやら捏造曲解などにご狂奔なさられている、
24時間365日的なネット廃人的な生活をなさられているように思われます、
必死な織田厨さんである貴方が、いつも通りに捏造曲解やら、レッテル貼りやら、にご狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
机上の空論どころか、普通に示し合わせて行われているわけでございますし、
やり方自体も戦国時代に何度も行われていて、普通にセオリー的で、
朝倉浅井などが志賀陣で織田側に対して行い、織田を土下座降伏宣言和睦詐欺を行わざるを得ない程に追い込み、
武田・北条がより広い戦略的範囲で連携して、長尾上杉+関東諸侯などから、領域を徐々に征圧していった、
戦略的包囲を美濃というより狭い範囲で、武田・朝倉・長島の三勢力で行う、という非常に無理がないように思われる策戦であるわけでございますしねえ。
朝倉も一度は撤収しましたけれど、普通にその後で本願寺やら武田と交渉などを行い、
武田の書状では「朝倉がそろそろ再出陣するようだ。今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時。」とか書いてあり、
朝倉の書状でも「武田家臣の教えのおかげで織田に勝てた。もっと教えを請いたい。」とか書かれながら、
朝倉は三月に再出陣をしているわけでございますし、長島もこのころには北伊勢豪族衆を従えて
美濃尾張に焼き打ち侵攻をおこなったり、岐阜の近くに拠点を構築したりしているわけで
ございますしねえ。特に問題があるようには思われない次第でございますかねえ。
これらの件に関しましても、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

朝倉は現に三月出陣でも分遣隊を若狭に派遣して戦わせてますし、そもそも、この時期でも普通に織田側主力と戦って
戦果をあげたりしてますし、そもそもの問題として、信玄が死亡する前の1573年3月の出陣では、
特に問題なくフルメンバーで出陣しているわけですし、信玄が死亡して、一斉反撃計画が中断になってしまった事から、
勝利のみとおしが立たなくなり、朝倉側の一部の家臣で従軍拒否が起こった、という感じのように思われる次第でございますかねえ。
これらの件に関しましても、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

普通にこちら側は資料やら史実やらを基にして語らせていただいているわけでございますし、
信玄の五月侵攻計画やら、美濃侵攻計画やら、は普通に多くの学者さんなどが、
資料に基づいて、語っている事柄なわけなのでございますが、この件に関しましても、ご回答の方などをよろしくお願いいたしますかねえ。