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関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part5 [無断転載禁止]©5ch.net

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0001人間七七四年2017/06/06(火) 20:27:04.95ID:AlTcU9jR
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前スレ
関ヶ原合戦はどうすれば西軍が勝てたか?Part4
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1492312819/
0809人間七七四年2017/07/08(土) 13:08:43.62ID:QYweCJq0
>>808
形式が整っていれば官軍だが。
0810人間七七四年2017/07/08(土) 13:23:31.33ID:rNPECSrG
猟官でもか?
0811人間七七四年2017/07/08(土) 13:36:00.50ID:QYweCJq0
関ヶ原当時の政治運営について、猟官で比較をするなどいかにもナンセンスだが(笑)、
あえて回答するならイエス。

完備された形式を認めないのであれば、それは豊臣家・朝廷の権威を否定するものであり、
そもそもなんでもありになるな。
0812人間七七四年2017/07/08(土) 13:43:47.85ID:+gJ4BUQB
>>810にとっての官軍の定義って何なんだろうな
0813人間七七四年2017/07/08(土) 13:48:00.48ID:Vzj0dXyc
内大臣家康を猟官だからダメと言い出したら豊臣政権の武家関白制の全否定になってしまう
0814人間七七四年2017/07/08(土) 13:54:54.04ID:k3wTLrW1
豊臣政権にとっては官位がすべてだよ。
そもそも豊臣は草履取りから引き上げてくれて返しきれない恩のある主家の織田家を横領して成立した正当性のない家だ

それを近衛家をだまして養子にもぐりこんで関白になったことで大義を手に入れ
惣無事を発し、諸大名を服属させていったわけで
1588年や1592年に聚楽第行幸をあおいで諸大名を天皇に服属させ、関白が代行する形を取っている以上、
豊臣と官位は切っても切れない関係にある。

なのに無理矢理世襲にした関白を秀吉が殺し、みずから正当性を手放してしまった。けど太政大臣家だから正当性はぎりぎり保たれたわけだが、
秀吉の死後、豊臣は公儀としての正統性は失われてしまっている。

さらにそこで1600年、官軍を見捨てる行動を取ったので1601年に関白が任命され、1603年に征夷大将軍が任命され
鎌倉室町いらい伝統のある体制に戻ったわけで、豊臣は官位と共に栄え、将軍の世に戻ることで落ちぶれた家だ
0815人間七七四年2017/07/08(土) 14:01:37.67ID:rNPECSrG
官軍かどうかで言えばそうだな。豊臣家の意に叶った行動だったのか、だ。
0816人間七七四年2017/07/08(土) 14:09:25.67ID:k3wTLrW1
内大臣家康率いる軍は
主君である後陽成天皇から晒布100反を下賜され
前の太政大臣家から黄金2万両、兵糧2万石の援助を受けて出陣した官軍だ。

その官軍に、武力闘争をおこして更迭されて謹慎中の元奉行が中心になって反乱をおこしたわけで、

石田三成に正義があるというなら、
まず、謹慎をといてもらうこと
つぎに、政務を行うにたる官位に任じて貰うこと。最低でも大納言
そして、後陽成天皇に晒布50反でいいからもらって援助してもらい
豊臣家からも黄金1万両、兵糧1万石くらいは援助してもらうこと
最低でもこれらが必要だろう

輝元ですら権中納言で、官位でなりたっている豊臣政権であまりにも軽すぎる。
西軍は賊軍いがいの何物でも無い
0817人間七七四年2017/07/08(土) 14:13:24.37ID:Vzj0dXyc
秀吉の制定した御掟によれば讒言があれば双方呼び寄せて糾明すべしってあるんだから
家康の上洛要請は正当な要求だしそれを拒んだ上杉を討伐するのに否やはあろうはずはない
逆に言うとこれに反対するものは豊臣政権の否定になるぞ
0818人間七七四年2017/07/08(土) 14:21:06.40ID:rNPECSrG
三成が正義かどうかはどうでもいい。家康に比して弱体だから相手にされなかっただけで説明つく。
この頃の豊臣家は主体的判断を下すことができないのだから家康の行動が私的なものかが問題なのだろう。
上杉の上洛拒否は讒言者の説明や糾弾が認められなかったからでは?
豊臣政権の否定ではなくて調整失敗だろ。
0819人間七七四年2017/07/08(土) 14:24:02.47ID:k3wTLrW1
これから会津征伐に出陣するぞという内大臣の軍に

主君の後陽成天皇からは晒布100反
前の太政大臣家からは黄金2万両、兵糧2万石が送られているわけで

私的なわけがないだろう。れっきとした官軍だ
0820人間七七四年2017/07/08(土) 14:24:35.93ID:Vzj0dXyc
上杉に意見があるなら糾明の場でに声高に主張すれば良いだけの事
豊臣政権に対して何か条件を要求できる立場にない
政権の命令を拒否すること自体が権威の否定になる
0821人間七七四年2017/07/08(土) 14:25:15.50ID:C4Y2C+lw
秀吉の遺言で政務の総覧者は家康ということになっていたのだから、
豊臣政権の判断=家康の判断ということになるのでは
0822人間七七四年2017/07/08(土) 14:56:59.10ID:Fhw9HQD7
>>818
奉行衆の出頭命令に対して交換条件を出す権限が上杉に有るわけ無いだろ
何か言いたいこと有るならまず上洛して言うべきだ。

家康の思惑の根源が私的かどうかなんて関係ない。
公儀としての体裁が完備されてる以上、家康の行動は公的なものになる。
「公的」「私的」ってのはそういうことだ
0823人間七七四年2017/07/08(土) 15:18:50.32ID:cObtfxUX
上州・上田で秀忠別働隊が足止めで
南宮山に毛利本隊これで勝てないのではしょうがない
0824人間七七四年2017/07/08(土) 15:29:15.35ID:2oH82ZhR
そもそも公儀滞って奉行が泣きついた先が家康だからな。
秀吉の遺言、豊臣の縁者、五大老筆頭、在阪可能な大老、官位と全てお膳立て揃ってて、さらに実務の責任者達からの要請で決裁者になった。
家康による公儀成立の背景知ってたら少なくとも私的にどうこうというのが上杉征伐から関ヶ原の間に批判される筋はどこにもないw

その公儀代行を利用して批判を受けようがない状態を作って政敵を追い落としていったことは間違いないけどな。
正義という人によって千差万別の基準のものを引っ張りだして歴史語ってもヲタブログ以下の扱いしかされんよ。
0825人間七七四年2017/07/08(土) 15:39:14.16ID:k3wTLrW1
>>824
正義か否かは2つの要素が重要で、
1つは力。勝てば官軍だな。勝てれば道理はどうでもよくなる。勝った者が正義
2つめは秩序。日本で言うなら、総理大臣がトップでその命令が正義。家康なら内大臣で大老筆頭でその命令が正義

家康は勝てば官軍で1つめはクリア
2つめも、政務をおこなうしかるべき官職、地位にいて資格を持っていた。しかも主君の帝らから援助され戦をしていた。

石田三成ら西軍に正義はない
0826人間七七四年2017/07/08(土) 16:48:48.71ID:QYweCJq0
贔屓云々関係なく、東西をフラットに判断すべきだと思うんだよね。
そうすると、どうしても西軍には法的・制度的・筋的にも理がないとしか言えない。
小説レベルの情実性でしか擁護出来ないんだよな。
0827人間七七四年2017/07/08(土) 16:59:39.70ID:w6Cvjp8X
総大将が出陣せず、20万石弱が現場監督で、勝てるわけがない
0828人間七七四年2017/07/08(土) 17:07:30.05ID:gJiGBr10
理詰めで地位拡大を進める家康に対して、
理屈や道理では勝てないから一切を無視して実力行使に出たのが三成ら西軍。
でその中には三成復権とか毛利上杉の勢力拡大とか打算込み。
それだけなんだよ。

それを、家康の行動の私的な思惑とか、豊臣家の意に叶った行動云々とか
西軍の行動に無理に法的・筋的な理屈を付けようとするから無茶な主張になる。
そんなものは一切無いし、だからこそ西軍は「勝てば官軍」を目指した。
0829人間七七四年2017/07/08(土) 18:29:31.67ID:QulxF/uN
>>825
正義っていうのは正にお前さんの立場だよw
本人が正しいと思えば何でも正義と言える。
勝てば官軍もそういう意味だ。

だから人の数だけ正義があってその優劣はない。
何度も言っているように家康か三成のどちらが正義なんて多分このスレの人はどーでも良いしそんなのはこじつけで何とでも言える。

そうでないのが公儀。
この人の決裁が正しい、もしくは絶対だと制度的に認められそれに従う仕組み。
家康はその立場を豊臣家から与えられた。
奉行達もそれに頼って実務を行う。

君はこの違いが分からないみたいだから多分何を言っても無駄だと思うけど、小説読んで楽しむことの方が向いていると思うよ。
0830人間七七四年2017/07/08(土) 18:43:08.15ID:YuOddIHp
>>829
どうでもいいならお前は今後は三成の正義を認めて話ししろ
それと豊臣が後に悔いた家康の公儀とやらには価値がないから
0831人間七七四年2017/07/08(土) 18:47:52.52ID:k3wTLrW1
>>829
>人の数だけ正義があってその優劣はない

お前が警察にとっ捕まって、正義は人の数だけある。逮捕は不当だと供述できるならお前の意見は正しいだろうな。
けど、正義ってのは力か、秩序かのいずれかだ。警察は力をもち秩序を維持している。だから日本において警察は正義なんだよ。

じゃあ、1600年当時、秩序を作っていたのは誰か。内大臣家康だよ。征夷大将軍も関白も太政大臣も左大臣もいない状況で
武家で唯一の内大臣。さらに豊臣公儀を主催していた秀吉から公儀の運営を任されていた。
家康こそが秩序を維持している人間なわけだ。現代で言う警察だな。

で、会津征伐は家康の主君である天皇が晒布100反を下賜し、前の太政大臣家の豊臣家も黄金2万両兵糧2万石を援助して行ったものだ。
東軍は、日本の君主と、公儀を任されていた豊臣が公認して出陣した内大臣率いる官軍なんだよ。

その官軍に謀叛をおこしたのが石田三成なわけだ。
しかも関ヶ原で負けた。いわば警察に戦いをいどんで逮捕された犯罪者と同じ。
どこに正義がある
0832人間七七四年2017/07/08(土) 18:53:08.74ID:k3wTLrW1
>>829
てか、人の数だけ正義があるとか、ファンタジー小説の読み過ぎだ。
警察に逮捕されて同じ事がいえるとは思えんな。正義ってのは秩序と力だ
これが理解できないようだと犯罪者予備軍と言われてもしかたないぞ
0833人間七七四年2017/07/08(土) 18:53:54.05ID:rNPECSrG
なんで正義とか悪に拘るんだ?どっちも野心家、家康が上手くて強かっただろ?
それとも徳川が正義で悪の三成を滅ぼしたって言いたいのか?
それだと豊臣家を滅ぼした徳川はどうなるんだ?
0834人間七七四年2017/07/08(土) 19:03:49.74ID:k3wTLrW1
>>833
豊臣が滅んだのは秀頼が愚かな謀叛人だからだな。
日本には帝という日本の君主がいる。
その君主が1601年に関白を任命し、1603年に征夷大将軍を任命している。
1614年の時点で、関白左大臣が鷹司信尚、右大臣征夷大将軍が徳川秀忠だ
江戸に幕府が開かれて、帝から大権を委ねられて公儀を行っている。

その公儀に呪いをかけて(当時の呪術は現代の科学に相当する。五山も豊臣に否定的で実行犯の清韓も意図的にやったと供述している)
公儀に参勤せず、公儀に人質を出さず、公儀の求める国替えに応じず、すべてを拒否して
無職を集めて挙兵すれば、責任ある立場の徳川家は国家反逆罪の犯罪者を成敗しなければならない。
当然だわな。日本の君主は天皇であって、豊臣ではない。
そして徳川は1603年から征夷大将軍に任命され武家政治の公儀を任されている。
0835人間七七四年2017/07/08(土) 19:15:19.40ID:3PQAllkG
真正の人を召喚してしまったようで、すまん
0836人間七七四年2017/07/08(土) 19:15:33.85ID:rNPECSrG
君は徳川家のスポークスマンか

まさに一方からの正義正統だな
0837人間七七四年2017/07/08(土) 19:35:08.37ID:gJiGBr10
どっちも論に持って行こうとすること自体がそもそも間違いだな。
西軍には筋も道理も無いんだから。

家康の最も悪辣で卑劣な点はそこ。
明らかに自分の地位向上の為に邁進しているのに
徹底した理論武装で理詰めでは非難しきれない点。
だからこそ西軍は実力行使で碁盤返しを目論んだんだよ。
理屈で排除できない家康を実力排除するために。

ところが西軍が負けたせいで、
返された碁盤を勝者の家康が好きなように組み替えてしまった。
その結果が江戸開幕と大坂の陣。
0838人間七七四年2017/07/08(土) 19:41:33.96ID:rNPECSrG
ID:k3wTLrW1は、今IDいくつ使ってる?
0839人間七七四年2017/07/08(土) 19:42:15.60ID:k3wTLrW1
豊臣関係者は道理をまきまえないからな。

豊臣は主君信長を備中に招き寄せ、信長が死没すると1周忌しかたたないのに信長の妻、子、孫娘、妹、重臣を殺し
織田家の財産を横領して成立した家で、
近衛家をだまして関白になって主家横領を正当化し
さらに関白を世襲にしたと思ったらその関白を殺す家だから。

豊臣はいわば時代のあぶくみたいなもんだ。
0840人間七七四年2017/07/08(土) 19:42:57.35ID:k3wTLrW1
>>838
は?
パソコン1台でどうやってIDを使い分けるんだ?
0841人間七七四年2017/07/08(土) 19:48:34.68ID:rNPECSrG
今はスマホもタブレットもあるだろう。移動時はID変わるだろう。
0842人間七七四年2017/07/08(土) 19:49:52.55ID:QYweCJq0
それも違うな。

関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。
家康の地位・権力は、秀吉の遺言によって担保されている。
その権力を粛々と実行しただけの話。
関ヶ原とは、秀吉の企図した『秀吉死後体制』に従いたくない毛利・上杉や、
政権復帰を図りたい三成が起こしたクーデター。

戦後、家康は腕づくで諸侯を従わせたわけでもない。
諸侯が、豊臣よりも徳川を支持した事実を無視してはいけない。
そりゃそうでしょ。
クーデターを自ら鎮圧出来ない豊臣家に、政権をリードする事など出来るわけがない。
08438422017/07/08(土) 19:50:30.92ID:QYweCJq0
>>837
0844人間七七四年2017/07/08(土) 19:56:13.93ID:k3wTLrW1
>>841
その発想はなかったわ
要するに自演認定したいわけか。
悪いけどキミと違ってパソコンでしか書き込んでないね。
0845人間七七四年2017/07/08(土) 20:15:38.19ID:rNPECSrG
>>844
自演疑いなら自演ウゼーと書いてるよ。
その時の居場所で書き込む機器が変わるは良くあるだろう。
俺は今日はPCだが平日は当然時間によってID変わる。同じ趣旨の書き込みが混在してた枷確認しただけだよ。
0846人間七七四年2017/07/08(土) 20:16:22.08ID:k3wTLrW1
豊臣公儀は外交で戦国大名を天皇の臣下に組み込むことで、関白として統制しようという官位ありきな体制だが
もともと独立していたり、敵だった大名がほとんどな以上長続きはしなかったと思うよ
足下が固まらないのに、外征をはじめて2度も失敗しているのも痛い
隋の煬帝と同じだ
0847人間七七四年2017/07/08(土) 20:27:27.71ID:JEavvXl3
秀吉が早死にして秀長や秀次が長生きしていたら豊臣は存続出来た
0848人間七七四年2017/07/08(土) 20:30:56.65ID:gJiGBr10
>>842
いや地位向上を目論むくらいはしているぞ。
勿論、家康に限らず五大老五奉行誰しも考えていたみたいだが。
縁辺問題なんてその最たるものだろ。

芳春院をわざわざ大坂から江戸に移したこともそうだな。
明らかに謀反疑惑対応とは別ベクトルで、対前田で優位に立つための政略。
それ以前にも藤堂・細川・堀・細川にも人質を江戸に送らせている。大坂では無く。
0849人間七七四年2017/07/08(土) 20:37:44.80ID:OEri4a3E
家康に正当性があるというのを正義や善と捉えるからおかしな議論になる
正当性というのは主張や手続きの妥当性のことだ
0850人間七七四年2017/07/08(土) 20:41:45.20ID:tTNusxza
天皇から頑張ってね、と言われたぐらいじゃ、官軍とは言えないぞ。
官軍てのは、朝廷から命令を受けて戦争をする軍隊のこと。
南北朝時代が終わってから長州征伐まで、官軍が派遣されたことは無い。
朝廷からの攘夷の命令で異国船撃ち掃いをやった長州軍が、官軍と言えるかもしれないけど。
0851人間七七四年2017/07/08(土) 20:42:50.79ID:EfhKeZFN
秀次はいらない
0852人間七七四年2017/07/08(土) 20:46:04.47ID:QYweCJq0
>>848
いずれも地位向上とは関係ないでしょ?
秀吉が企図した『秀吉死後体制=徳川主導体制』とベクトルは同じ。

縁辺については、そもそも秀吉生前の『御掟』において秀吉の御意を得ることがルール。
秀吉が死んだら、誰が決裁するの?
遺言で政務を託された家康が決裁する事に、何ら違和感はない。

藤堂・堀・細川のように人質を自ら送った場合は材料にならないと思うけど。
これも家康が腕づくなのではなく、諸侯が徳川家を支持したケース。
家康が地位向上(?)を目論んだわけではない。
0853人間七七四年2017/07/08(土) 20:47:50.44ID:rNPECSrG
>>849
例えば>>848のような事例にも妥当性があると?

家康を悪人呼ばわりする気はないが、
家康には私心も野心もないし三成や豊臣家がバカなだけでした。でも天下取れましたってのは徳川を馬鹿にし過ぎだろう。
朝廷も豊臣家の一部も抱き込んで政敵を走らせて排除した、その野心を認めずして才能も功績も評価できないだろうよ。
0854人間七七四年2017/07/08(土) 20:51:06.30ID:gJiGBr10
>>850
武田征伐の折、
正親町天皇が武田勝頼を「東夷(≒朝敵)」認定した上で
勅命で石清水八幡宮に武田討伐成功を祈願させている

武田征伐の織田軍は立派な官軍
0855人間七七四年2017/07/08(土) 20:52:06.81ID:a2VSPLEk
>>850
その辺言い出すと、西軍の行動を朝廷が追認した様子もないんだが。
大した事ないように感じるかもしれないけど、これはかなり大きいぞ。
少なくとも、西軍が挙兵した時点で京を含む近畿はほぼ西軍が確保した筈だ。
普通こんな状態になったら朝廷は自己保身の為に西軍の行動をある程度追認する
パターンの方が多いはず。過去を見ればそんな例はかなり多い。
ところが西軍に対しては朝廷はそんな事をしていない。不思議な事にね。
0856人間七七四年2017/07/08(土) 20:54:08.66ID:OEri4a3E
>>853
前田家は私婚問題の時家康に大老職を退くよう要求してるからな
当たり前だけど徳川にも自己の家の安全を求める権利がある
自家の安全の為に対抗馬となりうる前だけの牙を抜こうと動くこともあろうよ
0857人間七七四年2017/07/08(土) 21:03:43.14ID:k3wTLrW1
>>853
家康の野心を語る以前に、豊臣に公儀たる資格があるのかが問題だな
草履取りから大名に取り立ててくれた主君を備中に呼び寄せて死ぬきっかけをつくり
主君の死後1年で、主君の妻と息子と孫娘と妹を殺し、重臣の家をつぶして我が物にし、
主君が一生をかけて築いた織田家をことごとく横領したのが秀吉だ。
そして信尹に関白を譲る約束で養子にもぐりこみ関白になりながら、近衛家をだまして関白を世襲させ
その世襲させた関白を殺してしまい、太閤検地で民から税を搾り取り、2度も外征を行って民を苦しめた。
豊臣公儀に残ったのは、戦国大名ともと敵対者がほとんどだ

豊臣が滅ぶのも致し方ない
0858人間七七四年2017/07/08(土) 21:13:54.29ID:gJiGBr10
>>852
秀吉の構想は明らかに徳川前田両頭体制
遺言でも徳川と前田を対比して書かれていること、
奉行衆に対して「何事も徳川・前田両名の承認を受けて決定すること」を書き残している事からもわかる。
更に言えば、奉行衆による御算用についても徳川・前田両名の承認を求めるように書かれているから
徳川が政務担当、利家が守り役担当であると軽々に解釈もできない。

その前田に対して一方的に優位に立てるように
「江戸」に人質を取ったのならそれは「地位向上」目的以外には考えられないだろう。
大坂に取るのが本来の有るべき形なんだから
0859人間七七四年2017/07/08(土) 21:30:51.20ID:rNPECSrG
>>857
それ関係ないだろ。
その話を振るなら公儀の資格がないから徳川が滅ぼしたという正当化に持っていくしかない。
家臣のみでは悪逆だから滅ぼしてよい訳ではないのだから。
0860人間七七四年2017/07/08(土) 21:39:12.57ID:k3wTLrW1
>>859
公儀の資格が無いから1601年に関白が任命され、1603年に征夷大将軍が任命されたんだよ
秀吉は太政大臣だから1598年まで関白を殺したといえど正当性はあったが
1600年の段階でもっとも正当性を持っていたのは内大臣の家康だ。
右大臣の菊亭は秀吉の関白殺しに連座して娘を殺され、流罪にされたので豊臣を恨んでいる
0861人間七七四年2017/07/08(土) 21:44:07.97ID:gJiGBr10
>>852
あと細川の人質は利長謀反疑惑に連座されそうになった際に
誓詞と一緒に差し出したものだから、公儀への人質であって徳川への人質では無い。
(そもそも自主的に送ったかどうか疑わしい)
これも本来なら大坂に置いとくべきものでわざわざ江戸に送って徳川の庇護下に置く理由は無い。
(徳川が細川を従属させる為以外には)
0862人間七七四年2017/07/08(土) 21:46:33.41ID:rNPECSrG
>>860
だからその豊臣に抗議の資格がないって話をどこに持ってきたいんだよ。
徳川の行為を正当化したいから突然引っ張り出したのか?
0863人間七七四年2017/07/08(土) 22:04:48.57ID:tTNusxza
>>855
んなことはないだろ。戦国時代を通じて、朝廷は諸勢力に対して中立の立場を維持して、要請があれば和平調停を行うスタンス。
織田家に対して、織田家の敵対勢力を討てとの勅を下したこともないし。
光秀の三日天下中に朝廷工作を行っても、支持を表明してない。
秀吉も勅命を奉じて軍事行動を行ったことは無い。自分は関白・太閤だから天皇の代行者、と勝手に行動してるだけで、
天皇から北条征伐とか島津征伐とか、外征とかの勅が下されたことは無いし、秀吉から勅を要請したこともない。

朝廷が明確に敵対的だったのって、キリスト教に対してぐらいじゃないか。

平安末期〜南北朝ぐらいの朝廷が軍事的に有利な側を支持していた頃と、戦国〜織豊期の頃の朝廷じゃスタンスが全然違うよ。
武家の側も朝廷に支持を求めることはしてないし。
南北朝で散々ごたごたしたんで、武家の争いに朝廷を巻き込むとこじれるだけだとわかってたんじゃないか?
0864人間七七四年2017/07/08(土) 22:10:20.79ID:tTNusxza
>>859
そもそも、徳川家は豊臣家の家臣なのか?
秀吉は天皇の元の最高位である自分に天皇の家臣である諸大名は従って当然、って理屈で支配してたわけだろ。
徳川も豊臣も同じ朝臣であって、朝廷から大政を委任された豊臣政権の一員だろ。

同じ理屈で、幕末の島津藩と毛利藩は、徳川家の家臣になったわけではない、って理論武装したんだけどな。
0865人間七七四年2017/07/08(土) 22:15:39.79ID:YKmhJkc4
>>863
あれ、光秀が本能寺をやらかした時に
朝廷が光秀の行動を追認した形跡があったんで
「お前たちはなんという軽はずみな事をしたのだ」
って秀吉が怒ったって話、あれ創作なの?
創作だったならすまん。そういう事があったんで、
西軍の行動追認しなかったのかなって思ってたんだ。
0866人間七七四年2017/07/08(土) 22:16:20.08ID:rNPECSrG
家臣の定義にもよるが服従していたことは事実だろう。
それに幕末の話はそれで幕府に挑戦したんだから筋は通る。
徳川は豊臣の家臣じゃない、豊臣に公儀の資格はなかった、
だから徳川に野心はなかったし滅ぼしたけど徳川は悪くないんだよねって理論の展開は何か落ちてないか?
0867人間七七四年2017/07/08(土) 22:37:00.88ID:OEri4a3E
豊臣家が滅んだのは豊臣家に代わって公儀になった徳川家に戦争を仕掛けたからというのが抜け落ちているな
0868人間七七四年2017/07/08(土) 22:53:14.44ID:tTNusxza
>>865
いや、朝廷が官位とかを与えたとか、洛内の統治を認めた、ってのと、官軍にした、ってのの間には巨大な壁があるから。

官軍とは朝廷の命令で動く軍隊。
朝廷が光秀に秀吉討伐の勅を下してれば問題だろうけど。
0869人間七七四年2017/07/08(土) 23:07:01.90ID:QYweCJq0
>>858
いや、明らかではないよ。
秀吉の対応は明確に徳川を上位に置いている。
官位、石高、縁戚関係、全てにおいて徳川は前田の上位。
その流れに加え、遺言において『徳川が政務、前田が守役』なわけ。
遺言では対比されているわけでなく、併記されているだけね。

実力随一の徳川家と縁辺強化し、唯一の織豊系大老である前田家にこ織豊大名を
統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い。
前田家単体では、格・実力・経歴からして毛利・上杉よりも下。
そんな前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。

社長不在の際、『部長、課長に印鑑(承認)もらうように。』という当然の話。
部長と課長は同列ではない。
0870人間七七四年2017/07/08(土) 23:09:16.22ID:QYweCJq0
>>861
すみません、外なもので。
細川家は加賀征伐の時、誰を人質に出したんでしたっけ??
0871人間七七四年2017/07/08(土) 23:28:44.38ID:rNPECSrG
>>867
つまり家康には野心も私心も悪意も無かったと?
0872人間七七四年2017/07/08(土) 23:32:44.09ID:OEri4a3E
>>871
そんなことは一言も言ってない
0873人間七七四年2017/07/08(土) 23:37:49.25ID:rNPECSrG
ああ、>>857じゃないのか、噛み合ってなかったな。
0874人間七七四年2017/07/08(土) 23:39:29.83ID:OEri4a3E
間違いなく家康にあったと思われるのは危機感だね
豊臣政権にとって家康は巨大な存在だったから秀吉は秀頼の事を頼んだし
三成ら奉行は危険視して排除しようとした
0875人間七七四年2017/07/08(土) 23:58:39.86ID:gJiGBr10
>>869
いや徳川上位なのは否定しないよ。
ただ家康は単独の政務全権委任者と安易に決めつけるのはどうだろう。

家康が縁辺問題で、霊社上巻起請文違反を追及されたときも
「秀吉の遺言では政務全権委任者は自分」などと主張せずに謝罪してることが、
単独の政務全権委任者で無い何よりもの証だと思うけど。

あと前田家の格が毛利・上杉より下ってことはない。
秀吉の遺言状でも名指し順が家康→利家→秀忠→利長→秀家→輝元→景勝で
明確に徳川・前田は上杉毛利宇喜多より上位に位置付けてある。
また奉行衆に対しても「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと」のように
「五大老」ではなく「家康・利家」の御意を得るように明記もされている。
明らかに徳川・前田は別枠。
0876人間七七四年2017/07/09(日) 00:03:50.21ID:CHSYgg1s
>>870
三男忠利だったはず
0877人間七七四年2017/07/09(日) 00:06:40.78ID:wILaV809
>>875
徳川が内大臣、前田が大納言、残りは中納言なんで意図は明確だよね。
そんで、宇喜多秀家の正室が秀吉の養女兼利家の実の娘の豪姫です。
つまり、前田は五大老の中で自分だけ事実上二票持ってるんだよね。
更に、秀吉との関係は豊臣子飼い大名なら知らない者が居ないし。
明らかに、徳川牽制の切り札扱いだと思います。
0878人間七七四年2017/07/09(日) 00:09:27.66ID:0TL1sh5M
問題は奉行が秀吉の遺言状を破り毛利・上杉・宇喜多などとグルになって
家康たちの御意を得るのを辞めて自分たちだけで政治権力を独占しようとしたらどうするのかということ
それを実行しようとしたのが三成なわけで
三成の野心を誰も制御できなくなったのが豊臣崩壊の最大の要因だろうね
0879人間七七四年2017/07/09(日) 01:10:39.09ID:CHSYgg1s
>>877
宇喜多が前田閥なのは同意するけど、
秀吉が前田を徳川牽制の切り札に考えていたかは疑問。
徳川牽制を目的とするには五大老五奉行体制も前田に与えられた権限も中途半端なんだよな。
寧ろ賤ヶ岳然りで、前田が割と長いものに巻かれる事なかれ主義なのは熟知していただろうし。

秀吉って秀次事件直後からちょくちょく病で伏せるようになるけど
自分の死後を見据えた体制構築って殆ど行ってないんだよな。
御掟五ヶ条(1595年)で大老に連署させて後の五大老制の萌芽を見たくらい。
そこから1598年7月に秀頼への起請文を提出させるまで殆ど何も無し。
その一ヶ月後には「上様長々御煩付而、御失念も在之様ニ」って書かれるほど様態が悪化。
で、掟に連署した大老+自分の側近5人に「あとはよろしく頼む」で病死。

まだ死ぬつもりは無かったのか、既に考える力も無くなってたのかホント謎
0880人間七七四年2017/07/09(日) 01:49:48.83ID:7zgV/vpE
でも利家は家康と対決してるね
何の得にもならなそうだが
この対決時に
秀家の存在感が感じられないのは何故だろう
それとも利家をともに家康と対決していたのか
0881人間七七四年2017/07/09(日) 02:52:16.53ID:yqUbkHAI
犬千代の息子が寝返ったからな・・・犬千代に何の為に大封与えたか意味がない
0882人間七七四年2017/07/09(日) 07:01:13.37ID:GkV2K0V4
>>881
まあ、利長が利家の遺言無視して、迂闊にも国元に帰ってしまったのは失敗だろうね。
仮に罠にはめられた説を採用したとしても何やってんのとしか思えんし。
ただ、前田征伐の原因である家康暗殺計画を家康に報告したの増田と長束だしなあ。
どう見ても奉行が前田を追い落としにかかってる。
豊臣家は豊臣家で前田家が仲裁を依頼したらあっさり断るし。
0883人間七七四年2017/07/09(日) 07:02:29.88ID:XY/IH4Mh
寝返ったというか、利長が金沢城に籠城し、家康が加賀征伐をする、
という展開になったとき、みんな家康にびびって援護してくれなかったんだよな
それで仕方なくおまつ様を人質に出して屈服した 
あれで家康は味をしめて、上杉も毛利も脅せば屈服すると思い込んだ
本来、関ヶ原なんて考えてなかった 脅せば全員屈服すると思ってた
0884人間七七四年2017/07/09(日) 07:08:48.93ID:6t2l2egK
利長征伐時に関ヶ原を起こせば勝てた!
0885人間七七四年2017/07/09(日) 07:13:40.38ID:uJB0o6iy
>>875
政務全権委任者なんて私言ってませんよ。
権限委譲は当然ありますね。家康による政権主導と言ってます。

縁辺問題(?)については、膝を折ったのは前田家ですよ。
実際、問題となった婚姻自体破談になっていない。
家康の政治的判断で、100%勝利としなかっただけの話。
現代でも、出来る人は全面勝利を志向しませんね。落としどころを見つけます。

格については、表面的な話ではなく実質的な話です。
官位の上下のみをもって判断するなら、織田秀信、徳川秀忠は前田以外の大老よりも上という事になりますね。
独立系大手の上杉・毛利が、織田の一武将でしかなかった前田家よりも下だとは思わないでしょ。
0886人間七七四年2017/07/09(日) 07:16:46.80ID:uJB0o6iy
>>875
細川家は加賀征伐の時、誰を人質に出したんでしたっけ??
別の方に忠利という回答を頂いているんですが(>>876)、
忠利が江戸に行ったのは、確か関ヶ原の後だったかと。
0887人間七七四年2017/07/09(日) 07:34:48.48ID:CHSYgg1s
>>886
それ同じ人。
忠利で間違いないよ。
綿考輯録には慶長5年1月25日に光千代が大坂を出て江戸に向かったと書かれてる。
参考までに「忠利が江戸に行ったのは、確か関ヶ原の後だったかと」
の出典も教えて欲しい。
0888人間七七四年2017/07/09(日) 07:51:58.25ID:uJB0o6iy
>>887
いえ、もともと>>875>>861)にお願いした質問でしたので確認をお願いしただけですね。
私の方は記憶です。忠利は江戸で秀忠に仕えた、という記憶があったものですから。
外出先で手元に資料がないものでして。忠利という事でしたらそれで領解しました。
ありがとうございました。
0889人間七七四年2017/07/09(日) 09:52:31.11ID:IMg5PVdp
>>879
有力大名たちに大権を与えれば、
豊臣政権が寄り合い所帯になってしまう
だから秀吉も躊躇して逡巡した所もあったと思う
最後の最後に秀頼が5歳であることや対外出兵の最中であることから、
泥縄式に五大老制度を整えたが

実際、徳川幕府は前田島津伊達といった有力大名に大権は与えなかった
0890人間七七四年2017/07/09(日) 10:07:51.32ID:CHSYgg1s
>>888
話戻すけど>>前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。
徳川前田二頭体制って主張はそんなに常識レベルで無茶な話かな?
中村俊一郎の「石田三成からの手紙」、桐野作人の「謎解き 関ヶ原合戦」、
阿部勝則の「豊臣五大老・五奉行についての一考察」でも徳川前田二頭体制は主張されてる。
この人達を全面信用するかは別としても、「誰が考えても無理」なレベルの話では無いと思うんだが。

寧ろ「織豊大名を統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い」こっちの方が初耳。
論文か著書で閲覧できるなら是非見てみたい。
0891人間七七四年2017/07/09(日) 10:27:41.97ID:uJB0o6iy
>>890
戻すのなら、>>842>>843辺りまで戻してもらえますか?
私も話がだいぶ逸れたな、と思っていましたので。
つまり、>>837に対して、
『関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。
家康の地位・権力は、秀吉の遺言によって担保されている。』 という話です。

論文等々については、そのあとでお付き合いします。
0892人間七七四年2017/07/09(日) 10:44:14.44ID:IMg5PVdp
秀吉が大政所危篤を知って名護屋から大坂へ戻る際に、
名護屋で留守を務めたのが家康と利家

そして秀吉が亡くなる前に前田利長を中納言にした
これは秀忠と同じ官位だ

そして秀吉死後、秀頼を抱いて上座に座り、
諸大名の挨拶を受けたのは利家だ

完全に5分5分ではないにせよ徳川と前田を両頭にしようという
秀吉の苦心はわかる
0893人間七七四年2017/07/09(日) 10:48:09.19ID:IMg5PVdp
>>885
豊臣政権は官位を以て大名の格とした
だから「独立系大手の上杉・毛利が、織田の一武将でしかなかった前田家よりも下だとは思わないでしょ」
は上杉と毛利の本心はわからないが、豊臣政権では前田利家より格下ということだ

そもそも秀吉だって織田の一武将だし
家康も織田の一武将みたいなものだろう
0894人間七七四年2017/07/09(日) 11:04:17.13ID:1NwyCyP1
ですよくんの相手しなくていいのに
0895人間七七四年2017/07/09(日) 11:05:49.95ID:IMg5PVdp
家康が秀吉存命中に地位向上のために邁進などしていないのはその通り

家康が秀吉存命中に野心をむき出しにしていたら粛清されていただろう
だから家康は天下がとれたんだよ

少年期の今川の人質時代も今川の忠臣のふりをしていて、
秀吉の家臣時代でも秀吉の忠臣のふりをしたわけだ

大老になったのは秀吉(豊臣家)の都合だ
別に家康が大老にしてくださいと求めたわけじゃない
豊臣政権は当初は秀吉のワンマンで外様大名は口出しできなかった
家康が進んでやった保身策はせいぜい、秀忠に淀殿の妹をめとらせたぐらいか?
0896人間七七四年2017/07/09(日) 11:29:22.98ID:uJB0o6iy
>>893
>>885の中でも言ってるんですが、
格については、表面的な話でなく実質的な話です。
秀吉が苦心している時点で、既に対等ではない証左ですし、
秀吉が死ねば、表面的な格にほとんど意味はなくなります。
事実、格上の徳川に反発したのは格下の大老達では?
0897人間七七四年2017/07/09(日) 11:36:17.45ID:IMg5PVdp
格というのは天下人が作ってあげるという要素もあるんだよ
徳川家康だって6歳の息子に水戸25万石と左衛門督にしてあげて格ができた
5代将軍徳川綱吉に至っては、小姓組から大老格・甲斐15万石の大名になって格が
できた
0898人間七七四年2017/07/09(日) 11:38:01.43ID:IMg5PVdp
>>897
2行目は柳沢吉保のことね
柳沢の大老格の「格」に表面的な格も実質的な格もない
0899人間七七四年2017/07/09(日) 11:38:11.19ID:Tzii/RD0
>>895
家康は律儀でなによりも大義と秩序を重んじるんだよ。
秀吉は悪党とはいえ、帝から太政大臣に任じられている。
関白を殺そうと、太政大臣は自分より上位の人間であり最高位だ。
だから家康は天下のために従った。
けど、1598年に秀吉が死んだとき、最高位は内大臣の自分だ。
そして1601年に関白が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍になった以上
正統性は家康にあるんだよ。

日本の君主は天皇であって豊臣ではない。これは極めて重要な事実だ
0900人間七七四年2017/07/09(日) 11:40:26.15ID:Tzii/RD0
そして重要な事実だが、

1588年と1592年、天皇に聚楽第へ行幸してもらい、
諸大名が天皇に臣下の礼を取ることで、最高位の臣下である秀吉が主導するという体制を
秀吉自身が取っている。つまり、1600年の時点で内大臣の家康は天下を采配する権限を持っているんだよ
0901人間七七四年2017/07/09(日) 11:43:42.89ID:uJB0o6iy
>>897
表面的な格は、平時には機能するでしょう。仰る通り。
しかし、有事・変事においては実質的な格(実力)がモノを言う時代ですよね?
有事においても表面的な格をもって解決が図れるなら、関ヶ原など起きませんよね。

別に格の話をしていたわけではないのでこの辺にしておきます。
0902人間七七四年2017/07/09(日) 11:55:36.62ID:Tzii/RD0
1598年年の時点だと

征夷大将軍 足利義昭が返上したため欠員
関白 秀吉が殺したため欠員
太政大臣 秀吉が死んだため欠員
左大臣 秀吉が殺したため欠員
右大臣 秀吉が流罪にしたため欠員
内大臣 徳川家康
大納言 前田利家

1588年と1592年に諸大名は天皇の臣下として天皇に忠誠を誓っている。
1598年の時点で臣下の最高位は徳川家康だ。
1599年に菊亭が右大臣に戻ったが、菊亭はひとり娘を秀吉に殺されて、自分を流罪にした豊臣を恨んでいる
0903人間七七四年2017/07/09(日) 12:15:13.17ID:Tzii/RD0
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n369184

あと、これは秀吉が関白左大臣を殺し、右大臣を流罪にしたときにパワハラで書かせた起請文だが、
秀頼を秀吉と思って粗略にせず奉公すると書かれている。

つまり1588年と1592年に、天皇に忠誠を誓った天皇の臣下として、
臣下の最高位であり天皇の代理である関白太政大臣の豊臣秀吉と同じく、秀頼を粗略にしないと書かれているわけだ。

けど、関白や太政大臣は天皇が任命するもので、豊臣は嘆願はできても任命はできない。
そして1601年に関白左大臣が任命され、1603年に右大臣征夷大将軍が任命されてしまった。
豊臣は公儀ではなくなったわけだ。

それでも約束はまもられ、秀頼は粗略にされず、右大臣にまでのぼったが
1607年に自分から右大臣をやめてしまった。

そして、1614年の関白左大臣は鷹司信尚であり、右大臣征夷大将軍は徳川秀忠で、
公儀は江戸おかれ、幕府が武家を統制していた。

豊臣秀頼は公儀を呪いをかけ、公儀に逆らって死んだわけで、謀叛人の逆賊以外のなにものでもない
子供ならいざしらず、大人になったのにいつまでもわがままは許されないってことだな
0904人間七七四年2017/07/09(日) 13:29:25.13ID:fcDAHplS
>>801
横領による不正蓄財については、池田輝政が佐和山を屠城したとき、
佐和山城は金箔で敷き詰められており、石田一族は絹をまとっており、
倉庫は日本、中華、南蛮の財宝で溢れていた、と書き残している。

少なくとも、蓄財に関しては石田三成は最悪に近い人物だ。
0905人間七七四年2017/07/09(日) 13:51:08.15ID:ziO1yKVD
堀久太郎→蒲生氏郷→前田利家→???
織田閥のトップの人間が死にすぎた゚(゚´Д`゚)゚
0906人間七七四年2017/07/09(日) 15:17:13.84ID:CHSYgg1s
>>891
話が逸れようが主張したことに変わりは無いと思うんですが。
貴方が『関ヶ原以前において、家康は地位向上のために邁進などしていない。
家康の地位・権力は、秀吉の遺言によって担保されている。』 と主張したいことは理解した。

理解したので改めて、
「前田家に徳川家と両頭なんて誰が考えても無理。まずは常識で判断。」と
「織豊大名を統括させ豊臣政権を盤石なものとする事が秀吉の狙い」
の論拠・出典をお聞きしたい。
0907人間七七四年2017/07/09(日) 15:28:20.15ID:8IxvBf1C
バカの連投で見事にくそスレ化
0908人間七七四年2017/07/09(日) 15:29:14.14ID:Tzii/RD0
家康の正当性は、1588年と1592年に天皇の行幸を聚楽第にあおいで
諸大名が天皇に臣従し、秀吉が政務を代行するという形をとったからだよ。
秀吉の遺言とか関係ないわ。

征夷大将軍、関白、太政大臣、左大臣が不在で
右大臣が秀吉に娘を殺され、流罪にされたため豊臣を恨んでいる状況で
武力と官位の双方をもつ内大臣が政務を行うのは当然なんだよ。

1601年〜1603年移行は、関白が任命されて豊臣公儀は完全終了し、
源頼朝いらいの伝統である征夷大将軍が大権を委ねられて公儀を開いている以上、
豊臣は公儀に従うのが道理だ。

まぁ関ヶ原時点なら、内大臣の決定に従うのは道理だよ。少し前なら
内大臣を補佐する大納言が生きていたが、死んだからな。家康の決定が公儀の決定だ
0909人間七七四年2017/07/09(日) 15:49:13.01ID:uJB0o6iy
>>906
いいえ。話が逸らされ論点をぼかされるのでは時間の無駄なので。

『理解した』では不足。認めてもらわないと。
議論してたわけだから、次の話はそれからでしょ。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。