>>877
宇喜多が前田閥なのは同意するけど、
秀吉が前田を徳川牽制の切り札に考えていたかは疑問。
徳川牽制を目的とするには五大老五奉行体制も前田に与えられた権限も中途半端なんだよな。
寧ろ賤ヶ岳然りで、前田が割と長いものに巻かれる事なかれ主義なのは熟知していただろうし。

秀吉って秀次事件直後からちょくちょく病で伏せるようになるけど
自分の死後を見据えた体制構築って殆ど行ってないんだよな。
御掟五ヶ条(1595年)で大老に連署させて後の五大老制の萌芽を見たくらい。
そこから1598年7月に秀頼への起請文を提出させるまで殆ど何も無し。
その一ヶ月後には「上様長々御煩付而、御失念も在之様ニ」って書かれるほど様態が悪化。
で、掟に連署した大老+自分の側近5人に「あとはよろしく頼む」で病死。

まだ死ぬつもりは無かったのか、既に考える力も無くなってたのかホント謎