>>276
それを言いましたら、西上の時の武田は信濃のほかに、
東美濃・甲斐・駿河・西上野・遠江北部と南部、三河北部、飛騨、
といった領域を支配下においておりますし、
その石高は120万石近くに達しており、尾張美濃の織田とほぼ変わらず、
三河から援軍、というのがどういう意味かは考慮しかねますが、
三方ヶ原には東三河衆・西三河衆を率いる酒井・石川が参戦して、
共に敗北しており、三方ヶ原における徳川側の被害武将は
このスレや他のスレでもご紹介させていただきましたように、
50名近くに達しており、その中には石川数正の弟である石川正俊や
石川勢に属して戦った外山小作正重、
酒井の家臣である石原十度右衛門も入っており、
普通に石川勢・酒井勢も相応の被害を受けている事が伺われるわけですしねえ。
で、その三方ヶ原の結果、徳川勢は1573年からの長篠城再奪取の為の軍勢も
三千程で出陣している事から、相応の被害を受けている事が明らかなように
思われますので、三河から援軍、というのはいささか以上に厳しいように
思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。

そもそもの問題として、何度もこのスレで指摘されておりますように、
武田の目標は5月から朝倉・長島と連携しての美濃侵攻、ですから
普通に尾張ではなく美濃に侵攻する、という事になると思われるのですけれどねえ。