>>235
相変わらず、都合の悪い事柄を必死にスルーしようなさられているご様子ではございますけれど、
>>219 >>220にも書きましたように、
>七年かかった駿河制圧
一体いつからいつまでで7年、なのか、と思うのですけれどねえ。
第一次駿河侵攻が開始されました、1568年の末から換算しましても、1571年の1月には、駿河の北条側の深沢城などが攻略され、
駿河のほぼ全域が武田領土になっているのではありますが、なにをどう計算しますれば、
7年、という事になるのかと思うのではございますが、これらの件につきましても、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、駿河攻め自体も、北条側の介入さえなければ、一ヵ月で今川勢主力が崩壊して駿府にまで侵攻しておりますから、
もっとはやくに終結したと思われる次第でございますしねえ。

西上の時には、開始された1572年の10月から、
信玄の病気で侵攻が一応とまる1573年の2月半ばまでの
4か月余りで、徳川領土の三分の一近く、が武田領土になっているわけでございますし、
明らかに後年になていけばいくほどに領土拡大速度が上昇しているように思われますが、
この件につきましては、いかがなものなのでございましょうかねえ。

>二俣城攻略に二万の大軍をもってして二ヶ月をかける
そもそも、二俣城は土塁が高すぎて、力攻めが非常に困難、という城でして、
長篠後で武田が援軍を送れなくなって、ほぼ孤立無援的になった状態ですら、
家康の包囲を相手に武田側が半年近く守り抜き、最終的に家康が
城主城兵の助命を条件にしてお引き取り願った、という程の城ですのに、
そのように言われましても、と思うのですけれどねえ。
信長も、長篠の後で孤立無援的になった岩村城を相手に半年近くかけても攻略できず、
最終的には謀略によって騙し討ちして攻略しているわけでございますしねえ。

>藪の中にあった小さな野田城を二万の大軍で陥落させるのに一ヶ月以上かかる
信玄が病気であったため、とされておりますしねえ。

>一方信長が上洛に要した期間はわずか二十日程度
既に内部分裂などで弱体化していた六角家がはやばやと城での戦いをやめて脱出し、
その後はゲリラ戦を行うようになった、というだけの話である事や、
三好政権も内部抗争中で、織田に対して迎撃の備えを行わずに撤収していった、という流れですのに、
そのように言われましてもねえ、と思う次第なのですが、いかがなものなのでございますかねえ。

大内関連に関しましては、畿内に入るまでは、武田の時のように、
敵対勢力に妨害をされていたわけでもないように思われますしねえ。

これらの件について、資料やら史実やらを基にしての、ご論証の方をいただきたいと思う次第でございますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

関東諸侯連合の動きがいきてくるのは、武田の小田原遠征以降の話ですしねえ。
そんな、第一次駿河侵攻の時だけのことを言われても、っていう感じですし、
実際問題として武田+関東諸侯に包囲攻勢をしかけられて、
その状態で何年も戦いがつづいた事から、その状況でろくに北条側に参戦して戦わない上杉に対して
北条側には不満の声が出るようになった、というのは何度も指摘されている事だと思うのですけれど、
これらについて、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。