>>856
相変わらず、時系列や、
そもそもの話の流れが不可思議な事になっておられるご様子ではありますが、
そもそもの問題として、貴方は
>>845において、
>駿河城攻め
>城は落とせたものの地場の豪族の調略はできなかった。
>とりあえず焼き働きを行い周辺に駐屯軍を置いて撤退
>その後今川旧臣に奪い返される
と書いてありますよねえ?今貴方が書いている事は、このレスとも
明確に矛盾しているように思われますが、この件について、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。

で、史実の第一次駿河攻めの流れは、
1.武田がまず今川勢主力を相手に薩睡峠で勝利し、そのまま駿府まで占領。
氏真は掛川城へ撤収する。
2.武田はそのまま駿河の主要部分を制圧していこうとするが、
ここで北条軍が襲来。対峙戦となる。
そして、
北条が上杉と同盟を結び、武田領土を包囲しようとする動きを示した事から、
武田は江尻に穴山を残すなど、一部の拠点に守備兵力を残して甲斐に撤収。
3.武田勢が撤収した後の駿府の今川館を岡部が奪還。
4.信玄の小田原攻めの後に、すぐさま信玄は第2次駿河攻めを行い、
蒲原城を一日で攻略し、薩睡砦も制圧し、そのまま駿府に攻め込み、
岡部の忠誠を評価して、交渉を行い、開城させる。
5.そこから、武田が駿府からさらにその他の駿河の諸城を攻略していく。

という流れなのですが、貴方の言っておられる事は
史実的に色々と異なりがおありになられますように思われるのですが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。