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実は創作だった通説・俗説2【コピペ・レッテル貼禁止】©5ch.net

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0001人間七七四年 転載ダメ©2ch.net2016/03/13(日) 22:05:21.27ID:EYYUL89C
史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
その様なレスはスルーでお願いします
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
歴史作家の作った通説・俗説 [転載禁止]©2ch.net
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431750387/
デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
0002人間七七四年2016/03/13(日) 22:05:52.94ID:EYYUL89C
最初に断っておきますが、自分が本当にスレタイ等を主張したいなら
自ら宣言してスレを立てればいいのに、それをせず
スレが立ってから後追いで文句やケチをつける人間の言葉を聞くつもりはありません
0003人間七七四年2016/03/13(日) 22:49:36.68ID:plFShPKK
あーあ絶対荒れるねこれ
それも面白いから別に良いけど
0004人間七七四年2016/03/13(日) 23:09:37.37ID:xS1RCwSr
最近のネタだと有名な信玄のホモ恋文がホモでも恋文でも香坂宛でも無いとかか
0005人間七七四年2016/03/13(日) 23:19:04.00ID:tGRDKYCc
しかみ像は実は三方ヶ原の戦いと関係ないどころか家康像かさえ不明とか
0006人間七七四年2016/03/13(日) 23:20:48.27ID:Zjkjgbn7
>>3
なるほど、荒らす気満々だな
おっと、テンプレ通りスルー出来なかった
0007人間七七四年2016/03/13(日) 23:24:43.27ID:plFShPKK
>>5
家康像なのは普通にそう伝わってるよ
まあ伝わってるから本当にそうとは限らないけど
0008人間七七四年2016/03/13(日) 23:41:07.52ID:xS1RCwSr
しかみ像は論文待ちやね
0009人間七七四年2016/03/14(月) 01:04:39.83ID:nTJ9RQWJ
>>1
大儀であった!

創作だからケシカランなどとプリプリカリカリしないで
逸話が創作されるほどの愛されキャラだったというプラス思考で
まったりと語りましょう
0010人間七七四年2016/03/14(月) 05:11:59.64ID:xRzdGH7A
作家が名前がわからないから作品の便宜上付けた名前が
いつの間にか通説みたいになっている女性って
例えば山岡が築山殿に付けた瀬名とかあるけど
他に誰がいたかな
0011人間七七四年2016/03/14(月) 05:29:09.15ID:fMBrCHyS
菜々
0012人間七七四年2016/03/14(月) 12:42:47.27ID:hHfUzF6W
しかみ像が家康であろうがなかろうが
どれほどの問題であるというのか?
0013人間七七四年2016/03/14(月) 13:54:48.12ID:ZrKLApvV
松永久秀の逸話のほとんど全部
0014人間七七四年2016/03/14(月) 21:56:17.14ID:apclAuJC
>>10
司馬の関ヶ原の三成の愛妾である初芽とか
名前どころか人物自体創作だけど
0015人間七七四年2016/03/14(月) 22:05:15.00ID:RyN1+NeI
真田家にまつわるエピソードのほとんど全部
0016人間七七四年2016/03/15(火) 00:17:01.37ID:Xp3sJEZp
時専の真田太平記で出てきた、信幸と稲姫との「婿選びエピソード」
あれって何かに元ネタがあるの?
まえに他スレで「あれを真田丸でもやってほしい」的な書き込みを見たけど、
原作にもない話だよね、あれ
0017人間七七四年2016/03/15(火) 00:46:50.24ID:9dSDBYfk
あれはドラマ版真田太平記のオリジナル演出だよ。
あんな失礼な婿選びをするわけないじゃんw
0018人間七七四年2016/03/15(火) 00:49:34.18ID:9dSDBYfk
ちなみに、稲姫が関ヶ原の時に、昌幸を沼田城から追い払うのも嘘。

1589年に秀吉が、大名の正妻、嫡子を京都に人質に置くようになってから
(その後京都から大坂に人質をうつす)関ヶ原までずっと稲姫は人質として
京阪にいるし、関が原後は江戸で人質。つまり、小松殿が結婚したのが1589年なら
史実では、一度も上田にも沼田にも住んだことがないのだ。
0019人間七七四年2016/03/15(火) 05:50:51.45ID:OdHiLCiW
小松も「あの忠勝の娘を家康養女で嫁にした真田はやっぱり凄い」の出汁にされてるけど
なら家康の娘を嫁にした武将はどんだけなんだとね
0020人間七七四年2016/03/15(火) 08:51:43.87ID:AEoizvAc
信長が死の直前に舞ったのは
誰が見ていたのか?
0021人間七七四年2016/03/15(火) 11:12:08.37ID:hyAM4yJg
>>18
好きな逸話だけど創作だったか、まあなぁ…
0022人間七七四年2016/03/15(火) 11:45:29.06ID:EiTKAiob
>>19
家康にはちょうどいい若さの娘がいなかったじゃないか
大大名で嫁にしたのは、池田輝政くらいだ
北条へは人質
0023人間七七四年2016/03/15(火) 13:42:45.09ID:qp5Uv5gK
>>18
あの逸話、『板坂卜斎覚書』にもある由緒正しい?逸話だったりする
0024人間七七四年2016/03/15(火) 14:02:53.96ID:gl0m9cY3
>>20
シエ
0025人間七七四年2016/03/15(火) 14:45:33.17ID:9dSDBYfk
>>19
そもそも家康の養女っていうのも事実ではない。
真田家の家譜には稲姫が「秀忠の養女」って書いてあるのだが、
秀忠は、当時稲姫より7歳若い9歳だった。まだ元服もしてないし
跡継ぎと決まってもいない時期だから嘘。
考証の人の本によると「真田家には偉い人の養女として来た」としか
わかってないのではないかってこと。
当時外様の国衆クラスに家康が養女をやった例もなければそんな必要もない。
つまりこれも、山手殿の家柄詐称と同じく、嘘ではないの?
養女というのも真田家が大好きな盛り方で、山手殿も信玄の養女って
書いてあるものもあるし。
養女説を信じるなら、稲姫は、本多忠勝の庶子なので、本多忠勝の
実子じゃない可能性も高い。本多忠勝の親戚か家臣の子を、
本多忠勝の養女として嫁がせたとかかも。本多忠勝でも十分に格上だろ。

>>23
でもその逸話は都市伝説クラスで、事実じゃないだろうね。
0026人間七七四年2016/03/15(火) 15:12:31.00ID:DxemC//3
足利義輝の最後の戦い
ttp://togetter.com/li/588928
0027人間七七四年2016/03/15(火) 15:19:06.54ID:qp5Uv5gK
>>25
同じ『板坂卜斎覚書』に収録された逸話で関ヶ原合戦時の清須軍議に、
本多忠勝・井伊直政がいたという逸話も最近否定された
0028人間七七四年2016/03/15(火) 15:46:21.39ID:9dSDBYfk
もう1つ真田家で流布されてる「真田信繁(幸村)は秀吉のお気に入りだった」「優遇されてた」
とかいうのもなんの根拠もない話。根拠といえば「豊臣」を許されたというものと
官位をもらったというものだ。

豊臣をもらってる大名というのは当時、官位とセットで名乗らせていたもので、膨大にいる。
(当時の諸将は家柄が怪しいのが多いので、本気で官位をもらおうとすると家康みたいに
系図購入と家名変更”松平”→”徳川”みたいなのが必要だから、新姓豊臣を渡すことで
ハードルを下げてただけ)

官位も、秀吉が関白だった影響で貰いたい放題だったのに、下っ端の官位しかもらってない。
秀吉がお気に入りに渡していた「羽柴氏」のほうはもらってない。
0029人間七七四年2016/03/15(火) 16:28:13.79ID:1rDJLry2
真田といえば家康が大坂の陣の時、真田親子の参陣を聞いてふるえたっていうのも創作だよな
江戸時代真田家の家臣が書いたものが出典だし、そもそも直接昌幸と戦った事のない家康がそこ迄恐れるわけがない
0030人間七七四年2016/03/15(火) 17:10:26.02ID:bubOUKP8
恐れていたというならそれほどの人物の生死を把握してないのも変だしねえ
0031人間七七四年2016/03/15(火) 17:15:20.42ID:9dSDBYfk
第一次上田合戦も、家康が秀吉対策で目一杯のときに、
2,3流の部隊を派遣しただけだしね。

上杉の手取川の戦いの「逃げるとぶ長」みたいに、
真田側だけがウェーハッハッハっって言ってるだけじゃないのか

関ヶ原の戦いの時も、家康は自身もなかなか出陣しなかったし、
秀忠の軍を温存したかった家康がわざとあのあたりでうろうろしてるよう
に命じたんじゃないのかという疑問
0032人間七七四年2016/03/15(火) 17:48:22.79ID:iMU7vqFv
>秀忠の軍を温存したかった

それはない。むしろ家康は焦っていた。
徳川の力抜きで西軍に勝たれたら主導権握れなくなるんで慌てて強行軍。
関ヶ原当時の家康にとって最大の敵は西軍じゃなくて快進撃を続けた東軍先鋒。
これ以上あいつらに手柄立てさせずに自体の収拾はかることが第一だった。
だから毛利や上杉も減封で済ませたし島津にいたってはお咎めなし。
これ以上豊臣恩顧組に手柄をたてさせる機会を与えたくなかったのが家康の本音。
0033人間七七四年2016/03/15(火) 18:23:04.60ID:9dSDBYfk
秀忠の関ヶ原の遅延がわざとでは?っていうのは、
ありえないというほどではない。可能性の一つとしてはある。
0034人間七七四年2016/03/15(火) 18:29:08.11ID:Xp3sJEZp
真田丸では、豊臣秀次をどう描くんだろう
宣教師の報告かなんかでは、死んだ後の文章とはいえ、処刑されて当然な暴君みたいに書かれてたんだっけ
1、2年前のヒストリアでは、わりと名君だったかも、みたいに言われてた
それとも、官兵衛の時みたいに、ただ哀れな人的に描かれるんだろうか

吉川弘文館の本で、秀次事件について「秀次は、切腹は命じられたのではなく、自分の意志で行った」って書かれたのを見た
多分同じ人だと思うけど、新人物文庫の「秀頼と大坂の陣」で「そのあとだいぶ批判を受けたが、批判する人は、残された○○の文書について、
説明をしてから批判してもらいたい」とか反論してたけど、おれとしては、その部分より、新人物文庫ではなぜか触れられていない、
「秀吉が命じていない切腹をしたから、これは秀吉に対する謀反であり、そのあとの妻や側室、子供に至るまで処刑されたのは、
当然のことだった」っていう部分が批判されたんじゃないのかって思える
0035人間七七四年2016/03/15(火) 18:41:54.54ID:wtWYaThk
>>13
一存は瘡で湯治中に病死だっけ
梅毒は不治の病だったんだからほっときゃ死ぬのに
わざわざリスク負って暗殺する必要はないわな
義興には明らかに病死だし
義輝の最期もそうだけど足利季世記はマジで当てにならんわ
0036人間七七四年2016/03/15(火) 18:49:33.04ID:qp5Uv5gK
>>32
それも事実では無いから
何だかんだで岐阜城の戦いで損害負っているし>東軍先鋒
本来はあれ以上の積極的行動はできない
0037人間七七四年2016/03/15(火) 18:56:02.05ID:Xp3sJEZp
秀忠の遅参は、上田城でムダに足止めは食らったけど、それでも本来は間に合う計算だった
誰だかが、安全のために遠回りのルートを進言して、そのコースを取ったら雨のために川が
増水しちゃってて、それが一番大きかった、秀忠一人の責任ではない、みたいな文章なら最近読んだな
0038人間七七四年2016/03/15(火) 20:00:35.68ID:9dSDBYfk
本当に秀忠の遅参が痛手で、真田のせいだと思ってたら、
昌幸と信繁の助命はないと思う。
実際はかなりどうでもよかったか、真田のせいではないと
思ってたから助命された。
0039人間七七四年2016/03/15(火) 20:10:01.08ID:qp5Uv5gK
>>37
上田で上洛命令受け取った時点で、どう考えても間に合わないかと
0040人間七七四年2016/03/15(火) 20:13:23.10ID:qG7mJ1l/
大雨で川が氾濫して使者が遅れたのが原因じゃなかったか
誰のせいと言うよりただのアンラッキーだな
0041人間七七四年2016/03/15(火) 20:46:27.85ID:qp5Uv5gK
>>40
あの大雨云々こそ逸話以外の何者でも無かった訳で
0042人間七七四年2016/03/15(火) 20:46:33.53ID:LgrTR+A8
>>29
家康はなんだかんだで負の創作話が多いな
山岡が改正三河後風土記もとに創った脱糞話もそうだけど
誰が創ったかは知らないけど、野戦は得意だが城攻め下手だったとか
創作した人間は、西三河の領主から甲信駿遠三の領主になるまで、
野戦だけでなれると思ってたのかよ
0043人間七七四年2016/03/15(火) 21:51:09.98ID:hyAM4yJg
明治維新以降作られたとも限らないのが面白い
江戸時代に幕府への反発から豊臣びいきがあったそうだし
江戸時代が暗黒時代とか左翼学者ほんまええ加減にせえよ
めっちゃ自由の国じゃねーか
0044人間七七四年2016/03/15(火) 22:38:12.20ID:LgrTR+A8
>>34
切腹させるはずだった秀次の為に長期滞在できる準備はおかしいって話だったっけ
前にどこか別のスレにも書いたような気がするけど、秀吉が三成に切腹の意思を伝えず高野山追放だけ命令すれば
高野山追放は前例からすれば助命を意味するし、三成は秀次助命で動いてたからその命令を受けた三成が
秀吉が秀次の命だけは助ける気持ちだと勘違いして長期滞在の準備をしてもおかしくはないと思うんだよな
しかし秀吉の意思はあくまでも秀次の命を奪う事であって、助命派の三成ではなく
福島に改めて節婦の使者を命じたと考えれば辻褄はあう様な気がする
まあ史料も無い勝手な私の推測何で、否定されても仕方ないけど
0045人間七七四年2016/03/16(水) 09:33:22.03ID:CAOXhJWF
山手殿が公家の娘というのも、真田家譜にしか書いてない嘘、
大谷吉継の娘が嫁いだというのも、真田家譜にしか書いてない嘘、
豊臣秀次の娘が嫁いだというのも、真田家譜にしか書いてない嘘。
0046人間七七四年2016/03/16(水) 09:57:45.11ID:aRNzE9EU
左大臣菊亭の娘が来るわけないわな
0047人間七七四年2016/03/16(水) 10:29:00.19ID:CAOXhJWF
ないし、年齢的にもおかしい。菊亭晴季は10歳そこそこで山手殿を作ったのかって。

1539 菊亭晴季生まれる(真田家譜では、山手殿父とされる人)
1547 真田昌幸が生まれる
1550頃? 山手殿が生まれる
1564 山手殿が昌幸に嫁ぐ
1566 山手殿が信幸を産む
0048人間七七四年2016/03/16(水) 10:31:30.45ID:CAOXhJWF
今出川(菊亭)家の系図による、菊亭晴季の子供にも、当然山手殿の記載はない。

男子:菊亭季持(1575年〜1596年)
男子:日桓
男子:長円
女子:一の台(豊臣秀次室)
女子:秋元修理亮室
女子:矢島秀行室
養子:堯円 - 実際は阿野道怡の子
0049人間七七四年2016/03/16(水) 10:48:22.87ID:CAOXhJWF
「真田太平記」では山手殿(菊亭晴季)の妹まで、
真田昌幸の庶子(樋口角兵衛)を産んだ・・・という設定だったが
池波正太郎は知識がなさすぎんのだろうか。
何が悲しくて田舎の足軽大将に清華家が娘を二人も嫁がせないといけないのだ。
0050人間七七四年2016/03/16(水) 10:49:51.10ID:CAOXhJWF
足軽大将というのは、信幸が産まれた頃、長兄も次兄生きている真田昌幸はまだ、
足軽45人持ちの足軽大将だったということを言ってる。
0051人間七七四年2016/03/16(水) 17:43:35.21ID:R7SQqozg
書店で歴史コーナーをのぞいてみたら、タイトルに「通説を覆す!」とか「歴史のウソを暴く!」
といった類の文言がついた本がいっぱい
藤本正行氏が、信長の合戦関係でそれをやって評価されたからだろうか
みんな通説をクツガエそうと躍起になってる感じ

でも、パラパラ見たら「そんな通説があったの」っていうのもチラホラ
例えば、「関ヶ原の合戦前に家康が江戸から動かなかったのは、開戦の時期を測っていたからだ、
というのが、通説だが・・・」とかあったけど、それが通説だったのか
0052人間七七四年2016/03/16(水) 18:55:55.08ID:ta7q7kLx
そりゃ、通説・定説通りに書いたって売れないもん(笑)。
そもそも読者層も歴史ファンに毛が生えた程度のを想定してるんだろうし。
 
そういや、先だって読んだ真実の日本戦史!みたいなその手の本に、
三方ヶ原では徳川兵は常日頃竹刀wで訓練していたので実戦では
思い切って突っ込めたので皆前のめりで死んでいて、真剣で訓練していた
武田兵は腰が引けていて仰向けで死んでいたとかシラっと書いてあって
思わずのけぞった。
0053人間七七四年2016/03/16(水) 19:27:48.38ID:fMEdcG3W
>>45
公家の娘と言えば徳川家臣の大久保忠世、忠佐の実母が
三条西公条の娘って事になってるけど、これもどうなんだろう
0054人間七七四年2016/03/16(水) 19:49:37.42ID:HBine4eb
大河ドラマの創作の部分を具体的に
解説してくれる本があると助かる
0055人間七七四年2016/03/16(水) 20:34:00.94ID:1bM0Fr/T
史料を発掘、再検討して日々通説を新たにするのが歴史研究者の仕事だから
0056人間七七四年2016/03/17(木) 02:12:43.02ID:bYFESNKw
>>54
最初から大河ドラマから史実を学ぼうと思わなければいい
0057人間七七四年2016/03/17(木) 10:26:00.39ID:KtCB979C
創作、じゃないけど、例の昔武田信玄像って言われてて、いまは畠山何とかって武将像ではないかと
されてる肖像画
あれっていつ頃から疑われてたんだろう

手元の、海音寺潮五郎の随筆集の中で、昭和31年ごろに書かれた物の文章に、戦国武将の
性格診断をする、という遊びをしてる物があった
その中で、武田信玄の生き方や戦争の仕方、政治の進め方、さらに徳富蘇峰の
「当時の書簡から、信玄は肺病を患っていたのでは」という見解等から、信玄は低血圧の人だったのでは、
と推理していて、で、あの肖像画を見ると全然、血圧が低そうに見えない、ほんとにこいつは信玄の絵なんだろうか
って書いてる

こういう作家らしいアプローチの仕方っていいね
ちょっとしたゲーム感覚もあって、ペースにはきちんとした裏付けや考察もあって
なんというか、こういう感覚にあこがれる
0058人間七七四年2016/03/17(木) 16:58:19.73ID:7o2HUH1H
そういや海音寺は信玄を「怠け者」と評してたな。
0059人間七七四年2016/03/18(金) 08:48:39.89ID:AEqWUowt
通説になってませんが
0060人間七七四年2016/03/18(金) 10:55:21.67ID:/b4ySwql
信玄が怠け者じゃなかったら甲斐は破産してそう
あんな経済的に弱い土地であれだけ物事やろうとしたらとても金が足りない
0061人間七七四年2016/03/18(金) 13:36:42.39ID:M/zPz3wi
つ 金山
0062人間七七四年2016/03/18(金) 21:21:51.15ID:1ji6Rd8y
>>53
三条西公条って大久保忠世が天文元年の生まれだから、嫁いできたのは
その一、二年前くらいだとしたらもう大納言にはなっているだろう
そんな人物の娘が三河の田舎大名の家臣の、しかも嫡流でもない忠員に嫁ぐとは
普通考えられないけどね
余程確かな史料でもあるの?
0063人間七七四年2016/03/18(金) 23:02:06.37ID:z2YCklXC
三河物語は...あんまり信用できないな
実隆公記とかに載ってるのかな
三条西家は今川と懇意にしてたし、確かあの辺に荘園持ってたから繋がりがないわけではない
0064人間七七四年2016/03/19(土) 17:42:27.09ID:ydbWyp4j
稲葉一鉄にも嫁がせてることになってるから信憑性が無いとも言えないが
稲葉一鉄の方がその時点でははるかに上かな
0065人間七七四年2016/03/19(土) 22:34:19.25ID:uFBOsaFS
調べたら三条西家は寿桂尼の中御門家より家格が上なんだな
0066人間七七四年2016/03/20(日) 05:37:36.62ID:4CjP3/Kv
>> 62
時期的にいえば清康が三河統一したくらいの頃か
0067人間七七四年2016/03/20(日) 08:18:45.57ID:Bhi7QT9+
松平氏は意外に京とコネクションがあるので侮れない
0068人間七七四年2016/03/20(日) 09:07:40.25ID:x2PJqZSQ
家康の糞もらしに関して。

「改正三河後風土記」は幕府編纂であり、
幕府自ら否定していることからして、逆に怪しまざるを得ないってことなんだろ。

だから史学の徒としては、完全に否定も肯定もできるはずはないんだが?

間違っていると強硬に主張している人はどういう人なんだ?
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