【早雲】後北条家総合スレッド 其の六【氏直】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2017/04/26(水) 23:13:53.23ID:ES42k+CG【早雲】後北条家総合スレッド 其の五【氏直】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1386581460/
0405人間七七四年
2018/05/08(火) 02:20:08.47ID:lM7Q9U2q0406人間七七四年
2018/05/08(火) 07:41:35.01ID:62kU3iaZ茶々丸は名前が可愛いのに悪人というレアケース。
0407人間七七四年
2018/05/08(火) 07:44:29.66ID:62kU3iaZ信長も庶子なら、織田信広が織田家を相続しているよ。
0409人間七七四年
2018/05/08(火) 18:13:19.39ID:6gPbxayG孤独ギリギリなのであろう
0410人間七七四年
2018/05/18(金) 20:54:10.22ID:Cc2xjOtX瑞渓院の方は、鳳翔院と違って自害したとはどこにも書かれてないんだよな
瑞渓院が大病を煩い、容体は深刻、持ち直したものの治る見込みはない、というような書状が何通か見つかっていて
そこから死ぬまでの動向がぱったり途絶えていることから、瑞渓院の死因は病死と考えるのが妥当じゃね?
それが小田原役の最中だったこともあって、鳳翔院は、介護から解放されて自身の存在意義を失った虚無感と
将来を悲観して後追い自殺したのだろうと想像できるし、何ひとつ矛盾しないだろ
黒田先生の著書は必ず目を通すようにしてるけど、解釈が強引なとこがあるのがマイナスだわ
0411人間七七四年
2018/05/18(金) 22:51:50.34ID:CXdEkNBg0412人間七七四年
2018/05/19(土) 20:46:04.56ID:fvvRwvCA0413人間七七四年
2018/05/20(日) 14:08:12.88ID:yswmV/B7ふがいねえ男ども!ってなじられてるみたい
0414人間七七四年
2018/05/21(月) 15:13:05.81ID:BH2VAuDzあるのみで完全消化不良だわ
詳しく言及してるとこどっかにないかなあ
0415人間七七四年
2018/05/21(月) 21:18:40.40ID:u6XqXGMHせんせのメシの種だから仕方が無いし
まあその資格は十二分にあるだろう
まあいつか誰かが然るべき機関に寄贈するだろう
いつかは税金で保護しといたほうがいいもんだから
0416人間七七四年
2018/05/22(火) 12:22:11.46ID:CQmlKsgC0418人間七七四年
2018/05/22(火) 20:27:56.20ID:z+s1kPGg一体何をやらかしたんだ玉縄家
やっぱし城主自ら城から逃げ出したのを根に持ってた?
0419人間七七四年
2018/05/23(水) 00:30:45.82ID:8mPjLYkO0420人間七七四年
2018/05/23(水) 23:46:13.32ID:CIvSisA/0421人間七七四年
2018/05/25(金) 03:41:51.44ID:pAcxmYxh0422人間七七四年
2018/05/25(金) 04:44:29.92ID:qPQwtBx/氏邦に至っては実子があったのに
なんぞ遠慮でもあったんかしらん
0423クバの化身
2018/05/26(土) 07:07:44.53ID:+4bOWvSoが、ネットヲタクと化したまことの耳には届かなかった
0424人間七七四年
2018/05/30(水) 03:38:32.95ID:5Z/odkOj創価学会らしく大勝利だな
0425人間七七四年
2018/06/18(月) 15:15:18.16ID:47CE5q4C氏照の方は男子がいなかったからじゃなかったかな
氏邦の方は知らない。ただ氏邦は小田原合戦後、前田家に仕えているのに
養子の直定の子は紀州徳川家に仕えているんだよね
0426人間七七四年
2018/06/18(月) 20:43:38.05ID:E+FVXh3+残る1人は氏邦死後に還俗して遺領を継承してる
0427人間七七四年
2018/06/18(月) 20:48:09.73ID:F6YxrpME0428人間七七四年
2018/06/18(月) 22:08:02.27ID:fABmsLyI通称庄三郎後に改名して釆女だっけ、ただその息子の主殿助あと男子がいなくて
遺された娘に五人扶持が与えられたものの、断絶しているんだよな
0429人間七七四年
2018/06/22(金) 02:18:37.48ID:z6UFpe9H氏邦
長男 東国丸 1583年3月死去
次男 亀丸 病気で武将としては難しい
長男死去後の同年ないし1584年に氏政から後継者不在のため貰う
三男 光福丸 1585年誕生
氏照
霊照院が嫁いだ山中大炊助頼元を婿にしなかった理由→わからない
直重が養子に入る 遅くとも1584年以前(氏政の子として1584年で12歳で元服前)
直重が1585年千葉家婿養子に入る→代わりに鶴千代(源蔵)を養子に迎える(1585年で2歳)
0430人間七七四年
2018/06/22(金) 18:41:26.83ID:coWRx/Sw0432人間七七四年
2018/06/24(日) 08:41:47.82ID:yKZx3odYhttps://www.ebisukosyo.co.jp/item/500/
「図説 戦国北条氏と合戦」
はしがき
第一章 伊勢宗瑞
1 解明された? 出自と年齢 2 宗瑞が駿河に下向したのはいつか
3 足利茶々丸を追放し、伊豆を奪取! 4 小田原城を攻略したのはいつか
5 めまぐるしく変わる諸勢力の動向 6 相模をめぐる名族・三浦氏との戦い
7 上総へ渡海し、周辺城郭を攻略する 8 宗瑞の政治改革! 「虎の印判」の創出
第二章 北条氏綱
9 相模国主≠ノなるための寺社造営 10 北条への改姓、相模支配の正当性を得るのが目的
11 武蔵をめぐる扇谷上杉氏との攻防 12 氏綱包囲網が形成され、苦戦を強いられる
13 房総諸勢力の内乱に介入し、上杉朝興方勢力を減退させる 14 両上杉氏を蹴散らして、河越城を攻略
15 富士川を渡り、駿河守護・今川義元と抗争 16 第一次国府台合戦に勝利し、氏綱が関東管領職に就任する異常事態に
17 東国の守護神・鶴岡八幡宮を造営し、関東八ヶ国の大将軍≠ニなる
第三章 北条氏康
18 武田信玄・今川義元の侵入を受け、氏康が最初の大きな危機を迎える 19 河越合戦の激闘を制し、扇谷上杉氏を滅亡させる
20 上野国平井城を攻略、憲政は越後上杉謙信の元へ 21 くせ者の国衆たちを従属させ、上野一国を領国化
22 古河公方足利義氏を擁立し、氏康自ら関東の実権を握る 23 武田・北条・今川による三国同盟が締結される
24 北条家所領役帳の作成と氏康隠居の意味
第四章 北条氏政
25 氏政の登場と代替わりに行われた徳政令 26 深刻な領国の飢饉状態に攻め込んできた上杉謙信
27 打倒信玄のため、上杉謙信と同盟を結ぶ 28 謙信との同盟を破棄し、武田氏と同盟を結びなおす
29 東国の重要拠点・関宿を奪い取り、里見氏を追いつめる 30 越後上杉氏の家督争いが勃発し、武田勝頼との関係が悪化する
31 勝頼に対抗するため、織田信長への従属を表明 32 氏直へ軍事指揮権を譲り渡し、氏政は最高指導者に君臨する
第五章 北条氏直
33 氏直が家督を継ぎ、信長との関係をますます強化する 34 織田政権から自立し、神流川で滝川一益と戦う
35 武田遺領をめぐる徳川家康との争い 36 家康の娘・督姫と祝言をあげ、上野国衆の討伐を本格化させる
37 秀吉へ対抗するため、家康との連携を強化する 38 家康が秀吉のもとへ出仕し、北条氏も従属をよぎなくされる
39 北条氏邦家臣・猪俣邦憲の思わぬ行動で、秀吉との全面対決へ 40 運命の小田原合戦、氏政・氏照に切腹命令
41 関東制覇を目前にして北条氏が滅亡、氏直は高野山へ
コラム
1 早雲寺殿廿一箇条と伊勢宗瑞十七箇条 2 北条氏と伝馬制
3 玉縄北条氏と玉縄城 4 北条幻庵と箱根権現別当
5 北条綱成と地黄八幡の旗 6 北条氏と海賊(水軍)
7 北条氏の支城制 8 北条氏邦と天正壬午の乱
9 北条氏照と八王子城 10 小田原合戦を生き延びた北条一族
視点1 国衆と国衆領 視点2 戦国大名と外交――指南と小指南
特集 五代当主の人間味あふれる古文書を読む
合戦一覧表
主要参考文献
戦国北条氏略年表
あとがき
0433人間七七四年
2018/06/24(日) 19:32:25.27ID:oORHBXAk>足利茶々丸
名前はかわいいのに、ひどい人生だったw
0434人間七七四年
2018/06/24(日) 23:03:49.96ID:ZJRYeSjT0435人間七七四年
2018/06/25(月) 22:50:10.01ID:HrAET73F0436人間七七四年
2018/06/26(火) 22:49:00.39ID:fseztilyどれも信憑性がないんだよね
まず、鎌倉時代云々の根拠となってる源基氏伝帖は偽書だと言われてるし
ここ最近、北条氏に仕えた狩野氏は実は遠江の分家出身ではないかという話が出てるけど、
高橋氏も早雲の遠江侵攻時に従った一族なんじゃないかと思ってる
大蔵姓高橋氏のルーツである城飼郡高橋郷からほど近いところに天ケ谷の城平とも、
高橋ノ城とも言われる城跡があって、室町時代後期に高橋氏が築いたという言い伝えがある
また、今川義元が高橋ノ城の北に位置する竜源寺に宛てた文書に、その地の地頭として高橋左近将監の名前が出てくる
高橋家過去帳に出てくる高橋高種が左近将監を称してるのは偶然とは思えない
堀越六郎・貞朝父子と山木大方の周辺にも高橋郷左衛門なるものが出てくる
伊豆雲見に所領を得たのは伊豆平定後なんじゃないかね
0437人間七七四年
2018/06/28(木) 23:59:55.48ID:2PtJSP04烏山?牟礼?
0438人間七七四年
2018/06/29(金) 15:04:20.23ID:DEvxvkAqなかなか凄い。
0440人間七七四年
2018/07/04(水) 16:22:44.79ID:Lw0B/TR1http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/37899/rsg090-11-asakura.pdf
0442人間七七四年
2018/07/10(火) 23:43:39.32ID:A1WwXs++ごめん分かりにくかったかな
実際の雲見高橋氏は清水康英の同心に過ぎず、知行役高も10貫文しか
なかったってのはご存知?
その上で、「筑後高橋当主の座を捨てて高種や綱高を輩出し北条一門に列した」と
称している高橋氏のご先祖様は実際は遠江出身で雲見に所領を得たのは
伊豆を平定した後ではないかってことね
0443人間七七四年
2018/07/10(火) 23:50:58.97ID:A1WwXs++北条氏に仕えた雲見高橋氏と同じ一族じゃないかってことね
0444人間七七四年
2018/07/11(水) 14:41:47.58ID:Nl6VhCrl10貫て10石〜20石で一族は養えても家臣は養えないレベルじゃない?
いわゆる下級役人てやつ
そんなに低いのか
隠居領かなんかじゃなくて?
0445人間七七四年
2018/07/11(水) 14:53:07.06ID:Nl6VhCrlhttp://www.shimodajyou.com/koubouryakunenpu.html
他の文書だと高橋郷左衛門尉か
0446人間七七四年
2018/07/12(木) 21:26:56.26ID:+Rdu5qowと
遠江出身で雲見に所領を得た高橋氏
は無関係じゃないの
0447人間七七四年
2018/07/13(金) 01:48:42.01ID:Ggd0wGmo高橋家系図には、高橋高種は足利政知に請われて雲見に所領を得て、
北条綱高、高橋氏高兄弟も雲見で生まれたとあるよ
0448人間七七四年
2018/07/13(金) 09:00:10.92ID:3OqRO6wF830貫取りの大身と10貫の木っ端役人が連名で安国寺恵瓊・脇坂安治から起請文取るって
普通にあるの?なんか違和感がある
0449人間七七四年
2018/07/13(金) 17:51:04.31ID:Wlm4EvA810貫文だと本人と家臣の二人で参陣なのか
0450人間七七四年
2018/07/14(土) 11:01:58.71ID:JLVrI5Uc氏光のところにはないが
氏忠のところには
文禄4年(1595年)の時点で安芸草津に在所しているが、その後の動向は不明である。(拙稿小田原落城後の北条氏一族)
とあるからこの論文に何か書いてあるかもね
で 『日本歴史』2013年10月号(785)
【史料散歩】
小田原落城後の北条氏一族…黒田基樹
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n7435.html
同じ内容かどうかはしらん
最もそこにも氏光しかり氏忠しかりこれまで言われていた通説の死去年後の生存が確認できただけかもしれない
(著書瑞渓院にも文禄4年大和奈良に在所が確認とあるし氏光も)
0451人間七七四年
2018/07/16(月) 20:22:03.14ID:LzFNWHD8http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-0ca8.html
一部鉛筆書きの史料群で北条氏の知られざる事実が明かされるなんて胸が熱いね
0452人間七七四年
2018/07/16(月) 21:26:24.00ID:WwHSV/nY佐野氏の同族阿曽沼氏は安芸に傍流がいるけどどこまでツテが生きてるか謎だし
そもそも佐野息女とは離(死?)別したって話じゃなかった?
0453人間七七四年
2018/07/17(火) 00:18:58.19ID:YCJLI0EL月刊誌だから2巻以降は来年か?
0454人間七七四年
2018/07/18(水) 21:47:22.45ID:0qcrA4uH「店員さんに北条家ファンがいるから、もしくはこの辺の大名が北条家だからかな」と思ったんだけど
コーナーには小早川秀秋とか真田信繁とか北条家に直接関連しない題材の本も数冊あって、よく見たらコーナーの全部が黒田基樹先生の著書だったw
0455人間七七四年
2018/07/18(水) 22:52:54.91ID:J842jJEB新九郎→名前が氏親とわかる
氏政→生年が1年繰り下がり1539年に
氏照→諸説あった生年も1542年に固定できそう
氏規→五男から四男に浮上
氏邦→諸説あったが生年が繰り下がり1548年で五男に。また庶子にも変化
氏忠→現在は父は氏堯。氏康は義父
景虎→氏秀と同一人物にされたことがある
氏光→氏忠と同じ。こちらが弟
蔵春院→氏康最初の子供で長女とされてきたが、現在では四女へ
七曲殿→長女に昇格
種徳寺殿(小笠原康広室)→現在は為昌の娘
尾崎殿(千葉親胤室)→未だ法名わからず。四女から次女へ
長林院(太田氏資室)→法名、生年共にわからん。五女から三女へ
浄光院(足利義氏室)→瑞渓院は義母に変化
桂林院(武田勝頼正室)
円妙院→過去帳しか名前がないのはかわらず。法名がわからん2人の氏康娘のどちらかと同一人物の可能性も残る
こうも変化するから10年経ったら氏忠、氏光の事績もよりわかるかも
氏忠は北条研究者より毛利研究者が発見するかもね
0456人間七七四年
2018/07/19(木) 08:24:48.85ID:gxxBpy37遠山康光妹と康光室の妹が混同
0457人間七七四年
2018/07/19(木) 21:00:53.54ID:n78fM44e0458人間七七四年
2018/07/19(木) 21:28:14.02ID:gxxBpy37事実上黒田さんの占有状態なんだから伏せる意味が無い
とりあえず異議申し立てたいのなら既知の一次史料との矛盾点を丁寧に拾ってけば?
0459人間七七四年
2018/07/19(木) 21:47:35.36ID:n78fM44e伊勢弥次郎が高橋氏の名跡を継いだというのもこの家だけが言っている
五色備えや×家・××将衆などというのもこの家に伝わる戦記の中だけの話
高橋氏が玉縄(甘縄)城代・江戸城主になった事実もない
一致するところがない
実在した彦四郎・郷左衛門(加賀高橋文書)、丹波・左近(雲見高橋文書)の受給文書を伝える子孫は別に存在する
0460人間七七四年
2018/07/19(木) 21:53:40.63ID:n78fM44e狭山等信頼できる北条子孫の家の史料にも残されていないものが
北条家臣としての実態がない高橋氏にのみ伝わることに蓋然性がない
0461人間七七四年
2018/07/19(木) 22:14:56.11ID:gxxBpy37それとも偶然の一致?
結局決定的なものが出てこない以上は地道に可能性を潰してくしかないのよ
0462人間七七四年
2018/07/19(木) 22:35:31.79ID:gxxBpy37無いわけ無いんだよな元服してるんだから
「太田」氏房てのは無いか
0463人間七七四年
2018/07/19(木) 22:56:25.29ID:lGnqUj9hhttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b370871.html
昨年下山治久先生亡くなられてるんだよね
あとは則竹雄一氏、浅倉直美氏、長塚孝氏とかかな北条研究者
0464人間七七四年
2018/07/21(土) 01:44:03.76ID:9mBmemfV氏康が吉良氏の家臣に直接命令を下すようになった時期以降に成立したものがほとんど
下田城址の解説板に「小田原城からは援将江戸摂津守朝忠と検使高橋郷左衛門尉が派遣され」とあるけど
江戸朝忠は吉良氏の筆頭家老江戸頼忠の子だし、小田原からというよりは、吉良氏が軍役に応じて
その陣代として下田に遣わされたのが実情だと思う
そのような地位にありながら、所領役帳に「拾貫文 雲見」としか記載されていないのは、高橋郷左衛門が
当時食客扱いで諸役を免除されていた吉良氏(なので蒔田領は載ってない)の家臣だったからで、
雲見は北条氏から別に与えられた知行地だと考えれば合点がいく
牟礼に縁があるのも、吉良氏朝が徳川家康に仕えた時に世田谷に移ったからであり、従って高橋氏は
一貫して堀越六郎・貞朝(吉良氏朝)の家臣だったとすれば、何一つ矛盾しない
0465人間七七四年
2018/07/21(土) 02:06:57.22ID:9mBmemfV天ケ谷の城平(別名高橋の城)周辺に残っているそうなので、
高橋氏が遠江今川氏に仕えたのはこの前後ではないかと思う
0466人間七七四年
2018/07/22(日) 19:45:00.48ID:9YKHZXl2A:吉良義定室系
北条氏康→早川殿→吉良義定室→吉良義弥→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
B:今川範以系
北条氏康→早川殿→今川範以→吉良義弥室→吉良義冬→吉良義央→上杉綱憲
0467人間七七四年
2018/07/22(日) 23:02:39.35ID:HOJqxHiB0468人間七七四年
2018/07/23(月) 01:41:17.71ID:yVdFwmJ40470人間七七四年
2018/07/23(月) 22:35:55.69ID:gdW5vf9N高橋彦四郎(のち平左衛門か)
高橋平左衛門(所領役帳で本人に72貫400文、寄子に150貫文)
高橋郷左衛門
高橋源七郎(のち郷左衛門か)
高橋久太郎
子孫は受給文書を「加賀高橋文書」として伝える
伊豆雲見の高橋氏
高橋将監
高橋丹波守
高橋左近
子孫は受給文書を「雲見高橋文書」として伝える
雲見高橋氏が伝える歴代(禰宜を世襲した雲見浅間神社の連名帳)
高橋丹波守先祖 円覚院迅証道難入禅定門 1479年8月没
高橋左近 1523年没 明応5(1496)年宗瑞判物の高橋とのか
高橋左近 1534年没 永正16(1519)年宗瑞書状の高橋将監か
高橋左近 1555年没
高橋左近 1597年没 下田城に籠城した丹波守はこの人か
高橋左近 1646年没 下田城に籠城した左近の子か孫か
0471人間七七四年
2018/07/30(月) 19:49:25.03ID:6WrzRaXZ伝心庵過去帳には後御前と注記されているらしいけど、この「後」って
どういう意味で付けられたのかな?
0472人間七七四年
2018/07/30(月) 19:53:59.52ID:KLq7KEGSその後氏綱公の正室になりますよ、ってあたり?
0473人間七七四年
2018/07/30(月) 21:32:28.30ID:LumFf9Ny一応言っておくと
後北条氏の場合
税収10貫は
総石高に換算すると
地域によるから一概には言えないけど
50石〜100石くらい
http://hitosugi.web.fc2.com/2021.pdf
ここでは一例として60貫が240石とあるけど
所領役帳の数字は総貫高ではないから
もっと石高は多くなる
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/digital_archives/rekishibunken55/pdf/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
5貫につき動員兵力1人とあるけど
戦国時代の動員兵力は100石で数人というのが基本
10貫〜20貫で100石
0474人間七七四年
2018/07/30(月) 21:56:54.08ID:d8M1Ri1Bそれに戒名の注記にその解釈は合わないような
後室とかって解釈で良くないかな?
0475人間七七四年
2018/08/01(水) 21:40:12.43ID:Fvm9BAm7丹波・左近父子と一族(同名)の六郎左衛門・縫殿助・助三郎の5人
丹波・左近は妻子を小田原に差し出して下田に籠った
0476人間七七四年
2018/08/01(水) 21:55:15.58ID:MiPdFzqw0477人間七七四年
2018/08/04(土) 22:09:50.32ID:kFUybZMh後室って意味だと小笠原娘と南陽院殿が同一人物だった場合、
その前に先妻がいたって事になり、それは誰だって話しになるし
別人物だった場合先妻の小笠原娘が亡くなった後、南陽院殿が
後室に入った事になり、それじゃ南陽院殿は誰なんだって話になって
ややこしい事にならないか
0478人間七七四年
2018/08/05(日) 00:05:11.89ID:IjdfymLCどう考えても前者じゃね
兄貞興の動向もほとんど記録に残ってないというし、備中時代なんてそんなもんじゃないの
0479人間七七四年
2018/08/10(金) 22:00:40.24ID:25jc2a3F0480人間七七四年
2018/08/11(土) 00:09:19.20ID:VPUnMWAI高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?
http://www.bs-tbs.co.jp/culture/kura/
8月10日放送
#13 2時間スペシャル「東京郊外…戦国末期、豊臣秀吉との戦いに敗れたものの
生き延びた一族が…商家として成功し築いた豪邸には…新撰組の手紙!?…謎の英文書!?
…驚きの家宝が続々登場」 よる9:00〜10:54放送
高島礼子が日本全国の蔵へ!埋もれた家宝捜索の旅。今回の捜索の舞台は…東京郊外。
かつて都心部へ材木や薪炭を提供して栄えた町には、今も多くの蔵が残っている。
訪れた旧家は、敷地内に蔵がいくつも建つほどの豪邸。江戸時代以降、材木商として
成功した家だというが、その歴史は古い。そもそもは、戦国末期、秀吉の小田原攻めで
敗北した北条家臣で、命からがらたどり着いたこの地に住み着き、名前を変えて生き延びた
一族だという。
0481人間七七四年
2018/08/13(月) 19:52:28.57ID:8y6qp/zr0482人間七七四年
2018/08/16(木) 22:10:28.01ID:1AJ9KYhH面白かったけど、歴史好き以外には受けなさそうなマンガだな
0483人間七七四年
2018/08/16(木) 22:30:55.29ID:BpNVJ6310484人間七七四年
2018/08/18(土) 07:49:21.81ID:7YhJfOTJ草津城(城主児玉氏)近辺の行者山なのよね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Gaikan_Hiroshima-shishi_map-01.jpg
かつて引き潮の時は広島まで歩いて渡れたらしい
そういう重要拠点を縁も薄そうな氏忠が自由に出入りできたのかしら
0485人間七七四年
2018/08/20(月) 15:17:06.61ID:5YMRjRsK山中鹿之助の娘もかくまったとあるなその寺 すげえ なんかかっこいい
0486人間七七四年
2018/08/22(水) 21:19:24.88ID:baML9NDe氏忠終の棲家が言われていた伊豆ではなく広島ってなら
信じざるを得ない
とりあえず乗讃院の正体が判明せんだろうか?
0487人間七七四年
2018/08/27(月) 21:46:35.26ID:hPpGzj0M偶然にも父親の名前に入ってたのに
0490人間七七四年
2018/08/28(火) 06:13:01.01ID:cQEGQKbj『綱』は誰かから貰ったのかしら?
0492人間七七四年
2018/08/28(火) 22:13:21.79ID:2+zHLFO6これ面白かった。
アマゾンとかだとキャラが現代語を喋っていて変とか言う批判もあったけど作者は読みやすさ分かりやすさを重視したんだろうなと思った。
ただでさえ歴史に興味ない人には取っ付きにくい題材だし
0493人間七七四年
2018/08/28(火) 22:16:31.43ID:rU/ocRc+0494人間七七四年
2018/08/28(火) 23:53:08.96ID:s3PGNmUS0495人間七七四年
2018/08/29(水) 00:06:14.97ID:TXv8v/sB氏綱氏康が元服した時はまだ今川氏の家臣だったんだから、氏親からの偏諱じゃなきゃおかしいでしょ
ってなことが黒田氏のどれかの本に書いてあった
あと氏政以降の氏はまた違うらしい
0496人間七七四年
2018/08/29(水) 10:15:23.44ID:vDpNMkve他家からの貰いものではないという自負があったのでは
ただ氏直からは止めちゃうんだけど
これはよくわからん
0497人間七七四年
2018/08/30(木) 22:24:49.94ID:6iDiuQtE0498人間七七四年
2018/08/31(金) 00:03:27.79ID:tjyG+vks0499人間七七四年
2018/08/31(金) 12:54:38.82ID:lD2bTDwF氏堯が最初なんだけど、これは河東の相駿断絶に関わってるんじゃないかと思う
さらに氏政期に入ってからは傍系の久野家玉縄家にわざわざ改名させて『氏』を与えてる
これも政治的になんらかの意図があるのは間違いない
これが氏直期に入ると氏房氏隆を最後に止めてしまい直重直定など『直』を与えるようになった
おそらく本能寺後の政治情勢を受けて当主権限強化を形として打ち出したのではないかと思う
んでその推論が当たってるとなると北条『氏』資は非常に怪しいのよね
何らかの褒賞があったなら兎も角、いきなり元服時に与えられたというのならば極めてイレギュラーな形になる
はい「尻働き」とか言うの禁止w
0500人間七七四年
2018/08/31(金) 16:32:12.98ID:yZCNRV9b義元に対する対抗心から来てるんだと思うわ
氏親、氏照は今川氏の歴代当主に同じ読みの人がいるし、氏真を小田原に
招き入れた時に、氏直を養子にさせたりと今川氏当主の座に固執してるように見える
側室の子である義元を認めず、北条氏であると同時に今川氏当主としての
正統性を示していたのではないかと思う
0501人間七七四年
2018/08/31(金) 21:13:22.41ID:cu6oHOMSでも氏政だけピンポイントで今川家に関係ない名前なのが気にかかる
0502人間七七四年
2018/08/31(金) 21:28:44.87ID:SkTSWPZF0503人間七七四年
2018/08/31(金) 22:55:14.24ID:lD2bTDwF遠江高橋氏出身である傍証だと思う
政治的には今川外戚北条氏の縁者として一門格に連ねたが
あくまで今川家中として「氏」の書き出しを受けた
具体的には葛山氏広に近いイメージ
0504人間七七四年
2018/09/01(土) 00:31:45.82ID:tDAHi0Ig■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています