>>160
まーた必死になって、 >>9 >>10にありますように、
必死になって複数端末とかをID切り替えを
なさられながらの、必死な多数派装いなどをなさられながら、
レッテル貼りやら捏造曲解などにご狂奔なさられている、
24時間365日的なネット廃人的な生活をなさられているように思われます、
必死な織田厨さんである貴方が、いつも通りに捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
これまでに聞かれている>>19とかにありますような、膨大なる菅沼なんたら認定の設定矛盾とか、
これまでに貴方が発狂逃亡をしておられる膨大なる事柄についての、
資料やら史実やらを基にしてのご論証の方なども、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

で、いつも通りに、単にあなたこと必死な織田厨さんが、
こちら側から指摘されて都合の悪い事柄などからご回答を求められましても必死に発狂逃亡して、
必死にスルーしてお喚きになられているだけのように思われますしねえ。

時系列がいつも通りに史実とは非常に異なる、不可思議なる形になっているご様子ではございますが、
1.1560年の謙信の第一次関東遠征によって、長尾上杉は越後・上野・武蔵北部を領域化する大勢力となり、
さらに関東管領となって関東諸侯をも従えて、
東国制覇を目標とする巨大勢力となって11万近くともいわれる超大軍で
小田原に侵攻する事になる。
この威勢を前に、北信濃豪族達が大挙して上杉にお祝いの使者を送ったり、
武田宗家につぐ力と地位を持つ甲斐の勝沼一門が上杉に内応しようとしたり、
と武田領国でも動揺が広がり、武田としてはなんとかして上杉に一撃を加えて、
領国内の動揺を示す必要性に迫られ、第4次川中島の戦いが発生。

2.第4次川中島の後も、長尾上杉+関東諸侯の超巨大勢力は相変わらず健在であり、
これに対して、武田・北条はなんとかして長尾上杉+関東諸侯の領域へと侵攻をして
その領土を制圧し、パワーバランスをひっくり返す必要性に迫られる。
そこで、武田は北信濃及び西上野、あるいは飛騨に侵攻、北条は武蔵北部・東上野・他の関東諸侯の領土、
へとそれぞれ侵攻を開始し、上杉の主力が武田・北条のどちらかにきたら、その方面ではで対峙に持ち込み、
その間に、そうでない方が侵攻を行う、という事を繰り返して、徐々にその領域を制圧していく。

3.その最中の1565年に東美濃で武田と織田の勢力が偶発的に衝突し、この時の戦いは武田側の勝利におわったようではありますが、
これを機会に、織田側から同盟の申し込みが行われる。
武田としても、上記のような状況なので、この上さらに西側で織田と戦うのは非常に困難な状況であり、
婚姻同盟を結ぶ。その前に義信事件が発生。

4.その後で、色々な流れがあり、武田としては今川との同盟にかなり後ま固執し続けるものの、
最終的に今川が上杉と組んで武田を包囲する動きを示した為に、先手を打って武田領土に侵攻。

5.駿河侵攻の後で、色々とあって北条が敵に回るが、今川自体は一ヵ月程で駿河を攻略されて遠江に撤収。
上杉とも甲越和睦を結んだり、関東諸侯と北条包囲網の同盟を結んだり、
という感じで武田は外交的にあの手この手を駆使して、最終的には2年程で駿河を制圧し、北条とも再同盟。

という流れなのであって、別に駿河を攻めた後で斉藤が滅んだのでもなければ、
外交的な孤立とやらが行ったわけでもないわけでして。
むしろ、駿河争奪戦の時の外交的状況は武田側が非常に優位、
という感じなわけでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。