関ヶ原合戦の真実 Part3 [無断転載禁止]©5ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2016/05/27(金) 20:16:23.30ID:npq8C3Hk豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。
この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
前スレ
関ヶ原合戦の真実
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1430516022/
関ヶ原合戦の真実 Part2
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1453807317/
0003人間七七四年
2016/05/27(金) 20:34:49.91ID:p55hEUBv白峰 旬 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4863669283
関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。
【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?
【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す
【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである
【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?【終 章】すりかえられた天下取りの戦い
0004人間七七四年
2016/05/28(土) 01:17:04.70ID:yZxWpHTm石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた
1に関しては秀頼を直接推戴したって言うけど、家康みたいに出陣前秀頼や朝廷から使者が来たわけでもないし、
2は単純に実力をもって西の丸を徳川方から奪い取っただけでしょう。
3は論外だし、4、5、6は戦における自勢力圏の確保と敵と味方に関しての当たり前の行動にしか思えないんだけど。
しかも5が達成できたのは関ヶ原の決戦の二日前の有様だし。
1、2は別に批判するほどの根拠では無いな。家康とて大坂には実力で入城したし、輝元も豊臣家の中核たる奉行衆から請われて入城してる。
3は白峰氏の主張に無理がある。公儀を名乗る事が出来たというのは確かに大事な要素ではあるが、それによる影響をキチンと調べないと意味が無い。
4は上方周辺の諸侯を動員できてるから妥当。ただし畿内すら掌握できておらず、完全からはほど遠い。
5は城を受け取れず、戦になった時点で面目丸潰れでしかも杵築は接収にも失敗した。むしろ蜂須賀、生駒を改易にして城を受け取った点を評価するべきだろう。
6は近江の家康所領などを与えてはいるが、もともと豊臣家の代官が把握してた所領。その他は切り取り次第の状況で公儀性を発揮してるとは言い難い。
0006人間七七四年
2016/05/29(日) 21:09:44.83ID:xNW8RP4Q形式上は豊臣公儀の主体はあくまで秀頼であって大老・奉行はそれを補佐しているだけ
家康もこの形式を守って重要な政治決定は全て秀頼に事前報告して許可を取る手続きを守っていた
ところが西軍は秀頼をないがしろにして自らを公儀そのものであるという
事実上はそうだけど絶対に表面化させてはいけない禁句を口にした
当時の家康ですら遠慮してやらないことを三成たちがやれば
西軍の士気が崩壊し内通者が続出するのは必然の結果だった
0007人間七七四年
2016/05/30(月) 10:50:13.51ID:B24+mf7V拘り過ぎてかえって視野が狭くなっている気がする
0008人間七七四年
2016/05/30(月) 10:58:12.20ID:aQgtK5Nf0009人間七七四年
2016/05/30(月) 21:56:05.22ID:omjuyLuX0010人間七七四年
2016/05/30(月) 22:42:05.17ID:WiemMqfX否定派の代表だと白峰、矢部、山本、平山あたりがすぐ出てくるけど
再評価派だと代表的なのは誰?
0011人間七七四年
2016/05/30(月) 23:21:31.25ID:46vVciYF名称は同じでも主張は千差万別だけどね。
バイアスを取り除く為に二次史料ではなく一次史料を中心に組み立てようと言うもっともなものから、幕府は捏造したに決まってるから徳川全否定しとこうまで
0012人間七七四年
2016/05/31(火) 11:56:37.03ID:2uKzvybp近しい前田はやる気無し、宇喜多は自滅、
上杉はただの数合わせ
どうしたって無理という
0013人間七七四年
2016/05/31(火) 21:11:41.77ID:gNXIOrLEそもそも格下の石田が格上の毛利の前に来る連合政権なんて成立しないんじゃない
よくて毛利・石田連合政権とかならわかるが
0014人間七七四年
2016/05/31(火) 22:49:04.66ID:c5uXobdR現場とトラブルを起こして奉行をクビになった石田と連合する理由がない
最初は自分が大将で三成も自分に服従するものだと期待していたが
石田が言うことを聞かない、むしろ毛利がこっちの言うこと聞いて戦えという態度だから
毛利の方がやる気をなくすのも仕方がないことだった
0015人間七七四年
2016/05/31(火) 23:20:14.32ID:sngdBgdZ0016人間七七四年
2016/06/01(水) 01:06:20.56ID:H3WExdZl英断だと誉めるべきか、全身代を賭ける覚悟もなしにこんな事やるなと突っ込むべきか悩ましいが
0017人間七七四年
2016/06/01(水) 08:01:30.38ID:MI4i+eFMいう程速いか?
勿論、前提に
上杉と連動してて、上杉が徳川を消耗させる
東海道に配置された諸大名が一斉蜂起して徳川を消耗させる
ってのがあったなら、計算外の速さだろうけどな
普通、無いだろ
ていうか、石田三成と、テルモとって利害が一致してないんじゃね?
テルモって、最終防衛ラインを大阪城にする気だったんじゃないかと思う。
その間に四国九州の領土を確定して和解を狙ったのかなと
でなければ、倍以上にでかい徳川とやり合うのに、四国九州にチョッカイは出せんだろ
0018人間七七四年
2016/06/01(水) 08:45:30.43ID:wS6iDXxL0019人間七七四年
2016/06/01(水) 11:01:24.73ID:YTtoAc7I足引っ張ったこと自体は事実だからねえ
あっちこっちに色気だし過ぎて肝心の濃尾方面への侵攻がおざなりになったし
0020人間七七四年
2016/06/01(水) 17:50:30.28ID:tLFYiVuPいずれ和解するつもりの相手とガチで衝突して損耗するなどアホのすること。
0021人間七七四年
2016/06/01(水) 18:06:09.90ID:avCVmX9M0022人間七七四年
2016/06/01(水) 18:13:28.12ID:ECdDQFtBとりあえず美濃あたりで足止めさせといて西国の東軍方をある程度押し込んで背後の安全を確保してから動くつもりだったとか
正規の手続きで大坂城にいるわけではないから大坂城(秀頼)をきちんと押さえておく必要があるわけだし
0023人間七七四年
2016/06/01(水) 18:35:11.37ID:HTnNm0RN0024人間七七四年
2016/06/01(水) 19:28:04.76ID:jCvS0qYf0025人間七七四年
2016/06/01(水) 21:04:14.24ID:MI4i+eFM奉行でもない、江南全てを領有してるわけでもない、大族の末裔でもない
単なる秀吉の飼い犬に何が出来たんだろう?
キャンキャン五月蠅い座敷犬に、関ヶ原後の安寧の為に、よってたかって責任を被せただけじゃないのか
0026人間七七四年
2016/06/01(水) 21:22:28.02ID:tLFYiVuP一流どころの外様大名と個人的なパイプがあった。
そんな三成が、家康主導の政権をひっくり返そうとした事に何の違和感もない。
0027人間七七四年
2016/06/01(水) 21:52:03.11ID:R5iCJJKG日本一の大大名と戦うなら何より重要なのは権力のために命をかける執念だからね
輝元側には権力を欲してもそのために命まで懸ける執念がない
だから西軍は文治派だけが盛り上がって他は白けている二極化になってしまったわけだが
0028人間七七四年
2016/06/01(水) 22:17:38.80ID:1B50yWuf0029人間七七四年
2016/06/02(木) 07:49:37.19ID:p/cGU2N4政権に居座ることに異常な執着があったなんて資料合ったっけ?
文治派とか武断派とかは明治の頃の後付けじゃなかったっけ?
0030人間七七四年
2016/06/02(木) 07:53:26.51ID:LdDq3P4s0031人間七七四年
2016/06/02(木) 07:55:37.18ID:NY0RNBwW早いうちに功績上げてた奴らは九州とかに領地貰ってたから自然と朝鮮出兵のお鉢が回ってきただけのこと
0032人間七七四年
2016/06/02(木) 10:15:32.97ID:G1EnwyoV世の中の小説が言うように、私心なく豊臣家への忠義で挙兵したのなら、
戦後その影響が豊臣家にどう働くかも予見出来ない無能で確定。
関ヶ原は、東西どちらが勝利しようと、豊臣家には悪影響しかない。
0033人間七七四年
2016/06/02(木) 12:02:41.57ID:p/cGU2N4忠義の人とか国政に関係ないから隠居しろとか
近江の小領主が生き残りをかけて、反徳川に乗ることは、そんなに不思議か?
0034人間七七四年
2016/06/02(木) 13:12:33.14ID:ld02u5Qu家康は三成の息子の出仕認めてたんだから
0035人間七七四年
2016/06/02(木) 13:28:40.03ID:YYI5bt3R0036人間七七四年
2016/06/02(木) 13:43:10.33ID:NY0RNBwWぶっちゃけ関ヶ原の前後の時期だと家康本人よりも家康を御輿に担ごうとする武将連中の方が厄介だったからねえ
ある意味では家康もそうした連中への対処の方が西軍相手にするよりも苦しかった
領地たっぷりあげて縁戚深くしていい感じに飼いならせるようになった頃合いでこぞって代替わりしてくれたので良かったけど
0037人間七七四年
2016/06/02(木) 21:05:17.59ID:ccXh3A1aそもそも家康を御輿に担いだの、秀吉なんだけど。
三成アンチとか関係なく、政権安定を考えるなら三成支持は有り得ないから。
秀吉が、家康を政権から遠ざけようとしていた形跡は全くないし。
三成が秀吉の方針に逆らい続けただけの話。
0039人間七七四年
2016/06/02(木) 21:55:15.08ID:h/aZSA5E0040人間七七四年
2016/06/02(木) 22:01:34.17ID:hQsKJ92U乗り遅れ、群雄割拠の再来と読み違え、(感情的に)家康の下に付くのがイヤ
のいずれかに該当する連中の寄せ集め
0041人間七七四年
2016/06/02(木) 23:51:38.60ID:/StuOipD0042人間七七四年
2016/06/03(金) 13:23:04.75ID:G/lIWgvy今後の事考えればヤケでもなんでも決起しなきゃいけなかったんじゃないかな
0043人間七七四年
2016/06/03(金) 21:39:40.11ID:RSl5KE6Y其の儘隠居していれば石田家としては生き残れていたかもしれないが、
秀吉の側近として権力を振るってた時代の快感が忘れられなかったんだろう
開戦した頃の書状の浮かれ具合をみても調子に乗りやすい性格みたいだし
夢よもう一度、と思って立ち上がったはいいが、結局夢のままで終わったってことだな
0044人間七七四年
2016/06/03(金) 23:28:33.30ID:t6KqEmufその後の書状のみるみるテンション落ちていく様はもはやギャグ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています