>>877-878
天正壬午で北条が信濃まで出兵したように、「状況が許せば行ける所まで行く」が
戦国大名の本能だとは思う。それは織田も同じ。元亀〜天正初期には、大大名なら
「織田家がこのまま膨張したら、俺らもヤバくね?」という危機感を持っても当然。
近畿周辺で小戦に明け暮れた三好政権とは格が違うのがハッキリしてきたから。

実際、上杉も毛利も長宗我部も織田と交戦状態になったし、本能寺がなかったら、
毛利が境目の国の割譲で許されたかどうか分からん。北条は当面の敵が武田だから
織田家と友好関係を結んだけど、本能寺直前の状況からすると、滝川による北関東
支配安定と上杉の始末が達成されたら、攻められただろうね。

信玄が晩年に織田に喧嘩を売ったのは、長期戦略としては間違いではない。ただ、
「何としても信長を抹殺する」「徳川領だけは併合しておく」どちらも中途半端に
終わった。病苦で判断力や行動力が鈍ったか、実は孤立した浜松城すら落とせない
程度の戦力しかなくて西上作戦が精一杯だったか分からんが。