信孝といえば例の辞世はウィキによると勢州軍記と川角太閤記が出典のようだけど
どちらも秀吉死後半世紀も経たない江戸最初期に著されており、川角太閤記は秀吉と
同時代の人々の述懐を収録するなど、有名な甫庵太閤記などよりも史料的価値は高い
そう考えると信孝の辞世は全くの創作とはとても言い切れないのだが、そうだとすると
辞世にある秀吉への直接的な怨念というのはすさまじい(天正記には違う辞世が書か
れているというが、天正記は秀吉の肝煎りで書かれたものだからかえって信用できない)
豊臣信者は信孝を殺したのは信雄だとよく言うが、この辞世からは信孝が自分を死に
追いやったのは信雄などではなく秀吉だと認識していたことがよくわかる
まあ清洲会議以降三法師を免罪符にして秀吉のやったことを見たら客観的にも主観的
にもそう思って当然なんだが

北畠物語は広く刊行されたのこそ秀吉死後100年経ってからだが1586年から1628年まで
の成立が推定されていることから、信孝一族の末路をリアルタイムかほぼそれに近い
時間軸で見聞した人が書いた可能性が高いんだが信孝の辞世のような複数の出典がない
なら何とも言えないな
ただ後の秀次一族への仕打ちから見える秀吉の生来の残虐性からそういうことがあった
としても全く不思議ではないな