>>436
横からですけれど、
信長が1572年11月28日に朝倉浅井に出した書状の事ではないですかね。
「将軍様の政道に越度がある時は、相互に相談して対処しましょう。」
「寺社や公家の政道に関しましては、貴方達から沙汰される事に異論などありません!」とか
等々と書かれておりますし、普通に書き方も慇懃で、信長が朝倉浅井の側に阿って書いている、とされますしね。

さすがに、武田・朝倉・長島が三方向から美濃に侵攻してきますれば、
武田一方向相手に対抗できる兵力だけでは、非常に対応が苦しくなると思われる次第でなのでございますが、
この件については、如何なものなのでございましょうかねえ。

勝頼が一か月、というのは、>>433にも書きましたように、前にも指摘の方をさせていただいたと思うのではございますが、
普通に、勝頼時代の東美濃の城々は、信長が信玄死亡後に、
岩村の武田勢を封じる為に周辺諸城に兵力を込め、普請を行い、
というのを行った結果、それに触発されて勝頼の東美濃侵攻が行われる、という流れですから、
それらの普請やら兵力込めやら、が行われてない東美濃の諸城は、
勝頼時代よりも攻略がしやすいように思われるのですが、如何なものでございましょうかねえ。