実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0242人間七七四年
2016/04/01(金) 14:27:32.32ID:L4+J1DkX×「家康が自ら描かせ、障害座右を離さなかった」とする話に改変
○「家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかった」とする話に改変
0244人間七七四年
2016/04/01(金) 19:55:05.38ID:IhrIGPJSそういうふうに扱えばそれが「本物」になる場合だってあるんだから
菊地秀行さんの文章で、土産物かなんかの仏像を人から預かったのを、仏像だからと拝んでたら、
毎晩、夜中に歩きまわる音がするようになった
みたいなものでしょう
0245人間七七四年
2016/04/01(金) 20:30:49.03ID:by2E3x6S専門家はそういうわけにはいかないでしょ
0246人間七七四年
2016/04/01(金) 23:18:07.38ID:IhrIGPJS専門家がどこに!?
0248人間七七四年
2016/04/02(土) 11:45:16.94ID:9kDY7Xd4という話が江戸時代から伝わっていたものではなく、
産まれてから半世紀も経っていない都市伝説だったということだ
0249人間七七四年
2016/04/02(土) 11:50:31.46ID:L26kXm6E0250人間七七四年
2016/04/02(土) 12:25:11.29ID:3eCsBZoa現時点では誰の肖像なのかは不明な以上本当は誰だったのか知りたいじゃん
実際別人の可能性が高いのに嘘はよくないでしょ
0251人間七七四年
2016/04/02(土) 12:46:28.88ID:9kDY7Xd4それは保証できない
1805年に従姫の個人所有から尾張家所有へと移行したことは確かだろうけど
果たして、嫁入りの際に持って来た品と、
嫁入り後に従姫が入手したor描かせた品とを、
1805年時点の尾張家の者が、明確に区別できたかどうか…
0252人間七七四年
2016/04/02(土) 12:49:03.03ID:ObwYADRW0253人間七七四年
2016/04/02(土) 12:55:58.67ID:1MUiW9ug0254人間七七四年
2016/04/02(土) 13:10:34.57ID:ObwYADRW「論文を近く発表予定」で続報もないから指摘の通りでした
0255人間七七四年
2016/04/02(土) 13:53:32.58ID:L26kXm6E0256人間七七四年
2016/04/02(土) 14:44:30.79ID:f6IEGKka0257人間七七四年
2016/04/02(土) 16:02:27.40ID:kUvC6pDS普通に考えたら、うんこ漏らしたしかめっ面
0258人間七七四年
2016/04/02(土) 16:32:21.76ID:buZ5+gA50259人間七七四年
2016/04/04(月) 05:58:04.62ID:0vtsVl1b帽子の箇所だけマジックで描いたみたいに見える…
0260人間七七四年
2016/04/04(月) 07:11:18.53ID:ZkL0X1+j0261人間七七四年
2016/04/04(月) 18:29:18.21ID:B+ZqgMux0262人間七七四年
2016/04/06(水) 09:38:11.04ID:vY95KbxKついでに隻眼と言えば柳生十兵衛を隻眼にしたのは誰だろう
当時の記録には無かったはずだけど
0263人間七七四年
2016/04/06(水) 10:38:38.23ID:raJ8AOTo後松平広忠を暗殺したと言われる岩松八弥がいるな
0264人間七七四年
2016/04/06(水) 10:42:50.17ID:sY4PWtjy0265人間七七四年
2016/04/06(水) 10:56:04.86ID:F+KB7Gtr0266人間七七四年
2016/04/06(水) 12:21:39.64ID:3mVmumnh0267人間七七四年
2016/04/06(水) 13:35:09.26ID:DxBvTpVy剣豪スレでは山田風太郎が初出みたいな意見が出たけど、
もっと古くから隻眼キャラクター像があったんじゃないかとも思える
0268人間七七四年
2016/04/06(水) 14:32:46.04ID:DxBvTpVy夏侯惇は、正史では眼帯を使っていない
眼球を失った眼窩には、布を巻いて縛り付けていた
>>262
そういえば、
北条氏照なんかと同年代のアナ・デ・メンドーサ女史は
眼帯を使っていた
0269人間七七四年
2016/04/07(木) 12:18:28.95ID:+FnzAPPp0270人間七七四年
2016/04/07(木) 21:58:28.59ID:+FnzAPPp小説家の影響が大きかったのは昭和くらいまでで
今は研究家の恣意的な論文やそれを真に受けた
ゲームや漫画、ドラマの影響の方が大きい
0271人間七七四年
2016/04/10(日) 22:31:07.50ID:HdQIhrHd0272人間七七四年
2016/04/10(日) 22:35:02.68ID:ZNtSBhwa0273人間七七四年
2016/04/11(月) 09:21:45.91ID:g5NPkXWKそそてさらに拍車をかけたのは無双とかゲームな感じで
0274人間七七四年
2016/04/11(月) 11:01:07.53ID:swM7AXIe同時に出す策がみんな上手くいく家康、どれだけ凄いんだって感じになっているけど
0275人間七七四年
2016/04/13(水) 18:05:18.08ID:sA6v5L2r徹底して美化しまくったせいで、いかにも理想のリーダー的なスーパーマンになってしまった、大河ドラマ化で、さらにそれが広がった、
みたいなことを、藤本正行氏がどこかで書いてた
藤本正行氏の著作は、武功夜話や、本能寺の変謀略説への批判とか大いに影響されてるし、
信長公記を基本に据えた信長の人生の見直しなど、立派な業績だと思うけど、
他人へのケンカ腰の姿勢とか、テレビやフィクションへの悪意に満ちた記述だけは、どうも好きになれない
0276人間七七四年
2016/04/13(水) 18:21:45.18ID:+0YWnooI0277人間七七四年
2016/04/13(水) 20:11:27.40ID:IM1GmK1u山岡荘八の「徳川家康」は家康がめっちゃ善人でいい人設定になっていて今となっては笑えるね
0279人間七七四年
2016/04/13(水) 23:53:42.58ID:Wjh6FtXk0280人間七七四年
2016/04/14(木) 00:01:18.76ID:KjDyWEyq0281人間七七四年
2016/04/14(木) 07:05:06.43ID:tI1MsOS0それはないわww
0282人間七七四年
2016/04/14(木) 17:39:51.34ID:BirWVk4k0283人間七七四年
2016/04/14(木) 18:15:47.03ID:AESTooQB0284人間七七四年
2016/04/14(木) 20:46:49.75ID:tNjrOcYi0285人間七七四年
2016/04/14(木) 20:57:57.97ID:woGZkLyM0286人間七七四年
2016/04/15(金) 17:17:47.81ID:xVMvKYlp0287人間七七四年
2016/04/15(金) 17:49:52.81ID:Wj98T75J0288人間七七四年
2016/04/15(金) 18:38:07.67ID:AT5oxggPてんぷら食いすぎて体調悪化させたとかさ
0289人間七七四年
2016/04/15(金) 19:33:27.68ID:DydrgeHS0290人間七七四年
2016/04/16(土) 12:15:15.79ID:bbzwP7oT陣を乱されて敗走する家康を、この寺のお堂の陰から後藤又兵衛が突き殺したと、
実に具体的な話である
さて、史実と検証してみると、
・後藤又兵衛は、家康が大坂に到着する前に戦死していた
・南宗寺は大坂夏の陣直前、大坂軍の放火によって焼失していた
伝説を史実認定するには少々無理があります
考えられることは、
大坂軍によって焼き払われた堺の街の復興に道筋を付けてくれたことで、
堺の町衆は徳川家、ひいては家康に感謝し、再建した南宗寺に家康を象徴する慰霊碑を建立した
それが家康の墓という話にすり替えられ、いつしか南宗寺の境内で家康が討ち取られた
という話が出来上がっていったと
0291人間七七四年
2016/04/16(土) 20:43:24.06ID:/iqem9iN創作した真田や勝永好きなんかにしてみれば、せめて本当は討取っていた事にして
溜飲を下げたかったんだろうな
0292人間七七四年
2016/04/16(土) 20:59:58.42ID:rKxDRjUmそれに屈服した諸大名は
もっとしょぼく見えてしまうんだがな(笑)
0293人間七七四年
2016/04/17(日) 12:06:09.49ID:/ITwSmsl他の大名とかどんな扱いされてても構わないんだろう
0294人間七七四年
2016/04/18(月) 02:19:38.84ID:UBrpAUi3あれは奇跡。
常識では考えられないことが戦国時代に起こっていても不思議ではないなと考え直させられたよ。
0295人間七七四年
2016/04/18(月) 08:16:19.48ID:NB+dYCMK0297人間七七四年
2016/04/18(月) 21:21:10.70ID:XqkEr1W70298人間七七四年
2016/04/18(月) 22:08:40.84ID:OyK+sTLb0299人間七七四年
2016/04/19(火) 00:27:25.68ID:qYMW80I4あの状態では迂闊には近付けないよなぁ…
一旦人工的に緩やかに倒壊させてから組み直すのかね?
好きな城だから心配だ
0300人間七七四年
2016/04/21(木) 12:43:37.98ID:hhUFgroG一応明治までは遡れるみたいだが初出はよくわからんらしい
隻眼がトレードマークになるのは戦後になってからでそれまでは両目隻眼混在してたみたいだが
山風の十兵衛は隻眼だが眼帯はしてない
http://togetter.com/li/874272
0301人間七七四年
2016/04/22(金) 11:47:31.39ID:by9ZZ02x0302人間七七四年
2016/04/22(金) 20:05:40.80ID:QhqB6hUSフィクションの世界とかでは結構役立ってるけど、
実際はどんなものだったんだろうか
表面に鉄板を貼った程度だっただろうけど
当時の船の中では防御力高かったかもしれないが
何より航行能力に疑問を感じるのだけど
0303人間七七四年
2016/04/22(金) 20:09:12.55ID:Qlm7sFUg少なくとも対毛利戦で、いわゆる鉄甲船が役に立ったとか戦果を上げたとかいう記録は一切存在しない。
紀伊のしょぼい海賊を追い払ったって話が唯一。
そして第二次木津川合戦のあと鉄甲船は即座に解体されて小さな船に作りなおされた。
まあ何の役にも立たなかったと見るのが正しかろう
0304人間七七四年
2016/04/22(金) 20:31:38.58ID:Cq+rDrPP0305人間七七四年
2016/04/22(金) 20:47:34.93ID:mETxaFOzなお、鉄甲船は秀吉の号令でも建造されているので、
信長の前例があっても不思議ではない
0306人間七七四年
2016/04/22(金) 20:51:19.37ID:+wrt6VBf信長の大船が鉄甲船かはともかく
朝鮮征伐や江戸時代でも使われてるから有効性はあっただろう。木造船は燃えるのが一番怖いし
まぁ重量と波に耐え切れなくて沈むのもあったつーけど
0307人間七七四年
2016/04/22(金) 20:53:17.81ID:xtydZ28uでも、当時の宣教師の報告とか、公家の日記かなんかで、船の存在自体は書かれるほどだったそうなので、
信長の力を示すアピールにはなったんじゃないの
0308人間七七四年
2016/04/22(金) 21:06:01.17ID:euGqnjng>記録は一切存在しない。
普通に信長公記に書かれているけど?
九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、
敵舟を間近く寄せ付け、愛し侯ふ様に持なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟
余多打ち崩し侯の間、其の後は、中中寄り付く行及ばず、難なく、寅七月十七日、
堺の津へ着岸侯ひしなり。
0310>>302
2016/04/22(金) 21:22:06.48ID:QhqB6hUS鉄甲船の有効性に対する疑問もそうだけど、
この>大鉄炮一度に放ち懸けにある大鉄炮って
実際どんなもので、どれだけ有効だったのかな
0311人間七七四年
2016/04/22(金) 21:43:33.72ID:xtydZ28u手元の本では、堺に停泊中の大型船を宣教師が見学していて、フロイス宛の手紙に、
「大砲三門が載っていたが、大友宗麟以外に日本に大砲はなかったはずなのに」
驚いたそうな
同じ手紙に「実際に、大砲と装置を見た」と書いてあるそうなので、先込め式の「大筒」ではなく、
装填装置のついた「フランキ砲」とかいうものと考えられるとか
信長研究で有名な、藤本正行氏の本なので、間違いないでしょう
威力までは、さすがに分からないけど
0312人間七七四年
2016/04/22(金) 22:00:34.09ID:mETxaFOz0313人間七七四年
2016/04/22(金) 22:07:28.90ID:ftekyBdL0314人間七七四年
2016/04/23(土) 01:32:54.04ID:enjddD3R>記録、一次資料(一次史料の誤り?)
偉そうな事言うのなら、もう少し丁寧に使い分けろ。はっきり言って、ド素人臭がする。
0315人間七七四年
2016/04/23(土) 01:47:07.24ID:enjddD3R(なんだかイライラして文章が無駄に荒れてるわ。)
0316人間七七四年
2016/04/23(土) 13:50:54.93ID:lsOyNRP7>実際はどんなものだった
大型の安宅船に大砲を搭載したもの
鉄板を貼っていたとか何とか、関係者の記録には一切そんな言及はない
「第二次木津川海戦で織田方の鉄の船が毛利水軍を蹴散らした」という主旨を吹聴する者が
いて、京で噂になったと、奈良の坊さんが記録した(鉄甲船とは言っていない)
合戦の現場を見ていない者による伝言ゲームで情報が変容した事例
ここから想像を膨らませ、近年になって「鉄甲船」という架空の船が創られた
信長よりわずかに後の時代に試作された、秀吉の鉄張り船(失敗作)も参考にしたと思われる
0317人間七七四年
2016/04/23(土) 14:06:18.64ID:OT1IlTtL鉄甲船は朝鮮で海戦参加もしてるぞ。戦績は不明だが。
秀吉が唐突に鉄甲船を思いついたと考えるよりは、信長の前例が
あったとする方が蓋然性高いだろ。
0318人間七七四年
2016/04/23(土) 14:10:44.07ID:UhKFeVre0319人間七七四年
2016/04/23(土) 14:31:26.00ID:xKcQIW7Z船梁の強度が足りなかったから
後は、名護屋城図屏風に描かれている3重や2重の天守も原因としてありそう
0320人間七七四年
2016/04/23(土) 20:46:36.99ID:FNxVeqntある程度丈夫でも図体がでかくて、動きが遅いんじゃ
かえって標的になるだけの様な気がするな
仮にある程度鉄板が使われていたにしても
船の表面全体を覆っていたわけでもないだろうし
もし大砲をつんでいたにしろ、威力となにより命中力に問題がありそうだ
まあ見た目的には迫力は有りそうだから、威嚇目的だったら
役に立ったかもしれないけど
0321人間七七四年
2016/04/23(土) 20:49:44.55ID:j/yFdFvA0322人間七七四年
2016/04/23(土) 20:53:18.68ID:xKcQIW7Z秀吉の鉄甲船も迎撃が目的だから機動力は低くても良い
そもそも安宅船の機動性が大したことない
0323人間七七四年
2016/04/23(土) 21:40:04.71ID:7PeHdD5l1573年に琵琶湖に浮かべたのが最初で、これは足利義昭を討伐するのに1度だけ使って、
3年後に解体
で、1578年に九鬼嘉隆に6隻、滝川一益に1隻作らせてて、この九鬼嘉隆に作らせたのが、
いわゆる「鉄甲船」とされる物らしい
ただ、信長公記にも、さらに藤本正行氏の本では、建造した九鬼嘉隆の家譜にも、実際にその船を見学した
宣教師のオルガンチノって人物の報告書にも、鉄の装甲が張ってあったとは書いて無いとか
どんな書き方かは分からないけど、唯一、当時の「多門院日記」という資料に噂話として、「鉄甲船」であるかのように
書かれているそうな
8隻全てについて、「大船」の大きさにみんな驚いたとは、信長公記に書いてあるので、そのインパクト自体に、
威力があったんじゃなかろうか
ここからは、おれの思い付きだけど、滝川一益の作った船だけ「白船に仕立てさせた」と書かれてるので、
他のは、まっ黒けとかだったのでは
それが、鉄が張ってあるように見えたとか
0324人間七七四年
2016/04/24(日) 18:09:26.59ID:FHHJ7EC4やっぱり創作?
0325人間七七四年
2016/04/24(日) 18:22:06.50ID:7xDMw5Opそれは難癖に他ならない
0326人間七七四年
2016/04/24(日) 20:00:12.69ID:/tOrPVLq政権を秀頼に返すって話が変化しんだろうけど
0327人間七七四年
2016/04/24(日) 21:21:29.60ID:/uHr2aKeそもそも当時の技術でどれだけの強度の
鉄の装甲板が造れたか怪しいしな
0329人間七七四年
2016/04/25(月) 08:54:04.78ID:pJG46Pan0330人間七七四年
2016/04/25(月) 21:32:42.10ID:mV0hQrqr人殺しや残酷な事が嫌いってイメージを創作したのは
小瀬甫庵かな
0332人間七七四年
2016/04/25(月) 21:52:20.90ID:BY7R2qpSだいたいは誇張があるとみている
0333人間七七四年
2016/04/25(月) 22:03:53.37ID:V+tZc6ym豊臣のネガティブイメージは基本一次史料が根拠なんだよなあ……
そもそも幕府主導で秀吉を悪く言ったという事実はない
0334人間七七四年
2016/04/25(月) 22:06:03.18ID:BY7R2qpS秀吉は百姓上がりで源氏ではないから将軍になれなかった、という
俗説を作ったのは新井白石だが
0335人間七七四年
2016/04/25(月) 22:09:53.67ID:pCKeFBGF0337人間七七四年
2016/04/25(月) 22:26:34.08ID:BY7R2qpS何もしらん人なら持つんじゃね?
微妙に征夷大将軍になれた家康のほうがずっと偉いんだぞ!って
印象操作含んでいるし歴史を学び始めた人なら騙される。
これを捏造したのは幕府なんだが。
0339人間七七四年
2016/04/25(月) 22:52:34.05ID:V+tZc6ym家康のポジティブイメージとは言えるけど秀吉のネガティブイメージというとどうかなー
実際その後更に高位の関白になれてるから騙される人いないんじゃないの?
0340人間七七四年
2016/04/26(火) 00:15:03.75ID:MWLVzlaw相対的に秀吉を下げてるだろ
関白の方が格が上なんて歴史好きじゃないとわからんだろう
あとは淀君という呼称もそうだ。秀頼の母を過度に下げるもので
宣伝以外の何物でもないな
0341人間七七四年
2016/04/26(火) 00:38:30.45ID:X57IM2SP■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています