>>876
根本の戦略構想を後知恵結果論ながら変えれば可能。

具体的には当初は南近江、大津、瀬田辺りで東軍を迎え撃つつもりでいた。
しかし東軍は来ないし予想以上に味方は集まるし、越前、美濃の勧誘もうまくいってる。
では前線を押し上げよう、ということで、大雑把に言うと

北陸方面:防衛、美濃・尾張方面:助攻、伊勢方面:主攻となった。
ここまで史実。

しかしこいつを、清洲の占拠及び維持は福島が味方しない限り困難なので、
尾張制圧は福島が味方しない限り放棄。
東軍襲来の可能性の高い美濃方面(飛騨方面、東濃方面、尾張方面からの敵侵攻予想)
への戦力集中を優先とし、
敵主力の撃滅を目的とす。
伊勢方面の東軍弱小戦力にはこちらも相応の戦力でもって当たるものとする。

これにより当初から
北陸方面:防衛、美濃方面:主攻、伊勢方面:助攻にし、
具体的には
伊勢方面一番隊長束正家、安国寺恵瓊、小早川秀秋、
瀬田砦構築後、二番隊毛利秀元、吉川広家とす。

で、美濃方面は
8月10日石田、小西大垣入城、
8月20日島津、宇喜多、長曾我部、鍋島大垣入城
同日、石田、小西岐阜へ移動

8月21日美濃方面西軍陣容
岐阜城:秀信5300、石田6700、小西5000、計17000
大垣城:島津1000、宇喜多17000、長曾我部2000、鍋島9000、計29000
犬山城:石川貞清他美濃衆計7000

作戦としては複雑にはなるがこの3城同士で敵来襲城への相互後詰かな。
余裕があれば郡上方面と東濃方面、木曽川方面に援軍を出し美濃制圧を目指す。


この美濃主攻案も東軍先発隊が清洲で家康の到着を待つと西軍は結局手詰まり。