関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part5 [無断転載禁止]©5ch.net
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0001人間七七四年
2017/06/06(火) 20:27:04.95ID:AlTcU9jR前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part4
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
0859人間七七四年
2017/07/08(土) 21:30:51.20ID:rNPECSrGそれ関係ないだろ。
その話を振るなら公儀の資格がないから徳川が滅ぼしたという正当化に持っていくしかない。
家臣のみでは悪逆だから滅ぼしてよい訳ではないのだから。
0860人間七七四年
2017/07/08(土) 21:39:12.57ID:k3wTLrW1公儀の資格が無いから1601年に関白が任命され、1603年に征夷大将軍が任命されたんだよ
秀吉は太政大臣だから1598年まで関白を殺したといえど正当性はあったが
1600年の段階でもっとも正当性を持っていたのは内大臣の家康だ。
右大臣の菊亭は秀吉の関白殺しに連座して娘を殺され、流罪にされたので豊臣を恨んでいる
0861人間七七四年
2017/07/08(土) 21:44:07.97ID:gJiGBr10あと細川の人質は利長謀反疑惑に連座されそうになった際に
誓詞と一緒に差し出したものだから、公儀への人質であって徳川への人質では無い。
(そもそも自主的に送ったかどうか疑わしい)
これも本来なら大坂に置いとくべきものでわざわざ江戸に送って徳川の庇護下に置く理由は無い。
(徳川が細川を従属させる為以外には)
0862人間七七四年
2017/07/08(土) 21:46:33.41ID:rNPECSrGだからその豊臣に抗議の資格がないって話をどこに持ってきたいんだよ。
徳川の行為を正当化したいから突然引っ張り出したのか?
0863人間七七四年
2017/07/08(土) 22:04:48.57ID:tTNusxzaんなことはないだろ。戦国時代を通じて、朝廷は諸勢力に対して中立の立場を維持して、要請があれば和平調停を行うスタンス。
織田家に対して、織田家の敵対勢力を討てとの勅を下したこともないし。
光秀の三日天下中に朝廷工作を行っても、支持を表明してない。
秀吉も勅命を奉じて軍事行動を行ったことは無い。自分は関白・太閤だから天皇の代行者、と勝手に行動してるだけで、
天皇から北条征伐とか島津征伐とか、外征とかの勅が下されたことは無いし、秀吉から勅を要請したこともない。
朝廷が明確に敵対的だったのって、キリスト教に対してぐらいじゃないか。
平安末期〜南北朝ぐらいの朝廷が軍事的に有利な側を支持していた頃と、戦国〜織豊期の頃の朝廷じゃスタンスが全然違うよ。
武家の側も朝廷に支持を求めることはしてないし。
南北朝で散々ごたごたしたんで、武家の争いに朝廷を巻き込むとこじれるだけだとわかってたんじゃないか?
0864人間七七四年
2017/07/08(土) 22:10:20.79ID:tTNusxzaそもそも、徳川家は豊臣家の家臣なのか?
秀吉は天皇の元の最高位である自分に天皇の家臣である諸大名は従って当然、って理屈で支配してたわけだろ。
徳川も豊臣も同じ朝臣であって、朝廷から大政を委任された豊臣政権の一員だろ。
同じ理屈で、幕末の島津藩と毛利藩は、徳川家の家臣になったわけではない、って理論武装したんだけどな。
0865人間七七四年
2017/07/08(土) 22:15:39.79ID:YKmhJkc4あれ、光秀が本能寺をやらかした時に
朝廷が光秀の行動を追認した形跡があったんで
「お前たちはなんという軽はずみな事をしたのだ」
って秀吉が怒ったって話、あれ創作なの?
創作だったならすまん。そういう事があったんで、
西軍の行動追認しなかったのかなって思ってたんだ。
0866人間七七四年
2017/07/08(土) 22:16:20.08ID:rNPECSrGそれに幕末の話はそれで幕府に挑戦したんだから筋は通る。
徳川は豊臣の家臣じゃない、豊臣に公儀の資格はなかった、
だから徳川に野心はなかったし滅ぼしたけど徳川は悪くないんだよねって理論の展開は何か落ちてないか?
0867人間七七四年
2017/07/08(土) 22:37:00.88ID:OEri4a3E0868人間七七四年
2017/07/08(土) 22:53:14.44ID:tTNusxzaいや、朝廷が官位とかを与えたとか、洛内の統治を認めた、ってのと、官軍にした、ってのの間には巨大な壁があるから。
官軍とは朝廷の命令で動く軍隊。
朝廷が光秀に秀吉討伐の勅を下してれば問題だろうけど。
0869人間七七四年
2017/07/08(土) 23:07:01.90ID:QYweCJq0いや、明らかではないよ。
秀吉の対応は明確に徳川を上位に置いている。
官位、石高、縁戚関係、全てにおいて徳川は前田の上位。
その流れに加え、遺言において『徳川が政務、前田が守役』なわけ。
遺言では対比されているわけでなく、併記されているだけね。
実力随一の徳川家と縁辺強化し、唯一の織豊系大老である前田家にこ織豊大名を
統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い。
前田家単体では、格・実力・経歴からして毛利・上杉よりも下。
そんな前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。
社長不在の際、『部長、課長に印鑑(承認)もらうように。』という当然の話。
部長と課長は同列ではない。
0870人間七七四年
2017/07/08(土) 23:09:16.22ID:QYweCJq0すみません、外なもので。
細川家は加賀征伐の時、誰を人質に出したんでしたっけ??
0874人間七七四年
2017/07/08(土) 23:39:29.83ID:OEri4a3E豊臣政権にとって家康は巨大な存在だったから秀吉は秀頼の事を頼んだし
三成ら奉行は危険視して排除しようとした
0875人間七七四年
2017/07/08(土) 23:58:39.86ID:gJiGBr10いや徳川上位なのは否定しないよ。
ただ家康は単独の政務全権委任者と安易に決めつけるのはどうだろう。
家康が縁辺問題で、霊社上巻起請文違反を追及されたときも
「秀吉の遺言では政務全権委任者は自分」などと主張せずに謝罪してることが、
単独の政務全権委任者で無い何よりもの証だと思うけど。
あと前田家の格が毛利・上杉より下ってことはない。
秀吉の遺言状でも名指し順が家康→利家→秀忠→利長→秀家→輝元→景勝で
明確に徳川・前田は上杉毛利宇喜多より上位に位置付けてある。
また奉行衆に対しても「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと」のように
「五大老」ではなく「家康・利家」の御意を得るように明記もされている。
明らかに徳川・前田は別枠。
0877人間七七四年
2017/07/09(日) 00:06:40.78ID:wILaV809徳川が内大臣、前田が大納言、残りは中納言なんで意図は明確だよね。
そんで、宇喜多秀家の正室が秀吉の養女兼利家の実の娘の豪姫です。
つまり、前田は五大老の中で自分だけ事実上二票持ってるんだよね。
更に、秀吉との関係は豊臣子飼い大名なら知らない者が居ないし。
明らかに、徳川牽制の切り札扱いだと思います。
0878人間七七四年
2017/07/09(日) 00:09:27.66ID:0TL1sh5M家康たちの御意を得るのを辞めて自分たちだけで政治権力を独占しようとしたらどうするのかということ
それを実行しようとしたのが三成なわけで
三成の野心を誰も制御できなくなったのが豊臣崩壊の最大の要因だろうね
0879人間七七四年
2017/07/09(日) 01:10:39.09ID:CHSYgg1s宇喜多が前田閥なのは同意するけど、
秀吉が前田を徳川牽制の切り札に考えていたかは疑問。
徳川牽制を目的とするには五大老五奉行体制も前田に与えられた権限も中途半端なんだよな。
寧ろ賤ヶ岳然りで、前田が割と長いものに巻かれる事なかれ主義なのは熟知していただろうし。
秀吉って秀次事件直後からちょくちょく病で伏せるようになるけど
自分の死後を見据えた体制構築って殆ど行ってないんだよな。
御掟五ヶ条(1595年)で大老に連署させて後の五大老制の萌芽を見たくらい。
そこから1598年7月に秀頼への起請文を提出させるまで殆ど何も無し。
その一ヶ月後には「上様長々御煩付而、御失念も在之様ニ」って書かれるほど様態が悪化。
で、掟に連署した大老+自分の側近5人に「あとはよろしく頼む」で病死。
まだ死ぬつもりは無かったのか、既に考える力も無くなってたのかホント謎
0880人間七七四年
2017/07/09(日) 01:49:48.83ID:7zgV/vpE何の得にもならなそうだが
この対決時に
秀家の存在感が感じられないのは何故だろう
それとも利家をともに家康と対決していたのか
0881人間七七四年
2017/07/09(日) 02:52:16.53ID:yqUbkHAI0882人間七七四年
2017/07/09(日) 07:01:13.37ID:GkV2K0V4まあ、利長が利家の遺言無視して、迂闊にも国元に帰ってしまったのは失敗だろうね。
仮に罠にはめられた説を採用したとしても何やってんのとしか思えんし。
ただ、前田征伐の原因である家康暗殺計画を家康に報告したの増田と長束だしなあ。
どう見ても奉行が前田を追い落としにかかってる。
豊臣家は豊臣家で前田家が仲裁を依頼したらあっさり断るし。
0883人間七七四年
2017/07/09(日) 07:02:29.88ID:XY/IH4Mhという展開になったとき、みんな家康にびびって援護してくれなかったんだよな
それで仕方なくおまつ様を人質に出して屈服した
あれで家康は味をしめて、上杉も毛利も脅せば屈服すると思い込んだ
本来、関ヶ原なんて考えてなかった 脅せば全員屈服すると思ってた
0884人間七七四年
2017/07/09(日) 07:08:48.93ID:6t2l2egK0885人間七七四年
2017/07/09(日) 07:13:40.38ID:uJB0o6iy政務全権委任者なんて私言ってませんよ。
権限委譲は当然ありますね。家康による政権主導と言ってます。
縁辺問題(?)については、膝を折ったのは前田家ですよ。
実際、問題となった婚姻自体破談になっていない。
家康の政治的判断で、100%勝利としなかっただけの話。
現代でも、出来る人は全面勝利を志向しませんね。落としどころを見つけます。
格については、表面的な話ではなく実質的な話です。
官位の上下のみをもって判断するなら、織田秀信、徳川秀忠は前田以外の大老よりも上という事になりますね。
独立系大手の上杉・毛利が、織田の一武将でしかなかった前田家よりも下だとは思わないでしょ。
0886人間七七四年
2017/07/09(日) 07:16:46.80ID:uJB0o6iy細川家は加賀征伐の時、誰を人質に出したんでしたっけ??
別の方に忠利という回答を頂いているんですが(>>876)、
忠利が江戸に行ったのは、確か関ヶ原の後だったかと。
0887人間七七四年
2017/07/09(日) 07:34:48.48ID:CHSYgg1sそれ同じ人。
忠利で間違いないよ。
綿考輯録には慶長5年1月25日に光千代が大坂を出て江戸に向かったと書かれてる。
参考までに「忠利が江戸に行ったのは、確か関ヶ原の後だったかと」
の出典も教えて欲しい。
0888人間七七四年
2017/07/09(日) 07:51:58.25ID:uJB0o6iyいえ、もともと>>875(>>861)にお願いした質問でしたので確認をお願いしただけですね。
私の方は記憶です。忠利は江戸で秀忠に仕えた、という記憶があったものですから。
外出先で手元に資料がないものでして。忠利という事でしたらそれで領解しました。
ありがとうございました。
0889人間七七四年
2017/07/09(日) 09:52:31.11ID:IMg5PVdp有力大名たちに大権を与えれば、
豊臣政権が寄り合い所帯になってしまう
だから秀吉も躊躇して逡巡した所もあったと思う
最後の最後に秀頼が5歳であることや対外出兵の最中であることから、
泥縄式に五大老制度を整えたが
実際、徳川幕府は前田島津伊達といった有力大名に大権は与えなかった
0890人間七七四年
2017/07/09(日) 10:07:51.32ID:CHSYgg1s話戻すけど>>前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。
徳川前田二頭体制って主張はそんなに常識レベルで無茶な話かな?
中村俊一郎の「石田三成からの手紙」、桐野作人の「謎解き 関ヶ原合戦」、
阿部勝則の「豊臣五大老・五奉行についての一考察」でも徳川前田二頭体制は主張されてる。
この人達を全面信用するかは別としても、「誰が考えても無理」なレベルの話では無いと思うんだが。
寧ろ「織豊大名を統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い」こっちの方が初耳。
論文か著書で閲覧できるなら是非見てみたい。
0891人間七七四年
2017/07/09(日) 10:27:41.97ID:uJB0o6iy戻すのなら、>>842>>843辺りまで戻してもらえますか?
私も話がだいぶ逸れたな、と思っていましたので。
つまり、>>837に対して、
『関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。
家康の地位・権力は、秀吉の遺言によって担保されている。』 という話です。
論文等々については、そのあとでお付き合いします。
0892人間七七四年
2017/07/09(日) 10:44:14.44ID:IMg5PVdp名護屋で留守を務めたのが家康と利家
そして秀吉が亡くなる前に前田利長を中納言にした
これは秀忠と同じ官位だ
そして秀吉死後、秀頼を抱いて上座に座り、
諸大名の挨拶を受けたのは利家だ
完全に5分5分ではないにせよ徳川と前田を両頭にしようという
秀吉の苦心はわかる
0893人間七七四年
2017/07/09(日) 10:48:09.19ID:IMg5PVdp豊臣政権は官位を以て大名の格とした
だから「独立系大手の上杉・毛利が、織田の一武将でしかなかった前田家よりも下だとは思わないでしょ」
は上杉と毛利の本心はわからないが、豊臣政権では前田利家より格下ということだ
そもそも秀吉だって織田の一武将だし
家康も織田の一武将みたいなものだろう
0894人間七七四年
2017/07/09(日) 11:04:17.13ID:1NwyCyP10895人間七七四年
2017/07/09(日) 11:05:49.95ID:IMg5PVdp家康が秀吉存命中に野心をむき出しにしていたら粛清されていただろう
だから家康は天下がとれたんだよ
少年期の今川の人質時代も今川の忠臣のふりをしていて、
秀吉の家臣時代でも秀吉の忠臣のふりをしたわけだ
大老になったのは秀吉(豊臣家)の都合だ
別に家康が大老にしてくださいと求めたわけじゃない
豊臣政権は当初は秀吉のワンマンで外様大名は口出しできなかった
家康が進んでやった保身策はせいぜい、秀忠に淀殿の妹をめとらせたぐらいか?
0896人間七七四年
2017/07/09(日) 11:29:22.98ID:uJB0o6iy>>885の中でも言ってるんですが、
格については、表面的な話でなく実質的な話です。
秀吉が苦心している時点で、既に対等ではない証左ですし、
秀吉が死ねば、表面的な格にほとんど意味はなくなります。
事実、格上の徳川に反発したのは格下の大老達では?
0897人間七七四年
2017/07/09(日) 11:36:17.45ID:IMg5PVdp徳川家康だって6歳の息子に水戸25万石と左衛門督にしてあげて格ができた
5代将軍徳川綱吉に至っては、小姓組から大老格・甲斐15万石の大名になって格が
できた
0899人間七七四年
2017/07/09(日) 11:38:11.19ID:Tzii/RD0家康は律儀でなによりも大義と秩序を重んじるんだよ。
秀吉は悪党とはいえ、帝から太政大臣に任じられている。
関白を殺そうと、太政大臣は自分より上位の人間であり最高位だ。
だから家康は天下のために従った。
けど、1598年に秀吉が死んだとき、最高位は内大臣の自分だ。
そして1601年に関白が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍になった以上
正統性は家康にあるんだよ。
日本の君主は天皇であって豊臣ではない。これは極めて重要な事実だ
0900人間七七四年
2017/07/09(日) 11:40:26.15ID:Tzii/RD01588年と1592年、天皇に聚楽第へ行幸してもらい、
諸大名が天皇に臣下の礼を取ることで、最高位の臣下である秀吉が主導するという体制を
秀吉自身が取っている。つまり、1600年の時点で内大臣の家康は天下を采配する権限を持っているんだよ
0901人間七七四年
2017/07/09(日) 11:43:42.89ID:uJB0o6iy表面的な格は、平時には機能するでしょう。仰る通り。
しかし、有事・変事においては実質的な格(実力)がモノを言う時代ですよね?
有事においても表面的な格をもって解決が図れるなら、関ヶ原など起きませんよね。
別に格の話をしていたわけではないのでこの辺にしておきます。
0902人間七七四年
2017/07/09(日) 11:55:36.62ID:Tzii/RD0征夷大将軍 足利義昭が返上したため欠員
関白 秀吉が殺したため欠員
太政大臣 秀吉が死んだため欠員
左大臣 秀吉が殺したため欠員
右大臣 秀吉が流罪にしたため欠員
内大臣 徳川家康
大納言 前田利家
1588年と1592年に諸大名は天皇の臣下として天皇に忠誠を誓っている。
1598年の時点で臣下の最高位は徳川家康だ。
1599年に菊亭が右大臣に戻ったが、菊亭はひとり娘を秀吉に殺されて、自分を流罪にした豊臣を恨んでいる
0903人間七七四年
2017/07/09(日) 12:15:13.17ID:Tzii/RD0あと、これは秀吉が関白左大臣を殺し、右大臣を流罪にしたときにパワハラで書かせた起請文だが、
秀頼を秀吉と思って粗略にせず奉公すると書かれている。
つまり1588年と1592年に、天皇に忠誠を誓った天皇の臣下として、
臣下の最高位であり天皇の代理である関白太政大臣の豊臣秀吉と同じく、秀頼を粗略にしないと書かれているわけだ。
けど、関白や太政大臣は天皇が任命するもので、豊臣は嘆願はできても任命はできない。
そして1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命されてしまった。
豊臣は公儀ではなくなったわけだ。
それでも約束はまもられ、秀頼は粗略にされず、右大臣にまでのぼったが
1607年に自分から右大臣をやめてしまった。
そして、1614年の関白左大臣は鷹司信尚であり、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠で、
公儀は江戸おかれ、幕府が武家を統制していた。
豊臣秀頼は公儀を呪いをかけ、公儀に逆らって死んだわけで、謀叛人の逆賊以外のなにものでもない
子供ならいざしらず、大人になったのにいつまでもわがままは許されないってことだな
0904人間七七四年
2017/07/09(日) 13:29:25.13ID:fcDAHplS横領による不正蓄財については、池田輝政が佐和山を屠城したとき、
佐和山城は金箔で敷き詰められており、石田一族は絹をまとっており、
倉庫は日本、中華、南蛮の財宝で溢れていた、と書き残している。
少なくとも、蓄財に関しては石田三成は最悪に近い人物だ。
0905人間七七四年
2017/07/09(日) 13:51:08.15ID:ziO1yKVD織田閥のトップの人間が死にすぎた゚(゚´Д`゚)゚
0906人間七七四年
2017/07/09(日) 15:17:13.84ID:CHSYgg1s話が逸れようが主張したことに変わりは無いと思うんですが。
貴方が『関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。
家康の地位・権力は、秀吉の遺言によって担保されている。』 と主張したいことは理解した。
理解したので改めて、
「前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。」と
「織豊大名を統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い」
の論拠・出典をお聞きしたい。
0907人間七七四年
2017/07/09(日) 15:28:20.15ID:8IxvBf1C0908人間七七四年
2017/07/09(日) 15:29:14.14ID:Tzii/RD0諸大名が天皇に臣従し、秀吉が政務を代行するという形をとったからだよ。
秀吉の遺言とか関係ないわ。
征夷大将軍、関白、太政大臣、左大臣が不在で
右大臣が秀吉に娘を殺され、流罪にされたため豊臣を恨んでいる状況で
武力と官位の双方をもつ内大臣が政務を行うのは当然なんだよ。
1601年〜1603年移行は、関白が任命されて豊臣公儀は完全終了し、
源頼朝いらいの伝統である征夷大将軍が大権を委ねられて公儀を開いている以上、
豊臣は公儀に従うのが道理だ。
まぁ関ヶ原時点なら、内大臣の決定に従うのは道理だよ。少し前なら
内大臣を補佐する大納言が生きていたが、死んだからな。家康の決定が公儀の決定だ
0909人間七七四年
2017/07/09(日) 15:49:13.01ID:uJB0o6iyいいえ。話が逸らされ論点をぼかされるのでは時間の無駄なので。
『理解した』では不足。認めてもらわないと。
議論してたわけだから、次の話はそれからでしょ。
0910人間七七四年
2017/07/09(日) 16:16:09.44ID:CHSYgg1sそれはおかしいのでは無いか?
『秀吉死後体制=徳川主導体制であり、それは秀吉が企図したもの(>>848)
よって家康の地位・権力は、最初から秀吉の遺言によって担保されたものであり、
関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。』
これがあなたの根本の主張でしょ?
それに対して「徳川主導体制」では無く「徳川前田二頭体制」と主張したら、
『誰が考えても無理。まずは常識で判断。 』って反論されたから、
ならその論拠を教えてくれと言っているわけだ。
次の話でも何でも無い。最初からこの話。
0911人間七七四年
2017/07/09(日) 16:22:32.23ID:CHSYgg1s『本来、徳川前田二頭体制(>>858)。
それを芳春院を江戸で人質に取り、対前田で優位に立つための政略を取った。
これは明らかに地位向上に邁進した結果(>>848)』
なので、この「議論」を進めたいなら
徳川前田二頭体制を否定する論拠を示して貰わないと
0912人間七七四年
2017/07/09(日) 16:38:44.71ID:uJB0o6iyでは議論を継続されたいという事で。
全然違うでしょ。
最初のキミの主張(>>837)
『家康の最も悪辣で卑劣な点はそこ。
明らかに自分の地位向上の為に邁進しているのに
徹底した理論武装で理詰めでは非難しきれない点。』
私が噛みついたのはココ。
本来、まずは『アナタが家康が地位向上に邁進していた事』を立証すべき。
徳川前田二頭体制は、家康が邁進していた事、ではない。
0913人間七七四年
2017/07/09(日) 16:51:00.25ID:Tzii/RD0秀吉政権の正統性は1588年と1592年に天皇に聚楽第へ行幸してもらい、
諸大名を天皇に服属させることで、関白太政大臣の秀吉が臣下の第一位として采配をふるう形を取っていることなんだよ。、
つまり、諸大名の主君は天皇であり、豊臣は主君ではなく、豊臣は臣下第一位にすぎないってこと。
これがもっとも重要な前提で、豊臣政権の根本になる。
しかし秀吉は1595年に関白を殺し、正統性をみずから潰してしまった。
この時点で豊臣は公儀とはいえなくなってしまった。それでも太政大臣である以上、
公儀でなくとも正統性を得ていたが、公儀とはいえなくなった。
秀吉もそのへんを分かっているから私的な起請文を連発することで補おうとしたが、そんなものに価値はない。
そして、1598年に秀吉が死んだことで豊臣の公儀の基盤は完全に失われてしまった。
秀吉の専横と死で、関白太政大臣左大臣右大臣がおらず、残ったのは内大臣の家康だけだ。
家康が政務を行うのは当然だし前の太政大臣の遺言でもあった。そしてそれを監察したのが大納言前田利家なわけだ。
だけど前田利家も1599年に死亡した。政務を行う正統性を持つ人間は徳川家康ただ一人になったわけだな。
そして家康は政務をおこない、天皇に晒布100反を下賜され、前の太政大臣家から黄金2万両米2万石の支援を受けて
内大臣率いる官軍として会津征伐が行われたわけだ。
その官軍に権力欲しさに謀叛をおこしたのが石田三成なんだよ。
西軍は賊軍であって正義も正当性もない。
1601年に関白が任命され、1603年に征夷大将軍が任命され、
江戸に幕府が開かれて徳川公儀がはじまった。この公儀は大政奉還と王政復古の大号令まで続いた
0914人間七七四年
2017/07/09(日) 16:58:23.30ID:Tzii/RD0石田三成は権力欲しさに官軍に謀叛をおこした逆賊
豊臣秀頼は政府に逆らって自滅した国家反逆者って感じだな。
0915人間七七四年
2017/07/09(日) 17:59:44.12ID:njSc+IMB是非に及ばずだよ
0916人間七七四年
2017/07/09(日) 18:17:05.07ID:CmhntYP0だから、
本来、徳川前田二頭体制だったものを
家康単独主導体制に持って行ったこと自体が地位向上に邁進した結果だと言ってるの。
芳春院も忠利も本来、大坂で人質とすべきものを態々江戸に連れて行ってるだろ?
これは前田と細川を豊臣公儀の隷下に置く為では無く、
徳川の隷下に置くことが目的としか思えないって言ってるの。
豊臣に対する謀反疑惑なんだから、豊臣の膝元で奉行衆の監視下に置くのが本来の形だろ?
まして前田は秀吉が想定した二頭体制の片割れなんだから本来は
もう片割れの徳川が江戸に人質を取って「徳川に従う」って誓詞を提出させたこと自体が地位向上目的でしかないと言ってる。
0918人間七七四年
2017/07/09(日) 18:41:19.09ID:mlnPFi60さて、前田が奉行に人質を渡すのをよしとするかねえ。
そもそも前田征伐の原因って奉行の増田と長束が家康に対して
利長を中心とした一派が家康を暗殺しようとしているって訴えた事なんだが。
つまり前田征伐自体、奉行が前田の勢力を削ぎ落とそうとした計画っぽい。
となれば前田視点、奉行に人質を渡すなんて論外でしょう。
仮に自分が利長ならこんなふざけたまねした奉行どもに屈服するぐらいなら
あてつけの意味もこめて家康に人質渡しますね。
まあこれで豊臣政権は徳川一強になりますけど、そうなったのは
てめえら奉行がいらん事するからだ、って心の中で言ってやります。
0919人間七七四年
2017/07/09(日) 19:05:44.67ID:CmhntYP0言い出しっぺは増田だけど
家康も丹羽を動かしたりて前田潰しに全力掛けてるからな
前田から見たら両者共犯で大して変わらん。
あと縁辺問題についても
「諸事御仕置等之儀、其輕重をけつし、十人之衆中多分ニ付而可相究事」
を素直に読めば決裁は十人合議の多数決で決すことになっていて、家康に決裁権が有るとは思えない。
まぁだから問題として炎上したんだろう。
当然家康も問題視されるのは想定してたろうが、それでも押し通したのは縁辺による地位向上の為だろうな
0920人間七七四年
2017/07/09(日) 19:13:10.73ID:uJB0o6iy家康が地位向上に邁進した内容が、『芳春院と細川忠利の江戸人質』だけとは
随分寂しい話ですね。もっとガツンとした話でもあるのかと。
人質については、前田家・細川家は自ら供した可能性が高いわけで。
特に芳春院については、奉行から堀尾家に道中賄方の指示を出しており、
公儀の権限で行われている。
そもそも人質を供する原因である加賀征伐は、前田家の家康暗殺未遂疑惑である以上、
前田家の失点。
家康の地位向上に資するものではなく、前田家の地位下落に該当する話。
加賀征伐の顛末に関し、家康は与えられた権限内での対応。
二頭体制か否かには全く関係なく。
以上、家康が地位向上に邁進していたとは言えないと思うが??
0921人間七七四年
2017/07/09(日) 19:14:57.34ID:e/ZyVkeg芳春院を大坂に送ったって家康の安全を約束した事にはならないのでは
0922人間七七四年
2017/07/09(日) 19:26:59.42ID:2gS3jOnwそりゃ、秀吉が死んだ後の起請文だし、縁辺とは関係ない
同じ起請文で、誓詞取りかわしを禁止しているのに、三成等の行動は無視無ですか
0923人間七七四年
2017/07/09(日) 19:31:56.73ID:Tzii/RD0滅ぶのも当然なのだろうな
0924人間七七四年
2017/07/09(日) 19:36:34.15ID:CmhntYP0関係なくは無いよ
2月5日には
家康「今度縁辺の儀について、御理りの通り承わり届け候。しかるが上は、
向後遺恨に存ぜず候間、前篇に相替わらず諸事、入魂せしむべく候」
利家・三成側「今度縁辺の儀について御理り申し入れ候ところ、早速御同心、畏み入り候」
で、家康自身が利家三成の主張を全面的に認めているんだし。
後、三成等の行動って毛利との誓詞のこと?
誓詞やり取りの禁止は「拾人之衆」と「諸傍之輩」の間の事だと思うけど。
勿論、あれが派閥形成を目的とした多分に政局的なものなのは認めるけど。
0925人間七七四年
2017/07/09(日) 19:40:25.42ID:2gS3jOnw2月5日のは知らんが
0926人間七七四年
2017/07/09(日) 19:46:12.94ID:CmhntYP0そもそも縁辺問題で家康が糾弾された理由が「上巻誓詞違反」だったと記憶しているんだけど。
「上巻誓詞」って「9月3日霊社上巻起請文」の事じゃ無いんだっけ?
記憶違いだったら済まん。
0927人間七七四年
2017/07/09(日) 19:56:05.87ID:Tzii/RD0秀吉の親友として動いている前田利家と
聚楽第行幸からの国家体制である、朝臣第一位の大臣として動いている徳川家康が交わるわけがない。
家康の行動はすべて天皇を中心において手続きを踏んで行動している
0928人間七七四年
2017/07/09(日) 23:05:50.07ID:0TL1sh5M反三成派の意見を吸い上げてくれるのが事実上家康しかおらず
単純な多数決で運用したら親三成派のやりたい放題になって
反三成派はただ粛清を待つだけの身になってしまう
家康が他の9倍の権力をふるってやっとバランスが取れる歪んだな構造では
親三成派以外は家康の権力掌握を受け入れるしかない
まして三成を復職させて家康を排除なんてことになったら三成派による一党独裁体制になるのだから
そんな都合のいいワガママなんて認められないよ
反三成派の代表が家康しかいない以上はどんなに三成たちが家康を批判したところで家康の支持基盤は崩れない
逆に家康を担いで三成排除の機運がより高まるだけだ
0929人間七七四年
2017/07/09(日) 23:12:19.22ID:CmhntYP0利長謀反事件までは奉行衆+毛利派、前田派、徳川派の三つ巴でっせ
加藤浅野細川は前田派、福島池田黒田は徳川派。
三成襲撃事件じゃ前田派と徳川派が結託して三成が排除されてるしな。
まぁ増田らが三成を尻尾切りしたのも有るだろうけど
0930人間七七四年
2017/07/09(日) 23:19:34.53ID:dIFhlybc三成も自身の蟄居までは受け入れるだろうと
それが上杉征伐から一気に三成が挙兵までのシナリオ作って動き出した
三成を当て馬に蟄居までさせた手前三成にある程度乗ったふりをした
そんな感じがする
0931人間七七四年
2017/07/09(日) 23:27:23.83ID:Tzii/RD0天皇が聚楽第に行幸して、家康はじめ諸大名が天皇を主君として忠誠を誓っていた体制を
秀吉が関白を殺してぶち壊したため、代わりに作った即席の体制にすぎないからな。
長続きするわけがない。上杉も崩壊すると思っていたのか、領地にこもって軍備を増強しそれが堀や最上を警戒させ会津征伐につながったわけだが
0932人間七七四年
2017/07/10(月) 00:07:02.47ID:rxanVVyAだから、利家を傅役に命じて格を家康と保々同じにしたって意味だと思います。
実際、前田対徳川の形で関ケ原って流れなら、大阪城の金蔵を開いて軍資金に使っても誰も
文句言わないし、豊臣家も明確に西軍支持でしょうしね。
0933人間七七四年
2017/07/10(月) 00:15:14.37ID:ALTzr8zS後は石高による動員数くらいしか指標が無いからな
独立系大名だった〜とか織田の一武将より〜とかの主張は意味不明
何の根拠も無い妄想乙って感じ
0934人間七七四年
2017/07/10(月) 00:25:45.42ID:c0tPikfe三成は何というか「豊臣公儀の有るべき形」みたいな理想を抱いて行動している感じけど
増田はもっとビジネスライクなんだよな。政治的主張が見えてこないというか。
「奉行衆」の連携もあまり拘ってないみたいだし。
長束は影が薄すぎて人物像が想像できないけど。
0935人間七七四年
2017/07/10(月) 00:26:02.84ID:qkJAmfdi0936人間七七四年
2017/07/10(月) 00:48:22.18ID:qDZZhRzc「豊臣公儀の有るべき形」を模索すると三成自身が要らないんだよな
こいつは素で現場とトラブルを起こしまくるし豊臣の威光を過剰に濫用しすぎる
秀吉という独裁者の下でその威光を諸大名に叩き込む初期段階において必要悪なだけで
秀吉が死んだら三成は豊臣家からみればもうお荷物だよ
豊臣公儀としての理想と、もう三成が必要ではないという現実という矛盾の中で
三成の暴走が招いたのが関ヶ原なのだろう
0937人間七七四年
2017/07/10(月) 00:50:39.12ID:6pRIlodrベスト10の過半数が豊臣なんてどうでもいい戦国大名だ
できたてホヤホヤなのに関白を殺し2度も外征に失敗しで、豊臣に権威なんてない。関ヶ原になるか、乱世に戻るかの違いだけだな
豊臣時代石高ランキング ★元敵対者or同僚 ☆秀吉子飼い
@第1位 徳川家康 255万石 ★戦国大名 織田家の盟友 秀吉に先祖伝来の地を奪われる
A第2位 豊臣秀吉 222万石 ☆織田家家臣
B第3位 毛利輝元 120万石 ★戦国大名
C第4位 上杉景勝 120万石 ★戦国大名 秀吉に先祖伝来の地を奪われる
D第5位 前田利家 83.5万石 ☆織田家家臣 秀吉の親友
E第6位 伊達政宗 58万石 ★戦国大名 東北の覇者 秀吉に領地を奪われ、先祖伝来の地も奪われる
F第7位 宇喜多秀家 57.4万石 ☆豊臣盟友 秀吉の継嗣になり守って貰った過去がある
G第8位 島津義久 55.5万石 ★戦国大名 九州の覇者 秀吉の侵略で降伏 領地を奪われる
H第9位 佐竹義宣 54.5万石 ★戦国大名
I第10位 小早川秀秋 52.2万石 ☆豊臣子飼い 秀吉の養子 寧々の甥
J第11位 鍋島直茂 35.7万石 ☆龍造寺家老 秀吉の援助で主家乗っ取り
K第12位 堀秀治 30万石 ★織田家家臣
L第13位 加藤清正 25万石 ☆豊臣子飼い
M第14位 最上義光 24万石 ★戦国大名
N第15位 長宗我部盛親 22万石 ★戦国大名
O第15位 浅野幸長 22万石 ☆秀吉子飼い
P第16位 青木一矩 21万石 ☆秀吉子飼い
Q第17位 小西行長 20万石 ☆秀吉子飼い
R第17位 福島正則 20万石 ☆秀吉子飼い
S第18位 石田三成 19万石 ☆秀吉子飼い
第19位 蒲生秀行 18万石 ★織田家家臣
第19位 細川忠興 18万石 ★織田家家臣
第20位 生駒一正 17万石 ★織田家家臣
第20位 蜂須賀至鎮 17万石 ☆秀吉子飼い
第21位池田輝政 15万石 ★織田家家臣
0938人間七七四年
2017/07/10(月) 02:34:32.30ID:VPdLj4pe有名どころの地生え外様大名が上位を占めてるね
前田は83万石だけど、自分で切り取ったわけじゃないからなー
0939人間七七四年
2017/07/10(月) 02:45:11.36ID:ooj6IsVf秀吉に100万石もの下駄履かせてもらってる
0940人間七七四年
2017/07/10(月) 02:58:03.28ID:c0tPikfe信長在命中に北陸方面軍として攻め上がって能登23万石。
賤ヶ岳後の対佐々の越中攻めでの戦果をそのまま与えられて32万石。
・・・その後の変移はどうだったっけ?
丹羽の国替えか小田原攻めの恩賞当たりで加増有っても不思議じゃ無いけど
0941人間七七四年
2017/07/10(月) 03:06:00.11ID:VPdLj4pe徳川上杉毛利伊達島津佐竹長宗我部なんかとは意味が違う
0942人間七七四年
2017/07/10(月) 03:27:42.50ID:qZuhnc3w信長時代に能登もらって賤ヶ岳の後に加賀半国をもらって
佐々攻めの後利長が越中四郡のうち三郡もらって合わせて八十数万石って流れじゃない
その後は家督を利長に譲って隠居した時に一万五千石もらったくらいで大きな加増はないね
0943人間七七四年
2017/07/10(月) 03:32:02.32ID:ooj6IsVfこっちは利家と違って自分の功績でもない只のボンボンだけど。
景勝も上から与えられてないのは北信濃くらいか。
他は全部先代の遺産だし。
御館の乱前の段階で景虎承認で家督継承されてたらしいし。
0944人間七七四年
2017/07/10(月) 03:34:43.29ID:c0tPikfe加賀半国忘れてた。
佐々攻めで攻め取った越中三郡は利長名義だったか。
小田原攻めの恩賞は金子とかだったのかしら?
流石に恩賞無しは無いと思うけど
0946人間七七四年
2017/07/10(月) 06:07:09.98ID:c0tPikfe確かに氏邦助命を咎められて譴責、謹慎処分食らっているみたいだね。
その後奥羽平定と出羽検地で津軽まで出向いて11月に帰国したみたいだから
謹慎自体は長くて一ヶ月くらいだろうか。
0947名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2017/07/10(月) 07:39:25.10ID:/5pb8NpD0948名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2017/07/10(月) 08:16:49.69ID:A/3ROmrmまともに戦ったのは石田・宇喜多くらいのもの
0949人間七七四年
2017/07/10(月) 08:47:09.22ID:MDwkGTHo0950人間七七四年
2017/07/10(月) 08:55:53.77ID:zM+bD71t0951人間七七四年
2017/07/10(月) 09:37:00.37ID:LJl343LB0952人間七七四年
2017/07/10(月) 10:07:01.67ID:MDwkGTHo拡大先が敵というだけ
0953人間七七四年
2017/07/10(月) 10:22:10.01ID:USHFS3dj官兵衛が豊臣秀頼の軍師となって、関ケ原で徳川相手に対峙することになったら、
どういう作戦を考えたのか興味ある
秀吉もなくなる間際に、
豊臣家が大軍を起こす時は、官兵衛を軍師とし、その軍略に従うべしと
奉行たちに命じておけばよかったのに
0954人間七七四年
2017/07/10(月) 10:29:13.99ID:A/3ROmrm佐竹が動かなかったの痛いね
0955人間七七四年
2017/07/10(月) 10:39:35.72ID:6pRIlodr秀吉が天下を取れたのは関白になったおかげだよ。
なれなかったら、主家の織田家を横領した逆臣でしかない
松永久秀と立場上何ら変わらない。
0956人間七七四年
2017/07/10(月) 12:39:31.26ID:+PQCsI8W0957人間七七四年
2017/07/10(月) 12:46:42.03ID:6pRIlodr主家を横領したのち主家を離れて関白職をだましとり、天皇の代理の関白として諸大名を従えたのち、
主家が尾張から離れたくないと口答えしただけで主家を改易
そして、関白を世襲にしたと思ったらその関白一家を皆殺しにして、契約書を書かせまくって泣きながら死んでいく。
悪事は似たり寄ったりだが、松永久秀の方が散り方はかっこいいな
0958人間七七四年
2017/07/10(月) 13:06:16.39ID:A/3ROmrm木下藤吉郎
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。