実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net
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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net
2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89Cあるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0206人間七七四年
2016/03/30(水) 09:43:07.29ID:zwPv+3T/信忠とか信雄はまだいいとして、長益とか秀信とかの肖像画って美形か
0207人間七七四年
2016/03/30(水) 09:53:18.92ID:G27HQSQ/真田幸村よりも盛られていてすごいんだな
名古屋民あほちゃうの
0208人間七七四年
2016/03/30(水) 11:04:06.63ID:PyzczZMD信玄の肖像画って言われていたのが畠山だったり、尊氏と言われていたのが高一族だったり、
頼朝と言われていたのが足利直義だったりするけど、義経の肖像画も本人なのだろうか
0211人間七七四年
2016/03/30(水) 12:45:34.63ID:wcRaJvAlと書かれている。平家物語なので話半分ではあるけど、義経が美形というのは根拠の無い
話じゃないの?逸話ですらブサイク扱いされてる
0212人間七七四年
2016/03/30(水) 13:28:25.07ID:UIm/6kv80213人間七七四年
2016/03/30(水) 15:22:25.03ID:2utvCIPz平家物語のそのパートは、
義経を憎む平家軍の侍が悪意を込めてそう表現したという流れであり、
小説の役割としても客観性は皆無。地の文ですらない
複数の情報源によれば、義経は体格が貧弱で、
侍としては身体的に不利だったという点は信頼性が高いが、
容姿については全く判らない
0214人間七七四年
2016/03/30(水) 19:26:42.06ID:WuOEWJcfつまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
とすれば『平治物語』にみえるように、奥州に向かう途中(諸国流浪中)や、また、名馬の産地である奥州に行ってからであろう。
義経の身体能力をもってすれば、騎射術の修得も早かったのではなかろうか。
それにしても、戦術的能力の向上には実戦経験が重要である。
自力救済(公権力に頼らず当事者相互で紛争を解決すること)の私戦を繰り返している東国武者とは違い、
義仲追討戦以前の義経に実戦経験があったかどうか疑問である。
あったとしても、鞍馬にいた時の辻冠者原との戦闘ぐらいであろうし、奥州では戦闘はなかったと考えられる。
そうした実戦経験という面では、義経が鞍馬から直接奥州へ赴かずに、諸国を流浪し、しかもその間、恵まれた生活はしておらず、
山賊や野盗まがいのことをしていたと考える方が、戦士能力の育成をという面では、筆者には説得力がある。
しかしその一方で、義経の戦士能力は、戦術的能力よりも戦略的能力にあることを第三章で指摘した。
その点では、戦術的能力が劣っているのは、実戦経験が少なかったからであるとも考えられる。
結局は類推の積み重ねで何とも言えないのだが、鞍馬を出てから義仲追討戦に向かうまでの義経の実戦経験の有無については気になるところである。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)
0215人間七七四年
2016/03/30(水) 20:12:46.71ID:wcRaJvAl最初から平家物語だから話半分って言ってるよ。
でも美形だったらブサイク煽りはないと言える。
つまり、義経は美形ではない。
0216人間七七四年
2016/03/30(水) 20:16:14.86ID:3KoHF2ekこう、ちょっとワイルドな感じで
0217人間七七四年
2016/03/30(水) 20:19:15.57ID:8Xmg7lP3世間的に美男美女とされてるタレントやらアイドルやらをブサイクブサイク言ってるお前がそんなことを
0218人間七七四年
2016/03/30(水) 21:03:36.63ID:bNX8qEWj0219人間七七四年
2016/03/30(水) 21:19:23.58ID:2utvCIPzまだ理解していないようだな
平家物語だから話半分と言っているか否かを問題にしているのではない
平家物語の中で義経醜男の情報が出た箇所が、悪く表現する意図が込められた部分だということ
これでは、例え平家物語が小説ではなくて史料だったとしても、
義経が美形だったか醜男だったかの判断の根拠にはならないっつーの
平教教らが義経を醜男呼ばわりしたという根拠以外の何物にもならない
>でも美形だったらブサイク煽りはないと言える。
>つまり、義経は美形ではない。
この前提と理論構築が間違い。悪口というものは、事実とは逆のことを言うことも有り得る
お前さんは情報を汲み上げて結論を導き出す手法がズレているし、
反論しようとすると、その論点もズレている
0220人間七七四年
2016/03/30(水) 22:38:43.17ID:wcRaJvAlそんなことをいうなら、若くて死んだ人間が美形だったというのは補正があると
考えられるから信じられないね。織田秀孝みたいに。
0221人間七七四年
2016/03/30(水) 22:49:11.28ID:wcRaJvAl補正が効いてるから信じらられないね。
それと>>215の書いてる内容を全く理解できてないのは>>219の馬鹿。
こっちはまったくそんなことを言ってない。
>>219みたな馬鹿な発言を、説教臭く人に話せるってどんだけ低学歴よ。
0222人間七七四年
2016/03/31(木) 11:51:46.47ID:7y5HpAsq政治家としては有能だった秀忠の無能化とか作家が広めた話は多々あるな
0223人間七七四年
2016/03/31(木) 12:21:51.16ID:d751Mc/F0224人間七七四年
2016/03/31(木) 13:05:38.49ID:3hsKKsRJ集古十種とかも結構通説俗説のネタ元になってるな
0225人間七七四年
2016/03/31(木) 13:06:42.62ID:5A4zXBijあえて恥の上塗りをしたいという、その目的は一体なんだ?
0226人間七七四年
2016/03/31(木) 13:20:16.58ID:61fIeOpf>>211で、○○だから△△じゃないの?といった形式の
結論の出し方が何か違和感があってスッキリしないと思ったら、
論理の過誤が>>219で実に解りやすく指摘されてた
何一つ反証できずに感情的に罵倒するだけの>>220、>>221は、
確かに火病だ
0227人間七七四年
2016/03/31(木) 16:51:45.30ID:Ni0nbWa+大河ドラマ「天地人」の頃は、「現存するのは後世の創作だけど、それに当たるものはあった」
っていう解釈だった気がするけど、最近読んだ本だと、「そもそも、上杉の立場を説明する弁明書的なもので、
いわゆる直江状は、存在しなかった」って書いてあった
旧参謀本部編纂の「関ヶ原の役」も、直江状のことには触れてなかった気がする
景勝の「おれの悪口を言いふらしてるやつらの主張の調査をちゃんとやってくれない限り、上洛できない」
っていう手紙を紹介してたし
「真田丸」ではどうするんだろう
こういう「無いとさみしい」的創作は採用するんだろうか
「創作と分かってても有名なのは許容します」って、時代考証チームはインタビューで答えてたけど
0228人間七七四年
2016/03/31(木) 17:47:34.05ID:zTToIza90229人間七七四年
2016/03/31(木) 18:53:39.86ID:JD4Uqr+I喧嘩売ってる追記部分はまるっきり後世の創作
本文の弁明書は他史料と合致しててそこそこ信頼は置ける
ただ本文の弁明書も因縁つけてる相手に真っ向から正論で答弁してる訳で喧嘩買ってると見れないことも無い
演出次第でいかようにも使えるやろ
0230人間七七四年
2016/03/31(木) 19:40:48.23ID:UOnHcqyq謙信は信玄と一騎打ちする
武田騎馬隊は鉄砲三段撃ちで全滅する
家康の長男は信長のそれより優秀だったので信長に殺される
明智光秀は人質の母親を殺され家康の接待に腐った魚を出し出雲に国替えで謀反を起こす
大河なんてそれでいいじゃんよ
0231人間七七四年
2016/03/31(木) 19:57:33.40ID:9WuONnr00232人間七七四年
2016/03/31(木) 20:21:06.39ID:zTToIza90233人間七七四年
2016/03/31(木) 21:19:21.66ID:R3IjwpVg運用してたんじゃね、というのがまた最近はあるみたいだけどね。
0234人間七七四年
2016/03/31(木) 21:28:20.49ID:JD4Uqr+I0235人間七七四年
2016/03/31(木) 22:44:32.25ID:3hsKKsRJ実在はしたことが判明し、2008年に真下家所蔵文書、2009年に沼津山本家文書が見つかって
ようやく本人とその子孫の事が分かるようになったくらいだから、
武田騎馬隊についても今後どうなることやら
0237人間七七四年
2016/03/31(木) 22:49:04.12ID:3hsKKsRJ道鬼こと初代かんすけは勘助じゃなくて菅助になってるから
後者が多分正しいんじゃないかな
0239人間七七四年
2016/04/01(金) 08:35:33.51ID:45eybCwr光秀は甲斐で殴られて焼き討ちが許せなくて幕府朝廷を再興させたくて長宗我部毛利上杉北条を助けたくて松永荒木に感化されて秀吉家康勝家とグルだったはずだからな
0240人間七七四年
2016/04/01(金) 08:59:41.79ID:6ipnfBMJ伊達関連が山岡、武田関連が新田、信長、家康、秀忠関連が司馬の影響かな
0241人間七七四年
2016/04/01(金) 14:25:21.07ID:L4+J1DkX1780年、従姫が紀州徳川家から尾張徳川家へ嫁ぎ、絵画を持ち込む
1805年、従姫死後、尾張徳川家が絵画を管理
1935年、徳川美術館開館から間もなく、尾張徳川家の末裔の徳川義親氏が絵画を提供
「尾張徳川家初代の徳川義直が、父の苦難を忘れないように描かせた」と、逸話を添える
以後、1972年までの間に、苦難=三方ヶ原敗戦と解釈する憶測が普及
1972年、収蔵品図録に記録
「家康が自ら描かせ、障害座右を離さなかった」とする話に改変
その他の情報
・鑑定によれば、江戸時代の作風
・紀州家から尾張家に持ち込まれたものである
となれば、1935年の段階で語られたような、
尾張家の義直が描かせたという話すら成立しないということになる
・家康を描いたという根拠は無く、現時点では誰の肖像なのかは不明
0242人間七七四年
2016/04/01(金) 14:27:32.32ID:L4+J1DkX×「家康が自ら描かせ、障害座右を離さなかった」とする話に改変
○「家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかった」とする話に改変
0244人間七七四年
2016/04/01(金) 19:55:05.38ID:IhrIGPJSそういうふうに扱えばそれが「本物」になる場合だってあるんだから
菊地秀行さんの文章で、土産物かなんかの仏像を人から預かったのを、仏像だからと拝んでたら、
毎晩、夜中に歩きまわる音がするようになった
みたいなものでしょう
0245人間七七四年
2016/04/01(金) 20:30:49.03ID:by2E3x6S専門家はそういうわけにはいかないでしょ
0246人間七七四年
2016/04/01(金) 23:18:07.38ID:IhrIGPJS専門家がどこに!?
0248人間七七四年
2016/04/02(土) 11:45:16.94ID:9kDY7Xd4という話が江戸時代から伝わっていたものではなく、
産まれてから半世紀も経っていない都市伝説だったということだ
0249人間七七四年
2016/04/02(土) 11:50:31.46ID:L26kXm6E0250人間七七四年
2016/04/02(土) 12:25:11.29ID:3eCsBZoa現時点では誰の肖像なのかは不明な以上本当は誰だったのか知りたいじゃん
実際別人の可能性が高いのに嘘はよくないでしょ
0251人間七七四年
2016/04/02(土) 12:46:28.88ID:9kDY7Xd4それは保証できない
1805年に従姫の個人所有から尾張家所有へと移行したことは確かだろうけど
果たして、嫁入りの際に持って来た品と、
嫁入り後に従姫が入手したor描かせた品とを、
1805年時点の尾張家の者が、明確に区別できたかどうか…
0252人間七七四年
2016/04/02(土) 12:49:03.03ID:ObwYADRW0253人間七七四年
2016/04/02(土) 12:55:58.67ID:1MUiW9ug0254人間七七四年
2016/04/02(土) 13:10:34.57ID:ObwYADRW「論文を近く発表予定」で続報もないから指摘の通りでした
0255人間七七四年
2016/04/02(土) 13:53:32.58ID:L26kXm6E0256人間七七四年
2016/04/02(土) 14:44:30.79ID:f6IEGKka0257人間七七四年
2016/04/02(土) 16:02:27.40ID:kUvC6pDS普通に考えたら、うんこ漏らしたしかめっ面
0258人間七七四年
2016/04/02(土) 16:32:21.76ID:buZ5+gA50259人間七七四年
2016/04/04(月) 05:58:04.62ID:0vtsVl1b帽子の箇所だけマジックで描いたみたいに見える…
0260人間七七四年
2016/04/04(月) 07:11:18.53ID:ZkL0X1+j0261人間七七四年
2016/04/04(月) 18:29:18.21ID:B+ZqgMux0262人間七七四年
2016/04/06(水) 09:38:11.04ID:vY95KbxKついでに隻眼と言えば柳生十兵衛を隻眼にしたのは誰だろう
当時の記録には無かったはずだけど
0263人間七七四年
2016/04/06(水) 10:38:38.23ID:raJ8AOTo後松平広忠を暗殺したと言われる岩松八弥がいるな
0264人間七七四年
2016/04/06(水) 10:42:50.17ID:sY4PWtjy0265人間七七四年
2016/04/06(水) 10:56:04.86ID:F+KB7Gtr0266人間七七四年
2016/04/06(水) 12:21:39.64ID:3mVmumnh0267人間七七四年
2016/04/06(水) 13:35:09.26ID:DxBvTpVy剣豪スレでは山田風太郎が初出みたいな意見が出たけど、
もっと古くから隻眼キャラクター像があったんじゃないかとも思える
0268人間七七四年
2016/04/06(水) 14:32:46.04ID:DxBvTpVy夏侯惇は、正史では眼帯を使っていない
眼球を失った眼窩には、布を巻いて縛り付けていた
>>262
そういえば、
北条氏照なんかと同年代のアナ・デ・メンドーサ女史は
眼帯を使っていた
0269人間七七四年
2016/04/07(木) 12:18:28.95ID:+FnzAPPp0270人間七七四年
2016/04/07(木) 21:58:28.59ID:+FnzAPPp小説家の影響が大きかったのは昭和くらいまでで
今は研究家の恣意的な論文やそれを真に受けた
ゲームや漫画、ドラマの影響の方が大きい
0271人間七七四年
2016/04/10(日) 22:31:07.50ID:HdQIhrHd0272人間七七四年
2016/04/10(日) 22:35:02.68ID:ZNtSBhwa0273人間七七四年
2016/04/11(月) 09:21:45.91ID:g5NPkXWKそそてさらに拍車をかけたのは無双とかゲームな感じで
0274人間七七四年
2016/04/11(月) 11:01:07.53ID:swM7AXIe同時に出す策がみんな上手くいく家康、どれだけ凄いんだって感じになっているけど
0275人間七七四年
2016/04/13(水) 18:05:18.08ID:sA6v5L2r徹底して美化しまくったせいで、いかにも理想のリーダー的なスーパーマンになってしまった、大河ドラマ化で、さらにそれが広がった、
みたいなことを、藤本正行氏がどこかで書いてた
藤本正行氏の著作は、武功夜話や、本能寺の変謀略説への批判とか大いに影響されてるし、
信長公記を基本に据えた信長の人生の見直しなど、立派な業績だと思うけど、
他人へのケンカ腰の姿勢とか、テレビやフィクションへの悪意に満ちた記述だけは、どうも好きになれない
0276人間七七四年
2016/04/13(水) 18:21:45.18ID:+0YWnooI0277人間七七四年
2016/04/13(水) 20:11:27.40ID:IM1GmK1u山岡荘八の「徳川家康」は家康がめっちゃ善人でいい人設定になっていて今となっては笑えるね
0279人間七七四年
2016/04/13(水) 23:53:42.58ID:Wjh6FtXk0280人間七七四年
2016/04/14(木) 00:01:18.76ID:KjDyWEyq0281人間七七四年
2016/04/14(木) 07:05:06.43ID:tI1MsOS0それはないわww
0282人間七七四年
2016/04/14(木) 17:39:51.34ID:BirWVk4k0283人間七七四年
2016/04/14(木) 18:15:47.03ID:AESTooQB0284人間七七四年
2016/04/14(木) 20:46:49.75ID:tNjrOcYi0285人間七七四年
2016/04/14(木) 20:57:57.97ID:woGZkLyM0286人間七七四年
2016/04/15(金) 17:17:47.81ID:xVMvKYlp0287人間七七四年
2016/04/15(金) 17:49:52.81ID:Wj98T75J0288人間七七四年
2016/04/15(金) 18:38:07.67ID:AT5oxggPてんぷら食いすぎて体調悪化させたとかさ
0289人間七七四年
2016/04/15(金) 19:33:27.68ID:DydrgeHS0290人間七七四年
2016/04/16(土) 12:15:15.79ID:bbzwP7oT陣を乱されて敗走する家康を、この寺のお堂の陰から後藤又兵衛が突き殺したと、
実に具体的な話である
さて、史実と検証してみると、
・後藤又兵衛は、家康が大坂に到着する前に戦死していた
・南宗寺は大坂夏の陣直前、大坂軍の放火によって焼失していた
伝説を史実認定するには少々無理があります
考えられることは、
大坂軍によって焼き払われた堺の街の復興に道筋を付けてくれたことで、
堺の町衆は徳川家、ひいては家康に感謝し、再建した南宗寺に家康を象徴する慰霊碑を建立した
それが家康の墓という話にすり替えられ、いつしか南宗寺の境内で家康が討ち取られた
という話が出来上がっていったと
0291人間七七四年
2016/04/16(土) 20:43:24.06ID:/iqem9iN創作した真田や勝永好きなんかにしてみれば、せめて本当は討取っていた事にして
溜飲を下げたかったんだろうな
0292人間七七四年
2016/04/16(土) 20:59:58.42ID:rKxDRjUmそれに屈服した諸大名は
もっとしょぼく見えてしまうんだがな(笑)
0293人間七七四年
2016/04/17(日) 12:06:09.49ID:/ITwSmsl他の大名とかどんな扱いされてても構わないんだろう
0294人間七七四年
2016/04/18(月) 02:19:38.84ID:UBrpAUi3あれは奇跡。
常識では考えられないことが戦国時代に起こっていても不思議ではないなと考え直させられたよ。
0295人間七七四年
2016/04/18(月) 08:16:19.48ID:NB+dYCMK0297人間七七四年
2016/04/18(月) 21:21:10.70ID:XqkEr1W70298人間七七四年
2016/04/18(月) 22:08:40.84ID:OyK+sTLb0299人間七七四年
2016/04/19(火) 00:27:25.68ID:qYMW80I4あの状態では迂闊には近付けないよなぁ…
一旦人工的に緩やかに倒壊させてから組み直すのかね?
好きな城だから心配だ
0300人間七七四年
2016/04/21(木) 12:43:37.98ID:hhUFgroG一応明治までは遡れるみたいだが初出はよくわからんらしい
隻眼がトレードマークになるのは戦後になってからでそれまでは両目隻眼混在してたみたいだが
山風の十兵衛は隻眼だが眼帯はしてない
http://togetter.com/li/874272
0301人間七七四年
2016/04/22(金) 11:47:31.39ID:by9ZZ02x0302人間七七四年
2016/04/22(金) 20:05:40.80ID:QhqB6hUSフィクションの世界とかでは結構役立ってるけど、
実際はどんなものだったんだろうか
表面に鉄板を貼った程度だっただろうけど
当時の船の中では防御力高かったかもしれないが
何より航行能力に疑問を感じるのだけど
0303人間七七四年
2016/04/22(金) 20:09:12.55ID:Qlm7sFUg少なくとも対毛利戦で、いわゆる鉄甲船が役に立ったとか戦果を上げたとかいう記録は一切存在しない。
紀伊のしょぼい海賊を追い払ったって話が唯一。
そして第二次木津川合戦のあと鉄甲船は即座に解体されて小さな船に作りなおされた。
まあ何の役にも立たなかったと見るのが正しかろう
0304人間七七四年
2016/04/22(金) 20:31:38.58ID:Cq+rDrPP0305人間七七四年
2016/04/22(金) 20:47:34.93ID:mETxaFOzなお、鉄甲船は秀吉の号令でも建造されているので、
信長の前例があっても不思議ではない
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