>>979
ただ関ヶ原後も摂家としての豊臣の権威は徳川より上で
朝廷的にも「秀頼が成人したら関白」という意識は残ってたみたいだけどな。

慶長6年に秀頼は8歳で権大納言に就任して秀忠と同列に追いついてる。
慶長10年に秀忠が征夷大将軍宣下を受けた時点で、
秀忠が内大臣に対して、秀頼は右大臣。
(というか秀頼の右大臣就任で空いた内大臣の後任が秀忠)

大坂の陣直前の段階でも朝廷は家康に勅命講和を提案している。
(家康は蹴ったけど)