そもそも史実知っていれば浅井朝倉がどれだけ苦境だったかすぐわかるからな。
1570年の10月20日には朝倉が、10月21日には浅井が織田信長に和睦要求してるのが
信長公記と尋憲記に記されてる。信長公記は織田方の史料だからとしても、
尋憲記は織田とは関係ないわけだからほぼ史実と言っていいわな。

加えて10月22日には三好が攻撃を開始するも不発に終わり、
戦闘が長期化する中で六角三好が織田と和議を結んで離脱。
これが11月22日。つまり織田信長からすれば
「六角や三好と和睦結んでても浅井朝倉はぶっ潰す」くらいの意志があった。
これは10月の浅井朝倉の和睦要請を無視した挙句「一戦交えようではないか」と挑発した行動からも合致する。

結局朝倉は死にものぐるいで主力軍大動員して堅田を防衛して
犠牲出しながらも坂井を戦死させて織田をなんとか跳ね返した。これが11月26日。
んで志賀の陣の和睦開始が11月28日。比叡山がゴネて、和睦完遂が12月15日。

織田信長が相当腸煮えくり返っていたのは翌年の比叡山攻撃が証明してる。
浅井朝倉も比叡山を助けることができなかった。