実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
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前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0301人間七七四年
2016/04/22(金) 11:47:31.39ID:by9ZZ02x0302人間七七四年
2016/04/22(金) 20:05:40.80ID:QhqB6hUSフィクションの世界とかでは結構役立ってるけど、
実際はどんなものだったんだろうか
表面に鉄板を貼った程度だっただろうけど
当時の船の中では防御力高かったかもしれないが
何より航行能力に疑問を感じるのだけど
0303人間七七四年
2016/04/22(金) 20:09:12.55ID:Qlm7sFUg少なくとも対毛利戦で、いわゆる鉄甲船が役に立ったとか戦果を上げたとかいう記録は一切存在しない。
紀伊のしょぼい海賊を追い払ったって話が唯一。
そして第二次木津川合戦のあと鉄甲船は即座に解体されて小さな船に作りなおされた。
まあ何の役にも立たなかったと見るのが正しかろう
0304人間七七四年
2016/04/22(金) 20:31:38.58ID:Cq+rDrPP0305人間七七四年
2016/04/22(金) 20:47:34.93ID:mETxaFOzなお、鉄甲船は秀吉の号令でも建造されているので、
信長の前例があっても不思議ではない
0306人間七七四年
2016/04/22(金) 20:51:19.37ID:+wrt6VBf信長の大船が鉄甲船かはともかく
朝鮮征伐や江戸時代でも使われてるから有効性はあっただろう。木造船は燃えるのが一番怖いし
まぁ重量と波に耐え切れなくて沈むのもあったつーけど
0307人間七七四年
2016/04/22(金) 20:53:17.81ID:xtydZ28uでも、当時の宣教師の報告とか、公家の日記かなんかで、船の存在自体は書かれるほどだったそうなので、
信長の力を示すアピールにはなったんじゃないの
0308人間七七四年
2016/04/22(金) 21:06:01.17ID:euGqnjng>記録は一切存在しない。
普通に信長公記に書かれているけど?
九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、
敵舟を間近く寄せ付け、愛し侯ふ様に持なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟
余多打ち崩し侯の間、其の後は、中中寄り付く行及ばず、難なく、寅七月十七日、
堺の津へ着岸侯ひしなり。
0310>>302
2016/04/22(金) 21:22:06.48ID:QhqB6hUS鉄甲船の有効性に対する疑問もそうだけど、
この>大鉄炮一度に放ち懸けにある大鉄炮って
実際どんなもので、どれだけ有効だったのかな
0311人間七七四年
2016/04/22(金) 21:43:33.72ID:xtydZ28u手元の本では、堺に停泊中の大型船を宣教師が見学していて、フロイス宛の手紙に、
「大砲三門が載っていたが、大友宗麟以外に日本に大砲はなかったはずなのに」
驚いたそうな
同じ手紙に「実際に、大砲と装置を見た」と書いてあるそうなので、先込め式の「大筒」ではなく、
装填装置のついた「フランキ砲」とかいうものと考えられるとか
信長研究で有名な、藤本正行氏の本なので、間違いないでしょう
威力までは、さすがに分からないけど
0312人間七七四年
2016/04/22(金) 22:00:34.09ID:mETxaFOz0313人間七七四年
2016/04/22(金) 22:07:28.90ID:ftekyBdL0314人間七七四年
2016/04/23(土) 01:32:54.04ID:enjddD3R>記録、一次資料(一次史料の誤り?)
偉そうな事言うのなら、もう少し丁寧に使い分けろ。はっきり言って、ド素人臭がする。
0315人間七七四年
2016/04/23(土) 01:47:07.24ID:enjddD3R(なんだかイライラして文章が無駄に荒れてるわ。)
0316人間七七四年
2016/04/23(土) 13:50:54.93ID:lsOyNRP7>実際はどんなものだった
大型の安宅船に大砲を搭載したもの
鉄板を貼っていたとか何とか、関係者の記録には一切そんな言及はない
「第二次木津川海戦で織田方の鉄の船が毛利水軍を蹴散らした」という主旨を吹聴する者が
いて、京で噂になったと、奈良の坊さんが記録した(鉄甲船とは言っていない)
合戦の現場を見ていない者による伝言ゲームで情報が変容した事例
ここから想像を膨らませ、近年になって「鉄甲船」という架空の船が創られた
信長よりわずかに後の時代に試作された、秀吉の鉄張り船(失敗作)も参考にしたと思われる
0317人間七七四年
2016/04/23(土) 14:06:18.64ID:OT1IlTtL鉄甲船は朝鮮で海戦参加もしてるぞ。戦績は不明だが。
秀吉が唐突に鉄甲船を思いついたと考えるよりは、信長の前例が
あったとする方が蓋然性高いだろ。
0318人間七七四年
2016/04/23(土) 14:10:44.07ID:UhKFeVre0319人間七七四年
2016/04/23(土) 14:31:26.00ID:xKcQIW7Z船梁の強度が足りなかったから
後は、名護屋城図屏風に描かれている3重や2重の天守も原因としてありそう
0320人間七七四年
2016/04/23(土) 20:46:36.99ID:FNxVeqntある程度丈夫でも図体がでかくて、動きが遅いんじゃ
かえって標的になるだけの様な気がするな
仮にある程度鉄板が使われていたにしても
船の表面全体を覆っていたわけでもないだろうし
もし大砲をつんでいたにしろ、威力となにより命中力に問題がありそうだ
まあ見た目的には迫力は有りそうだから、威嚇目的だったら
役に立ったかもしれないけど
0321人間七七四年
2016/04/23(土) 20:49:44.55ID:j/yFdFvA0322人間七七四年
2016/04/23(土) 20:53:18.68ID:xKcQIW7Z秀吉の鉄甲船も迎撃が目的だから機動力は低くても良い
そもそも安宅船の機動性が大したことない
0323人間七七四年
2016/04/23(土) 21:40:04.71ID:7PeHdD5l1573年に琵琶湖に浮かべたのが最初で、これは足利義昭を討伐するのに1度だけ使って、
3年後に解体
で、1578年に九鬼嘉隆に6隻、滝川一益に1隻作らせてて、この九鬼嘉隆に作らせたのが、
いわゆる「鉄甲船」とされる物らしい
ただ、信長公記にも、さらに藤本正行氏の本では、建造した九鬼嘉隆の家譜にも、実際にその船を見学した
宣教師のオルガンチノって人物の報告書にも、鉄の装甲が張ってあったとは書いて無いとか
どんな書き方かは分からないけど、唯一、当時の「多門院日記」という資料に噂話として、「鉄甲船」であるかのように
書かれているそうな
8隻全てについて、「大船」の大きさにみんな驚いたとは、信長公記に書いてあるので、そのインパクト自体に、
威力があったんじゃなかろうか
ここからは、おれの思い付きだけど、滝川一益の作った船だけ「白船に仕立てさせた」と書かれてるので、
他のは、まっ黒けとかだったのでは
それが、鉄が張ってあるように見えたとか
0324人間七七四年
2016/04/24(日) 18:09:26.59ID:FHHJ7EC4やっぱり創作?
0325人間七七四年
2016/04/24(日) 18:22:06.50ID:7xDMw5Opそれは難癖に他ならない
0326人間七七四年
2016/04/24(日) 20:00:12.69ID:/tOrPVLq政権を秀頼に返すって話が変化しんだろうけど
0327人間七七四年
2016/04/24(日) 21:21:29.60ID:/uHr2aKeそもそも当時の技術でどれだけの強度の
鉄の装甲板が造れたか怪しいしな
0329人間七七四年
2016/04/25(月) 08:54:04.78ID:pJG46Pan0330人間七七四年
2016/04/25(月) 21:32:42.10ID:mV0hQrqr人殺しや残酷な事が嫌いってイメージを創作したのは
小瀬甫庵かな
0332人間七七四年
2016/04/25(月) 21:52:20.90ID:BY7R2qpSだいたいは誇張があるとみている
0333人間七七四年
2016/04/25(月) 22:03:53.37ID:V+tZc6ym豊臣のネガティブイメージは基本一次史料が根拠なんだよなあ……
そもそも幕府主導で秀吉を悪く言ったという事実はない
0334人間七七四年
2016/04/25(月) 22:06:03.18ID:BY7R2qpS秀吉は百姓上がりで源氏ではないから将軍になれなかった、という
俗説を作ったのは新井白石だが
0335人間七七四年
2016/04/25(月) 22:09:53.67ID:pCKeFBGF0337人間七七四年
2016/04/25(月) 22:26:34.08ID:BY7R2qpS何もしらん人なら持つんじゃね?
微妙に征夷大将軍になれた家康のほうがずっと偉いんだぞ!って
印象操作含んでいるし歴史を学び始めた人なら騙される。
これを捏造したのは幕府なんだが。
0339人間七七四年
2016/04/25(月) 22:52:34.05ID:V+tZc6ym家康のポジティブイメージとは言えるけど秀吉のネガティブイメージというとどうかなー
実際その後更に高位の関白になれてるから騙される人いないんじゃないの?
0340人間七七四年
2016/04/26(火) 00:15:03.75ID:MWLVzlaw相対的に秀吉を下げてるだろ
関白の方が格が上なんて歴史好きじゃないとわからんだろう
あとは淀君という呼称もそうだ。秀頼の母を過度に下げるもので
宣伝以外の何物でもないな
0341人間七七四年
2016/04/26(火) 00:38:30.45ID:X57IM2SP0342人間七七四年
2016/04/26(火) 21:41:41.27ID:LPMXj7Eq家康ばかり出産経験のある熟女好きのイメージがあるのは何故だろう
家康は熟女好きはそれこそ若い頃一時期とくらいで、後半生見たら
むしろ若い子、ロリータ好きに思えるんだが
0343人間七七四年
2016/04/26(火) 21:53:54.27ID:CfLZs7Fe0345人間七七四年
2016/04/26(火) 22:47:36.31ID:Bj3nN3uEいま自分がいかにもそれらしき物語をうまく描いて、千年ごとか発掘されてその時代の人が見て信じちゃったみたいな
0346人間七七四年
2016/04/26(火) 22:49:02.82ID:Bj3nN3uE0347人間七七四年
2016/04/27(水) 02:20:34.24ID:z3efrvva細川政元ちゃんは女の子だったんですか?
0348人間七七四年
2016/04/27(水) 07:49:01.78ID:ZrE1Xs5G福岡市で開催された「黒田家」展で見た黒田長政の水牛角の甲冑のデカさにはたまげたわ。
0349人間七七四年
2016/04/27(水) 12:42:27.68ID:qT0upELl相当な威圧感。
鎧似合いそうだ
0350人間七七四年
2016/04/27(水) 12:56:35.32ID:T6XsD7PJ黒田長政は去年の大関ヶ原展福岡会場で
関ヶ原で着用した一の谷兜と鎧のセットが展示されてたが
160センチ前後だと思うぞ
同時に展示されてた細川忠興の甲冑より小さめだったし
立花宗茂や加藤清正の甲冑と比べると明らかに一回り小さかった
身長は当時の平均だと思うがすごく華奢だった
0351人間七七四年
2016/04/27(水) 13:02:48.85ID:T6XsD7PJ長政の義弟で身の丈6尺、長政と同じデザインの甲冑を身につけていたそうだ
0352人間七七四年
2016/04/27(水) 15:19:59.80ID:IkwnCSST0353人間七七四年
2016/04/27(水) 17:52:47.54ID:idNlYBCeなんか嫌だよな、向こうのが背がでかくて似合いそうだし。
0354人間七七四年
2016/04/27(水) 18:08:54.59ID:VPrY1gTW0355人間七七四年
2016/04/27(水) 19:29:40.03ID:yNS3exgq今読んでる「日本の戦史 大坂の役」では、本文にも史料編にも、
「デブだった」としか書いて無いんだよね
0356人間七七四年
2016/04/27(水) 19:32:10.50ID:xcUMZZOQ0357人間七七四年
2016/04/27(水) 20:10:24.87ID:idNlYBCeしかも顔は優しいという。
0358人間七七四年
2016/04/27(水) 21:04:41.89ID:p/LrPoWV0359人間七七四年
2016/04/27(水) 21:31:59.93ID:81SCzsD7身長197cmで体重161kgとか、そんな巨体乗せられる馬とか
当時いたのかねぇ
0360人間七七四年
2016/04/27(水) 21:38:00.48ID:idNlYBCe今なら相撲取りに即スカウトレベルじゃねーか。凄いな秀頼さん
0361人間七七四年
2016/04/27(水) 21:46:18.39ID:yNS3exgqその時代に何食ったら、そんなにデカくなれるんだ
0362人間七七四年
2016/04/27(水) 21:51:40.19ID:xcUMZZOQ0363人間七七四年
2016/04/27(水) 21:53:05.17ID:RAMHu5za0364人間七七四年
2016/04/27(水) 22:22:42.51ID:IkwnCSST0366人間七七四年
2016/04/28(木) 00:49:50.39ID:NTq2yZu0割とタッパがその秀頼と同じくらいのモンゴル人力士とか普通に馬乗ってるからなあ
頑丈な馬だったら案外乗れたんじゃないか
0367人間七七四年
2016/04/28(木) 13:35:54.09ID:CTJ3MH49家康が小牧の事を忘れたのかと言ったって話は本当にあったのかな
0368人間七七四年
2016/04/28(木) 19:30:09.99ID:u9upswDi江に惚れてたとは思うが恐れていなかったと思うが
永井路子とか秀忠は政治が趣味で、側室を持たないことすら
政治の道具として利用したとか書いてたな
0369人間七七四年
2016/04/28(木) 20:37:48.53ID:lEKSbR3W多分最初の側室に孕ませた子供を灸で死なせた事実からじゃないの?
「恐妻家」じゃなくて、「情の強さ」を恐れたんだと
思う。
江もどっちかというと、政治的動物じみた部分が有るし。
0370人間七七四年
2016/05/01(日) 13:49:24.36ID:i+DvabiHそもそも小牧・長久手は徳川史観により曲げられているからな
秀吉は局地戦でも負けてはいない。打ち負かしてもいないが
1勝1敗の戦いだったのをなぜか家康が秀吉を打ち負かしたかのように
なっているが、そもそもそんな史実は無いのでそんな逸話があるわけもない
0371人間七七四年
2016/05/01(日) 14:22:39.70ID:N5Amvi4W0373人間七七四年
2016/05/01(日) 15:23:33.13ID:5nXAvPEJ0374人間七七四年
2016/05/01(日) 22:49:19.63ID:1IGz7hoz長丸が灸で死んだ史料では、側室腹じゃなく江自身の産んだ子になっているんだが。
自分の産んだ長男が病弱で治療のお灸をしたら死んじゃったって感じ
それが長丸が側室腹っていう別の史料と混ざって
江が側室腹の長丸をお灸で殺したってことになった
0375人間七七四年
2016/05/01(日) 23:25:16.11ID:vO94wOLJ0376人間七七四年
2016/05/02(月) 07:39:40.43ID:4zm9LeS9出典は忘れたけど、細川忠興が家光の前でした思い出話の一つじゃなかったかな
0377人間七七四年
2016/05/02(月) 08:13:11.88ID:SD1IpSaA絵師に描かせたものが多いんだよな
0378人間七七四年
2016/05/02(月) 15:35:03.97ID:zJtsB6dp逸話の方はともかく、長久手で負けたのは秀吉自身の書状に書かれてる事。
そこら辺まで徳川史観のせいにしたらアカンやろ
0379人間七七四年
2016/05/02(月) 18:14:37.70ID:WsBQmHZb0380人間七七四年
2016/05/02(月) 19:14:29.89ID:2M2bzPu10381人間七七四年
2016/05/03(火) 00:59:41.39ID:ehnW+rLm一局地戦とはいえ戦場で敵を大破した徳川側の勝ちと
単純に当時の人達は判断したんだろう
0382人間七七四年
2016/05/03(火) 02:19:49.43ID:CDt9nTSAまあ見方の問題だな
局地戦の勝敗的も、被害的にも秀吉の方が分が悪かった訳だし
0383人間七七四年
2016/05/03(火) 02:30:18.36ID:KRml8b+x局地戦で羽柴方が負けている戦いがあるのは事実だが、岩崎城の戦いは
岩崎城落城で徳川方の負けだよ。
小牧・長久手の戦いは実際の戦闘は徳川方の勝ちであるかのように
徳川史観は喧伝しているけど、実際は局地戦でも負けている戦いもある
徳川史観と表現して何が悪い?
勝者が歴史を改ざんするんだぜ。秀忠の遅参とかはあまりの汚点だから
隠しようがなかったようだけど神君伝説的な一方的な史観はもうこりごりだよ
0386人間七七四年
2016/05/03(火) 06:35:16.84ID:Lu0Xt4n8というところまでは合意出来たようだし良いんでない?
0387人間七七四年
2016/05/03(火) 18:23:28.44ID:+KwHzjJy一方的なのは豊臣に都合いいことしか史実と受け入れず徳川に都合いいことは全部捏造認定するお前だろ
0388人間七七四年
2016/05/04(水) 20:31:58.12ID:kob5ctTn例えば同じ徳川でも大久保忠佐とかいるし
なのに何で本多平八郎が無傷武将の代表みたくなってるんだろう
0389人間七七四年
2016/05/04(水) 20:38:47.39ID:wi8ZQwjL0391人間七七四年
2016/05/05(木) 12:14:57.65ID:xHJqwfIj0392人間七七四年
2016/05/06(金) 08:02:37.84ID:aNFu3ZSz0393人間七七四年
2016/05/06(金) 09:10:53.43ID:88wcnX6V0394人間七七四年
2016/05/06(金) 09:37:58.29ID:Zc2clZvx古参の長老血筋良しの酒井忠次が黙ってないだろう
0395人間七七四年
2016/05/06(金) 09:50:06.88ID:EI6eYuLq五人いる四天王とかの家もあったりするし
0396人間七七四年
2016/05/06(金) 09:58:10.07ID:Jko68Z3w小牧の陣くらいしか無い
0397人間七七四年
2016/05/06(金) 10:31:37.44ID:rw9+8jl0『論集:戦国大名と国衆13信濃真田氏』の論文「真田一族覚書書」でも養女説は否定的。
>信之夫人が家康の養女であるというのは、確実な記録に全く見えず、証拠のないことである。
>松代藩内に「公儀の御養女」という漠然たる言い伝えがあり、それがだんだん秀忠養女、
>家康養女と格上げされたらしい。
>真田家は戦国時代以降、大活躍をして天下に名をとどろかすことになるが、その家系などを
>あまり高く持ち上げることは事実に反する。名もない山間の小土豪が風雲に乗じて大名に成り上がり、
>その武勇によって名をなしたというのが本当で、
ちなみに「寛政重譜」や「系図纂要」の本多氏系図でも信幸妻は「家康(秀忠)の養女」になっていない
0398人間七七四年
2016/05/06(金) 10:34:08.88ID:rw9+8jl0>徳川家康の養女・小松姫が上田城主真田信之に嫁いだとき、幕府から化粧料として
>大池新田村52石が小松姫にあたえられたと伝えられる
徳川の養女にしては52石とか、少なすぎる。これもあとづけ説もあってこれ自体が
嘘くさいけども、この程度なら普通に本多忠勝の娘扱いなんじゃないの?
もしかすると、本多忠勝が親戚の娘を養女にして嫁がせたのかもしれない
家康って、養女にすると、養女に1000石〜1万石化粧料をつけてるんだよね
そして名刀を与えたり引き出物も出している
真田ってそれらの証拠もないんだよね
ちなみに家康の実の娘だと10万石も化粧料がある例があったし、
家康がまだ大大名じゃなかったころに奥平に嫁いだ亀姫にも3000石の化粧料を出している
0399人間七七四年
2016/05/06(金) 15:00:44.83ID:aNFu3ZSz元々福本日南の本では三成じゃなくて秀吉だったみたいだし
尤も秀吉と義継の茶会を日南が何を典拠に書いたのか分からないんだけど
0400人間七七四年
2016/05/06(金) 15:19:32.65ID:aNFu3ZSz義継じゃなくて吉継だった
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