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実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net

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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89C
史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0206人間七七四年2016/03/30(水) 09:43:07.29ID:zwPv+3T/
>>200
信忠とか信雄はまだいいとして、長益とか秀信とかの肖像画って美形か
0207人間七七四年2016/03/30(水) 09:53:18.92ID:G27HQSQ/
加藤清正と織田信長の創作っぷりが
真田幸村よりも盛られていてすごいんだな

名古屋民あほちゃうの
0208人間七七四年2016/03/30(水) 11:04:06.63ID:PyzczZMD
>>205
信玄の肖像画って言われていたのが畠山だったり、尊氏と言われていたのが高一族だったり、
頼朝と言われていたのが足利直義だったりするけど、義経の肖像画も本人なのだろうか
0209人間七七四年2016/03/30(水) 11:16:53.72ID:2utvCIPz
>>207
加藤清正を盛る活動は、徳川吉宗が始めたと考えられている
名古屋民は関係ないと見て良い
0210人間七七四年2016/03/30(水) 11:47:50.30ID:2IP+aoN1
>>208
それらは、創作ではなく素で間違えてたんでしょ
0211人間七七四年2016/03/30(水) 12:45:34.63ID:wcRaJvAl
義経は平家物語で「背が小さくて出っ歯で平家の公達の一番最悪なのより及ばない」
と書かれている。平家物語なので話半分ではあるけど、義経が美形というのは根拠の無い
話じゃないの?逸話ですらブサイク扱いされてる
0212人間七七四年2016/03/30(水) 13:28:25.07ID:UIm/6kv8
義経は禿げてたんだろ
0213人間七七四年2016/03/30(水) 15:22:25.03ID:2utvCIPz
>>211
平家物語のそのパートは、
義経を憎む平家軍の侍が悪意を込めてそう表現したという流れであり、
小説の役割としても客観性は皆無。地の文ですらない

複数の情報源によれば、義経は体格が貧弱で、
侍としては身体的に不利だったという点は信頼性が高いが、
容姿については全く判らない
0214人間七七四年2016/03/30(水) 19:26:42.06ID:WuOEWJcf
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
 それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
 しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
 結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。

近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)
0215人間七七四年2016/03/30(水) 20:12:46.71ID:wcRaJvAl
>>213
最初から平家物語だから話半分って言ってるよ。
でも美形だったらブサイク煽りはないと言える。
つまり、義経は美形ではない。
0216人間七七四年2016/03/30(水) 20:16:14.86ID:3KoHF2ek
ああいうのが、モテ男だったのかもしれないじゃん
こう、ちょっとワイルドな感じで
0217人間七七四年2016/03/30(水) 20:19:15.57ID:8Xmg7lP3
>>215
世間的に美男美女とされてるタレントやらアイドルやらをブサイクブサイク言ってるお前がそんなことを
0218人間七七四年2016/03/30(水) 21:03:36.63ID:bNX8qEWj
ここ、戦国時代板なんですが
0219人間七七四年2016/03/30(水) 21:19:23.58ID:2utvCIPz
>>215
まだ理解していないようだな
平家物語だから話半分と言っているか否かを問題にしているのではない
平家物語の中で義経醜男の情報が出た箇所が、悪く表現する意図が込められた部分だということ
これでは、例え平家物語が小説ではなくて史料だったとしても、
義経が美形だったか醜男だったかの判断の根拠にはならないっつーの
平教教らが義経を醜男呼ばわりしたという根拠以外の何物にもならない

>でも美形だったらブサイク煽りはないと言える。
>つまり、義経は美形ではない。
この前提と理論構築が間違い。悪口というものは、事実とは逆のことを言うことも有り得る

お前さんは情報を汲み上げて結論を導き出す手法がズレているし、
反論しようとすると、その論点もズレている
0220人間七七四年2016/03/30(水) 22:38:43.17ID:wcRaJvAl
理論構築とか馬鹿じゃないのw

そんなことをいうなら、若くて死んだ人間が美形だったというのは補正があると
考えられるから信じられないね。織田秀孝みたいに。
0221人間七七四年2016/03/30(水) 22:49:11.28ID:wcRaJvAl
織田秀孝が美形だって言ってるのも、織田信長の家臣だから当然持ちあげるよね。
補正が効いてるから信じらられないね。

それと>>215の書いてる内容を全く理解できてないのは>>219の馬鹿。
こっちはまったくそんなことを言ってない。
>>219みたな馬鹿な発言を、説教臭く人に話せるってどんだけ低学歴よ。
0222人間七七四年2016/03/31(木) 11:51:46.47ID:7y5HpAsq
実際はそれほどでもなかった義姫と政宗や信玄と三条夫人の不仲とか、貿易積極派だった家康の鎖国主義とか、保守的な面が多い信長の革命家とか、
政治家としては有能だった秀忠の無能化とか作家が広めた話は多々あるな
0223人間七七四年2016/03/31(木) 12:21:51.16ID:d751Mc/F
それこそが作家の力量だからな
0224人間七七四年2016/03/31(木) 13:05:38.49ID:3hsKKsRJ
小瀬甫庵の作品もそうだが、常山紀談とか名将言行録とか
集古十種とかも結構通説俗説のネタ元になってるな
0225人間七七四年2016/03/31(木) 13:06:42.62ID:5A4zXBij
>>220>>221が、論旨を読み取る能力を欠いた低能なのは判ったが、
あえて恥の上塗りをしたいという、その目的は一体なんだ?
0226人間七七四年2016/03/31(木) 13:20:16.58ID:61fIeOpf
ああ、そうか
>>211で、○○だから△△じゃないの?といった形式の
結論の出し方が何か違和感があってスッキリしないと思ったら、
論理の過誤が>>219で実に解りやすく指摘されてた

何一つ反証できずに感情的に罵倒するだけの>>220>>221は、
確かに火病だ
0227人間七七四年2016/03/31(木) 16:51:45.30ID:Ni0nbWa+
「直江状」は結局、「創作」ということになったのかな

大河ドラマ「天地人」の頃は、「現存するのは後世の創作だけど、それに当たるものはあった」
っていう解釈だった気がするけど、最近読んだ本だと、「そもそも、上杉の立場を説明する弁明書的なもので、
いわゆる直江状は、存在しなかった」って書いてあった
旧参謀本部編纂の「関ヶ原の役」も、直江状のことには触れてなかった気がする
景勝の「おれの悪口を言いふらしてるやつらの主張の調査をちゃんとやってくれない限り、上洛できない」
っていう手紙を紹介してたし

「真田丸」ではどうするんだろう
こういう「無いとさみしい」的創作は採用するんだろうか
「創作と分かってても有名なのは許容します」って、時代考証チームはインタビューで答えてたけど
0228人間七七四年2016/03/31(木) 17:47:34.05ID:zTToIza9
結局義経については、ブサイクという証言はあっても、美男だったという証言は皆無なんだな
0229人間七七四年2016/03/31(木) 18:53:39.86ID:JD4Uqr+I
>>227
喧嘩売ってる追記部分はまるっきり後世の創作
本文の弁明書は他史料と合致しててそこそこ信頼は置ける
ただ本文の弁明書も因縁つけてる相手に真っ向から正論で答弁してる訳で喧嘩買ってると見れないことも無い
演出次第でいかようにも使えるやろ
0230人間七七四年2016/03/31(木) 19:40:48.23ID:UOnHcqyq
大河ドラマに細かい考証なんていらんよ

謙信は信玄と一騎打ちする
武田騎馬隊は鉄砲三段撃ちで全滅する
家康の長男は信長のそれより優秀だったので信長に殺される
明智光秀は人質の母親を殺され家康の接待に腐った魚を出し出雲に国替えで謀反を起こす

大河なんてそれでいいじゃんよ
0231人間七七四年2016/03/31(木) 19:57:33.40ID:9WuONnr0
まぁねぇ、あんなイケメンに美女だらけねわけねーしなぁ
0232人間七七四年2016/03/31(木) 20:21:06.39ID:zTToIza9
武田騎馬軍団なんて存在しなかったらしいしな
0233人間七七四年2016/03/31(木) 21:19:21.66ID:R3IjwpVg
と一時期言われてたけど、やっぱり騎馬武者のみ数十騎単位で
運用してたんじゃね、というのがまた最近はあるみたいだけどね。
0234人間七七四年2016/03/31(木) 21:28:20.49ID:JD4Uqr+I
もともと藤本のも武田騎馬隊はあった武田騎馬軍団はなかったつうどうでもいい主張だからな
0235人間七七四年2016/03/31(木) 22:44:32.25ID:3hsKKsRJ
武田と言えば、山本菅助も不在説が長い間有力で1969年に市河文書が見つかって
実在はしたことが判明し、2008年に真下家所蔵文書、2009年に沼津山本家文書が見つかって
ようやく本人とその子孫の事が分かるようになったくらいだから、
武田騎馬隊についても今後どうなることやら
0236人間七七四年2016/03/31(木) 22:48:46.78ID:34uL7yjN
>>228
義経の美形は、沖田総司の美形と繋がるものを感じる
0237人間七七四年2016/03/31(木) 22:49:04.12ID:3hsKKsRJ
ちなみに市河文書も真下家所蔵文書も沼津山本家文書も
道鬼こと初代かんすけは勘助じゃなくて菅助になってるから
後者が多分正しいんじゃないかな
0238人間七七四年2016/04/01(金) 02:09:35.10ID:qJrWp/Fg
>>229
正論……?
0239人間七七四年2016/04/01(金) 08:35:33.51ID:45eybCwr
>>230
光秀は甲斐で殴られて焼き討ちが許せなくて幕府朝廷を再興させたくて長宗我部毛利上杉北条を助けたくて松永荒木に感化されて秀吉家康勝家とグルだったはずだからな
0240人間七七四年2016/04/01(金) 08:59:41.79ID:6ipnfBMJ
>>222
伊達関連が山岡、武田関連が新田、信長、家康、秀忠関連が司馬の影響かな
0241人間七七四年2016/04/01(金) 14:25:21.07ID:L4+J1DkX
いわゆる「家康しかみ像」についてのまとめ

1780年、従姫が紀州徳川家から尾張徳川家へ嫁ぎ、絵画を持ち込む
1805年、従姫死後、尾張徳川家が絵画を管理
1935年、徳川美術館開館から間もなく、尾張徳川家の末裔の徳川義親氏が絵画を提供
 「尾張徳川家初代の徳川義直が、父の苦難を忘れないように描かせた」と、逸話を添える
 以後、1972年までの間に、苦難=三方ヶ原敗戦と解釈する憶測が普及
1972年、収蔵品図録に記録
 「家康が自ら描かせ、障害座右を離さなかった」とする話に改変

その他の情報
・鑑定によれば、江戸時代の作風
・紀州家から尾張家に持ち込まれたものである
 となれば、1935年の段階で語られたような、
 尾張家の義直が描かせたという話すら成立しないということになる
・家康を描いたという根拠は無く、現時点では誰の肖像なのかは不明
0242人間七七四年2016/04/01(金) 14:27:32.32ID:L4+J1DkX
変換ミスった

×「家康が自ら描かせ、障害座右を離さなかった」とする話に改変
○「家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかった」とする話に改変
0243人間七七四年2016/04/01(金) 15:30:40.69ID:+nHbP4Qq
>>241
>現時点では誰の肖像なのかは不明
クソワロタw
0244人間七七四年2016/04/01(金) 19:55:05.38ID:IhrIGPJS
みんなが家康って言えば家康になるんだから、それでいいんじゃないの
そういうふうに扱えばそれが「本物」になる場合だってあるんだから

菊地秀行さんの文章で、土産物かなんかの仏像を人から預かったのを、仏像だからと拝んでたら、
毎晩、夜中に歩きまわる音がするようになった
みたいなものでしょう
0245人間七七四年2016/04/01(金) 20:30:49.03ID:by2E3x6S
素人ならそれでいいかもしれないけど
専門家はそういうわけにはいかないでしょ
0246人間七七四年2016/04/01(金) 23:18:07.38ID:IhrIGPJS
ええっ!?
専門家がどこに!?
0247人間七七四年2016/04/01(金) 23:28:29.07ID:qJrWp/Fg
>>241の情報を実際に調べてた人だろ
0248人間七七四年2016/04/02(土) 11:45:16.94ID:9kDY7Xd4
「三方ヶ原で大敗した家康が、自らを戒めるために描かせ、生涯傍に持ち続けた」
という話が江戸時代から伝わっていたものではなく、
産まれてから半世紀も経っていない都市伝説だったということだ
0249人間七七四年2016/04/02(土) 11:50:31.46ID:L26kXm6E
嫁入り道具で持参したことは間違いないの?
0250人間七七四年2016/04/02(土) 12:25:11.29ID:3eCsBZoa
>>244
現時点では誰の肖像なのかは不明な以上本当は誰だったのか知りたいじゃん
実際別人の可能性が高いのに嘘はよくないでしょ
0251人間七七四年2016/04/02(土) 12:46:28.88ID:9kDY7Xd4
>>249
それは保証できない
1805年に従姫の個人所有から尾張家所有へと移行したことは確かだろうけど

果たして、嫁入りの際に持って来た品と、
嫁入り後に従姫が入手したor描かせた品とを、
1805年時点の尾張家の者が、明確に区別できたかどうか…
0252人間七七四年2016/04/02(土) 12:49:03.03ID:ObwYADRW
>241-242に関してはそういう論文が最近出たって段階だから反論待ちでもある
0253人間七七四年2016/04/02(土) 12:55:58.67ID:1MUiW9ug
論文すらまだ出てないんじゃないの
0254人間七七四年2016/04/02(土) 13:10:34.57ID:ObwYADRW
>253
「論文を近く発表予定」で続報もないから指摘の通りでした
0255人間七七四年2016/04/02(土) 13:53:32.58ID:L26kXm6E
もはや三方ヶ原の戦いは本当にあったのか疑いたくなるな
0256人間七七四年2016/04/02(土) 14:44:30.79ID:f6IEGKka
信玄の朝倉宛書状で三方ヶ原の戦い自体の存在は立証されるだろ
0257人間七七四年2016/04/02(土) 16:02:27.40ID:kUvC6pDS
>>241
普通に考えたら、うんこ漏らしたしかめっ面
0258人間七七四年2016/04/02(土) 16:32:21.76ID:buZ5+gA5
信玄の被ってる兜は創作
0259人間七七四年2016/04/04(月) 05:58:04.62ID:0vtsVl1b
明智光秀の被ってる帽子も創作ってか後描き?
帽子の箇所だけマジックで描いたみたいに見える…
0260人間七七四年2016/04/04(月) 07:11:18.53ID:ZkL0X1+j
信長も南蛮胴の鎧なんて着てないしね
0261人間七七四年2016/04/04(月) 18:29:18.21ID:B+ZqgMux
あと政宗も眼帯してた記録はないよね
0262人間七七四年2016/04/06(水) 09:38:11.04ID:vY95KbxK
そもそもこの時代に眼帯ってあったのだろうか
ついでに隻眼と言えば柳生十兵衛を隻眼にしたのは誰だろう
当時の記録には無かったはずだけど
0263人間七七四年2016/04/06(水) 10:38:38.23ID:raJ8AOTo
隻眼で思い付く名前だと、本多作左、山本勘助、
後松平広忠を暗殺したと言われる岩松八弥がいるな
0264人間七七四年2016/04/06(水) 10:42:50.17ID:sY4PWtjy
眼帯を広めたのはキャプテンハーロック
0265人間七七四年2016/04/06(水) 10:56:04.86ID:F+KB7Gtr
夏侯惇だな
0266人間七七四年2016/04/06(水) 12:21:39.64ID:3mVmumnh
柳生十兵衛が片目なのは創作だから
0267人間七七四年2016/04/06(水) 13:35:09.26ID:DxBvTpVy
>>262
剣豪スレでは山田風太郎が初出みたいな意見が出たけど、
もっと古くから隻眼キャラクター像があったんじゃないかとも思える
0268人間七七四年2016/04/06(水) 14:32:46.04ID:DxBvTpVy
>>265
夏侯惇は、正史では眼帯を使っていない
眼球を失った眼窩には、布を巻いて縛り付けていた

>>262
そういえば、
北条氏照なんかと同年代のアナ・デ・メンドーサ女史は
眼帯を使っていた
0269人間七七四年2016/04/07(木) 12:18:28.95ID:+FnzAPPp
刀の鍔を眼帯に使うのって誰が創作したんだろう
0270人間七七四年2016/04/07(木) 21:58:28.59ID:+FnzAPPp
>>240
小説家の影響が大きかったのは昭和くらいまでで
今は研究家の恣意的な論文やそれを真に受けた
ゲームや漫画、ドラマの影響の方が大きい
0271人間七七四年2016/04/10(日) 22:31:07.50ID:HdQIhrHd
三成が豊臣家対して全身全霊を注いだ忠臣みたいなイメージを創ったのは誰だろう?
0272人間七七四年2016/04/10(日) 22:35:02.68ID:ZNtSBhwa
徳川光圀じゃね
0273人間七七四年2016/04/11(月) 09:21:45.91ID:g5NPkXWK
光圀は弁護したくらいで、イメージを確定したのは司馬じゃないか
そそてさらに拍車をかけたのは無双とかゲームな感じで
0274人間七七四年2016/04/11(月) 11:01:07.53ID:swM7AXIe
司馬は三成だけじゃなくて、西軍側が善ってイメージも創った感じ
同時に出す策がみんな上手くいく家康、どれだけ凄いんだって感じになっているけど
0275人間七七四年2016/04/13(水) 18:05:18.08ID:sA6v5L2r
家康は、山岡荘八さんの小説で、史実から後世の逸話に至るまで、あることないこと書き込んで、
徹底して美化しまくったせいで、いかにも理想のリーダー的なスーパーマンになってしまった、大河ドラマ化で、さらにそれが広がった、
みたいなことを、藤本正行氏がどこかで書いてた

藤本正行氏の著作は、武功夜話や、本能寺の変謀略説への批判とか大いに影響されてるし、
信長公記を基本に据えた信長の人生の見直しなど、立派な業績だと思うけど、
他人へのケンカ腰の姿勢とか、テレビやフィクションへの悪意に満ちた記述だけは、どうも好きになれない
0276人間七七四年2016/04/13(水) 18:21:45.18ID:+0YWnooI
炎上商法なだけ
0277人間七七四年2016/04/13(水) 20:11:27.40ID:IM1GmK1u
>>275
山岡荘八の「徳川家康」は家康がめっちゃ善人でいい人設定になっていて今となっては笑えるね
0278人間七七四年2016/04/13(水) 20:49:05.88ID:UgSqgwHT
>>275
実際に山岡壮八が描く家康は何でもお見通しのスーパーマンだからなぁ
0279人間七七四年2016/04/13(水) 23:53:42.58ID:Wjh6FtXk
まぁ家康は当時としては善人だと思うよ
0280人間七七四年2016/04/14(木) 00:01:18.76ID:KjDyWEyq
実際は糞を漏らした人
0281人間七七四年2016/04/14(木) 07:05:06.43ID:tI1MsOS0
>>279
それはないわww
0282人間七七四年2016/04/14(木) 17:39:51.34ID:BirWVk4k
逆に家康が大坂の陣で討ち取られて1年だけ影武者が務めたっていうのは事実のような気がする
0283人間七七四年2016/04/14(木) 18:15:47.03ID:AESTooQB
家康が討ち取られたのは関ヶ原だろ
0284人間七七四年2016/04/14(木) 20:46:49.75ID:tNjrOcYi
もしかして家康って戦国時代で一番多く死んでないか?
0285人間七七四年2016/04/14(木) 20:57:57.97ID:woGZkLyM
75才まで生きれば、いろいろあるだろ
0286人間七七四年2016/04/15(金) 17:17:47.81ID:xVMvKYlp
戦国で最も討ち取られた男 徳川家康
0287人間七七四年2016/04/15(金) 17:49:52.81ID:Wj98T75J
こちらは徳川家康関ヶ原の時の頭蓋骨でございます
0288人間七七四年2016/04/15(金) 18:38:07.67ID:AT5oxggP
それなら、3号あたり?の死ぬ際のエピソードを、もうちょっとカッコよくすればよかったのに
てんぷら食いすぎて体調悪化させたとかさ
0289人間七七四年2016/04/15(金) 19:33:27.68ID:DydrgeHS
張コウかよw
0290人間七七四年2016/04/16(土) 12:15:15.79ID:bbzwP7oT
堺の南宗寺に、家康の墓と伝わる史跡がある
陣を乱されて敗走する家康を、この寺のお堂の陰から後藤又兵衛が突き殺したと、
実に具体的な話である

さて、史実と検証してみると、
・後藤又兵衛は、家康が大坂に到着する前に戦死していた
・南宗寺は大坂夏の陣直前、大坂軍の放火によって焼失していた
伝説を史実認定するには少々無理があります

考えられることは、
大坂軍によって焼き払われた堺の街の復興に道筋を付けてくれたことで、
堺の町衆は徳川家、ひいては家康に感謝し、再建した南宗寺に家康を象徴する慰霊碑を建立した
それが家康の墓という話にすり替えられ、いつしか南宗寺の境内で家康が討ち取られた
という話が出来上がっていったと
0291人間七七四年2016/04/16(土) 20:43:24.06ID:/iqem9iN
まあ最終的な勝利者だから、引き立て役に使うにわ最適なんだろう
創作した真田や勝永好きなんかにしてみれば、せめて本当は討取っていた事にして
溜飲を下げたかったんだろうな
0292人間七七四年2016/04/16(土) 20:59:58.42ID:rKxDRjUm
家康をしょぼくすると
それに屈服した諸大名は
もっとしょぼく見えてしまうんだがな(笑)
0293人間七七四年2016/04/17(日) 12:06:09.49ID:/ITwSmsl
自分の好きな武将さえ格好良く描かれてれば、
他の大名とかどんな扱いされてても構わないんだろう
0294人間七七四年2016/04/18(月) 02:19:38.84ID:UBrpAUi3
熊本城の櫓が、端の部分のたった一筋の石垣で倒壊を免れた状態になってたからな。
あれは奇跡。
常識では考えられないことが戦国時代に起こっていても不思議ではないなと考え直させられたよ。
0295人間七七四年2016/04/18(月) 08:16:19.48ID:NB+dYCMK
熊本城が地震で倒壊しそうなのは現代だけどな
0296人間七七四年2016/04/18(月) 12:03:09.09ID:r9ba9WM1
>>295は、ちょっと頭が悪そう。
0297人間七七四年2016/04/18(月) 21:21:10.70ID:XqkEr1W7
↑常識では考えられないおバカさん
0298人間七七四年2016/04/18(月) 22:08:40.84ID:OyK+sTLb
ちょっとどころじゃなかったかな
0299人間七七四年2016/04/19(火) 00:27:25.68ID:qYMW80I4
その後、どうなったんだろう?
あの状態では迂闊には近付けないよなぁ…
一旦人工的に緩やかに倒壊させてから組み直すのかね?
好きな城だから心配だ
0300人間七七四年2016/04/21(木) 12:43:37.98ID:hhUFgroG
>>267
一応明治までは遡れるみたいだが初出はよくわからんらしい
隻眼がトレードマークになるのは戦後になってからでそれまでは両目隻眼混在してたみたいだが
山風の十兵衛は隻眼だが眼帯はしてない

http://togetter.com/li/874272
0301人間七七四年2016/04/22(金) 11:47:31.39ID:by9ZZ02x
方広寺の鐘銘問題、言い掛かり論を創作したのは徳富蘇峰あたりかな
0302人間七七四年2016/04/22(金) 20:05:40.80ID:QhqB6hUS
今月の信長協奏曲読んだら鉄甲船が出てきたけど、
フィクションの世界とかでは結構役立ってるけど、
実際はどんなものだったんだろうか
表面に鉄板を貼った程度だっただろうけど
当時の船の中では防御力高かったかもしれないが
何より航行能力に疑問を感じるのだけど
0303人間七七四年2016/04/22(金) 20:09:12.55ID:Qlm7sFUg
>>302
少なくとも対毛利戦で、いわゆる鉄甲船が役に立ったとか戦果を上げたとかいう記録は一切存在しない。
紀伊のしょぼい海賊を追い払ったって話が唯一。
そして第二次木津川合戦のあと鉄甲船は即座に解体されて小さな船に作りなおされた。

まあ何の役にも立たなかったと見るのが正しかろう
0304人間七七四年2016/04/22(金) 20:31:38.58ID:Cq+rDrPP
動力が人力と風しかなかった時代に鉄の船なんて使えたのかな?
0305人間七七四年2016/04/22(金) 20:47:34.93ID:mETxaFOz
木の板に鉄板貼っただけだから
なお、鉄甲船は秀吉の号令でも建造されているので、
信長の前例があっても不思議ではない
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