織田信長も検地を実施していた(これを信長検地とよぶことがある。)が、
このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、
その重要性を把握していたとみられる[1]。天正9年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、
山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、
太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地とよぶ。