武田信玄が長生きしていたら、天下が取れたのか 8
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0231人間七七四年
2018/04/27(金) 05:49:06.12ID:lTRuNgLGで、改めて、>>199の必死な織田厨さんが、必死にスルーしまくっている、
膨大なる事柄などを合わせ、さらに、必死な織田厨さんのお喚きになられている、
不可思議なる妄想願望論旨などに修正を加えての、正しい時系列の提示をさせていただきますと、
1.1565年に東美濃で武田と織田の勢力が偶発的に衝突し、この時の戦いは武田側の勝利におわったようではありますが、
これを機会に、織田側から同盟の申し込みが行われる。
武田としても、上杉を相手に西上野などで戦争を行っている状況なので、
この上さらに西側で織田と戦うのは非常に困難な状況であり、 婚姻同盟を結ぶ。その前に義信事件が発生。
この義信事件の理由自体は、実はよくわかっていない。今川との外交問題を基にしての事だろう、
という類推はされているが、普通に若気の至りで信玄を相手にクーデターを起こそうとしただけ、という可能性もある。
いずれにせよ、義信側がクーデターを起こそうとしそうになった事から、
信玄はそれを捕らえ、飯富を粛清し、義信は悪くない事にしようと躍起になり、書状にもそう書いたりし、
義信はとりあえず幽閉する事にする。
2.義信事件からおよそ2年後の1567年10月に義信が死亡する。その死亡は病死とも自害ともいわれている。
しかし、それ以前から、今川は武田領国に対して塩止めをおこなったり、
氏真の路線変更から、甲斐商人などが駿河に引き上げる、といった事態が起こっており、
武田側も今川側の軍事動員などを警戒するようになっていますね。
上杉側との交渉もこのころから以前には、もうはじまっていたのではないか、とされておりますね。
3.今川が義信未亡人を返還要求。武田は「「未亡人は返還しますけれど、
これからも武田と今川は同盟だ、という誓約書を書いて欲しい。」と要望して書いてもらう。
しかし、その誓約書を書いた後も、
普通に今川は上杉との同盟交渉を継続し、進めていく事になりますね。
これに対して、武田も警戒をますます強めていく事になりますね。
4.寿桂尼が1568年4月に死亡。
その後の1568年5月に武田が今川に対して、三河を共同で侵攻し、
徳川領土を分け合おうという提案を持ち掛けますが、拒否されますね。
これにより、武田側もいよいよ、今川との敵対路線を決定的にしていき、
信長との協力関係を構築する事を具体的に進めていくようになり、
1568年の7月の信長側の書状において、「信玄と和睦が成立した。」と
書かれる事になりますね。
で、その後に徳川との対今川における協力関係の構築も、
具体的に話をすすめられる事になった、とされておりますね。
で、1568年11月には、ついに甲斐と駿河の国境が封鎖され、
武田・今川の戦争開始はいよいよ直前、という状況になるわけでございますねえ。
5.1568年12月に武田はついに先手を打って
今川領土に侵攻を開始していく事になるわけでございますが、
この時に北条への共同侵攻提案とかは別になされていないわけで。
武田側は北条側から今川へと情報がもれる事を警戒し、駿河への侵攻を優先し、
事後報告のような形で、直前に通達しますが、これを受けた北条は、
本来的に言うならば、今川が自身達の敵である上杉と同盟を結んでいた事は
知らされていなかったようで、北条側は上杉に対して
「然則(しからばすなわち)、貴国へ内通した故か、今川殿の御滅亡は無是非(仕方のない)事であろう。」
的に書いているわけで。北条側も今川の上杉への内通は、攻められても仕方のない事だと認識していたように思われますかねえ。
しかし、武田側から事前の通達などがなかった事などを理由として、北条側は今川側について参戦する事を決定。
(その後の北条の行動を考慮しまするに、普通に駿河の領土化も目標にあったとは思われる次第でございますけれどねえ。)
北条軍も駿河に向かって進軍を開始し、駿河争奪戦は更なる展開をしていく、という流れでございますかねえ。
とりあえず、上記の史実などにおける流れと貴方が書いている流れとの相違などについて、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思う次第でございますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
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