実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
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前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0840人間七七四年
2016/08/01(月) 22:52:57.48ID:oSVgf5DW井伊直政が戦場で怪我するのは珍しくないみたいだし
直政が勇敢であったという見方もできるから
0842人間七七四年
2016/08/01(月) 22:57:07.32ID:GjtY8jX80845人間七七四年
2016/08/01(月) 23:18:37.01ID:mV0k2JvZで、自演失敗やら菅沼やら言うだけでまともな反論出来ない馬鹿の君はどうなのかね
0846人間七七四年
2016/08/01(月) 23:21:57.64ID:fG328ufzどうなんだろ
普通に文面通り読めば病気と解釈するのが妥当だけど、関ヶ原直後政務をこなしてる直政が怪我じゃなく病気で花押が書けない事ってあるかなと思い相煩いを怪我と解釈してるんだが俺の間違いかもしれん
0847人間七七四年
2016/08/02(火) 00:08:12.87ID:h26/kgwY0848人間七七四年
2016/08/02(火) 00:14:15.31ID:Gm4k6SZh0849人間七七四年
2016/08/02(火) 01:42:50.80ID:6EUTdxiH明治26年に帝国陸軍参謀本部が編纂した「関ヶ原の役」なんだよ
これを編纂した軍人たちがどこで拾ってきたのか知らないけど、島津はたんに逃げたのではなく家康の本陣めがけて突撃して敵中を突破した、
としたのでそれが通説になっちゃった
たぶんそれ以前(明治26年以前)はそんな通説は無かったものと思われる
0850人間七七四年
2016/08/02(火) 06:52:40.70ID:gwJWZ3Fi当時の直政は多忙を極めてただろうから、その期間の書状全体を点検しないとなんとも言えない
0851人間七七四年
2016/08/02(火) 07:08:27.00ID:Gm4k6SZh0853人間七七四年
2016/08/02(火) 08:02:09.04ID:gb2Kn7Uh武功だけでなく政治手腕もあった家臣がいなくなれば、家康も相当な打撃だろ
他言できないような変な病気か、家臣に殺されたか
0854人間七七四年
2016/08/02(火) 08:19:48.33ID:BAxUoWhD0856人間七七四年
2016/08/03(水) 09:27:59.47ID:WKBYcWM+胃癌で死んだ家康の死因が鯛の天ぷらの食あたり(それこそ
食べてから死ぬまで三ヶ月近くたっている)なんて俗説が
長い事まかり通ってた事考えると俗説の影響力って強いよな
0857人間七七四年
2016/08/03(水) 14:28:37.52ID:q22ObE635%も生還したのは自慢したくなるのも無理はないのでは
遅れて帰って来たのも含めれば20%近くは生きてたみたいだし
8割以上死んだのなら、壊滅もいいとこだけど
0858人間七七四年
2016/08/03(水) 14:53:28.59ID:K6RwFR340859人間七七四年
2016/08/03(水) 15:04:32.21ID:G2KrLLSS単なる潰走でしかない
0860人間七七四年
2016/08/03(水) 15:35:41.42ID:3jfZ35Ws0861人間七七四年
2016/08/03(水) 19:07:14.15ID:q22ObE63サバイバル映画を相手に、主人公は災害の解決になんの貢献もしてない凡人、
といった的外れなイチャモンを付けてるような事態、なんてことになってないの?
0862人間七七四年
2016/08/03(水) 21:47:41.51ID:y7Ulv6yTまた、島津義弘がせっかく夜襲を献策したのに石田三成が退けたために西軍は勝機を逃したとか、
この一件で義弘は三成に不信感を持ち、本戦で陣を動かなかったのだ、などと島津のヘタレぶりを正当化するエピソード多すぎ
0863人間七七四年
2016/08/03(水) 22:24:22.92ID:Z4UuSoQCむしろ死にすぎでしょ
戦国の死傷率としても異常に高い。
実際は帰路で脱落したのが大半なんじゃないか?
0864人間七七四年
2016/08/03(水) 22:24:42.90ID:5Wm/d61B0865人間七七四年
2016/08/03(水) 22:29:53.34ID:kUSXBEKuあれは主人公が島津豊久で物語冒頭が島津の退き口から始まる。
0866人間七七四年
2016/08/04(木) 11:41:03.93ID:nQqPrnnk宇喜多隊、石田隊、大谷隊といった、実際に闘った西軍部隊が次々と壊滅した結果、
島津隊の周辺は敵だらけになっただろうと考えられるが
当初の予定通りの退路が確保されていたとは思えん
敵に囲まれた状態からの脱出は、敵中突破以外の何物でもないわけだし
0867人間七七四年
2016/08/04(木) 12:22:31.69ID:lmXppFim「敵中突破」じゃなくて「敵中脱出」程度にすれば字面に惑わせられることもない
0869人間七七四年
2016/08/04(木) 13:01:07.51ID:4znxCl3b西軍総崩れで他隊が西に逃げてる状態で、東に向かってから南に抜けてるんだから
『敵中突破』でもいいだろ。島津は戦績をかなり盛ってたりはするけど、元の事実は
なにがしかあると認識してるけどね。
0870人間七七四年
2016/08/04(木) 14:07:38.86ID:sjJti4sg0871人間七七四年
2016/08/04(木) 14:14:50.80ID:4znxCl3b0872人間七七四年
2016/08/04(木) 14:44:07.91ID:lmXppFim0873人間七七四年
2016/08/04(木) 15:07:59.69ID:+aouY31g代わりになった家臣に感謝してもしきれんな
0874人間七七四年
2016/08/04(木) 18:35:06.67ID:GI4dXDqz0876人間七七四年
2016/08/04(木) 19:45:33.33ID:ALZGZDsc0877人間七七四年
2016/08/04(木) 20:03:37.92ID:fweiy8VD攻勢をかける側の作戦を示す「中央突破」と取り違えて
武勇伝にしてると言い掛かりつけてるだけだったりして…
>>876
徳川からの追及を和らげるため、
関ヶ原戦後になって島津家がでっちあげた言い訳だそうだ
0878人間七七四年
2016/08/04(木) 20:08:01.26ID:ALZGZDsc0880人間七七四年
2016/08/04(木) 23:50:43.78ID:ALZGZDsc史実は惨めな敗走ってことさ
0881人間七七四年
2016/08/05(金) 00:18:15.41ID:gFioVsk00882人間七七四年
2016/08/05(金) 00:51:18.65ID:SN1Zgc8h0883人間七七四年
2016/08/05(金) 08:04:41.34ID:EAO4xyyG伏見への在番という話は家康が下向する前からあった。
義弘は在番の為の軍勢を国元に求めたけど、いつまでも軍勢が来ず延び延びになっているうちに西軍が決起。
島津としては伏見在番か大坂在番でやり過ごしたかったが、どちらも実現しないウチに西軍にガッツリ組み込まれてしまったというのが真相。
伏見へ行きたがってたのは東軍に味方するつもりじゃなくて終戦するまで中立で居たかっただけという。
0884人間七七四年
2016/08/05(金) 08:25:54.24ID:mKDfudCC0885人間七七四年
2016/08/05(金) 20:13:03.09ID:pGK24o8N0886人間七七四年
2016/08/06(土) 06:12:12.71ID:cOF7Q+z2それ言ってたのは光成氏の「関ヶ原前夜」だろ。
あの本は着想は良かったけど、あちこち史料解釈に問題があるからなぁ
島津の積極参加もそれは無いと批判されてるし
0887人間七七四年
2016/08/06(土) 11:12:50.68ID:PJzDl3ey最初からノリノリという感じじゃないなぁ
0888人間七七四年
2016/08/06(土) 13:04:29.49ID:r5nmJvsk0889人間七七四年
2016/08/06(土) 13:15:37.78ID:vYuZ8Rrw宇喜多は楽天的なのか強がってるだけなのかよく分からん
0890人間七七四年
2016/08/06(土) 20:05:15.14ID:f8BE/adh関ヶ原本戦には間に合わなかったが、
そこまでの能動的な動きが
0891人間七七四年
2016/08/06(土) 20:55:09.23ID:rnfsZFTo0892人間七七四年
2016/08/06(土) 21:04:30.30ID:PJzDl3ey0893人間七七四年
2016/08/06(土) 21:43:11.07ID:1FQ+8vLa0894人間七七四年
2016/08/06(土) 22:13:18.94ID:BUXeDJN+0895人間七七四年
2016/08/06(土) 23:18:23.29ID:UVV1yMo3関ヶ原前も激務が祟ってか死にかけるほどの病気をしていたんだなこれが。
だから東海道ルートを進む外様部隊の指揮を直政が家康に代わりに引き受けていたが行けなくなり、
譜代と中山道ルートを行く筈だった忠勝が急遽、東海道ルートに加わる事になった
その後病が癒えたとする直政がそれを追って途中で合流した
腿の付け根に腫瘍のようなものが出来痛みもあったという記述もあり関ヶ原では万全とはいえない体調であった
関ヶ原翌日には佐和山攻め、その後も精力的に激務をこなしている
島津がどうのとか全く関係なく過労蓄積が祟った病死なんだろうな
0896人間七七四年
2016/08/06(土) 23:58:55.33ID:M7zk2NuF在番命じられた大名が島津だけってのもおかしいよな
そういった命令って幾つかの大名に出すもんじゃないのか
0897人間七七四年
2016/08/07(日) 01:22:43.28ID:rYuzneMOなども怪しいということかな
0898人間七七四年
2016/08/07(日) 01:27:35.93ID:dvuOuMc70899人間七七四年
2016/08/07(日) 01:54:27.26ID:3hXdwoxc0900人間七七四年
2016/08/07(日) 06:18:37.47ID:v2+tChaV0901人間七七四年
2016/08/07(日) 08:13:07.23ID:KlAk5gMj戦時に後方の城を1大名が預かるのはごく当たり前にあるよ。
小田原の時も、早川や吉川が、徳川の城にそれぞれ在番してるし。
0902人間七七四年
2016/08/07(日) 13:04:16.89ID:BaROxgyY過労が遠因で死んだ名のなる武将は他にもいるのか?
0903人間七七四年
2016/08/07(日) 13:20:59.14ID:oaURWor2秀吉もそうだし家康も現代では胃がんだったんじゃないかとされるが
鯛の天ぷらにあたったなんて言われて来た
0904人間七七四年
2016/08/07(日) 16:38:35.24ID:1tW8chkW潜伏期間が20日以内だとは知らなかったようだし、
間違って記載されてもそのままにされてた様子
0905人間七七四年
2016/08/07(日) 16:48:13.17ID:5DIA0RHM怪我もほったらかしにして政務に励んでいたから古傷から細菌が入って痛がった可能性もあり
それが直接の死因と勘違いされたとか
現代でも死因が特定されない人がなんてザラにいるしな
0906人間七七四年
2016/08/07(日) 17:07:22.78ID:KlAk5gMj0907人間七七四年
2016/08/07(日) 17:24:16.02ID:UKm+/Wieまあ義弘の間近に迫っていたというし
あの時にはね返った弾が腕にあたっていなければ義弘が討ち取られていた可能性が高いからな。
0908人間七七四年
2016/08/07(日) 20:43:35.16ID:ZfI1kSUQ0909人間七七四年
2016/08/07(日) 21:09:41.20ID:6WOgfvUz0911人間七七四年
2016/08/07(日) 22:51:08.24ID:SgLm6LH3島津奔るだったかな?
昔そんな記述みたような気がする
0912人間七七四年
2016/08/07(日) 23:00:05.32ID:HHM536Z5島津以外ほとんどクズ人間みたいな描写
0913人間七七四年
2016/08/07(日) 23:05:59.61ID:TMJquLBJ家康の関ヶ原後の天下普請等の政策が義弘から示唆されたものとか
馬鹿なんじゃないかと思ったな
たかが一地方の兄に相続者がいなかったから当主になれた程度の奴に
政権のナンバー2として政権運営に関わってきた家康が教えを請わなければならないんだ
0914人間七七四年
2016/08/08(月) 00:55:56.82ID:j2Dd4V9S0915人間七七四年
2016/08/08(月) 02:31:42.73ID:cMtaQK8jこれは島津家謹製のいわゆる軍記物です
軍記物というのは大名家が自家を誇るために編纂する武勇伝物語で、でっちあげ家系図なみに胡散臭いんですが、
明治になって陸軍参謀本部が編纂した『関ヶ原役』でこの敵中突破のエピソードが採用されて通説化したものと思われます
0917人間七七四年
2016/08/08(月) 05:58:06.41ID:+6K59JBB0918人間七七四年
2016/08/08(月) 06:51:23.46ID:+M6M0fZg0919人間七七四年
2016/08/08(月) 08:13:28.07ID:kHlftNnx0920人間七七四年
2016/08/08(月) 08:20:22.86ID:e/QCKHIE井伊家にとってもべつに目くじら立てるほどの話ではないような
病死より戦のキズで死んだほうが武士らしいし
0922人間七七四年
2016/08/08(月) 10:42:44.02ID:qA03O3xE当時の家康がそこまで太っていたって何か出典があるのかな
0924人間七七四年
2016/08/08(月) 12:28:22.92ID:S7+VUYTl司馬氏の表現は行き過ぎだが、かなりの肥満体だったのは事実。
家康の謁見を受けた外国人達が書き残してる。
0925人間七七四年
2016/08/08(月) 12:33:37.65ID:GPvlZpvJ減点ポイントでしかない
0926人間七七四年
2016/08/08(月) 13:22:12.08ID:H6U2lUvr『常山紀談』が収録したフィクションからの引用だろう
『常山紀談』では、秀吉がまだ聚楽第を拠点に政務を執っている時期に、
家康が褌を一人で締められないほど太っていたとする虚構話を載せている
実際の家康は、当時はまだ太り始めたばかりで、関ヶ原時点でも鎧を着用できている
極端に太ったのは駿府大御所時代であるが、
異なる時期の体格をごちゃ混ぜにした俗話が、幕末には出回っていたと考えられる
0927人間七七四年
2016/08/08(月) 20:58:01.17ID:xm0pvFao本当は史料すらない創作なのではとふと思った
0928人間七七四年
2016/08/08(月) 21:38:49.43ID:NwSij1fU1500人からたったの数十人にうちのめされ
味方を犠牲にしながらかなり追い詰められ自害すら考えながら敗走しているからな
0929人間七七四年
2016/08/09(火) 21:51:57.55ID:0K2mSbHe司馬は家康の能力は認めてるものの、大嫌いだから
海外貿易推進派の家康を海外貿易の有益さが分からない
田舎者扱いしたり、本当は美人で才能のある阿茶局を
醜女の性悪女にしたりしてるしな
0930人間七七四年
2016/08/09(火) 22:06:28.08ID:/C8bXIAo0931人間七七四年
2016/08/10(水) 05:24:27.57ID:ML318g60あまりに良く出来てるので、史実だと関違いするヤツがゾロゾロ出てきたのも仕方ない。
ドラマだの小説だのは、歴史好きへの入口になる事もあるから批判だけしても意味ないけどな。
0932人間七七四年
2016/08/10(水) 05:25:34.64ID:pYLzNfs6貿易や阿茶局の件にしても意図的なのか単なる無知なのかわからんが、
作家なのに歴史家みたいな肩書き持たせて司馬史観とか持ち上げたマスコミの罪は重い、特に朝日毎日とNHK
その司馬の「関ヶ原」が映画化するそうな、三成は軍師官兵衛w
主演ジャニなら三成ageは間違いない
0933人間七七四年
2016/08/10(水) 17:15:55.35ID:CAknqzRT江戸時代初期に書かれた茶道四祖伝書という書物には千利休が京の法華寺に立ち寄った際、
小坊主から温度の異なる茶を三杯差し出してきた気配りに感心し、その小坊主を弟子にしたという
逸話が記されていた
石田三成の三献茶の話が載っている武将感状記は江戸時代中期に書かれたものなので
この三成の逸話は千利休の話を参考にして作ったのではないかと疑ってしまう
0934人間七七四年
2016/08/10(水) 17:40:04.77ID:LPaduY5P0936人間七七四年
2016/08/10(水) 18:04:04.93ID:2KFR0JqS長浜だかに秀吉に小坊主の三成が茶を献じる三献茶をモチーフとした銅像を建てちゃいましたねw
とすると、寺の小坊主を秀吉が家臣にしたという話も信憑性があやしいのかな
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。