実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0718人間七七四年
2016/07/06(水) 00:35:42.26ID:Vc8f5JoY0719人間七七四年
2016/07/06(水) 02:23:06.78ID:z0AiWLri彼の北条擁護は全く信用できない
河越とかも「あの黒田でさえ否定せざるを得ない」捏造合戦て意味だし
0720人間七七四年
2016/07/06(水) 06:09:21.84ID:NGYIcJTX0721人間七七四年
2016/07/06(水) 06:23:32.80ID:8bwpcRqT0722人間七七四年
2016/07/06(水) 06:49:26.44ID:5YHPIaTxなのに「創作」と断定できず「出所を突き止めることが『難しい』という
曖昧な文言で逃げてるあたり、黒田の苦しい胸の内がよく分るw
0723人間七七四年
2016/07/06(水) 07:16:38.09ID:2QfhkKKc候補を上げれば司馬、海音寺、山岡、立川文庫、菊池寛あたりが怪しいか
0724人間七七四年
2016/07/06(水) 16:11:03.72ID:H2zLft/R>>638が知ったかぶりしてるだけだろ
汁かけ飯の話って確か名将言行録にしか書かれてないよな
いずれにせよ「北条家臣が書いたもの」には書かれていない
0725人間七七四年
2016/07/06(水) 16:55:20.68ID:fKZVuiO+いや、北条五代記か北条記に書かれてたぞ
前に一緒に調べた時に確認した
さすがにどっちかまでは覚えてないが
0726人間七七四年
2016/07/07(木) 16:36:29.51ID:Oj+reHmk軍記を書いたのが北条家臣だろうが、そうでなかろうが、
史実があった根拠にはならん
たとえば、氏康が幻庵に向けて書簡を残したとする
「倅がいつも食う飯に汁をかけ直した。家の将来が心配だ」といった内容の書簡が
発見されれば、それが証拠となる
軍記では軍記である限り、著者の身の上がどうだろうと、何の証拠にもならんのよ
0727人間七七四年
2016/07/07(木) 17:04:27.01ID:4QSOP52g近代以降の歴史小説由来じゃないよって言いたいんじゃね?
まあ司馬遼太郎とか山田風太郎起源とよりマシかな的な。
0728人間七七四年
2016/07/07(木) 18:06:38.59ID:cLKNAWH/0730人間七七四年
2016/07/07(木) 19:57:40.00ID:W+zHs4YE0731人間七七四年
2016/07/07(木) 20:29:42.98ID:o1Adejuq沼田に寄った昌幸親子を小松殿が追い返した話は
誰がいつ頃創ったのかな
この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
小松殿が沼田にいるのはおかしいし、仮に信幸の妻が
沼田にいたとしたら、それは信綱の娘の方だろうし
0732人間七七四年
2016/07/07(木) 21:45:58.70ID:Oj+reHmk板坂卜斎、江戸時代初期
>この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
根拠なし。側室の場合もあり
黒田基樹が、小松殿は当時大坂にいて、大谷配下の監視にあったという論拠で否定したが、
その論拠が論拠の使い方として間違っていた
大谷配下の監視にあった「真田信之の妻子」が小松殿であった根拠が無い
0733人間七七四年
2016/07/07(木) 23:58:20.73ID:1Fy/R65Rアホだな
主家を過剰なまでに持ち上げる軍記において
わざわざ家臣が主君を貶める逸話を創作する意味が無い
氏康の氏政評だから、やむ得ず載せたと考えるのが妥当だろう
逸話自体の真偽は然程重要ではない
重要なのは北条家臣が「氏政は汁も量れぬ池沼」と信じて疑わなかった事であろう
>>638はそういう意味だな
0734人間七七四年
2016/07/08(金) 05:18:59.70ID:QN5bVY2m0735人間七七四年
2016/07/08(金) 06:28:06.16ID:9AEAuHc0確かに否定できないw
0736人間七七四年
2016/07/08(金) 12:12:46.35ID:J/2q9AKOつまり、お前が「家臣が主君を貶める逸話を創作する意味がある」ことを知らなかったというわけだ
武田旧臣が甲陽軍鑑において勝頼を貶める逸話を創作した事例を知っていれば、
そんなヘンな理論で結論を導き出すことはなかったところだが、
一般人としては甲陽軍鑑の立ち位置すら知らない無知が放言しているとは想定外
0737人間七七四年
2016/07/08(金) 12:56:02.70ID:5DqSZAQS0738人間七七四年
2016/07/08(金) 13:01:35.10ID:VFh6S7LG甲陽軍鑑は全体的に「悪いのは跡部長坂ら君側の奸」という論調で勝頼を擁護してるんだけど
勝頼自身を貶める創作逸話のなんてないぞ
0739人間七七四年
2016/07/08(金) 18:39:04.01ID:H5btW5Ab江戸時代から存在する俚謡
横山光輝や、近代以降の作家による創作ではない
ただし、その謡の内容はこじつけな上、かなり不正確と考えられる
歌詞の展開は、いかにも勇猛そうな異名を持つ武辺者を三名並べたもの
服部正成と渡辺守綱は共に天文11年(1542年)生まれで、昇進のペースも対比できる
しかし渥美源吾のモデルであろう渥美源五郎勝吉は弘治3年(1557年)生まれで、一世代後になる
鬼半蔵と槍半蔵を並べることを目的とした詞に、語調合わせのため無理矢理渥美を加えたのだろう
0740人間七七四年
2016/07/08(金) 18:40:55.52ID:H5btW5Ab天正2年(1574年)の武田勝頼による高天神城攻めで、小笠原家は降伏開城した
その際勝頼は、武田家の誘降を受け入れる者は優遇するし、徳川方に帰ることも許すと約束している
高天神城に詰めていた将兵は、誘降を受ける者と徳川方に帰る者とが半々に別れた
徳川方に帰った将兵は、そのほとんどが大須賀康高麾下に再編された
勝吉もそのほとんどに含まれ、大須賀麾下で働くことになる
大須賀隊は、高天神城を拠点に行動を起こす武田軍に対応する最前線部隊であり、
勝吉は7年にわたる小競り合いから天正9年(1581年)の本格的な高天神城奪回作戦まで勇名を挙げ、
「首取源五郎」の異名がつけられている
大須賀康高は天正17年(1589年)に死去し、
康高の娘の子である榊原忠政が大須賀忠政となって大須賀家を継承した
関ヶ原合戦時、大須賀忠政隊は徳川本隊の後ろを守り、後方の毛利秀元隊の動きを警戒していた
そして勝吉は毛利隊の動向を探りに行ったのだろう。その際に間宮信繁と同行したのかは不明
後年、語り継がれるうちに、
後方偵察の事績が何故か前方偵察の事績へと変容し、異名も「首取源五郎」から「首斬り源吾」と変容
さらに一大決戦直前に敵情偵察を行なったという印象が一人歩きし、
武士から忍者へと人物像が変容していったと考えられる
0741人間七七四年
2016/07/08(金) 18:41:57.12ID:H5btW5Ab武辺だけの男ではなく、それなりに政務もこなせたようだ
慶長12年(1607年)には大須賀忠政が死去。その幼い子である忠次が大須賀家を継承した
勝吉らベテラン家臣が大須賀家の政務を切り盛りしていたのだろうが、そうこうするうち、
慶長20年(1615年)、大坂の陣で大出血した榊原康勝が死去してしまう
忠次の他には存命の榊原康政の子孫男児が無く、忠次が榊原家を継承することになる
そのため大須賀家は断絶、家臣団は解散することになった
ある者は榊原家臣へと転身し、ある者は徳川宗家直臣旗本になった
しかし最も多かったのは、家康十男・徳川頼宣家臣への編入である
家康の手元で育った頼宣は、家康が倒れた後は自ら領地運営を執ることになり、人材を欲していた
小笠原麾下で高天神城にて戦い、大須賀麾下に移籍した古参は、大方は頼宣家臣となった
勝吉もその大方に含まれ、頼宣に仕えることになった
元和5年(1619年)、頼宣は紀州和歌山へと転封する
その際、渥美勝吉も同行し、和歌山に着任している
0742人間七七四年
2016/07/09(土) 13:11:05.25ID:8EpDDbf5勝頼なんて武田家の正式な後継者じゃなく、
信勝が成人するまでの繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがって
という甲陽軍鑑のスタンスが、勝頼を貶める意図じゃないと?
0744人間七七四年
2016/07/09(土) 14:10:57.40ID:9vN3l7m4陣代を「繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがってという甲陽軍鑑のスタンス」
と読むのはお前の悪意に満ちた妄想にすぎん
軍鑑をどう呼んでも勝頼が出しゃばったから武田が滅んだとか読めない
むしろ跡部長坂ら君側の奸が出しゃばったから武田が滅んだというのが甲陽軍鑑のスタンス
陣代にすぎぬ勝頼に彼らを退けられぬのも仕方が無いという擁護にすらなる
0745名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 09:31:41.56ID:S1L9mBbu0746名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 09:49:50.98ID:yAt7ys7B0747名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 10:37:53.81ID:TyqYzazW甲斐国内の不満を収める為の形だけの陣代とか信玄がやりそうな事
0748名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 11:28:55.06ID:5btHCnYA「大須賀七将」の筆頭なのだろうけど、
他のメンバーがよく判らん程度の知名度
強いて挙げれば、弓の名手と伝わる小笠原与三右衛門清有くらいか
この人物も高天神城降伏時に徳川方に残ることを選択して
遠州小笠原宗家と決別し、最終的には頼宣に仕えた
本来なら陪臣としての知名度は
奥平麾下の鳥居強右衛門勝商以上にあっても良さそうなのだけど…
大須賀家が断絶する時期が早すぎたため、
先祖の部隊の活躍を語り継ぐという文化から脱落したのではないかと思われる
0749名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 13:37:24.16ID:u0aEeX8/お家断絶しなけりゃ子孫がいつか「盛って」(いいかどうかは置いといて)
くれたりするしなぁ、やっぱり家を残すのって大事だわ。
0750名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:01:09.59ID:yAt7ys7B0751名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:14:35.71ID:3NgMLZh2榊原は、生家を継ぐために息子が大須賀から戻ってきたから有名になれた気がする
0752名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:19:41.53ID:5btHCnYA酒井忠次や石川数正と同格の扱い
0753人間七七四年
2016/07/10(日) 20:40:00.28ID:1gzQiL7tまあ氏郷の家康嫌いに関しては司馬が助長したのもあるだろうけど
0754人間七七四年
2016/07/10(日) 20:48:03.00ID:SkErALU9高天神城を攻めた際、内藤甚一正成が一矢で二人を倒したので
城兵が恐怖したって逸話があるが、何が出典なんだろう?
それとも宮城谷の完全な創作なのかな
0756人間七七四年
2016/07/10(日) 22:29:20.06ID:WoaxVO/cttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/127
0757人間七七四年
2016/07/11(月) 08:48:59.72ID:8O+q0KhT大名同士の不仲説とか、講談本が元ネタなのが結構あるんじゃないかなぁ
0758人間七七四年
2016/07/11(月) 12:34:25.80ID:ZJVyHzD0首切り(首取)なんて異名は、可児才蔵タイプの武辺者だったことを証明する一方、
忍者の職務ではないから忍者ではなかったことを裏付ける
そしていかにも忍者ならではという逸話が他にあるわけでもない
なのに忍者扱いで放置され続けたという、そんな知名度
0759人間七七四年
2016/07/12(火) 23:50:54.32ID:0UMdQFlL一矢で二人殺すとか、一体何人張りくらいの強弓使っていたんだよって話だな
0760人間七七四年
2016/07/13(水) 21:32:55.82ID:KmIgXpPI家康との不仲説はあんまり信用できないな
0761人間七七四年
2016/07/15(金) 09:27:10.94ID:6UM8xRa2謀略であらゆる大名を貶めた事にするからな
0762人間七七四年
2016/07/15(金) 15:09:10.28ID:MaLg0lelhttps://www.youtube.com/watch?v=BcasInDgm-I
0763人間七七四年
2016/07/16(土) 07:40:13.82ID:SVpJ0Ya70765人間七七四年
2016/07/16(土) 13:31:45.88ID:woQdE5KQ0766人間七七四年
2016/07/16(土) 13:43:08.69ID:SVpJ0Ya70767人間七七四年
2016/07/16(土) 15:04:19.69ID:oiTeVsKP0768人間七七四年
2016/07/16(土) 15:17:25.99ID:K674F4SB0769人間七七四年
2016/07/16(土) 15:51:05.42ID:jGSUM64x家康が東北の武将暗殺するようなもの
0770人間七七四年
2016/07/16(土) 17:20:08.15ID:Hb/VgSIH死ぬほどの病気かは分からないが実際に病気してたという当時の一次史料もある
暗殺だとしても秀吉は「俺のために働きたいとか言っててかわいい奴だから所領与えようと思う」と
義久に通知してて暗殺する理由がまず無い
逆に義久は「家久が勝手なことしてる。これはお家存亡の危機。困った」と家臣に嘆いていて訳で
死因は順当に病死。もし仮に暗殺だとしたら独立されては困る義久によるものとなる
0771人間七七四年
2016/07/16(土) 18:33:32.07ID:sC9HcI490772人間七七四年
2016/07/16(土) 19:00:02.11ID:hnTSuAaT案の定現地で没した吉川元春は秀吉に殺されたも同然
しかも都合よく直後にその嫡男も死んで毛利家中から反秀吉派は一掃された。。。
0773人間七七四年
2016/07/16(土) 19:22:02.96ID:yv6kakMb0774人間七七四年
2016/07/16(土) 20:10:52.70ID:9GRNj/lZ信長の高野聖千人斬り、秀吉が朝鮮虎の塩漬け肉で精を付けたって話も創作だよ。
0775人間七七四年
2016/07/16(土) 20:25:38.89ID:jGSUM64xまともにやっても勝てないからっていう…天下人が暗殺する必要あるぅー?
0776人間七七四年
2016/07/17(日) 00:11:47.01ID:KGfJ93oI豊臣と島津の2択しかないってことはなかろうさ
動機的には大友家臣の佐伯惟定とかその客将の山田匡徳とかが結構怪しい
0777人間七七四年
2016/07/17(日) 13:18:42.87ID:8c2C9psGそのまま読むと文脈に全く繋がりがなくて如何にも書き手の頭が悪そう
同一の軍記講談が出典なのかな?
0778人間七七四年
2016/07/17(日) 13:41:16.08ID:ZNFnaCOz0780人間七七四年
2016/07/17(日) 18:45:32.44ID:8Onnz1g30781人間七七四年
2016/07/17(日) 23:27:30.89ID:tKVp0nuQ0782人間七七四年
2016/07/18(月) 06:03:10.55ID:wKTCWIu9徳川にしても信康や忠長の切腹や、秀頼を攻め滅ぼした理由は曖昧
主筋や嫡子、一門ですら強引に死を命じられているのに臣下ごときをコソコソと暗殺するとは思えない
0783人間七七四年
2016/07/18(月) 19:56:38.36ID:UzcRrj8j伊達家みたいに弟殺しの責任を母親に擦り付ける家もあるけど
0784人間七七四年
2016/07/18(月) 21:08:13.19ID:PbqKYFUG真田信繁や豊臣秀頼、島清興以外でどんなのがいたっけ?
0785人間七七四年
2016/07/18(月) 21:20:18.54ID:d/6vVi+mマイナーな武将だと結構いる
0786人間七七四年
2016/07/19(火) 22:01:46.46ID:giN6eur7それは真田信繁や源義経、西郷隆盛みたいに本当は死んだけど
生きてて欲しいという民衆の願望が創作した生存話じゃなくて
単純に生死が不明確だってだけの連中じゃないのか
0787人間七七四年
2016/07/20(水) 00:41:43.04ID:95v0jcUG細川興秋
大坂に豊臣方についたため父の命で切腹したとされるが
天草に逃がされ生き延びたという説がある
原田信種
清正の家臣となって朝鮮で戦死したとも朝鮮に降って沙也可になったとも
帰国してたとも言われる
和人人鬼
肥後一揆の田中城攻めでただ一人逃げ延びたとも自害したとも言われる
田原親虎
耳川合戦で戦死したとも、田原家を廃嫡された後は四国で暮らしてたとも言われる
まあ、生存説と死亡説がある歴史から消えた連中だな
0788人間七七四年
2016/07/20(水) 13:37:31.57ID:xaysYt+m明智光秀
0789人間七七四年
2016/07/20(水) 14:07:27.83ID:nMsEvtnS0790人間七七四年
2016/07/20(水) 17:50:21.34ID:H4Rhq3pOまさか40年以上経って書かれた太閤記や100年位の明智軍記の作者も事実化してビックリだろ
0791人間七七四年
2016/07/20(水) 21:08:08.69ID:CPIXlbOq光秀=天海説って初出はいつ頃で、
誰が言い出したのかな?
0793人間七七四年
2016/07/20(水) 21:50:50.20ID:xAVyB+Rw須藤南翠とか言う明治の作家じゃなかったかな
0794人間七七四年
2016/07/21(木) 22:40:22.17ID:5rrgbdl8須藤南翠ってどんな作家?
0795人間七七四年
2016/07/21(木) 23:25:30.14ID:59Yv3wsl天海は蘆名家臣船木景光の息子って結論付けてるみたいなんだよね
『大僧正天海』を読まないと分かんないけど、須藤は「或説云」で紹介しただけで
光秀=天海説はもっと遡れるんじゃないかとも思う
0796人間七七四年
2016/07/22(金) 17:53:08.79ID:TtjH/5ZZでまだ余力あるなら 金光秀 文光秀 も見てみると、知識に更なるひろがりが
0797人間七七四年
2016/07/22(金) 22:04:56.87ID:1eVj6Y3j政僧には創作と思われる俗説を持った人物が多いよな
0798人間七七四年
2016/07/23(土) 10:18:23.46ID:Kxzy6UFi0799人間七七四年
2016/07/23(土) 20:55:59.68ID:OKpPnY7R色々検索してたら「閾ペディアことのは」というHPがあって
その中に大僧正天海考異という頁があったんだけど
それを見ると須藤は最近の一部の考証家の説として
紹介しているみたいなんだよね、天海=光秀説、しかも虚妄説として
それを考えると須藤と同時代くらいの考証家が唱えた説って事になると思う
0800人間七七四年
2016/07/23(土) 22:39:21.68ID:DRn+Ng+M何で読んだかは忘れたけど輝政は暗殺が直接死因ではないものの
最初倒れた(1609年)のは実は暗殺未遂みたいなものでそれが
遠因なんじゃないかという話があった。
(因みに嫁の督も暗殺じゃないかとも)
ちょいと調べたら最初倒れた時とちょうど同じ頃大久保長安も
原因不明で体調を崩していて輝政が死んだ三か月後に長安も死んでる、
おもしろいことに当代記でも輝政の死について大久保長安絡めてる。
大久保長安事件の時も輝政は首謀者扱いくらっているからまあ
そういうことかなと思う部分もあり
0801人間七七四年
2016/07/26(火) 09:19:59.99ID:yigwodJa羽柴姓貰ったりと、何かと権力者から目を掛けられてるよな
0802人間七七四年
2016/07/27(水) 20:51:36.61ID:Btx1n2JW恒興の献策が通説だと思うけど、本当は秀吉からの提案だったって
小説何作か読んだ事があるけど、何を元ネタにしたんだろう
まあ忍城の水攻めも三成の発案ではなく秀吉の命令だった事を
考えると可能性は零ではないかもしれないが
0804人間七七四年
2016/07/28(木) 06:22:31.55ID:OaEnixDb忘れられていることが多いけど長安と輝政は信長死後の
かなり早い段階から義理の叔父甥という身内関係だからな。
加えて家康と仲が良かった教如とは甥の下間が出奔してきてから
完全に敵対関係で領内で教如派を弾圧してもいる。
長安事件も池田と長安の力や権威を削ぐのが主目的だったのではとする
向きが出始めているらしくて督の暗殺疑惑もその一環らしい。
ツイッターで池田好きがつぶやいていたけど池田って繁栄したという
いい部分の影ではかなり幕府にやられていたりするみたいだぞ
0805人間七七四年
2016/07/28(木) 07:14:08.95ID:+JUHdFEU0807人間七七四年
2016/07/28(木) 18:23:01.99ID:Jl+H/rZ4長男が奈良奉行を務めた経験があるのに、非才なので無理と答えて、
家康を激怒させたのが原因な訳で
0808人間七七四年
2016/07/28(木) 18:43:47.58ID:OaEnixDb理由にはならんだろ
その長男だって長安に代わっていろいろとやっていたから
それだけで非才というのは詭弁と思われ
0810人間七七四年
2016/07/29(金) 00:41:31.79ID:L3EMLRFp処罰を行うとはとても思えないなあ
家康の逆鱗に触れたからというのも確定しているわけではないんだろう?
>>804
輝政の末弟長政も暗殺疑惑あるよな
かなりやられているというと利隆、忠雄、輝澄、輝興、光政あたりかな
結構キナ臭い感じ
督は自分もちょっと疑っていたりするw
まるで人目に触れさせたくないような動きがあるしな。
0811人間七七四年
2016/07/29(金) 05:33:25.68ID:bVSNIJC90813人間七七四年
2016/07/29(金) 14:08:18.75ID:FHMGljolどうかわからんけど、反乱企んでたって説が出るのもうなずける。
0814人間七七四年
2016/07/29(金) 16:26:54.73ID:Ue24aPu0それに代官に厳しいのは徳川家の基本政策
0815人間七七四年
2016/07/29(金) 23:21:53.44ID:b4Ly/qh4軽輩では無く身分はそれなりだったらしく、平山あたりはこの事件を
信康切腹事件の遠因の一つに挙げてるが)は鋸引きの刑にされたしな
0816人間七七四年
2016/07/30(土) 07:19:00.87ID:gUX9F1+B■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています