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実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net

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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89C
史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0268人間七七四年2016/04/06(水) 14:32:46.04ID:DxBvTpVy
>>265
夏侯惇は、正史では眼帯を使っていない
眼球を失った眼窩には、布を巻いて縛り付けていた

>>262
そういえば、
北条氏照なんかと同年代のアナ・デ・メンドーサ女史は
眼帯を使っていた
0269人間七七四年2016/04/07(木) 12:18:28.95ID:+FnzAPPp
刀の鍔を眼帯に使うのって誰が創作したんだろう
0270人間七七四年2016/04/07(木) 21:58:28.59ID:+FnzAPPp
>>240
小説家の影響が大きかったのは昭和くらいまでで
今は研究家の恣意的な論文やそれを真に受けた
ゲームや漫画、ドラマの影響の方が大きい
0271人間七七四年2016/04/10(日) 22:31:07.50ID:HdQIhrHd
三成が豊臣家対して全身全霊を注いだ忠臣みたいなイメージを創ったのは誰だろう?
0272人間七七四年2016/04/10(日) 22:35:02.68ID:ZNtSBhwa
徳川光圀じゃね
0273人間七七四年2016/04/11(月) 09:21:45.91ID:g5NPkXWK
光圀は弁護したくらいで、イメージを確定したのは司馬じゃないか
そそてさらに拍車をかけたのは無双とかゲームな感じで
0274人間七七四年2016/04/11(月) 11:01:07.53ID:swM7AXIe
司馬は三成だけじゃなくて、西軍側が善ってイメージも創った感じ
同時に出す策がみんな上手くいく家康、どれだけ凄いんだって感じになっているけど
0275人間七七四年2016/04/13(水) 18:05:18.08ID:sA6v5L2r
家康は、山岡荘八さんの小説で、史実から後世の逸話に至るまで、あることないこと書き込んで、
徹底して美化しまくったせいで、いかにも理想のリーダー的なスーパーマンになってしまった、大河ドラマ化で、さらにそれが広がった、
みたいなことを、藤本正行氏がどこかで書いてた

藤本正行氏の著作は、武功夜話や、本能寺の変謀略説への批判とか大いに影響されてるし、
信長公記を基本に据えた信長の人生の見直しなど、立派な業績だと思うけど、
他人へのケンカ腰の姿勢とか、テレビやフィクションへの悪意に満ちた記述だけは、どうも好きになれない
0276人間七七四年2016/04/13(水) 18:21:45.18ID:+0YWnooI
炎上商法なだけ
0277人間七七四年2016/04/13(水) 20:11:27.40ID:IM1GmK1u
>>275
山岡荘八の「徳川家康」は家康がめっちゃ善人でいい人設定になっていて今となっては笑えるね
0278人間七七四年2016/04/13(水) 20:49:05.88ID:UgSqgwHT
>>275
実際に山岡壮八が描く家康は何でもお見通しのスーパーマンだからなぁ
0279人間七七四年2016/04/13(水) 23:53:42.58ID:Wjh6FtXk
まぁ家康は当時としては善人だと思うよ
0280人間七七四年2016/04/14(木) 00:01:18.76ID:KjDyWEyq
実際は糞を漏らした人
0281人間七七四年2016/04/14(木) 07:05:06.43ID:tI1MsOS0
>>279
それはないわww
0282人間七七四年2016/04/14(木) 17:39:51.34ID:BirWVk4k
逆に家康が大坂の陣で討ち取られて1年だけ影武者が務めたっていうのは事実のような気がする
0283人間七七四年2016/04/14(木) 18:15:47.03ID:AESTooQB
家康が討ち取られたのは関ヶ原だろ
0284人間七七四年2016/04/14(木) 20:46:49.75ID:tNjrOcYi
もしかして家康って戦国時代で一番多く死んでないか?
0285人間七七四年2016/04/14(木) 20:57:57.97ID:woGZkLyM
75才まで生きれば、いろいろあるだろ
0286人間七七四年2016/04/15(金) 17:17:47.81ID:xVMvKYlp
戦国で最も討ち取られた男 徳川家康
0287人間七七四年2016/04/15(金) 17:49:52.81ID:Wj98T75J
こちらは徳川家康関ヶ原の時の頭蓋骨でございます
0288人間七七四年2016/04/15(金) 18:38:07.67ID:AT5oxggP
それなら、3号あたり?の死ぬ際のエピソードを、もうちょっとカッコよくすればよかったのに
てんぷら食いすぎて体調悪化させたとかさ
0289人間七七四年2016/04/15(金) 19:33:27.68ID:DydrgeHS
張コウかよw
0290人間七七四年2016/04/16(土) 12:15:15.79ID:bbzwP7oT
堺の南宗寺に、家康の墓と伝わる史跡がある
陣を乱されて敗走する家康を、この寺のお堂の陰から後藤又兵衛が突き殺したと、
実に具体的な話である

さて、史実と検証してみると、
・後藤又兵衛は、家康が大坂に到着する前に戦死していた
・南宗寺は大坂夏の陣直前、大坂軍の放火によって焼失していた
伝説を史実認定するには少々無理があります

考えられることは、
大坂軍によって焼き払われた堺の街の復興に道筋を付けてくれたことで、
堺の町衆は徳川家、ひいては家康に感謝し、再建した南宗寺に家康を象徴する慰霊碑を建立した
それが家康の墓という話にすり替えられ、いつしか南宗寺の境内で家康が討ち取られた
という話が出来上がっていったと
0291人間七七四年2016/04/16(土) 20:43:24.06ID:/iqem9iN
まあ最終的な勝利者だから、引き立て役に使うにわ最適なんだろう
創作した真田や勝永好きなんかにしてみれば、せめて本当は討取っていた事にして
溜飲を下げたかったんだろうな
0292人間七七四年2016/04/16(土) 20:59:58.42ID:rKxDRjUm
家康をしょぼくすると
それに屈服した諸大名は
もっとしょぼく見えてしまうんだがな(笑)
0293人間七七四年2016/04/17(日) 12:06:09.49ID:/ITwSmsl
自分の好きな武将さえ格好良く描かれてれば、
他の大名とかどんな扱いされてても構わないんだろう
0294人間七七四年2016/04/18(月) 02:19:38.84ID:UBrpAUi3
熊本城の櫓が、端の部分のたった一筋の石垣で倒壊を免れた状態になってたからな。
あれは奇跡。
常識では考えられないことが戦国時代に起こっていても不思議ではないなと考え直させられたよ。
0295人間七七四年2016/04/18(月) 08:16:19.48ID:NB+dYCMK
熊本城が地震で倒壊しそうなのは現代だけどな
0296人間七七四年2016/04/18(月) 12:03:09.09ID:r9ba9WM1
>>295は、ちょっと頭が悪そう。
0297人間七七四年2016/04/18(月) 21:21:10.70ID:XqkEr1W7
↑常識では考えられないおバカさん
0298人間七七四年2016/04/18(月) 22:08:40.84ID:OyK+sTLb
ちょっとどころじゃなかったかな
0299人間七七四年2016/04/19(火) 00:27:25.68ID:qYMW80I4
その後、どうなったんだろう?
あの状態では迂闊には近付けないよなぁ…
一旦人工的に緩やかに倒壊させてから組み直すのかね?
好きな城だから心配だ
0300人間七七四年2016/04/21(木) 12:43:37.98ID:hhUFgroG
>>267
一応明治までは遡れるみたいだが初出はよくわからんらしい
隻眼がトレードマークになるのは戦後になってからでそれまでは両目隻眼混在してたみたいだが
山風の十兵衛は隻眼だが眼帯はしてない

http://togetter.com/li/874272
0301人間七七四年2016/04/22(金) 11:47:31.39ID:by9ZZ02x
方広寺の鐘銘問題、言い掛かり論を創作したのは徳富蘇峰あたりかな
0302人間七七四年2016/04/22(金) 20:05:40.80ID:QhqB6hUS
今月の信長協奏曲読んだら鉄甲船が出てきたけど、
フィクションの世界とかでは結構役立ってるけど、
実際はどんなものだったんだろうか
表面に鉄板を貼った程度だっただろうけど
当時の船の中では防御力高かったかもしれないが
何より航行能力に疑問を感じるのだけど
0303人間七七四年2016/04/22(金) 20:09:12.55ID:Qlm7sFUg
>>302
少なくとも対毛利戦で、いわゆる鉄甲船が役に立ったとか戦果を上げたとかいう記録は一切存在しない。
紀伊のしょぼい海賊を追い払ったって話が唯一。
そして第二次木津川合戦のあと鉄甲船は即座に解体されて小さな船に作りなおされた。

まあ何の役にも立たなかったと見るのが正しかろう
0304人間七七四年2016/04/22(金) 20:31:38.58ID:Cq+rDrPP
動力が人力と風しかなかった時代に鉄の船なんて使えたのかな?
0305人間七七四年2016/04/22(金) 20:47:34.93ID:mETxaFOz
木の板に鉄板貼っただけだから
なお、鉄甲船は秀吉の号令でも建造されているので、
信長の前例があっても不思議ではない
0306人間七七四年2016/04/22(金) 20:51:19.37ID:+wrt6VBf
>>302
信長の大船が鉄甲船かはともかく
朝鮮征伐や江戸時代でも使われてるから有効性はあっただろう。木造船は燃えるのが一番怖いし
まぁ重量と波に耐え切れなくて沈むのもあったつーけど
0307人間七七四年2016/04/22(金) 20:53:17.81ID:xtydZ28u
鉄が本当に張ってあったのか分からない、とか何かで読んだ
でも、当時の宣教師の報告とか、公家の日記かなんかで、船の存在自体は書かれるほどだったそうなので、
信長の力を示すアピールにはなったんじゃないの
0308人間七七四年2016/04/22(金) 21:06:01.17ID:euGqnjng
>>303
>記録は一切存在しない。

普通に信長公記に書かれているけど?

九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、
敵舟を間近く寄せ付け、愛し侯ふ様に持なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟
余多打ち崩し侯の間、其の後は、中中寄り付く行及ばず、難なく、寅七月十七日、
堺の津へ着岸侯ひしなり。
0309人間七七四年2016/04/22(金) 21:11:05.16ID:Qlm7sFUg
>>308
その牛一信長記の記述を裏付ける一次資料は存在しないぞ?
0310>>3022016/04/22(金) 21:22:06.48ID:QhqB6hUS
>>308
鉄甲船の有効性に対する疑問もそうだけど、
この>大鉄炮一度に放ち懸けにある大鉄炮って
実際どんなもので、どれだけ有効だったのかな
0311人間七七四年2016/04/22(金) 21:43:33.72ID:xtydZ28u
>>310
手元の本では、堺に停泊中の大型船を宣教師が見学していて、フロイス宛の手紙に、
「大砲三門が載っていたが、大友宗麟以外に日本に大砲はなかったはずなのに」
驚いたそうな
同じ手紙に「実際に、大砲と装置を見た」と書いてあるそうなので、先込め式の「大筒」ではなく、
装填装置のついた「フランキ砲」とかいうものと考えられるとか

信長研究で有名な、藤本正行氏の本なので、間違いないでしょう
威力までは、さすがに分からないけど
0312人間七七四年2016/04/22(金) 22:00:34.09ID:mETxaFOz
板に鉄張りなら鉄門として城でもよく見られるし、そう珍奇なものではない
0313人間七七四年2016/04/22(金) 22:07:28.90ID:ftekyBdL
船というより海上の砦みたいに使ったって何かで読んだな
0314人間七七四年2016/04/23(土) 01:32:54.04ID:enjddD3R
>>309
>記録、一次資料(一次史料の誤り?)
偉そうな事言うのなら、もう少し丁寧に使い分けろ。はっきり言って、ド素人臭がする。
0315人間七七四年2016/04/23(土) 01:47:07.24ID:enjddD3R
・・・からかっこ悪いぞ。
(なんだかイライラして文章が無駄に荒れてるわ。)
0316人間七七四年2016/04/23(土) 13:50:54.93ID:lsOyNRP7
>>302
>実際はどんなものだった
大型の安宅船に大砲を搭載したもの
鉄板を貼っていたとか何とか、関係者の記録には一切そんな言及はない

「第二次木津川海戦で織田方の鉄の船が毛利水軍を蹴散らした」という主旨を吹聴する者が
いて、京で噂になったと、奈良の坊さんが記録した(鉄甲船とは言っていない)
合戦の現場を見ていない者による伝言ゲームで情報が変容した事例
ここから想像を膨らませ、近年になって「鉄甲船」という架空の船が創られた
信長よりわずかに後の時代に試作された、秀吉の鉄張り船(失敗作)も参考にしたと思われる
0317人間七七四年2016/04/23(土) 14:06:18.64ID:OT1IlTtL
えらくドヤドヤしてるが、秀吉は諸大名にいきなり鉄板割り当てて
鉄甲船は朝鮮で海戦参加もしてるぞ。戦績は不明だが。
 
秀吉が唐突に鉄甲船を思いついたと考えるよりは、信長の前例が
あったとする方が蓋然性高いだろ。
0318人間七七四年2016/04/23(土) 14:10:44.07ID:UhKFeVre
秀吉が突然思いついて何か不都合でもあるのか?
0319人間七七四年2016/04/23(土) 14:31:26.00ID:xKcQIW7Z
一応、秀吉の鉄甲船が失敗したのは、鉄張り故でなく不慣れな大名が担当して、
船梁の強度が足りなかったから
後は、名護屋城図屏風に描かれている3重や2重の天守も原因としてありそう
0320人間七七四年2016/04/23(土) 20:46:36.99ID:FNxVeqnt
>>302
ある程度丈夫でも図体がでかくて、動きが遅いんじゃ
かえって標的になるだけの様な気がするな
仮にある程度鉄板が使われていたにしても
船の表面全体を覆っていたわけでもないだろうし
もし大砲をつんでいたにしろ、威力となにより命中力に問題がありそうだ
まあ見た目的には迫力は有りそうだから、威嚇目的だったら
役に立ったかもしれないけど
0321人間七七四年2016/04/23(土) 20:49:44.55ID:j/yFdFvA
なんだそりゃ
0322人間七七四年2016/04/23(土) 20:53:18.68ID:xKcQIW7Z
信長の鉄甲船があったとしても木津川口の封鎖で動かなくても良い
秀吉の鉄甲船も迎撃が目的だから機動力は低くても良い
そもそも安宅船の機動性が大したことない
0323人間七七四年2016/04/23(土) 21:40:04.71ID:7PeHdD5l
手元の信長公記を見ると、そもそも信長が作らせた「大船」って、8隻あるんだよね
1573年に琵琶湖に浮かべたのが最初で、これは足利義昭を討伐するのに1度だけ使って、
3年後に解体
で、1578年に九鬼嘉隆に6隻、滝川一益に1隻作らせてて、この九鬼嘉隆に作らせたのが、
いわゆる「鉄甲船」とされる物らしい

ただ、信長公記にも、さらに藤本正行氏の本では、建造した九鬼嘉隆の家譜にも、実際にその船を見学した
宣教師のオルガンチノって人物の報告書にも、鉄の装甲が張ってあったとは書いて無いとか
どんな書き方かは分からないけど、唯一、当時の「多門院日記」という資料に噂話として、「鉄甲船」であるかのように
書かれているそうな
8隻全てについて、「大船」の大きさにみんな驚いたとは、信長公記に書いてあるので、そのインパクト自体に、
威力があったんじゃなかろうか

ここからは、おれの思い付きだけど、滝川一益の作った船だけ「白船に仕立てさせた」と書かれてるので、
他のは、まっ黒けとかだったのでは
それが、鉄が張ってあるように見えたとか
0324人間七七四年2016/04/24(日) 18:09:26.59ID:FHHJ7EC4
あの前田利常の鼻毛ってどうなの
やっぱり創作?
0325人間七七四年2016/04/24(日) 18:22:06.50ID:7xDMw5Op
>>301
それは難癖に他ならない
0326人間七七四年2016/04/24(日) 20:00:12.69ID:/tOrPVLq
豊臣家は家康が秀頼に将軍職を譲ると思い込んでいて、秀忠に譲られると怒ったって話は誰が言い出したんだろう?
政権を秀頼に返すって話が変化しんだろうけど
0327人間七七四年2016/04/24(日) 21:21:29.60ID:/uHr2aKe
>>302
そもそも当時の技術でどれだけの強度の
鉄の装甲板が造れたか怪しいしな
0328人間七七四年2016/04/25(月) 00:50:39.59ID:XUt5s9GA
>>327
別に船が鉄でできてたわけじゃない
木造船の表面に薄い鉄板貼っただけじゃん
0329人間七七四年2016/04/25(月) 08:54:04.78ID:pJG46Pan
そいつ絶対認めない人やから
0330人間七七四年2016/04/25(月) 21:32:42.10ID:mV0hQrqr
串刺しや皆殺しなどの見せしめ大好きの秀吉を
人殺しや残酷な事が嫌いってイメージを創作したのは
小瀬甫庵かな
0331人間七七四年2016/04/25(月) 21:37:46.97ID:Z23buSN0
>>330
秀吉自身の指示で大村由己が執筆した天正記
0332人間七七四年2016/04/25(月) 21:52:20.90ID:BY7R2qpS
勝者が自分の敵を良く書くわけは無いので、豊臣のネガティブイメージは
だいたいは誇張があるとみている
0333人間七七四年2016/04/25(月) 22:03:53.37ID:V+tZc6ym
>>332
豊臣のネガティブイメージは基本一次史料が根拠なんだよなあ……
そもそも幕府主導で秀吉を悪く言ったという事実はない
0334人間七七四年2016/04/25(月) 22:06:03.18ID:BY7R2qpS
>>333
秀吉は百姓上がりで源氏ではないから将軍になれなかった、という
俗説を作ったのは新井白石だが
0335人間七七四年2016/04/25(月) 22:09:53.67ID:pCKeFBGF
もう秀吉ネタ、いらね
0336人間七七四年2016/04/25(月) 22:18:25.23ID:V+tZc6ym
>>334
その捏造逸話で秀吉にネガティブイメージ持つ人いるの?
0337人間七七四年2016/04/25(月) 22:26:34.08ID:BY7R2qpS
>>336
何もしらん人なら持つんじゃね?
微妙に征夷大将軍になれた家康のほうがずっと偉いんだぞ!って
印象操作含んでいるし歴史を学び始めた人なら騙される。
これを捏造したのは幕府なんだが。
0338人間七七四年2016/04/25(月) 22:50:15.09ID:V+tZc6ym
>>337
0339人間七七四年2016/04/25(月) 22:52:34.05ID:V+tZc6ym
>>337
家康のポジティブイメージとは言えるけど秀吉のネガティブイメージというとどうかなー
実際その後更に高位の関白になれてるから騙される人いないんじゃないの?
0340人間七七四年2016/04/26(火) 00:15:03.75ID:MWLVzlaw
家康を上げるのになんでわざわざ秀吉をダシにするのよ?
相対的に秀吉を下げてるだろ
関白の方が格が上なんて歴史好きじゃないとわからんだろう

あとは淀君という呼称もそうだ。秀頼の母を過度に下げるもので
宣伝以外の何物でもないな
0341人間七七四年2016/04/26(火) 00:38:30.45ID:X57IM2SP
キチガイ警報
0342人間七七四年2016/04/26(火) 21:41:41.27ID:LPMXj7Eq
あえて秀吉と家康の話をさせてもらうと、秀吉も案外出産経験のある女性を側室に入れてるのに
家康ばかり出産経験のある熟女好きのイメージがあるのは何故だろう
家康は熟女好きはそれこそ若い頃一時期とくらいで、後半生見たら
むしろ若い子、ロリータ好きに思えるんだが
0343人間七七四年2016/04/26(火) 21:53:54.27ID:CfLZs7Fe
産む機械
0344人間七七四年2016/04/26(火) 22:40:11.85ID:Hc4olLHj
>>342
どっちもロリコンのイメージあるけどなあ
0345人間七七四年2016/04/26(火) 22:47:36.31ID:Bj3nN3uE
でも創作と事実だろうって書物しかないからわからんよね。
いま自分がいかにもそれらしき物語をうまく描いて、千年ごとか発掘されてその時代の人が見て信じちゃったみたいな
0346人間七七四年2016/04/26(火) 22:49:02.82ID:Bj3nN3uE
タイムマシンできて謙信本当に女だったらたまげるしなw
0347人間七七四年2016/04/27(水) 02:20:34.24ID:z3efrvva
なんか宗教にはまってて生涯妻帯してなくて複数養子迎えててその死後に養子同士が後継を争った
細川政元ちゃんは女の子だったんですか?
0348人間七七四年2016/04/27(水) 07:49:01.78ID:ZrE1Xs5G
たまたま豊臣秀頼、風間小太郎、黒田長政の骨だけが千年後に発掘されたら、戦国時代の男子平均身長は約190cm前後ってなるかもしれないなw
福岡市で開催された「黒田家」展で見た黒田長政の水牛角の甲冑のデカさにはたまげたわ。
0349人間七七四年2016/04/27(水) 12:42:27.68ID:qT0upELl
長政190もあったんだ!
相当な威圧感。
鎧似合いそうだ
0350人間七七四年2016/04/27(水) 12:56:35.32ID:T6XsD7PJ
浅井の間違いでは…ないな

黒田長政は去年の大関ヶ原展福岡会場で
関ヶ原で着用した一の谷兜と鎧のセットが展示されてたが
160センチ前後だと思うぞ
同時に展示されてた細川忠興の甲冑より小さめだったし
立花宗茂や加藤清正の甲冑と比べると明らかに一回り小さかった
身長は当時の平均だと思うがすごく華奢だった
0351人間七七四年2016/04/27(水) 13:02:48.85ID:T6XsD7PJ
>>348が見たのはひょっとしたら黒田一成の甲冑かもしれんね
長政の義弟で身の丈6尺、長政と同じデザインの甲冑を身につけていたそうだ
0352人間七七四年2016/04/27(水) 15:19:59.80ID:IkwnCSST
水に沈んだまま浮かんでこないのほうが長政
0353人間七七四年2016/04/27(水) 17:52:47.54ID:idNlYBCe
同じデザインなんだww
なんか嫌だよな、向こうのが背がでかくて似合いそうだし。
0354人間七七四年2016/04/27(水) 18:08:54.59ID:VPrY1gTW
二人並ぶと射距離の欺瞞効果が高そうだなw
0355人間七七四年2016/04/27(水) 19:29:40.03ID:yNS3exgq
秀頼の身長が190cmあったっていう話は、何が根拠なんだろう
今読んでる「日本の戦史 大坂の役」では、本文にも史料編にも、
「デブだった」としか書いて無いんだよね
0356人間七七四年2016/04/27(水) 19:32:10.50ID:xcUMZZOQ
明良洪範だろ
0357人間七七四年2016/04/27(水) 20:10:24.87ID:idNlYBCe
おデブの190じゃ関取級じゃねーか!!
しかも顔は優しいという。
0358人間七七四年2016/04/27(水) 21:04:41.89ID:p/LrPoWV
内山くんを大きくした感じかな
0359人間七七四年2016/04/27(水) 21:31:59.93ID:81SCzsD7
秀頼大坂の陣で馬上姿を現すことは最期まで無かったとか言われてるけど
身長197cmで体重161kgとか、そんな巨体乗せられる馬とか
当時いたのかねぇ
0360人間七七四年2016/04/27(水) 21:38:00.48ID:idNlYBCe
まじ!161キロ。
今なら相撲取りに即スカウトレベルじゃねーか。凄いな秀頼さん
0361人間七七四年2016/04/27(水) 21:46:18.39ID:yNS3exgq
そのサイズがどうも信じられん
その時代に何食ったら、そんなにデカくなれるんだ
0362人間七七四年2016/04/27(水) 21:51:40.19ID:xcUMZZOQ
いや信じるなよw
0363人間七七四年2016/04/27(水) 21:53:05.17ID:RAMHu5za
あまり信頼性のある史料ではないし
0364人間七七四年2016/04/27(水) 22:22:42.51ID:IkwnCSST
秀頼死んでから何十年も経って書かれた書物だもんね
0365人間七七四年2016/04/27(水) 23:03:45.17ID:gRw53moO
>>358
内山君実物見たら悪そうな顔してるぞ
0366人間七七四年2016/04/28(木) 00:49:50.39ID:NTq2yZu0
モンゴルで今飼育されてる馬は決して大柄ではないようだけど、
割とタッパがその秀頼と同じくらいのモンゴル人力士とか普通に馬乗ってるからなあ
頑丈な馬だったら案外乗れたんじゃないか
0367人間七七四年2016/04/28(木) 13:35:54.09ID:CTJ3MH49
秀吉が諸大名の前で弓箭の道、所謂戦場で一度も不覚をとった事がないと言った時、
家康が小牧の事を忘れたのかと言ったって話は本当にあったのかな
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