【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その26
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0001人間七七四年
2018/01/08(月) 00:15:18.78ID:ZBMRAJhn炎上して無い関連スレは、過疎回避にこちらへ誘導願います。
【辞世の句】
嬉やと 再び醒めて 一眠り
浮世の夢は 暁の空
先に行く 後に残るも 同じこと
連れて行けぬを 別れとぞ思う
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0654人間七七四年
2018/10/31(水) 20:50:19.88ID:Ecz2vPep0655人間七七四年
2018/10/31(水) 21:03:19.55ID:5DHNtCmD家康は信雄信孝に許可を得た上で天正壬午の乱に臨んでるし逐一経過報告もしてる
その際信雄らから切り取り次第のお墨付きをもらってる
織田家として領有権を放棄してるんだよ
北条が侵攻してきてたし秀吉勝家含め織田家側に対処する余裕がなかったから
織田体制傘下の家康に防波堤になってもらった形で切り取り次第はその前恩賞と考えてもいい
だから後に家康信雄が結んだときも信雄は甲斐信濃を返せとは言ってない
0656人間七七四年
2018/10/31(水) 21:13:42.62ID:7BUTAIkaせるという大義名分がある
信雄臣従後、彼が後陽成天皇を招く準備を整え、謀反の疑いで改易にされた際も2万石と
いう堪忍分まで与えていて、ここまでやっても後に大名に戻している
関ケ原の戦い以後に再び改易されているが、これは家康の判断
徳川が秀頼を攻撃する時、天下は統一されていて、攻撃の動機は徳川の天下を盤石に
するためという私欲に満ちたものでしかなかった
秀頼は朝廷に弓引く者ではなく、大坂方への攻撃は征夷大将軍の職務とはいえ
ず、しかも秀頼との君臣関係を清算せぬままで攻撃をしたので謀反に当たる
最終的に織田家の血筋の者でもある秀頼を殺して国松まで斬った
辛うじて太閤秀吉公の血筋は完子を通じて現代の皇室や浅野家に残っているが、直接の
子孫は絶やされることになった
0657人間七七四年
2018/10/31(水) 21:14:46.79ID:dk+3tmyb3ヵ月後に秀吉に呼び出された信長が殺されたわけで。滝川が負けた時点で余裕がない。
織田家の内側では秀吉が簒奪をはじめていて、三法師に家督、後見を信孝にしているのに、
信雄に臣従して対立をあおったりしているわけで。織田家からの提案で家康は東を固めたわけだよ。
んで、信長が殺されて1年後の1583年6月までに、秀吉は信長の側室や孫娘や息子や妹や筆頭家老をぶっ殺して簒奪に成功し
信雄をのぞくこうとして小牧長久手で家康が大義の戦をしたわけで。
0658人間七七四年
2018/11/01(木) 02:00:22.05ID:K8zNHKQ30659人間七七四年
2018/11/01(木) 02:00:45.77ID:K8zNHKQ30660人間七七四年
2018/11/01(木) 02:01:59.11ID:K8zNHKQ30661人間七七四年
2018/11/03(土) 13:08:41.55ID:gkD/7B4H1560年代
大阪人「なもまみだぶ、なもあみだぶ、三河で一揆やでぇ。家康めぇ」
1570年代
大阪人「仏敵信長! 織田家滅べや、死ねば極楽、なもあみだぶつ」
1580年
大阪人「ごめんなんさい。織田家にはもう歯向かいません、南無阿弥陀仏」
1582年
大阪人「本能寺? 信長ざまぁああw 家康が堺にいる? 死ねやぁ」
1583年
大阪人「ひゃっはー織田家の人間が死んでくでぇ。織田家は大阪のもんや。秀吉さんもっとやったれ。大阪城つくるでぇ」
1585年
大阪人「関白さんのお膝元やw 近衛さんありがとなw」
1588年
大阪人「ほれみい。天皇はんも聚楽第に行幸して関白殿下と大阪の天下を認めてる」
1592年
大阪人「ほれみい。天皇はんも聚楽第に行幸して関白殿下と大阪の天下を認めてる」
1595年
大阪人「太閤さんのお膝元やw 関白? 殺生関白なんぞ知らん」
1600年
大阪人「たぬきめぇ徳川めぇ石田三成は大儀の人!」
1601年
大阪人「関白左大臣が九条はん?関白は豊臣のもんやろ」
1603年
大阪人「右大臣征夷大将軍が家康だとぉ」
1605年
大阪人「なんやて秀忠が征夷大将軍だとぉぉお奴は豊臣の家臣だろうが。関白左大臣が近衛信尹ぁ? 関白は豊臣のもんや!」
1614年
大阪人「国家安康、君臣豊楽、徳川を呪いころしてやるでぇ。浪人集めて挙兵や!」
1615年
大阪人「ごめんなさい。許してください。」
1615年、右大臣征夷大将軍に率いられた幕府軍によって逆賊豊臣家は滅亡した。関白左大臣が鷹司信尚のときである
0662人間七七四年
2018/11/03(土) 14:23:52.47ID:jwlbAtZR0663人間七七四年
2018/11/03(土) 19:07:58.71ID:99MvXLfZ0664人間七七四年
2018/11/03(土) 23:24:04.61ID:zY3gAyLz0665人間七七四年
2018/11/04(日) 02:47:00.36ID:/tp68XAd0666人間七七四年
2018/11/04(日) 02:47:42.90ID:/tp68XAd0667人間七七四年
2018/11/04(日) 09:47:52.19ID:6uWCBKa3極悪人 徳川詐欺康
0668人間七七四年
2018/11/04(日) 10:52:39.57ID:krEBjw4wもともとれっきとした独立勢力で、秀吉に懇願されて政権に参加し協力することで
統一事業を加速させたんでむしろ貸しがあるのはこちらのほうだと思っていたかも知れない
関東移封も北条攻め勲功第一に対する当然な報酬であると同時に東国鎮定の役割を担わされた面がある
後見を頼まれたっつったって秀吉が自分で豊臣家を子供一人のスカスカにした挙句
その尻拭いを家康に押し付けただけで、何の実力もなくなった豊臣家を
家康が徳川家を挙げて助けるほどの義理などない、何度も言うがもともと独立勢力で
時の勢いでやむなく服属しただけというのが実態なんだから
それは他の独立勢力だった諸大名も同じで譜代重恩でもなんでもないから家を賭してまで豊臣家を助ける義理はない
だから関ヶ原で反徳川派が一掃されるとほぼ全ての大名が実質豊臣家を見限り徳川に鞍替えした
全国の大名が徳川家の統制下に置かれた状態で徳川家の号令の下に全国の大名が
豊臣家を滅ぼしたんだから、それはもはや謀反とか反逆とかではなくむしろ新たに定着した
徳川体制に豊臣家が逆らって滅ぼされたというほうが正しい
何しろ大坂の陣で家を挙げて豊臣に味方した有力大名が皆無だったんだから
もはや豊臣家を主君とも天下人とも思っていなかったことになる
武家の主従関係なんてのは源平の昔からこちらについたほうが得だと思われる方に
鞍替えするのが当たり前で、恩義だとか名目などはわずかな例外があっても基本功利的でドライなもの
徳川幕府だって勢威が衰えた幕末には譜代や親藩まで新政府軍に鞍替えされたんだから
いつまでも半島の人ばりに怨むなら、豊臣家を独り立ちできぬほど弱体化させ
求心力を失わしめた張本人の秀吉をこそ怨むべきだね
豊臣家自体にちゃんと力があればあんな滅び方はしなかったよ
0669人間七七四年
2018/11/04(日) 11:50:10.23ID:sbjlx7dMだがそれは無理が通れば道理が引っ込むの類に過ぎない
あくまで形式論だと家康は反逆者
0670人間七七四年
2018/11/04(日) 12:37:45.32ID:krEBjw4w家康が反逆者というならその家康についた全国の大名も反逆者ということになるんで
豊臣家の主観で言えばこの世の全てに反逆されたという滑稽な図式になる
この世の全てに反逆されないだけの手を打ち、それだけの力を持てなかったわけで
そりゃ滅亡して当然だわという話
0671人間七七四年
2018/11/04(日) 12:49:57.36ID:0GrYAOUG力関係が逆転すれば主従関係もそれまでよ
0673人間七七四年
2018/11/04(日) 13:31:13.03ID:Q5ZpFF2eで、薩長がその通りのことをした
ところが秀吉は政権への執着が強かったので、秀頼を頼むしか言わなかっただけだな
0674人間七七四年
2018/11/04(日) 13:34:36.40ID:krEBjw4w秀吉も「勝てば官軍」で五摂家からゴリ押しで関白を騙し取ってるんだし
何か豊臣家を天皇家と同一視してない?日本に天皇家という絶対権威がある以上
豊臣家は他家に頼らず自ら他の諸大名を畏服させるだけの力を持ち続けなければ
他にそれだけの力をもつ勢力が現れ天皇からお墨付きを貰えば
取って代わられるのはやむを得ないことでしょう
残念ながら豊臣家はそこまでの絶対的な家柄でも地位でもなかったということでむろんそれは徳川家も同じ
「勝てば官軍」なんてそれこそ源平の昔から自分の家と領地を守るための武士の行動原理なんで
豊臣家にだけその法則の適用は許されないというのはちょっと宗教がかった見方と言わざるを得ないな
0675人間七七四年
2018/11/04(日) 14:46:49.21ID:rHM1wt4Q公家なら従二位は従一位に従うのがすじだし
義理の息子なら義父や義祖父には敬意を払うべきだし
武家の棟梁なら大阪の陣で出陣して陣頭指揮をとるべきだろうし
若者なら「非常に太っていて自由に体を動かすことができない」「世になきお太り」なんてのは非常にまずい
161kgの体重は太りすぎ。体を動かさずに食いまくっていたのだろう。脆弱のデブで馬にすら乗れず出陣できない。
裏切りで成り上がった恩知らずの息子なのに、勘違いしちゃった成金のぼんぼんが豊臣秀頼。常識のないキモオタみたいなやつだろうね
0676人間七七四年
2018/11/04(日) 16:03:58.99ID:rHM1wt4Q加持祈祷の時代に呪いをかけるのはテロ行為の相当する。
しかも東大、京大、慶大、などの医学部に相当する五山や、当時最高の識者として名高い林羅山たちが
東福寺
「何よりも悪いことと考える。見逃してそのままにはできない。」
天龍寺
「承知できることではない。」
南禅寺
「前代未聞である」
相国寺
「好ましいことではない」
建仁寺
「好ましいことではない」
林羅山
「源を射るという意味だ。無礼で不法極まりない。沙汰の限りである。呪詛調伏の心」
と言っているわけで、征夷大将軍に従わない武家で、従一位の目上に従わず、義父に敬意を払わず、浪人を集めて国家反逆罪をおかした自制心のないデブを
右大臣征夷大将軍の職にある人間が討伐するのは当然のことだ。
そもそも豊臣自体が織田家を簒奪して成立した不正の家で、諸大名を聚楽第行幸で帝に臣従させることで、関白として命令をだし、太政大臣として命令をだすことで成立していた。
大阪の陣のときの豊臣には何の権利もない。
0677人間七七四年
2018/11/04(日) 16:19:17.37ID:rHM1wt4Q後陽成天皇の下賜と
元太政大臣家からの下賜を受けて出陣した
当時最高位の武家大臣である内大臣に、謹慎中だった元奉行が謀反をおこしておこった戦いだ。
石田三成に大義はない。
1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命されて幕府が成立した以上
豊臣が従うのは義務といえる。1614年当時の関白左大臣は鷹司信尚、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠だ。
秀頼は呪術でテロをおこなったテロリストにすぎない
0678人間七七四年
2018/11/04(日) 16:33:03.67ID:PhLChSCgアホ康がそんなこと言うわけねえだろ
捏造だよ捏造
家康語録なんてほとんどが後世の捏造だからな
まともに信じてる奴はアホ
0679人間七七四年
2018/11/04(日) 16:45:45.72ID:rHM1wt4Q家康の名言と言われている
「天下は一人の天下にあらず。天下の天下なり」は六韜三略の六韜の名言だ。
まぁ古典を読んでいれば豊臣家というのがどうしようもない悪党の家とわかるもの
0680人間七七四年
2018/11/04(日) 22:03:47.53ID:NiVNN6u+豊臣家とて武士の行動原理の法則は受けるから「無理が通れば道理が引っ込む」の通り
滅亡に追いやられたよ
ただしその理屈は別に徳川家康は謀反人という事実を消すことはできない
関白は天皇の代理人なので関白の命に逆らう事は天皇に逆らう事だから全国の朝臣は
個々の主従関係を飛び越えて関白に自動的に従う義務が生まれる 従わなければ朝敵
になるだけだから
ただし、征夷大将軍はこの理屈は使えない
征夷大将軍は朝廷に仇なす敵を討伐する職なので、秀頼が朝廷にとって脅威にならない限り
命に従う義務が生じないからだ
つまり形式的には大坂の陣は私戦にすぎなくなる
私戦の場合だと個々の主従関係がものをいうので、徳川が主従関係を破棄する宣言をした形跡
は見られない以上、形式的には謀反、それだけの話しかしてないよこちらは
なんでこの点がそんなに気に入らないの?
0681人間七七四年
2018/11/04(日) 23:00:09.40ID:rHM1wt4Q幕府をひらき日本の政府を率いる右大臣征夷大将軍に呪いでテロをおこなっておきながら反逆の意思はありませんなんて通らん。
0682人間七七四年
2018/11/04(日) 23:37:18.30ID:NiVNN6u+徳川家と徳川家の覇権を守るため、という私的な魂胆であることは帝で
なくとも誰でもわかったハナシ
だから一度は認めた鐘銘に因縁をつけるなどという器の小さい事までやってる
0683人間七七四年
2018/11/05(月) 01:07:34.53ID:NazrBtso幕府に逆らうってのはようは徳川家の当主に逆らうって事は意味しても、天皇の敵
とは必ずしもならない事に注意
日本の政府って何時の時代でも朝廷だよ
武力という実力さえあれば、ここを形式的にも押さえられる関白が最強
己と天皇を同一視させられるからね
将軍にはこれができない
0684人間七七四年
2018/11/05(月) 01:24:24.22ID:ZhZ8yG4o0685人間七七四年
2018/11/05(月) 01:24:48.95ID:ZhZ8yG4o0686人間七七四年
2018/11/05(月) 01:25:08.71ID:ZhZ8yG4o0687人間七七四年
2018/11/05(月) 01:35:18.92ID:HVaJZSRR太政大臣 全官職の最高位。職掌は特にないが最も重く扱われる。
左大臣 政務を実質的に総裁する。
右大臣 政務を実質的に総裁する。左大臣が欠員の場合や、左大臣が関白を務めている場合に、代わって政務を総裁する。
内大臣 政務を実質的に総裁する。左右大臣が欠員の場合や、何らかの事情で出仕しない場合などに、代わって政務を総裁する。
征夷大将軍 夷敵を征討する天皇の代理。鎌倉室町とつづく武家の棟梁を意味する職
1598年
内大臣徳川家康・・・関白左大臣殺しの太政大臣が死んだ時点で、他の大臣は不在。政務を実質的に総裁する
1603年
右大臣征夷大将軍徳川家康・・・政務を実質的に総裁する右大臣で武家の棟梁。
1614年
右大臣征夷大将軍徳川秀忠・・・政務を実質的に総裁する右大臣で武家の棟梁。
0688人間七七四年
2018/11/05(月) 01:59:43.22ID:NazrBtso賜豊臣姓 豊臣氏人
豊臣家は武家摂関家、豊氏長者、兼藤氏長者
個人の官位官職より家格が重視される
0689人間七七四年
2018/11/05(月) 04:46:56.23ID:HVaJZSRR武家なら武家の棟梁である征夷大将軍の命令に従うべき。
親族としてなら、儒教的に義父や義祖父を敬うべき。
秀頼のやった呪いは当時最高峰の大学ともいえる五山が認め、否定的なコメントをしていて、
当時最高の学者ともいえる林羅山がテロ認定している。
大阪の地がテロの温床になっていることを危惧した政府がいくつか提案するが
豊臣はすべて拒否して浪人を集めて挙兵した。
日本の政府を動かす右大臣征夷大将軍にテロをしたあげく、命令に従わずに反乱をおこした。
そりゃ討伐されるだろう。各都道府県の知事にあたる大名は誰も豊臣の味方はしなかった。
徳川は地位にふさわしい仕事をしたよ。内大臣として、右大臣征夷大将軍として、地位にふさわしい仕事を。
0690人間七七四年
2018/11/05(月) 12:35:15.04ID:YkIN8nEYだが、挨拶は二条城への御成の形式で果たしているし、年賀等には使者を遣わして挨拶させている 家格が低くとも個人官位が高い義祖父への作法としては気を遣ったものと言える
だが、君臣の道は別 家康が関白になっているならば秀頼は従う義務があるが、朝敵がいない日本で征夷大将軍に従う義務はない
0691人間七七四年
2018/11/05(月) 18:22:05.56ID:HVaJZSRR加持祈祷の時代に呪いを凶器にしてテロをおこなって、
政府のもとめる要求を拒否して浪人(無職)をあつめて大阪で反乱をおこしておきながら朝敵ではないとな?
テロにかんして、当時最高の学府といえる五山が
「前代未聞で好ましいことではなく、承知できることではない。見逃してそのままにはできない」と言い、
当時最高の学識者の一人である林羅山が
「沙汰の限り。呪詛調伏の心」と言っている。
これは日本政府を率いる内閣総理大臣にテロをおこなっても国民の敵ではないというようなものだぞ。
日本政府に従う義理も義務もない。内閣総理大臣を殺傷しても問題ないと。呪いをかけるというのはそういうことだ。
ちなみに諸大名はみんな征夷大将軍に従いました。下層民出身の豊臣はバカだから滅ぶべくして滅んだのよ。
主君が死んで1年で主家を横領して乗っ取り、外征を二度もおこなって失敗し、関白左大臣を殺したのだから当然のむくいだろうな
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
0692人間七七四年
2018/11/05(月) 19:05:09.10ID:tdqkFFhk0693人間七七四年
2018/11/05(月) 20:32:34.50ID:FTUfB2tTもう少し身長は低いがな(185p)
彼は別に動けないどころか格闘家。秀頼も同じことが言える
あの時代でこの巨漢は威厳あるだろうし、まして摂関家で正二位右大臣(または左大臣)と
いう天下人に相応しい官位官職
家康が秀頼を「あれは人物じゃ」と評したのもわかる
別に秀頼がデブであろうと家康が謀反人である事は変わらない
当時の諸大名は家康が太閤遺命による後見人で天下の御家老だから従ったまでのこと
そして長いものに巻かれろ、がわが国の考え方であるからその環境に慣れてしまうと
秀頼に弓引くのもそれほど不自然ではない 違和感ありとは察するが
しかし、大坂の陣の出陣の際ですら家康らは諸大名への書状に「秀頼の周囲にいる浪人を
成敗するため」などと意志を伝えている
つまり、最後の最後まで堂々と秀頼を討つなどと言える雰囲気ではなかったという事さ
0694人間七七四年
2018/11/05(月) 20:53:17.64ID:HVaJZSRRいざ出陣となったら馬に乗れないという男のどこが人物なんですかねぇ
豊臣秀頼評
「非常に太っていて自由に体を動かすことができない」
「世になきお太り」
0695人間七七四年
2018/11/05(月) 21:01:31.21ID:HVaJZSRR「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」
0696人間七七四年
2018/11/05(月) 21:56:51.30ID:TBfyQQRaその統制下におかれるべきと考えていたがな
伊達政宗が関ヶ原翌年の今井宗薫宛書状で秀頼を家康の手元で養育し、天下人の器でないと
家康が判断するなら2〜3国程度与えておけばよいと書いている
これは秀頼を天下人にするかは家康次第ということで、やや持って回った言い方ながら
まだ将軍にもなっていない家康を事実上天下人扱いしている
関ヶ原以前ではまずあり得なかっただろう認識の変化で、政宗は秀頼を大坂城に放置しておくと
曲者が秀頼を担いで謀反を起こし、そのために秀頼が切腹するような事態になるかも
知れないとまで書いていて後の大坂の陣を見事に予見している
家康が謀反人ではなく「秀頼が曲者に担がれて謀反を起こす」と
つまり関ヶ原によって諸大名の中にも秀頼はもはや絶対的な天下人とは言えず
謀反人にもなり得る危険な存在という認識ができつつあり、全ての大名が秀頼の後見人で
天下の御家老だから家康に従っていたなどという甘っちょろいお花畑なものではなかったということだ
0697人間七七四年
2018/11/05(月) 22:14:54.92ID:HVaJZSRR聚楽第行幸で、天皇を主君として忠誠を誓い、関白を窓口として天皇にご奉公することを誓っているのだからな。
秀吉が出させた誓詞も、秀頼が成人するまで後見することと、
秀頼を秀吉と同じように天皇への窓口として待遇するとあったと思うが、
その主君である天皇が家康を右大臣征夷大将軍に任命したのだから、元上司の子供なんぞになんでつくさなければならないのか。
家康の主君は聚楽第行幸で誓った天皇であって、秀吉は上司に過ぎないよ
0698人間七七四年
2018/11/05(月) 22:19:27.57ID:HVaJZSRRでも秀吉は織田家の同僚達を天皇に臣従させることで上下関係をすりかえ、窓口として関白の自分が威張る体制をつくったわけで、
誰も秀吉なんぞを主君になんかしていない。2度の聚楽第行幸がその象徴だ。
0699人間七七四年
2018/11/05(月) 22:31:47.78ID:kjTH98Zeどんな低い官位官職でもそれをもらうという事はそういうこと
だがそれと武士同士の主従関係は別の話
豊臣家に臣従するというのは家康が大坂城に呼びつけられて秀吉に
頭を下げる、というところから始まってる
誓詞も秀頼を秀吉と思いこの命をきくこと、とある
0700人間七七四年
2018/11/05(月) 22:50:15.33ID:kjTH98Ze秀忠は秀吉を烏帽子親として「秀」の文字を賜り、これを放棄したことはない
秀忠正室の江も秀吉の娘扱いであり、大坂の陣直前ですら離縁している様はない
秀頼正室、千姫の離縁要求もない
つまり、主従関係を破棄していないということ
0701人間七七四年
2018/11/05(月) 22:52:52.34ID:TBfyQQRa秀頼を秀吉と思いますと誓詞で誓っていながら関ヶ原後の書状ではその秀頼を「担がれて
謀反を起こす」恐れがある危険な存在だと書いてるんだからな
あと豊臣家に怨みのある最上なども豊臣攻めを謀反だなどとは思ってなかっただろうし駒姫の
仇討ちだと思ってたかもな
0702人間七七四年
2018/11/05(月) 22:57:23.88ID:kjTH98Ze秀頼を堂々と討つと言える状況ではなかったって事は史料上残っている
佐竹もバカではないのでこれが方便にすぎない事はわかっていたろうが、方便を
使う状況にあるという時点でお察し
0703人間七七四年
2018/11/05(月) 23:02:14.49ID:HVaJZSRR帝の威をかりて織田家を乗っ取り、
近衛家をだまして近衛信尹に譲る約束で関白になりながら、天皇の弟に譲るだの、宮家を作ったから鶴松に譲るなどと話をすりかえていき、
最終的に関白左大臣を殺して、契約書で縛る作戦にでたという
0704人間七七四年
2018/11/05(月) 23:20:59.92ID:TBfyQQRa考えていなかったとも解釈できる
秀忠が秀の字を捨てなかったのも江を離縁しなかったのも徳川家が豊臣家の
ひいては豊臣政権の正当な後継者であることを暗に示したともとれる
何しろ秀次一族虐殺後から秀吉はあれこれ手を尽くして徳川家と豊臣家を一体化させようとしている
秀頼の叔母江を秀忠に嫁がせその娘千を秀頼の許嫁にし
諸大名で唯一徳川家だけが秀頼成人後も豊臣家に影響を及ぼせる外戚の地位を約束された
豊臣家に徳川家を接ぎ木するようなもので縁戚関係で言えば徳川家は豊臣家一門でもあり
(単に豊臣姓をもらったというだけでなく)家康は豊臣一門の筆頭長者ともいえ、
ただの主従関係とは明らかに性質が違う
0705人間七七四年
2018/11/05(月) 23:37:24.84ID:kjTH98Ze解釈できる
家康は豊臣一門の中で最有力者であるこは変わりないけど、宗家を滅ぼしたからな
氏人が長者を滅ぼすのは当然反逆行為
0706人間七七四年
2018/11/06(火) 00:02:34.28ID:4ILw9Rm4政宗の危惧どおり、秀頼は呪いをかけて呪殺しようとしたあげく浪人をあつめて謀反をおこし、征夷大将軍に征伐された。
0707人間七七四年
2018/11/06(火) 00:12:08.98ID:EPZ3Fs1f主君、豊臣秀頼公に謀反を起こした
秀頼が朝廷に弓引いたら家康側に正当性が出てくるが、そうではない
徳川家の安泰の為に滅ぼした
だから諸大名には秀頼の周りにいる浪人を成敗すると大ウソを抜かした
0708人間七七四年
2018/11/06(火) 00:25:19.80ID:4ILw9Rm4https://believeitornot666.com/jks47/
呪殺を唱える、過激な僧侶集団「JKS47」
https://tocana.jp/2015/09/post_7284_entry.html
秀頼のように、為政者を呪殺しようとするやつは現代でもいる。
0709人間七七四年
2018/11/06(火) 00:25:20.55ID:EPZ3Fs1f当たると言っているだけで、大名が家康を支持するかしないかは別の話
大名が豊臣が滅亡するのはあんな状況では仕方ない、と思っているとか判断したとか
関係なく、徳川の行動はようは謀反だよね、と言いたいだけ
0710人間七七四年
2018/11/06(火) 01:12:57.83ID:Hp7vPAu3不安定過ぎる武家関白制に代わって伝統も実績もあり公家との関係もすっきりした征夷大将軍による武家政権を
確固としたものにするため、諸大名とともに危険因子である豊臣家を滅ぼした
とも言えるな
将軍の親征は室町期にも反乱を起こした守護大名討伐で行われているから別におかしくはない
0713人間七七四年
2018/11/06(火) 01:43:31.51ID:4ILw9Rm4すべて公による戦だ。
関ヶ原の戦いは、後陽成天皇の下賜を受けて内大臣のおこなった会津征伐に謹慎中のいち武家の元奉行が謀反をおこしてそれを征伐した戦いだし
大阪の陣は、幕府を開く右大臣征夷大将軍家に呪いをかけて呪殺しようとしたテロリストを誅罰した戦いだ。
0714人間七七四年
2018/11/06(火) 01:47:46.80ID:Hp7vPAu3それを言うなら徳川もそういう用語はないが事実上「江戸殿」として諸大名に号令したとも
言えるかも知れないが武家社会内部での統制行為として豊臣家が武家として牢人を集め
武力蜂起したのだから討伐することになるのは当然だろう
公家としておとなしくしていたのに攻めたというならまだしも
0715人間七七四年
2018/11/06(火) 01:57:09.81ID:4ILw9Rm4せめて後陽成天皇から徳川幕府征伐の綸旨をもらって、征夷大将軍の正当性をくずさないと。
豊臣に関しては、関白左大臣を豊臣が殺して太政大臣が死んだ時点で正当性はない。
太政大臣の死後に正当性をもつのは、内大臣の徳川家康ただ一人だ。1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命された以上、
徳川に正当性があり、徳川がおこなう戦は公のものだよ
0716人間七七四年
2018/11/06(火) 11:35:16.83ID:3S7ZTeA60717人間七七四年
2018/11/06(火) 11:42:12.21ID:roUeA89V0718人間七七四年
2018/11/06(火) 12:14:17.95ID:4ILw9Rm4帝の求めるように、周囲の声や公家達を裁く法を無視して大々的に殺しまくったら
いままで天皇は誰の子って話になりそう。もうそんな朝廷守る価値ねーよ、王朝交代でいいんじゃないのって。
0719人間七七四年
2018/11/06(火) 12:24:44.77ID:4ILw9Rm4当時の薄い本が厚くなっただろう
0720人間七七四年
2018/11/06(火) 12:34:39.51ID:0OPCLheh征夷大将軍は朝廷に仇なす敵を討つのが仕事だ
当時そんな奴は日本にはいない
つまり徳川の意に沿わない奴を討つのは徳川にとっての戦いに過ぎない 私戦よ
大坂の陣はたしか朝廷が和睦の命を家康に出していたが、家康はこれを無視
0721人間七七四年
2018/11/06(火) 12:51:32.21ID:3TSMncUr且元が秀頼の命に反して高野山に行かずに弟の城に立てこもり武力蜂起したら鎮圧しに行くのは豊臣家としては当然のこと
秀頼が徳川に攻撃を先にしかけた事実はない
あるのは徳川が一方的に宣戦布告してる事実だけ 当然朝廷の意志でもないので私戦
0722人間七七四年
2018/11/06(火) 12:56:52.58ID:3TSMncUr>征夷大将軍のおこなう戦いに私戦なんて存在しないよ。
すべて公による戦だ。
それが言えるのは天皇の代理たる関白だけよ
将軍が言えるのは朝敵に対してだけ
0723人間七七四年
2018/11/06(火) 13:10:35.81ID:4ILw9Rm4右大臣の職掌は
政務を実質的に総裁する。左大臣が欠員の場合や、左大臣が関白を務めている場合に、代わって政務を総裁する。
つまり、関白左大臣がいるので、右大臣征夷大将軍の徳川秀忠は政務を総裁し、征夷大将軍として夷敵を征伐する役職にいる。
呪殺しようとしたあげく、浪人を集めて当時の日本政府にたいして挙兵した謀反人の豊臣秀頼は征伐されてしかるべきだろう
0724人間七七四年
2018/11/06(火) 14:15:45.96ID:Hp7vPAu3頼朝以降は朝廷の公地公民から脱して武士の土地私有権を確立するために
出征時は王の掣肘は受けずとの法則を援用して軍政機関の長とすることで武家独自の
統治体制をつくったもので室町期の義満を経て武家の棟梁としての最高権威たる地位を
確立した
実質的な権力の有無は時代による消長があるが少なくともぽっと出でたちまち空洞化した
武家関白などよりはるかに伝統も実績もありその伝統と実績から頼朝以降朝廷公家体制
から脱して独立した武家社会の最高権威として諸国の武士に独自に号令し介入する権能
があるんで単なる朝廷の一役職ではない
0725人間七七四年
2018/11/06(火) 14:17:30.05ID:Hp7vPAu3征夷大将軍家である徳川家との外交関係断絶を意味する敵対行為であり
武家社会の最高権威として徳川家が諸国の大名に号令して軍を発するのは当然のこと
朝廷からの和睦勧告を退けたのもこれは武家社会でのことであり朝廷が関与するに
及ばずとのことで、豊臣家が公家でなく武家として征夷大将軍家に対して反旗を翻し
牢人を集め諸国の大名に勧誘の手紙を送るなど朝廷に公認された徳川家による武家の
将軍統治体制へ公然と挑戦した以上武家社会の最高権威として王の掣肘は受けないと
の当然の姿勢を示したものだ
0726人間七七四年
2018/11/06(火) 16:46:31.35ID:4ILw9Rm4これが無けりゃ豊臣なんぞ、織田家の家臣にすぎず、主家を乗っ取っただけの逆臣にすぎない。天下を統治する大義はないし、誰も従わない。特に織田家の同僚は従わない。
一言で言えば豊臣は官位を利用した天皇への窓口として成立したにすぎない。1585年の関白任官、1588年と1592年の聚楽第行幸の意味はとても大きい。
でも関白左大臣を殺した時点で正統性はくずれ、太政大臣が死んだ時点で豊臣の体制は崩壊し、1601年に関白左大臣が任命されて、1603年に右大臣征夷大将軍が任命され、
歴史的な裏づけのある安定の武家政権が復活したことで、終了している。家康は関白を窓口にして天皇に臣従しているので、秀吉は主君ではない。
そして1614年の関白左大臣は鷹司信尚、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠だから
豊臣秀頼は政府に陰湿な呪殺テロをおこなったテロリストで、フリーターをあつめて謀反をおこした逆賊にすぎないんだよ
0727人間七七四年
2018/11/06(火) 22:22:18.21ID:0PROuOj40728人間七七四年
2018/11/06(火) 22:32:18.88ID:OIB8qRqC秀吉の官位が信雄の官位を上回った事で立場が逆転したのと一緒の話だ
ところで家康程多趣味の人間は数少ないよな
武術、馬術、水練をはじめ囲碁や将棋、能や狂言も大好きでアイデア出して
新作創らせているくらいだし、香木とかも好きだったみたいだし
0729人間七七四年
2018/11/06(火) 23:58:20.67ID:INaYP0vMそれこそ私的な立場を書いているのに過ぎないことに気が付いている?
征夷大将軍の職務はあくまで朝廷に仇なす敵を討つのが職務
それ以外のものは任命された人物や周りが勝手に言っているだけのことだ
そもそも武家の権威は官位官職に根源はなく私的なものだよ
「鎌倉殿」「室町殿」がその根源(似た概念で幕末の慶喜は「上様」として政
務を引き続き担当しようと試みた)
なぜならあなたの指摘通り武士の土地所有権を確保するための試みだから
なので武家関白でなくて征夷大将軍なら、相手が朝敵でもない限り私戦になら
ざるを得ないのよ、そういう仕組なんだから
なぜそこまで噛みついているのかわからないけど、私的な戦争で徳川が豊臣を
討った事に自体を悪いとは言ってないよこちらは
徳川の地位は豊臣公儀の中でも外戚で有力大名だったことも認めるし、ただの
主従関係でないことも認めるよ
しかしどんなに力があろうと、形式では秀頼の方が上、氏子が長者に反旗を翻す
事を許す秩序もないし、豊臣との主従関係を解消しないまま武力蜂起したのは謀反
にあたり、しかも征夷大将軍の職務にはあたらぬ私戦として行われたと指摘してい
るだけよ
しかも征夷大将軍の権威は著しく落ちていて、武家社会の最高権威は豊臣家がある
以上は武家関白の時代だ(だから邪魔だから消した)
そして且元が徳川から禄をもらっている事実はない、秀頼が死ぬまでは全国の諸大名の
所領は秀頼から与えられたものという建前があるからだ
そんな且元が秀頼の命に反して謀反を起こせば鎮圧に走るのは主家としては当然のこと
徳川方が無理くり過ぎる理屈で武力蜂起しただけ
0730人間七七四年
2018/11/07(水) 00:02:08.64ID:43Tzoromいい囲碁友達
0731人間七七四年
2018/11/07(水) 01:56:44.76ID:BENybxKH0732人間七七四年
2018/11/07(水) 01:57:07.89ID:BENybxKH雑魚忠wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
雑魚光wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0733人間七七四年
2018/11/07(水) 01:57:27.63ID:BENybxKH0734人間七七四年
2018/11/07(水) 01:58:04.91ID:BENybxKH糞ホモ雑魚光
0735人間七七四年
2018/11/07(水) 01:58:25.93ID:BENybxKH0736人間七七四年
2018/11/07(水) 10:31:34.70ID:Dmy8g7z8家の格を無視した妄言なんだよこれ
のちの将軍家世子も幼児のうちは無位無官だぞ?それで家臣が上回ってるから立場逆転なんて言わないぞ
0737人間七七四年
2018/11/07(水) 12:31:11.35ID:TLWV31uj官位とかは後付けでどうにでもなる
秀吉はこっそりちまちまと信長の息子達を潰していったが、
家康は天の命令が改まる革命思想を信奉していて、派手にやらかしただけ
豊臣の家格が高ければそれだけ大規模になる
関ヶ原で豊臣の戦闘能力を奪い、大坂の陣で豊臣の息の音を止めた
0738人間七七四年
2018/11/07(水) 13:52:01.16ID:43Tzorom最大の梟雄は豊臣秀吉なんだろうな。
草履取りで6本指の遺伝子障害のあった下賎な男が、織田家の当主に可愛がられ引き上げられたにも関わらず、
その恩を感じることなく、信長を備中高松に呼び寄せて死なせ、罪悪感を感じることなく1年後の1583年6月までに
信長の側室坂氏と信長の孫娘をはりつけにして串刺しで殺し、信長の息子に短刀を送って自殺させ、信長の妹を重臣と一緒に責め滅ぼし、
信長が死んでたった3年で近衛家をだまして関白になって聚楽第行幸で主家横領を正当化すると、
信長が死んで8年後の1590年に織田家を改易にして、自分を織田家へ仕官させてくれた生駒吉乃の息子を流罪。
尾張の地は自分の親戚の福島に分け与えた。そして1592年に関白左大臣を殺して死んだ。
信長と共同事業をやっていた家康はよくぞ豊臣家を滅ぼして、信義を正してくれたよホント。
大阪の人間は秀吉を持ち上げているようだけど、秀吉は逆臣だし、お前らは織田家と徳川家に宗教戦争をふっかけていただろうってな
0739人間七七四年
2018/11/07(水) 14:11:39.56ID:43Tzorom愛知県人率いて努力して天下を平定していったわけだが、
その事業を、死ねば極楽、仏敵信長と絶叫して、宗教戦争をふっかけて、織田徳川の天下統一事業を妨害し続けて、
三河やら長島やら石山やら越前やらでゲリラ戦を展開していたのが大阪の人間だ。
それなのに、愛知県人の努力を横からかすめとって天下のお膝元とかのたまい、天下を統一したのは大阪だみたいなことを言っている。
そして豊臣が関白左大臣を殺し、太政大臣が死んだので、当時最高位にいた内大臣が天下の政務をおこなえば豊臣に忠義を尽くせとかいい、
右大臣征夷大将軍にテロをおこなった謀反人の豊臣秀頼を徳川が討伐すると、家康は謀反人とかトンチンカンなことをいう。
宗教戦争をしていた狂信者と近衛家をだまして関白になった草履取りが豊臣の家格とかよく言うわな。
0740人間七七四年
2018/11/07(水) 15:58:50.96ID:qZwT9PZvそもそも主従関係を云々するなら関ヶ原後諸大名は強制されたわけでもないのに江戸に競って
屋敷を構えまだ形式的には豊臣家大老のはずの家康を事実上天下人扱いしている
大坂に秀頼がいるにも関わらずのこの行動こそ諸大名の対豊臣家主従関係解消の無言の宣言
だし、後に大坂の陣直前に豊臣が諸国の大名に参陣するよう書状を送ったときも尽く
断られていてこれはさらに明瞭な主従関係解消・拒否の声明だろう、動員令を拒否したのだから
つまり先に自ら豊臣家との主従関係を解消しだしたのは諸大名のほうなんで、そんなに建前や
形式にこだわるなら関ヶ原後あっさり主人を鞍替えした諸大名をこそ責めるべきだろうに
徳川一人のみ悪で諸大名は長いもの理論とダブスタだからバカらしいと言っている
もっと言えば建前形式論にこだわれば秀吉とて織田家を主家とし続けるべきだのに
主筋を攻めたり殺したことも統一前だから問題ないなどとこれまたダブスタ
統一前だろうが何だろうが君のいうような朱子学的形式論をもって言えば裸一貫から
見出された恩義のある秀吉はあくまで織田家を主と立て続けるべきだったろう
それに秀吉も別に君臣関係を精算する宣言をしてないように思うが君の言う宣言てのは一体
何をもってそうだと言うのか?
0741人間七七四年
2018/11/07(水) 16:00:06.40ID:qZwT9PZvいつまでも抵抗していれば秀吉でも信雄や秀信を殺すところまではいっただろうし
それはそれで織田家の自業自得ということだ
どうもひたすら徳川一人を悪人扱いしたいだけの宗教感情としか思えないし
大体歴史の事象を善悪で断罪しようなどというのが今どきナンセンスで大昔の朱子学史観か
マルクス主義史観かと見紛うばかり
あれは認める、これも悪いとは言ってない、豊臣が滅ぼされたのも仕方ないだろう、
だけど形式論で言えば徳川は謀反人だでは単に形式論に逃げてるだけじゃないか
0742人間七七四年
2018/11/07(水) 20:33:30.39ID:u4MXi1P2なんで、どちらかだけが悪いと罵りあうのかがわからんなあ
0743人間七七四年
2018/11/07(水) 21:47:49.82ID:8hBkHhhlよっぽど周囲に友達おらんのかなw
0744人間七七四年
2018/11/08(木) 00:17:15.46ID:BgIMFcmbこのスレに何しにきてんだか
0745人間七七四年
2018/11/08(木) 02:00:20.76ID:vEv+fVUF0746人間七七四年
2018/11/08(木) 02:02:49.26ID:vEv+fVUF0747人間七七四年
2018/11/08(木) 02:03:07.26ID:vEv+fVUFブリブリブシャアァァァァァァァァァァァァッ
ブリブリブシャアァァァァァァァァァァァァッ
ブリブリブシャアァァァァァァァァァァァァッ
ブリブリブシャアァァァァァァァァァァァァッ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0748人間七七四年
2018/11/08(木) 02:03:24.30ID:vEv+fVUF0749人間七七四年
2018/11/08(木) 14:32:32.48ID:lSbFqsrr徳川家康みたいなインチキ野郎を信奉してるキチガイは、常に監視しとかないと何をしでかすかわからんからな
0750人間七七四年
2018/11/08(木) 19:56:51.75ID:BgIMFcmb形式論でいえば、
秀吉は織田家だからこそ出世できた織田家子飼いの草履取りで、返しきれないほどの御恩を織田家に受けた家臣だな。なのに織田家を裏切った逆臣だ。
徳川は独立大名から今川の従属大名をへて独立。織田と同盟し、主君の足利を織田徳川浅井らと支えて上洛するが、主君の切り捨てにあい織田と一緒に戦った信長の同盟者
信長は1582年に秀吉に呼ばれて移動中に殺され、織田家は秀吉に信長の家族が殺されて乗っ取られ、信長の子が「むくいをまてや羽柴筑前」って死んでいった。
でも関白の地位がその謀反と主家乗っ取りを正当化し、秀吉は諸大名を天皇に臣下の礼をとらせることで豊臣家を成立させた。
それを聚楽第行幸で2度確認するが、邪魔になった関白を殺した。そのあとは内大臣が引き継ぎ、征夷大将軍が統治したって流れだ。
0751人間七七四年
2018/11/08(木) 20:00:19.81ID:BgIMFcmb「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
『それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、
天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、
亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。
その言語に絶した大逆無道 黙視するあたわず、わが主君 源家康は、信長公との旧交を思い、
信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起せり。
もしかの秀吉が、天人ともに許せぬ悪逆を憤り、義の重きを思うものあらば、
父祖の名誉にかけて、この義軍に投じ、以て逆賊を討伐し、海内の人心に快せん・・・・・』
天正十二歳 榊原小平太康政
「夫羽柴秀吉者野人之子出於草来而僅為馬前之走卒
信長公寵異之遇一旦時挙拝於将帥食於大邦其恩高似
天深似海比挙世所知也 然信長公卒而秀吉忽忘主恩遂因際会謀企悲憤将滅其君後奪其国家惨哉
向拭信孝公今又興信雄公結兵大逆無道不可勝言其誰不疾視之今我寡君深懐信長公奮好切血
信雄公之微弱赫然整旅不量勢之衆寡杖大義之當然伐
天人之所悪人々豈可賞彼凶悪以汗乃祖佳名於千載乎惟尚専合力於義軍速討彼逆賊以快海内之人心因以告 天正十二年三月 康政判」
0752人間七七四年
2018/11/08(木) 22:02:37.10ID:a1vRIlmj屋敷を構え
それは家康が太閤秀吉が認めた秀頼の後見人だからだ
江戸城の天下普請も家康に秀頼側に采配する人物の派遣を求めている
つまり秀頼が認めたものだというお墨付きが欲しかったからだが、その理由はあく
まで名目上の天下人は秀頼だからに他ならない
慶長日記などを見ると大坂の陣直前まで複数の大名が秀頼を伺候しているのがわかる
なので「無言の宣言」など後の歴史を知っている後世の人間が勝手にいっているだけ
関ケ原の戦いを豊臣家対徳川家の戦いなどと頓珍漢なことを事を書く教科書と同じレベル
たしかに諸大名のほとんどが徳川についたのは事実で、豊臣についたのは七手組や
大野などごく一部だけ、あとは兵や資金など一定の協力をした形跡がある大名があ
るくらいのものだ 他は徳川についた
もちろんそれも徳川の謀反に加担した事ではあるが、仕方がないことだろう 主犯の
徳川と同列にはできまい
諸大名にとって主従関係は家を守るためのもので、君臣の道はあれども現実として仁
義に欠けた輩が力を持っている以上、家を危機に晒す事はできない、家の為に秀頼は見捨てるしかない
秀吉が織田家を簒奪したのは天下が統一されていないためだし、武家は朝廷に仕える
ものと建前があり、戦乱の世を終わらせる大義があったため、小義を捨てたというこ
と織田家との主従関係は小牧長久手の戦いで終わっている、信雄が秀吉に宣戦布告したからだ
それでも簒奪には間違いないが、謀反ではないだろう、理不尽な誅殺の試みに反旗を
翻すのは当然のこと それでも和睦後は臣従してきたので秀吉は信雄に正二位内大臣
という天下人に匹敵する官位を与えている 織田家嫡流の秀信も厚遇している のち
に信雄は帝の行幸を計画し、これを反逆行為と看做されて改易されているが、秀吉は
ここまでやられても追放処分に留め、堪忍分2万石という破格の待遇を与え、そして
更に後には大名として復権させている
(徳川も豊臣の嫡流を定めて後に小領主として復活させていはいるが、それは秀忠、
家光の代にて行われた事で家康の采配ではない)
主人を攻め滅ぼして、主人の子に辱めを与えた上で処刑している家康とは大違いだ
>どうもひたすら徳川一人を悪人扱いしたいだけの宗教感情としか思えないし
意味不明
当時の価値観で以てしても朝廷のお墨付きも得られない私戦でかつ謀反と言っているだけにすぎない
力のない者は滅ぼされても仕方ない価値観もあるが、それは徳川方から見た一面的な話
その反対側から見て何が悪いのだ?
0753人間七七四年
2018/11/08(木) 23:13:39.07ID:BgIMFcmb主君の後陽成天皇の下賜を受けて出陣した武家で最高位の地位にいる内大臣に、いち武家の元奉行が謀反をおこした戦いだよ。
大阪の陣は
主君の後陽成天皇から武家の棟梁として認められ、征夷大将軍に任命され、右大臣として朝政を総裁する現職の右大臣征夷大将軍に
豊臣秀頼が五山公認で最高の学者である林羅山が認定する呪いで要人暗殺をくわだて、幕府の求める要求を拒否して浪人を集めて挙兵した逆賊を討伐した戦いだ
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