実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0662人間七七四年
2016/06/26(日) 19:22:12.85ID:XN/U5mzN知ったか乙
0665人間七七四年
2016/06/26(日) 20:00:02.46ID:jHShHs9g同席してる息子の食事に書状で文句を言う親とか険悪すぎる
0666人間七七四年
2016/06/26(日) 22:18:31.13ID:wAQuAkMU0667人間七七四年
2016/06/26(日) 22:38:12.11ID:rERcbqJ40669人間七七四年
2016/06/26(日) 23:03:55.34ID:wAQuAkMU氏政、氏康は同じ城内とはいえ、普段住んでる郭も違うってのに
0670人間七七四年
2016/06/26(日) 23:07:02.48ID:rERcbqJ40671人間七七四年
2016/06/26(日) 23:24:05.84ID:o84TV/8b0672人間七七四年
2016/06/26(日) 23:36:08.94ID:Lioe3mpX0673人間七七四年
2016/06/26(日) 23:57:36.45ID:OycwONxh0674人間七七四年
2016/06/27(月) 00:25:25.23ID:8oyfJIKO0675人間七七四年
2016/06/27(月) 00:34:58.36ID:k3iTjo2/0677人間七七四年
2016/06/27(月) 09:58:45.50ID:G5XHVhEg0678人間七七四年
2016/06/27(月) 11:10:48.78ID:Knb3qIsy逸話だから、なんで疑問に思うのかが疑問だが。
0679人間七七四年
2016/06/27(月) 11:29:17.10ID:bSUlMPkf0680人間七七四年
2016/06/27(月) 11:31:09.58ID:sLy2L7i90681人間七七四年
2016/06/27(月) 11:31:53.28ID:bSUlMPkf素人でもに本願寺と対立しつた信長の小姓が南無阿弥陀仏の前立かよとは思うけど他にもっともな理由あるの?
0682人間七七四年
2016/06/27(月) 13:17:15.99ID:svAlsC2+浄土宗の坊さんだから別におかしくはないんだがなあw
真宗だって全てが全て信長と対立していたわけでもないし。
0683人間七七四年
2016/06/27(月) 15:28:26.08ID:LiC9AaeN京と堺辺り押さえた時点で、信長にとっては消化試合だろ
三国志の曹操や魏みたいな
0684人間七七四年
2016/06/27(月) 21:02:16.83ID:Vfs6Ra9a氏康傷とかもだいぶ創作くさい逸話だしな
0686人間七七四年
2016/06/27(月) 22:03:52.89ID:ZXIhOU0r川越の骨董屋から所有者は手に入れて、由来なんてなく売った物がいつの間にか「森蘭丸所有」なんて本に出てれば店主も驚くさ。そしてそれをみた甲冑会の連中が嘘の来歴は良くないから撤回しろって言ったけど聞く耳もたずってのが事の顛末
0687人間七七四年
2016/06/28(火) 15:47:37.88ID:tsliyFnQいや、黒田基樹も「北条氏康の子供たち」の中で
出所を突き止めることすらむずかしい、いい加減な代物って
書いてるぞ
0688人間七七四年
2016/06/28(火) 17:50:40.69ID:XvCLpJZC現存する北条氏康の肖像画は氏康生前に本人を見て描かれた物なんだけど
傷とか全く描かれていない
0690人間七七四年
2016/06/28(火) 18:41:11.91ID:+as/2dSW0691人間七七四年
2016/06/28(火) 20:12:49.09ID:wrueRVNK曹操の場合は言うほど消化試合じゃねーだろ・・・・・
呉が寝返らなかったら相当ヤバかったぞ
0692人間七七四年
2016/06/28(火) 20:49:28.35ID:r0VE/APF三国志の場合は、長江の存在が守る方を圧倒的に有利にするから
攻めあぐねるだけで
0693人間七七四年
2016/06/28(火) 21:01:34.28ID:tM1j/jLF劉備「じゃあ呉の調略無しでウチラ撃退してみよっか」
関羽「ヤバくないんだから当然遷都とかしませんよね!」
0694人間七七四年
2016/06/29(水) 08:28:25.03ID:QAC2xi8d狭隘な僻地の戦いだから大軍が展開できず魏の国力が生かせなかったが
中原に出てくれば殲滅されるのは蜀軍
樊城も洪水が無ければあっさり撃退できただろう
なにしろ国力差は魏が10とすると呉2蜀1くらいだ
蜀呉は大軍の生かせない隘路で健闘するしかない
魏は隘路を上手く抜ければ蜀呉を滅ぼせるが、蜀呉は隘路に拠らねば生きられない
0695人間七七四年
2016/06/29(水) 09:16:38.92ID:8YZTbR7/0696人間七七四年
2016/06/29(水) 09:17:41.57ID:AfaAQ8vx0697人間七七四年
2016/06/29(水) 09:19:47.21ID:WrbLgMJP0698人間七七四年
2016/06/29(水) 11:53:23.23ID:CSVEGRGu吉継と言えば茶会の話、福本日南の本では秀吉と吉継の話だったのにそれを三成に替えたのは誰だろう
尤も吉継の病気がハンセン病か怪しい時点でこの逸話も創作みたいだけど
0699人間七七四年
2016/06/29(水) 15:16:59.16ID:JiGLrqup× 魏10:呉2:蜀1
○ 魏7:呉2:蜀1
魏が10とすると、ではなく、
漢人主導国領域全体を10とした場合の内わけ
0700人間七七四年
2016/06/29(水) 15:20:29.53ID:KGtBOQvF0701人間七七四年
2016/06/29(水) 16:02:51.47ID:cVxHOJGq>吉継の病気がハンセン病か怪しい時点
一次資料には病気のことについて、一切語られていないのかな?
0702人間七七四年
2016/06/29(水) 16:29:33.26ID:FqzPSBE/0704人間七七四年
2016/06/29(水) 19:44:42.27ID:5SW186M7>一次史料で確認できるのは眼病くらい
そうすると病で崩れた顔を隠すために
白布で顔を覆っていたというのも創作なのかな
あるいは光から目を守るために頭か顔に何か被っていたのが
病名とともに変化していったのか
0706人間七七四年
2016/06/30(木) 08:48:02.91ID:me+rVR4Y0707人間七七四年
2016/06/30(木) 19:52:12.82ID:vojRHde7そうするとあの白布で顔を覆ったイメージはいつ頃出来たんだろう
0708人間七七四年
2016/07/01(金) 20:28:01.10ID:7FXrbvnOアホ三谷のせいで新たな珍説が。
信じる馬鹿が一定数いるんだろうな
0709人間七七四年
2016/07/01(金) 20:34:43.25ID:+Z/oQOdg0710人間七七四年
2016/07/01(金) 22:07:11.55ID:d0pGQVsl0711人間七七四年
2016/07/02(土) 03:39:28.31ID:bc2g7IEP本人が退治したわけじゃないが
秀吉からの書状で虎狩りを命じたら
をすぐ送ってきた
0712人間七七四年
2016/07/02(土) 03:45:09.60ID:bc2g7IEP虎をすぐ調達して送ってきた事を
褒められてる秀吉の朱印状なら存在してるな
虎狩り自体は他の大名のとこでもやってるけど
仕事が早くて目立ったんじゃね?
0713人間七七四年
2016/07/02(土) 14:07:16.63ID:iFKhlSCe>そうするとあの白布で顔を覆ったイメージはいつ頃出来たんだろう
月光仮面とかの影響なら、戦後だったりしてなw
0714人間七七四年
2016/07/02(土) 17:17:08.20ID:az8F2rcBその証拠物件によれば、虎は銃によって射殺されたものと判明している
清正が自ら鎌槍を振るって虎を倒したとする話は、
江戸中期以降の創作であろう
0715人間七七四年
2016/07/04(月) 08:36:13.25ID:aanXl8U80716人間七七四年
2016/07/04(月) 16:56:08.26ID:drssR83a市松だったら話題になってなかったかもな
0717人間七七四年
2016/07/05(火) 22:45:50.87ID:FeomaEEGそれが本当ならば>>638が偉そうに書いてる
北条家臣の書いた軍記にあるというのはどれ程
信憑性があるのか
0718人間七七四年
2016/07/06(水) 00:35:42.26ID:Vc8f5JoY0719人間七七四年
2016/07/06(水) 02:23:06.78ID:z0AiWLri彼の北条擁護は全く信用できない
河越とかも「あの黒田でさえ否定せざるを得ない」捏造合戦て意味だし
0720人間七七四年
2016/07/06(水) 06:09:21.84ID:NGYIcJTX0721人間七七四年
2016/07/06(水) 06:23:32.80ID:8bwpcRqT0722人間七七四年
2016/07/06(水) 06:49:26.44ID:5YHPIaTxなのに「創作」と断定できず「出所を突き止めることが『難しい』という
曖昧な文言で逃げてるあたり、黒田の苦しい胸の内がよく分るw
0723人間七七四年
2016/07/06(水) 07:16:38.09ID:2QfhkKKc候補を上げれば司馬、海音寺、山岡、立川文庫、菊池寛あたりが怪しいか
0724人間七七四年
2016/07/06(水) 16:11:03.72ID:H2zLft/R>>638が知ったかぶりしてるだけだろ
汁かけ飯の話って確か名将言行録にしか書かれてないよな
いずれにせよ「北条家臣が書いたもの」には書かれていない
0725人間七七四年
2016/07/06(水) 16:55:20.68ID:fKZVuiO+いや、北条五代記か北条記に書かれてたぞ
前に一緒に調べた時に確認した
さすがにどっちかまでは覚えてないが
0726人間七七四年
2016/07/07(木) 16:36:29.51ID:Oj+reHmk軍記を書いたのが北条家臣だろうが、そうでなかろうが、
史実があった根拠にはならん
たとえば、氏康が幻庵に向けて書簡を残したとする
「倅がいつも食う飯に汁をかけ直した。家の将来が心配だ」といった内容の書簡が
発見されれば、それが証拠となる
軍記では軍記である限り、著者の身の上がどうだろうと、何の証拠にもならんのよ
0727人間七七四年
2016/07/07(木) 17:04:27.01ID:4QSOP52g近代以降の歴史小説由来じゃないよって言いたいんじゃね?
まあ司馬遼太郎とか山田風太郎起源とよりマシかな的な。
0728人間七七四年
2016/07/07(木) 18:06:38.59ID:cLKNAWH/0730人間七七四年
2016/07/07(木) 19:57:40.00ID:W+zHs4YE0731人間七七四年
2016/07/07(木) 20:29:42.98ID:o1Adejuq沼田に寄った昌幸親子を小松殿が追い返した話は
誰がいつ頃創ったのかな
この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
小松殿が沼田にいるのはおかしいし、仮に信幸の妻が
沼田にいたとしたら、それは信綱の娘の方だろうし
0732人間七七四年
2016/07/07(木) 21:45:58.70ID:Oj+reHmk板坂卜斎、江戸時代初期
>この頃大名の正室は大坂にいたはずだったんだから
根拠なし。側室の場合もあり
黒田基樹が、小松殿は当時大坂にいて、大谷配下の監視にあったという論拠で否定したが、
その論拠が論拠の使い方として間違っていた
大谷配下の監視にあった「真田信之の妻子」が小松殿であった根拠が無い
0733人間七七四年
2016/07/07(木) 23:58:20.73ID:1Fy/R65Rアホだな
主家を過剰なまでに持ち上げる軍記において
わざわざ家臣が主君を貶める逸話を創作する意味が無い
氏康の氏政評だから、やむ得ず載せたと考えるのが妥当だろう
逸話自体の真偽は然程重要ではない
重要なのは北条家臣が「氏政は汁も量れぬ池沼」と信じて疑わなかった事であろう
>>638はそういう意味だな
0734人間七七四年
2016/07/08(金) 05:18:59.70ID:QN5bVY2m0735人間七七四年
2016/07/08(金) 06:28:06.16ID:9AEAuHc0確かに否定できないw
0736人間七七四年
2016/07/08(金) 12:12:46.35ID:J/2q9AKOつまり、お前が「家臣が主君を貶める逸話を創作する意味がある」ことを知らなかったというわけだ
武田旧臣が甲陽軍鑑において勝頼を貶める逸話を創作した事例を知っていれば、
そんなヘンな理論で結論を導き出すことはなかったところだが、
一般人としては甲陽軍鑑の立ち位置すら知らない無知が放言しているとは想定外
0737人間七七四年
2016/07/08(金) 12:56:02.70ID:5DqSZAQS0738人間七七四年
2016/07/08(金) 13:01:35.10ID:VFh6S7LG甲陽軍鑑は全体的に「悪いのは跡部長坂ら君側の奸」という論調で勝頼を擁護してるんだけど
勝頼自身を貶める創作逸話のなんてないぞ
0739人間七七四年
2016/07/08(金) 18:39:04.01ID:H5btW5Ab江戸時代から存在する俚謡
横山光輝や、近代以降の作家による創作ではない
ただし、その謡の内容はこじつけな上、かなり不正確と考えられる
歌詞の展開は、いかにも勇猛そうな異名を持つ武辺者を三名並べたもの
服部正成と渡辺守綱は共に天文11年(1542年)生まれで、昇進のペースも対比できる
しかし渥美源吾のモデルであろう渥美源五郎勝吉は弘治3年(1557年)生まれで、一世代後になる
鬼半蔵と槍半蔵を並べることを目的とした詞に、語調合わせのため無理矢理渥美を加えたのだろう
0740人間七七四年
2016/07/08(金) 18:40:55.52ID:H5btW5Ab天正2年(1574年)の武田勝頼による高天神城攻めで、小笠原家は降伏開城した
その際勝頼は、武田家の誘降を受け入れる者は優遇するし、徳川方に帰ることも許すと約束している
高天神城に詰めていた将兵は、誘降を受ける者と徳川方に帰る者とが半々に別れた
徳川方に帰った将兵は、そのほとんどが大須賀康高麾下に再編された
勝吉もそのほとんどに含まれ、大須賀麾下で働くことになる
大須賀隊は、高天神城を拠点に行動を起こす武田軍に対応する最前線部隊であり、
勝吉は7年にわたる小競り合いから天正9年(1581年)の本格的な高天神城奪回作戦まで勇名を挙げ、
「首取源五郎」の異名がつけられている
大須賀康高は天正17年(1589年)に死去し、
康高の娘の子である榊原忠政が大須賀忠政となって大須賀家を継承した
関ヶ原合戦時、大須賀忠政隊は徳川本隊の後ろを守り、後方の毛利秀元隊の動きを警戒していた
そして勝吉は毛利隊の動向を探りに行ったのだろう。その際に間宮信繁と同行したのかは不明
後年、語り継がれるうちに、
後方偵察の事績が何故か前方偵察の事績へと変容し、異名も「首取源五郎」から「首斬り源吾」と変容
さらに一大決戦直前に敵情偵察を行なったという印象が一人歩きし、
武士から忍者へと人物像が変容していったと考えられる
0741人間七七四年
2016/07/08(金) 18:41:57.12ID:H5btW5Ab武辺だけの男ではなく、それなりに政務もこなせたようだ
慶長12年(1607年)には大須賀忠政が死去。その幼い子である忠次が大須賀家を継承した
勝吉らベテラン家臣が大須賀家の政務を切り盛りしていたのだろうが、そうこうするうち、
慶長20年(1615年)、大坂の陣で大出血した榊原康勝が死去してしまう
忠次の他には存命の榊原康政の子孫男児が無く、忠次が榊原家を継承することになる
そのため大須賀家は断絶、家臣団は解散することになった
ある者は榊原家臣へと転身し、ある者は徳川宗家直臣旗本になった
しかし最も多かったのは、家康十男・徳川頼宣家臣への編入である
家康の手元で育った頼宣は、家康が倒れた後は自ら領地運営を執ることになり、人材を欲していた
小笠原麾下で高天神城にて戦い、大須賀麾下に移籍した古参は、大方は頼宣家臣となった
勝吉もその大方に含まれ、頼宣に仕えることになった
元和5年(1619年)、頼宣は紀州和歌山へと転封する
その際、渥美勝吉も同行し、和歌山に着任している
0742人間七七四年
2016/07/09(土) 13:11:05.25ID:8EpDDbf5勝頼なんて武田家の正式な後継者じゃなく、
信勝が成人するまでの繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがって
という甲陽軍鑑のスタンスが、勝頼を貶める意図じゃないと?
0744人間七七四年
2016/07/09(土) 14:10:57.40ID:9vN3l7m4陣代を「繋ぎに過ぎないくせに出しゃばりやがってという甲陽軍鑑のスタンス」
と読むのはお前の悪意に満ちた妄想にすぎん
軍鑑をどう呼んでも勝頼が出しゃばったから武田が滅んだとか読めない
むしろ跡部長坂ら君側の奸が出しゃばったから武田が滅んだというのが甲陽軍鑑のスタンス
陣代にすぎぬ勝頼に彼らを退けられぬのも仕方が無いという擁護にすらなる
0745名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 09:31:41.56ID:S1L9mBbu0746名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 09:49:50.98ID:yAt7ys7B0747名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 10:37:53.81ID:TyqYzazW甲斐国内の不満を収める為の形だけの陣代とか信玄がやりそうな事
0748名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 11:28:55.06ID:5btHCnYA「大須賀七将」の筆頭なのだろうけど、
他のメンバーがよく判らん程度の知名度
強いて挙げれば、弓の名手と伝わる小笠原与三右衛門清有くらいか
この人物も高天神城降伏時に徳川方に残ることを選択して
遠州小笠原宗家と決別し、最終的には頼宣に仕えた
本来なら陪臣としての知名度は
奥平麾下の鳥居強右衛門勝商以上にあっても良さそうなのだけど…
大須賀家が断絶する時期が早すぎたため、
先祖の部隊の活躍を語り継ぐという文化から脱落したのではないかと思われる
0749名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 13:37:24.16ID:u0aEeX8/お家断絶しなけりゃ子孫がいつか「盛って」(いいかどうかは置いといて)
くれたりするしなぁ、やっぱり家を残すのって大事だわ。
0750名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:01:09.59ID:yAt7ys7B0751名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:14:35.71ID:3NgMLZh2榊原は、生家を継ぐために息子が大須賀から戻ってきたから有名になれた気がする
0752名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
2016/07/10(日) 14:19:41.53ID:5btHCnYA酒井忠次や石川数正と同格の扱い
0753人間七七四年
2016/07/10(日) 20:40:00.28ID:1gzQiL7tまあ氏郷の家康嫌いに関しては司馬が助長したのもあるだろうけど
0754人間七七四年
2016/07/10(日) 20:48:03.00ID:SkErALU9高天神城を攻めた際、内藤甚一正成が一矢で二人を倒したので
城兵が恐怖したって逸話があるが、何が出典なんだろう?
それとも宮城谷の完全な創作なのかな
0756人間七七四年
2016/07/10(日) 22:29:20.06ID:WoaxVO/cttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/127
0757人間七七四年
2016/07/11(月) 08:48:59.72ID:8O+q0KhT大名同士の不仲説とか、講談本が元ネタなのが結構あるんじゃないかなぁ
0758人間七七四年
2016/07/11(月) 12:34:25.80ID:ZJVyHzD0首切り(首取)なんて異名は、可児才蔵タイプの武辺者だったことを証明する一方、
忍者の職務ではないから忍者ではなかったことを裏付ける
そしていかにも忍者ならではという逸話が他にあるわけでもない
なのに忍者扱いで放置され続けたという、そんな知名度
0759人間七七四年
2016/07/12(火) 23:50:54.32ID:0UMdQFlL一矢で二人殺すとか、一体何人張りくらいの強弓使っていたんだよって話だな
0760人間七七四年
2016/07/13(水) 21:32:55.82ID:KmIgXpPI家康との不仲説はあんまり信用できないな
0761人間七七四年
2016/07/15(金) 09:27:10.94ID:6UM8xRa2謀略であらゆる大名を貶めた事にするからな
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています