>>345
何度も指摘されている事ではございますが、朝倉の従軍拒否が起こりますのは、
信玄が死亡して、5月侵攻計画も中止になってしまった後の8月の時の事でして、
普通に三月出陣の時は、普通に朝倉景鏡も魚住も特に従軍拒否は起こしておらず、
普通に参戦しているわけですしねえ。
特に問題はなにもないと思われる次第でございますかねえ。

「朝倉義景のすべて」松原信之氏の著。
86ページより。
「越前勢はたびたび近江に出兵して長期間駐留し、信長方と交戦した。そしてその兵粮米
はすべて越前から運んだものであった。また本願寺の越前門徒も近江門徒を支援して米や
物を送っている。江北の各地では毎年、秋を狙った信長方の侵攻、放火、苅田によりその
生産力が極度に低下したため、大いに越前からの兵粮米に頼っていた。一方、信長の軍勢と
戦闘に直面しない越前の民衆は物価の高騰など貨幣経済の混乱と共に戦闘負担による重税や
築城役などに苦しめられ、信長との対峙をいつまでも続ける義景の政策に対して不満の声が
渦巻いていた」

かなり朝倉も浅井も連年の戦いで疲弊していたと考えられますが、これが武田信玄の死のせいに
なるんですかね?

ちなみに貴方は勉強不足です。朝倉義景が景鏡に出陣命令を出したのは「7月」です。「8月」は
朝倉が滅亡した月です。これは同書87ページに書かれています。