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実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net

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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89C
史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0708人間七七四年2016/07/01(金) 20:28:01.10ID:7FXrbvnO
利休像を作らせたのは淀。
アホ三谷のせいで新たな珍説が。
信じる馬鹿が一定数いるんだろうな
0709人間七七四年2016/07/01(金) 20:34:43.25ID:+Z/oQOdg
関ヶ原の「島津の退き口」、落穂集(1727成立)での創作
0710人間七七四年2016/07/01(金) 22:07:11.55ID:d0pGQVsl
清正の虎退治も清正が生きてるときに退治した記録が無いとかね
0711人間七七四年2016/07/02(土) 03:39:28.31ID:bc2g7IEP
>>710
本人が退治したわけじゃないが
秀吉からの書状で虎狩りを命じたら
をすぐ送ってきた
0712人間七七四年2016/07/02(土) 03:45:09.60ID:bc2g7IEP
途中送信スマヌ
虎をすぐ調達して送ってきた事を
褒められてる秀吉の朱印状なら存在してるな
虎狩り自体は他の大名のとこでもやってるけど
仕事が早くて目立ったんじゃね?
0713人間七七四年2016/07/02(土) 14:07:16.63ID:iFKhlSCe
>>707
>そうするとあの白布で顔を覆ったイメージはいつ頃出来たんだろう

月光仮面とかの影響なら、戦後だったりしてなw
0714人間七七四年2016/07/02(土) 17:17:08.20ID:az8F2rcB
清正が送った虎は、頭蓋骨が残っている
その証拠物件によれば、虎は銃によって射殺されたものと判明している
清正が自ら鎌槍を振るって虎を倒したとする話は、
江戸中期以降の創作であろう
0715人間七七四年2016/07/04(月) 08:36:13.25ID:aanXl8U8
秀秋に自分は裏切り者だとか卑下させるようになったこと
0716人間七七四年2016/07/04(月) 16:56:08.26ID:drssR83a
清正は虎之助だったことも大きい
市松だったら話題になってなかったかもな
0717人間七七四年2016/07/05(火) 22:45:50.87ID:FeomaEEG
>>687
それが本当ならば>>638が偉そうに書いてる
北条家臣の書いた軍記にあるというのはどれ程
信憑性があるのか
0718人間七七四年2016/07/06(水) 00:35:42.26ID:Vc8f5JoY
清正の虎退治は講談だからな 槍で虎退治したのは黒田家臣
0719人間七七四年2016/07/06(水) 02:23:06.78ID:z0AiWLri
黒田基樹は北条マンセー団体の首魁だから
彼の北条擁護は全く信用できない
河越とかも「あの黒田でさえ否定せざるを得ない」捏造合戦て意味だし
0720人間七七四年2016/07/06(水) 06:09:21.84ID:NGYIcJTX
このかまってちゃんずっと居るな
0721人間七七四年2016/07/06(水) 06:23:32.80ID:8bwpcRqT
北条厨ほどネット工作に熱心な輩はちょっと居ない
0722人間七七四年2016/07/06(水) 06:49:26.44ID:5YHPIaTx
>>687は北条信者向けに書かれた本だからなー
なのに「創作」と断定できず「出所を突き止めることが『難しい』という
曖昧な文言で逃げてるあたり、黒田の苦しい胸の内がよく分るw
0723人間七七四年2016/07/06(水) 07:16:38.09ID:2QfhkKKc
出処が難しいと言えば三成と吉継の茶会の出処は本当になんだろう
候補を上げれば司馬、海音寺、山岡、立川文庫、菊池寛あたりが怪しいか
0724人間七七四年2016/07/06(水) 16:11:03.72ID:H2zLft/R
>>717

>>638が知ったかぶりしてるだけだろ
汁かけ飯の話って確か名将言行録にしか書かれてないよな

いずれにせよ「北条家臣が書いたもの」には書かれていない
0725人間七七四年2016/07/06(水) 16:55:20.68ID:fKZVuiO+
>>724
いや、北条五代記か北条記に書かれてたぞ
前に一緒に調べた時に確認した
さすがにどっちかまでは覚えてないが
0726人間七七四年2016/07/07(木) 16:36:29.51ID:Oj+reHmk
どっちだろうと、>>638の主張がさっぱり意味不明
軍記を書いたのが北条家臣だろうが、そうでなかろうが、
史実があった根拠にはならん

たとえば、氏康が幻庵に向けて書簡を残したとする
「倅がいつも食う飯に汁をかけ直した。家の将来が心配だ」といった内容の書簡が
発見されれば、それが証拠となる

軍記では軍記である限り、著者の身の上がどうだろうと、何の証拠にもならんのよ
0727人間七七四年2016/07/07(木) 17:04:27.01ID:4QSOP52g
>>726
近代以降の歴史小説由来じゃないよって言いたいんじゃね?
まあ司馬遼太郎とか山田風太郎起源とよりマシかな的な。
0728人間七七四年2016/07/07(木) 18:06:38.59ID:cLKNAWH/
軍記物にしか書かれてないけど通説になってる出来事もある
0729人間七七四年2016/07/07(木) 18:09:33.60ID:w0Q7Terw
>>728
関ヶ原布陣図
0730人間七七四年2016/07/07(木) 19:57:40.00ID:W+zHs4YE
伊勢宗瑞が子年生まれっていうのも、軍記物が根拠じゃなかったっけ?
0731人間七七四年2016/07/07(木) 20:29:42.98ID:o1Adejuq
真田も創作が多い一族だけど、犬伏の別れの後
沼田に寄った昌幸親子を小松殿が追い返した話は
誰がいつ頃創ったのかな
この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
小松殿が沼田にいるのはおかしいし、仮に信幸の妻が
沼田にいたとしたら、それは信綱の娘の方だろうし
0732人間七七四年2016/07/07(木) 21:45:58.70ID:Oj+reHmk
>>731
板坂卜斎、江戸時代初期

>この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
根拠なし。側室の場合もあり

黒田基樹が、小松殿は当時大坂にいて、大谷配下の監視にあったという論拠で否定したが、
その論拠が論拠の使い方として間違っていた
大谷配下の監視にあった「真田信之の妻子」が小松殿であった根拠が無い
0733人間七七四年2016/07/07(木) 23:58:20.73ID:1Fy/R65R
>>726
アホだな
主家を過剰なまでに持ち上げる軍記において
わざわざ家臣が主君を貶める逸話を創作する意味が無い
氏康の氏政評だから、やむ得ず載せたと考えるのが妥当だろう

逸話自体の真偽は然程重要ではない
重要なのは北条家臣が「氏政は汁も量れぬ池沼」と信じて疑わなかった事であろう
>>638はそういう意味だな
0734人間七七四年2016/07/08(金) 05:18:59.70ID:QN5bVY2m
逸話の意味する所は否定できないって事か
0735人間七七四年2016/07/08(金) 06:28:06.16ID:9AEAuHc0
汁飯話の意味……氏政はアホ

確かに否定できないw
0736人間七七四年2016/07/08(金) 12:12:46.35ID:J/2q9AKO
>>733
つまり、お前が「家臣が主君を貶める逸話を創作する意味がある」ことを知らなかったというわけだ
武田旧臣が甲陽軍鑑において勝頼を貶める逸話を創作した事例を知っていれば、
そんなヘンな理論で結論を導き出すことはなかったところだが、
一般人としては甲陽軍鑑の立ち位置すら知らない無知が放言しているとは想定外
0737人間七七四年2016/07/08(金) 12:56:02.70ID:5DqSZAQS
自演荒らしつまんね
0738人間七七四年2016/07/08(金) 13:01:35.10ID:VFh6S7LG
>>736
甲陽軍鑑は全体的に「悪いのは跡部長坂ら君側の奸」という論調で勝頼を擁護してるんだけど
勝頼自身を貶める創作逸話のなんてないぞ
0739人間七七四年2016/07/08(金) 18:39:04.01ID:H5btW5Ab
>>581
江戸時代から存在する俚謡
横山光輝や、近代以降の作家による創作ではない
ただし、その謡の内容はこじつけな上、かなり不正確と考えられる
歌詞の展開は、いかにも勇猛そうな異名を持つ武辺者を三名並べたもの
服部正成と渡辺守綱は共に天文11年(1542年)生まれで、昇進のペースも対比できる
しかし渥美源吾のモデルであろう渥美源五郎勝吉は弘治3年(1557年)生まれで、一世代後になる
鬼半蔵と槍半蔵を並べることを目的とした詞に、語調合わせのため無理矢理渥美を加えたのだろう
0740人間七七四年2016/07/08(金) 18:40:55.52ID:H5btW5Ab
遠江出身の渥美勝吉は、元々は遠州小笠原氏に属していた
天正2年(1574年)の武田勝頼による高天神城攻めで、小笠原家は降伏開城した
その際勝頼は、武田家の誘降を受け入れる者は優遇するし、徳川方に帰ることも許すと約束している
高天神城に詰めていた将兵は、誘降を受ける者と徳川方に帰る者とが半々に別れた
徳川方に帰った将兵は、そのほとんどが大須賀康高麾下に再編された
勝吉もそのほとんどに含まれ、大須賀麾下で働くことになる
大須賀隊は、高天神城を拠点に行動を起こす武田軍に対応する最前線部隊であり、
勝吉は7年にわたる小競り合いから天正9年(1581年)の本格的な高天神城奪回作戦まで勇名を挙げ、
「首取源五郎」の異名がつけられている

大須賀康高は天正17年(1589年)に死去し、
康高の娘の子である榊原忠政が大須賀忠政となって大須賀家を継承した
関ヶ原合戦時、大須賀忠政隊は徳川本隊の後ろを守り、後方の毛利秀元隊の動きを警戒していた
そして勝吉は毛利隊の動向を探りに行ったのだろう。その際に間宮信繁と同行したのかは不明
後年、語り継がれるうちに、
後方偵察の事績が何故か前方偵察の事績へと変容し、異名も「首取源五郎」から「首斬り源吾」と変容
さらに一大決戦直前に敵情偵察を行なったという印象が一人歩きし、
武士から忍者へと人物像が変容していったと考えられる
0741人間七七四年2016/07/08(金) 18:41:57.12ID:H5btW5Ab
勝吉は慶長10年(1605年)には新田の目録を作成し、大須賀家に提出している
武辺だけの男ではなく、それなりに政務もこなせたようだ
慶長12年(1607年)には大須賀忠政が死去。その幼い子である忠次が大須賀家を継承した
勝吉らベテラン家臣が大須賀家の政務を切り盛りしていたのだろうが、そうこうするうち、
慶長20年(1615年)、大坂の陣で大出血した榊原康勝が死去してしまう
忠次の他には存命の榊原康政の子孫男児が無く、忠次が榊原家を継承することになる
そのため大須賀家は断絶、家臣団は解散することになった
ある者は榊原家臣へと転身し、ある者は徳川宗家直臣旗本になった
しかし最も多かったのは、家康十男・徳川頼宣家臣への編入である
家康の手元で育った頼宣は、家康が倒れた後は自ら領地運営を執ることになり、人材を欲していた
小笠原麾下で高天神城にて戦い、大須賀麾下に移籍した古参は、大方は頼宣家臣となった
勝吉もその大方に含まれ、頼宣に仕えることになった
元和5年(1619年)、頼宣は紀州和歌山へと転封する
その際、渥美勝吉も同行し、和歌山に着任している
0742人間七七四年2016/07/09(土) 13:11:05.25ID:8EpDDbf5
>>738
勝頼なんて武田家の正式な後継者じゃなく、
信勝が成人するまでの繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがって
という甲陽軍鑑のスタンスが、勝頼を貶める意図じゃないと?
0743人間七七四年2016/07/09(土) 13:22:18.52ID:xvuIW72w
>>739-741
服部、渡辺と比べると地味なような…でもこの二人も実像は同じようなものかな。
0744人間七七四年2016/07/09(土) 14:10:57.40ID:9vN3l7m4
>>742
陣代を「繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがってという甲陽軍鑑のスタンス」
と読むのはお前の悪意に満ちた妄想にすぎん
軍鑑をどう呼んでも勝頼が出しゃばったから武田が滅んだとか読めない
むしろ跡部長坂ら君側の奸が出しゃばったから武田が滅んだというのが甲陽軍鑑のスタンス
陣代にすぎぬ勝頼に彼らを退けられぬのも仕方が無いという擁護にすらなる
0745名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 09:31:41.56ID:S1L9mBbu
陣代だよねってのは貶めてないの?
0746名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 09:49:50.98ID:yAt7ys7B
出戻りで本当に陣代の可能性もあるからなんとも
0747名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 10:37:53.81ID:TyqYzazW
勝頼の幼い実子が家督を継ぐんだから実質は当主同然
甲斐国内の不満を収める為の形だけの陣代とか信玄がやりそうな事
0748名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 11:28:55.06ID:5btHCnYA
>>743
「大須賀七将」の筆頭なのだろうけど、
他のメンバーがよく判らん程度の知名度
強いて挙げれば、弓の名手と伝わる小笠原与三右衛門清有くらいか
この人物も高天神城降伏時に徳川方に残ることを選択して
遠州小笠原宗家と決別し、最終的には頼宣に仕えた

本来なら陪臣としての知名度は
奥平麾下の鳥居強右衛門勝商以上にあっても良さそうなのだけど…
大須賀家が断絶する時期が早すぎたため、
先祖の部隊の活躍を語り継ぐという文化から脱落したのではないかと思われる
0749名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 13:37:24.16ID:u0aEeX8/
>>748
お家断絶しなけりゃ子孫がいつか「盛って」(いいかどうかは置いといて)
くれたりするしなぁ、やっぱり家を残すのって大事だわ。
0750名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 14:01:09.59ID:yAt7ys7B
大須賀康高は四天王クラスまで出世してたんじゃないか説がある割に超地味だしな
0751名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 14:14:35.71ID:3NgMLZh2
子孫がいないと先祖の功績を宣伝するひとがいないからね
榊原は、生家を継ぐために息子が大須賀から戻ってきたから有名になれた気がする
0752名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!2016/07/10(日) 14:19:41.53ID:5btHCnYA
四天王クラスていうか、遠州小笠原家没落後は、
酒井忠次や石川数正と同格の扱い
0753人間七七四年2016/07/10(日) 20:40:00.28ID:1gzQiL7t
前田家なんかも蒲生氏郷を使って家康はケチだから次の天下人は利家だなんて逸話創っているしな。ケチなのは利家もあまり大差無いのに
まあ氏郷の家康嫌いに関しては司馬が助長したのもあるだろうけど
0754人間七七四年2016/07/10(日) 20:48:03.00ID:SkErALU9
徳川武将の武芸の談話と言えば宮城谷昌光の新三河物語に
高天神城を攻めた際、内藤甚一正成が一矢で二人を倒したので
城兵が恐怖したって逸話があるが、何が出典なんだろう?
それとも宮城谷の完全な創作なのかな
0755人間七七四年2016/07/10(日) 22:10:14.09ID:5btHCnYA
>>754
寛政重修諸家譜だったような気がする
少なくとも現代作家の創作じゃないよ
0756人間七七四年2016/07/10(日) 22:29:20.06ID:WoaxVO/c
あったあった。このページの右最下段だ
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/127
0757人間七七四年2016/07/11(月) 08:48:59.72ID:8O+q0KhT
>>753
大名同士の不仲説とか、講談本が元ネタなのが結構あるんじゃないかなぁ
0758人間七七四年2016/07/11(月) 12:34:25.80ID:ZJVyHzD0
戦国時代の忍者名鑑みたいなブログにリストアップされてしまう渥美源吾(源五郎)
首切り(首取)なんて異名は、可児才蔵タイプの武辺者だったことを証明する一方、
忍者の職務ではないから忍者ではなかったことを裏付ける
そしていかにも忍者ならではという逸話が他にあるわけでもない
なのに忍者扱いで放置され続けたという、そんな知名度
0759人間七七四年2016/07/12(火) 23:50:54.32ID:0UMdQFlL
>>754
一矢で二人殺すとか、一体何人張りくらいの強弓使っていたんだよって話だな
0760人間七七四年2016/07/13(水) 21:32:55.82ID:KmIgXpPI
氏郷の政宗との不仲説はともかく
家康との不仲説はあんまり信用できないな
0761人間七七四年2016/07/15(金) 09:27:10.94ID:6UM8xRa2
家康アンチは家康は誰からも嫌われ
謀略であらゆる大名を貶めた事にするからな
0762人間七七四年2016/07/15(金) 15:09:10.28ID:MaLg0lel
間違いない!本当にそれね
https://www.youtube.com/watch?v=BcasInDgm-I
0763人間七七四年2016/07/16(土) 07:40:13.82ID:SVpJ0Ya7
秀吉とか三成にも結構暗殺犯人の俗説あると思うんだけどね
0764人間七七四年2016/07/16(土) 11:53:43.05ID:1npZeSg5
>>763
本能寺の変黒幕説を除くと
秀吉は誰の暗殺犯扱いなんだ…?
0765人間七七四年2016/07/16(土) 13:31:45.88ID:woQdE5KQ
小説とかだと蒲生氏郷、豊臣秀保あたりか
0766人間七七四年2016/07/16(土) 13:43:08.69ID:SVpJ0Ya7
島津四兄弟の方の家久にも暗殺説なかったっけ
0767人間七七四年2016/07/16(土) 15:04:19.69ID:oiTeVsKP
信雄家臣を操って、信雄家中に幽閉中の信孝を死に追い込んだとか
0768人間七七四年2016/07/16(土) 15:17:25.99ID:K674F4SB
小者をわざわざ回りくどく殺す意味が分からない
0769人間七七四年2016/07/16(土) 15:51:05.42ID:jGSUM64x
吉川親子とか島津とか?でも秀吉がわざわざ暗殺するとは思えないわ
家康が東北の武将暗殺するようなもの
0770人間七七四年2016/07/16(土) 17:20:08.15ID:Hb/VgSIH
島津家久については公式には病死で、
死ぬほどの病気かは分からないが実際に病気してたという当時の一次史料もある
暗殺だとしても秀吉は「俺のために働きたいとか言っててかわいい奴だから所領与えようと思う」と
義久に通知してて暗殺する理由がまず無い
逆に義久は「家久が勝手なことしてる。これはお家存亡の危機。困った」と家臣に嘆いていて訳で
死因は順当に病死。もし仮に暗殺だとしたら独立されては困る義久によるものとなる
0771人間七七四年2016/07/16(土) 18:33:32.07ID:sC9HcI49
暗殺話って殆んどが軍記軍談物とかがソースだけど、その内容もあまりにも珍妙な話で信じようがない
0772人間七七四年2016/07/16(土) 19:00:02.11ID:hnTSuAaT
暗殺じゃないにしても、病気なのに無理矢理遠征に参加させられて
案の定現地で没した吉川元春は秀吉に殺されたも同然

しかも都合よく直後にその嫡男も死んで毛利家中から反秀吉派は一掃された。。。
0773人間七七四年2016/07/16(土) 19:22:02.96ID:yv6kakMb
吉川元春が反秀吉ってのも創作だからな。
0774人間七七四年2016/07/16(土) 20:10:52.70ID:9GRNj/lZ
家康が池田輝政、浅野幸長、加藤清正を暗殺したのも創作だから
信長の高野聖千人斬り、秀吉が朝鮮虎の塩漬け肉で精を付けたって話も創作だよ。
0775人間七七四年2016/07/16(土) 20:25:38.89ID:jGSUM64x
そもそも暗殺って戦力の小さい方が大きい方にやるもんじゃないのん?
まともにやっても勝てないからっていう…天下人が暗殺する必要あるぅー?
0776人間七七四年2016/07/17(日) 00:11:47.01ID:KGfJ93oI
>>770
豊臣と島津の2択しかないってことはなかろうさ
動機的には大友家臣の佐伯惟定とかその客将の山田匡徳とかが結構怪しい
0777人間七七四年2016/07/17(日) 13:18:42.87ID:8c2C9psG
>>774
そのまま読むと文脈に全く繋がりがなくて如何にも書き手の頭が悪そう
同一の軍記講談が出典なのかな?
0778人間七七四年2016/07/17(日) 13:41:16.08ID:ZNFnaCOz
スルーできないのも同類
0779人間七七四年2016/07/17(日) 14:12:31.14ID:Y3ulu4C7
>>775
効率よかったらやるよ
古今東西
0780人間七七四年2016/07/17(日) 18:45:32.44ID:8Onnz1g3
秀吉くらいの権力だと普通に切腹を申し付けた方が効率いいけどな
0781人間七七四年2016/07/17(日) 23:27:30.89ID:tKVp0nuQ
申し付けるには相応の根拠が確固たらんと人心はやがて離れるもの
0782人間七七四年2016/07/18(月) 06:03:10.55ID:wKTCWIu9
秀次とか利休とか結局、何で切腹を命じられたのかよく分からないやん
徳川にしても信康や忠長の切腹や、秀頼を攻め滅ぼした理由は曖昧
主筋や嫡子、一門ですら強引に死を命じられているのに臣下ごときをコソコソと暗殺するとは思えない
0783人間七七四年2016/07/18(月) 19:56:38.36ID:UzcRrj8j
暗殺説なんて一種の判官贔屓みたいなものだろう
伊達家みたいに弟殺しの責任を母親に擦り付ける家もあるけど
0784人間七七四年2016/07/18(月) 21:08:13.19ID:PbqKYFUG
暗殺説とは逆に、本当は生きてるんだって俗説がある武将って
真田信繁や豊臣秀頼、島清興以外でどんなのがいたっけ?
0785人間七七四年2016/07/18(月) 21:20:18.54ID:d/6vVi+m
細川興秋、原田信種、和仁人鬼、田原親虎
マイナーな武将だと結構いる
0786人間七七四年2016/07/19(火) 22:01:46.46ID:giN6eur7
>>785
それは真田信繁や源義経、西郷隆盛みたいに本当は死んだけど
生きてて欲しいという民衆の願望が創作した生存話じゃなくて
単純に生死が不明確だってだけの連中じゃないのか
0787人間七七四年2016/07/20(水) 00:41:43.04ID:95v0jcUG
>>786
細川興秋
大坂に豊臣方についたため父の命で切腹したとされるが
天草に逃がされ生き延びたという説がある
原田信種
清正の家臣となって朝鮮で戦死したとも朝鮮に降って沙也可になったとも
帰国してたとも言われる
和人人鬼
肥後一揆の田中城攻めでただ一人逃げ延びたとも自害したとも言われる
田原親虎
耳川合戦で戦死したとも、田原家を廃嫡された後は四国で暮らしてたとも言われる

まあ、生存説と死亡説がある歴史から消えた連中だな
0788人間七七四年2016/07/20(水) 13:37:31.57ID:xaysYt+m
本当は生きていたという俗説がある武将の代表格

明智光秀
0789人間七七四年2016/07/20(水) 14:07:27.83ID:nMsEvtnS
本当は死んでた 家康
0790人間七七四年2016/07/20(水) 17:50:21.34ID:H4Rhq3pO
やっぱり代表は本能寺の変かな
まさか40年以上経って書かれた太閤記や100年位の明智軍記の作者も事実化してビックリだろ
0791人間七七四年2016/07/20(水) 21:08:08.69ID:CPIXlbOq
>>788
光秀=天海説って初出はいつ頃で、
誰が言い出したのかな?
0792人間七七四年2016/07/20(水) 21:13:33.23ID:KMnZ5jp6
>>791
八切止夫
0793人間七七四年2016/07/20(水) 21:50:50.20ID:xAVyB+Rw
>>791
須藤南翠とか言う明治の作家じゃなかったかな
0794人間七七四年2016/07/21(木) 22:40:22.17ID:5rrgbdl8
八切はトンデモ説作家で有名だけど
須藤南翠ってどんな作家?
0795人間七七四年2016/07/21(木) 23:25:30.14ID:59Yv3wsl
wikipedia情報だと、その須藤南翠(光暉)は
天海は蘆名家臣船木景光の息子って結論付けてるみたいなんだよね

『大僧正天海』を読まないと分かんないけど、須藤は「或説云」で紹介しただけで
光秀=天海説はもっと遡れるんじゃないかとも思う
0796人間七七四年2016/07/22(金) 17:53:08.79ID:TtjH/5ZZ
遡るとは逆になるけど、天海に興味あるなら 金天海 調べてみるのもオススメ
でまだ余力あるなら 金光秀 文光秀 も見てみると、知識に更なるひろがりが
0797人間七七四年2016/07/22(金) 22:04:56.87ID:1eVj6Y3j
南光坊天海や以心崇伝、安国寺恵瓊や快川紹喜、虎哉宗乙、沢庵宗彭など
政僧には創作と思われる俗説を持った人物が多いよな
0798人間七七四年2016/07/23(土) 10:18:23.46ID:Kxzy6UFi
寺は曰く付きの人間の受け皿である側面もあったから、坊主の出自は曖昧だし創作しやすいからな
0799人間七七四年2016/07/23(土) 20:55:59.68ID:OKpPnY7R
>>795
色々検索してたら「閾ペディアことのは」というHPがあって
その中に大僧正天海考異という頁があったんだけど
それを見ると須藤は最近の一部の考証家の説として
紹介しているみたいなんだよね、天海=光秀説、しかも虚妄説として
それを考えると須藤と同時代くらいの考証家が唱えた説って事になると思う
0800人間七七四年2016/07/23(土) 22:39:21.68ID:DRn+Ng+M
>>774
何で読んだかは忘れたけど輝政は暗殺が直接死因ではないものの
最初倒れた(1609年)のは実は暗殺未遂みたいなものでそれが
遠因なんじゃないかという話があった。
(因みに嫁の督も暗殺じゃないかとも)
ちょいと調べたら最初倒れた時とちょうど同じ頃大久保長安も
原因不明で体調を崩していて輝政が死んだ三か月後に長安も死んでる、
おもしろいことに当代記でも輝政の死について大久保長安絡めてる。
大久保長安事件の時も輝政は首謀者扱いくらっているからまあ
そういうことかなと思う部分もあり
0801人間七七四年2016/07/26(火) 09:19:59.99ID:yigwodJa
輝政って秀次の義兄だったり、家康の婿だったり
羽柴姓貰ったりと、何かと権力者から目を掛けられてるよな
0802人間七七四年2016/07/27(水) 20:51:36.61ID:Btx1n2JW
池田と言えば小牧長久手の戦いでの三河への奇襲作戦、
恒興の献策が通説だと思うけど、本当は秀吉からの提案だったって
小説何作か読んだ事があるけど、何を元ネタにしたんだろう
まあ忍城の水攻めも三成の発案ではなく秀吉の命令だった事を
考えると可能性は零ではないかもしれないが
0803人間七七四年2016/07/27(水) 23:04:20.82ID:NexH8/7T
>>802
丹羽長秀宛秀吉書状の内容が、自身の提案と伺わせる内容だったため
0804人間七七四年2016/07/28(木) 06:22:31.55ID:OaEnixDb
>>800
忘れられていることが多いけど長安と輝政は信長死後の
かなり早い段階から義理の叔父甥という身内関係だからな。
加えて家康と仲が良かった教如とは甥の下間が出奔してきてから
完全に敵対関係で領内で教如派を弾圧してもいる。
長安事件も池田と長安の力や権威を削ぐのが主目的だったのではとする
向きが出始めているらしくて督の暗殺疑惑もその一環らしい。

ツイッターで池田好きがつぶやいていたけど池田って繁栄したという
いい部分の影ではかなり幕府にやられていたりするみたいだぞ
0805人間七七四年2016/07/28(木) 07:14:08.95ID:+JUHdFEU
大久保長安事件はまだまだ研究不足で研究者やトンデモ作家が好き勝手にモノを言ってる状態。
0806人間七七四年2016/07/28(木) 17:29:34.01ID:OaEnixDb
>>805
んなこと承知の上で書いたんだが。
0807人間七七四年2016/07/28(木) 18:23:01.99ID:Jl+H/rZ4
長安は兎も角、子が殺されたのは親の不正経理を調査しろと言われて、
長男が奈良奉行を務めた経験があるのに、非才なので無理と答えて、
家康を激怒させたのが原因な訳で
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