武田信玄は過大評価されすぎ part6 [無断転載禁止]©5ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2015/12/31(木) 20:37:24.91ID:ylmPwtns戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。
前スレ
武田信玄は過大評価されすぎ!!part5
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1441010785/
0525人間七七四年
2016/02/16(火) 21:19:03.36ID:8OIYUciE0526人間七七四年
2016/02/16(火) 21:32:56.31ID:W7eIY0qB甲州崩れで殆ど戦うこともなく瓦解し最後は僅か40人程の手勢しか参加にいなかった武田家なら小田原征伐並みの規格外の大戦でも同じようなことにならないんだろうな〜w
0527人間七七四年
2016/02/16(火) 21:35:22.59ID:QomS3HuEさすがに監視が厳しかろう
0528人間七七四年
2016/02/16(火) 21:37:52.64ID:xIXgWwIN子供と嫁の方は秀吉側に付いたんじゃなかった?
0530人間七七四年
2016/02/16(火) 21:38:24.07ID:tWAkitKu0531人間七七四年
2016/02/16(火) 21:41:50.88ID:QomS3HuE新発田の乱は恩賞問題だし
0532人間七七四年
2016/02/16(火) 22:14:38.95ID:M1YpdNac0533人間七七四年
2016/02/16(火) 22:57:03.31ID:8OIYUciE秀吉には最大の同盟者である宇喜多忠家が居たからね。
直家が生きていたらたぶん一益と同じ道を辿った。
それに状況が全く逆。
毛利はもともと敵で、騙して和睦できた。
北条はもともと味方で、和睦のしようがない。
0534人間七七四年
2016/02/16(火) 23:16:33.31ID:NeIXFCqk信長は上杉を配下に丸投げにして真逆の中国方面へ向かっていたし
例の将軍宣下の問題を見ても次の狙いは北条討伐と見てとれる
0535人間七七四年
2016/02/16(火) 23:26:58.60ID:xIXgWwIN御館直後に飛騨から北上して越中中心部取ったぐらいか?
0536人間七七四年
2016/02/16(火) 23:56:19.40ID:6KiN2WGm風前の灯火。佐竹に「全国を敵に回して戦って滅ぶぜ」とヤケクソじみた手紙を出した。
0538人間七七四年
2016/02/17(水) 12:40:57.10ID:CLGRSrU7魚津城に詰めてた揚北衆なんかも魚くさいしてるしなあ
0539人間七七四年
2016/02/17(水) 12:41:32.75ID:CLGRSrU7あークソ変換
0540人間七七四年
2016/02/17(水) 14:55:19.92ID:fnyBH/qC要は武田信玄が1573年4月に死去せずに元気に長生きする。
この場合、織田信長は無理でも徳川家康は潰せたのではないか? 織田信長はあちこちに敵がたくさんいて三河に援軍に来るような余裕はない。徳川家康は三方ヶ原で当時の有力武将の多数と兵力を失っている。織田信長は無理だが徳川家康は潰すか支配下に置けたのではないか?
0541人間七七四年
2016/02/17(水) 15:25:26.16ID:iHvFwMJV武田に降伏するしかない。あの時代の価値観では、本気で救援しなかった織田のせい。
勝頼時代になっても、大賀事件みたいなのが起きているし、家康本人はともかく、
遠江・三河国人にとって「武田に下る」は有力な選択肢だっただろう。長篠までは。
0542人間七七四年
2016/02/17(水) 17:46:26.50ID:O9yTDvA7それに徳川が織田につこうが武田につこうが徳川の勝手だし
その上で徳川は武田と織田を天秤にかけて織田を選んだに過ぎない
0545人間七七四年
2016/02/17(水) 18:30:17.24ID:ngyFjijW0546人間七七四年
2016/02/18(木) 00:16:15.36ID:obEXPVlF0548人間七七四年
2016/02/18(木) 01:02:50.84ID:uoADI8lJ0549人間七七四年
2016/02/18(木) 01:06:49.99ID:GHI42vUQ信玄も謙信も信長との決戦を前に無念の病死というドラマ性が我々の想像を掻き立てて止まない
0550人間七七四年
2016/02/18(木) 01:18:15.51ID:HLS+WTUW50前半や後半で死ぬのはあの当時で考えればなんら違和感はない
北条氏康とか大友宗麟も50代で亡くなってるし
謙信や信長が仮に死ななかったとしたら(面倒なので明智光秀は1581年に死んだとして)
あと10年くらいは生きられる、かもなあ
0551人間七七四年
2016/02/18(木) 02:46:31.81ID:NW85K92G3年も延びやせんわ
0552人間七七四年
2016/02/18(木) 03:31:25.35ID:QkGHZ8oT全部信康になすりつけて口封じしたのが信康事件の真相だと思ってる
無論証拠は無いが
穴山はそのときの取次を逆用して家康にすんなり投降できたのではないかと
0553人間七七四年
2016/02/18(木) 09:54:44.27ID:xO+Ux3SR第一次信長包囲網 → 信玄死亡 → 信長生き残る
第二次信長包囲網 → 謙信死亡 → 信長生き残る
偶然と考えるには出来すぎ
0554人間七七四年
2016/02/18(木) 09:59:07.60ID:M6fyfFl00555人間七七四年
2016/02/18(木) 11:45:36.66ID:uoADI8lJ確かに、後の二人はもう10〜20年活躍しても不思議ではない年齢だが。厠で忍者に刺されたとか、
攻城中に狙撃されたとかの巷説が生まれたくらい、信長には都合良いタイミングだった。
もう一つ言うと、そのリストには義龍が抜けてる。
0556人間七七四年
2016/02/18(木) 12:43:03.08ID:iIvSm7Wu0557人間七七四年
2016/02/18(木) 13:45:08.54ID:IQld6Z1r情報収集によりそれを知って寿命をはかり、決戦を避けていた的な展開ならあり得なくもないな
0558人間七七四年
2016/02/18(木) 15:04:11.82ID:xmr1MjB00559人間七七四年
2016/02/18(木) 15:57:59.73ID:Zbetlh9+信長は謀反以外だと何歳で死んだかにもよると思うんだけど
0560人間七七四年
2016/02/18(木) 19:33:56.30ID:QEXdB/pz0561人間七七四年
2016/02/18(木) 19:38:46.47ID:3TUT3i7Oそうなると徳川は滅亡してるとして
濃尾平野で大回戦が行われたか金華山に逃げ込んで籠城したかだな
0562人間七七四年
2016/02/18(木) 20:31:42.33ID:lgnCnBks北条がやったみたいに、岐阜と浜松で籠城する展開もあり得たと思う。
0563人間七七四年
2016/02/18(木) 23:54:13.86ID:/SWoYrZh0564人間七七四年
2016/02/19(金) 00:11:37.52ID:ReKSySx+信長もそれくらいじゃね
0565人間七七四年
2016/02/19(金) 05:05:11.41ID:TM2x7+Pb信長は血圧高そうだし長生きしなそう
0566人間七七四年
2016/02/19(金) 05:32:43.95ID:topZMPbz信玄生存なら謙信と信長が出切れする事もないし動かず終わり
どのみち生き延びたとしても10年はねえよ長くて3ヶ月
0567人間七七四年
2016/02/19(金) 09:00:33.30ID:u/+MvlgJ暗殺(毒殺)かも分からんけど
0568人間七七四年
2016/02/19(金) 20:12:58.16ID:AWIAL94P0569人間七七四年
2016/02/19(金) 20:31:49.69ID:Nprw0l83どっかの誰かさんと同じパターンになりそう。
0570人間七七四年
2016/02/19(金) 21:30:20.68ID:MQYqjo3w謙信と信長の「出切れ」も何も2人は仲良く無いし
共同作戦も全くできなかったじゃん。
もし同盟できたとしても結局のところ、
足利義昭と武田信玄が信長を討ち取るのを謙信は動かず黙って見てるだけ。
0571人間七七四年
2016/02/20(土) 14:22:25.46ID:3OtUGrx3景家内通は創作としても晴家誅殺がズレて伝わったなんて説もあり
晴家説は微妙な時期だ
尤も晴家は御館開戦直前に討たれたとするのが有力説だけども
0572人間七七四年
2016/02/20(土) 14:42:48.47ID:MGzBwech「出会いはあるけどろくな男がいない」
「再婚したら仕事辞めて専業主婦になりたい」
って言ってた。
0573人間七七四年
2016/02/20(土) 16:28:53.04ID:3bqSCBdPそこまで行けないだろう
補給路が持たん甲斐を中心に拡張してってるので遠江か三河ぐらいまでが行動限界点
0574人間七七四年
2016/02/20(土) 17:03:35.01ID:A3Jb3Fy5補給路や補給線なんて概念は17世紀からだぞ。
調達の基本は、現地商人からの購入、同盟大名の支援、敵国からの略奪。
つまり勝てば勝つほど物資が入手しやすくなる。
但し劣勢になると一気に破綻。
0575人間七七四年
2016/02/20(土) 17:44:43.47ID:2rNRVW1Z0576人間七七四年
2016/02/21(日) 17:06:06.13ID:iDz4pl6T凄い意見。
どこの世界に将来占領予定の現地商人と摩擦を起こしたり地元民の恨みを買うバカがいる。同盟者が助けるとか、そんな余裕あるなら自分の軍の補給なんて簡単だろ。
補給路、補給線は17世紀から。
石山本願寺は毛利から水軍を通じて兵糧を補給していた。
武田信玄は甲斐から信濃に続く軍用路を築いて補給線を確保はしていた。
織田信長は琵琶湖を渡れる大船を造って道を確保していた。
0577人間七七四年
2016/02/21(日) 17:08:34.79ID:iDz4pl6T補給線もない軍がどうやって遠征するの? 織田信長武田信玄豊臣秀吉徳川家康みんなそうだが。
だいたい17世紀の日本に合戦なんてほとんどないが。
0578人間七七四年
2016/02/21(日) 17:45:51.17ID:D6bGIjpN0579人間七七四年
2016/02/21(日) 18:58:47.95ID:7u5khkAM小規模の軍で移動し続ければある程度は何とかなるんだろうけど
補給路・補給線がゼロってのは流石にないな
0580人間七七四年
2016/02/21(日) 19:02:17.29ID:kYN/FVgA現地商人からの購入で、なんで恨みを買うことになるの?
それに道中の同盟者はもちろん、近江の朝倉、浅井を助けたら兵糧くらいは貰える。
【小荷駄】
小荷駄とは牛馬を用いて兵糧などの物資を運搬する部隊を指し、小荷駄奉行が置かれた。
補給に関する重要な役目であることから、小荷駄奉行は経験に長けた有能な人物が選ばれた。
牛馬二頭に口取は三人。これを侍二十名から三十名、足軽四十名から五十名が護衛する。
難所では鉄炮足軽も護衛した。小荷駄が前線に紛れることは禁止された。戦闘の妨げに
なるばかりか、貴重な物資を奪われる危険性があったからだ。
百姓や野伏せりが兵糧を目当てに小荷駄を襲うこともあった。
「小荷駄押し」:小荷駄が行軍すること。
【兵糧】
合戦の際に必要になる兵粮は、三日程度の用意は足軽が自前で用意した。それ以上の
期間に消費される兵糧は、大名が年貢の備蓄などを切り崩して用意した。
大名は行軍中に村々に立ち寄り、兵糧を購入した。現地で兵糧を購入しながら戦場に
向かったのだ。また、兵糧不足に備えて家臣や足軽に銭を渡し、戦場を往来する商人
から兵糧を購入させていた。
大量購入によって兵糧の値段が高騰し、思うように兵糧が購入出来ないこともあった。
逆に高騰した地域で兵糧を売却し、利益を得る大名もいた。
兵糧が手に入らない場合、敵地で乱妨狼藉を行って兵糧を確保した。また、拐かした
人々を売り払い、銭を得ていた。
ttp://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sengoku-h07e.html
0581人間七七四年
2016/02/21(日) 19:34:30.39ID:Wk2mngVi0582人間七七四年
2016/02/21(日) 19:52:46.80ID:y3mYZZJi0583人間七七四年
2016/02/21(日) 21:17:12.16ID:RV908nl6兵糧入れが戦闘に匹敵する大功と評価されていたことや、付城で敵城を干上がらせる戦略が
当時普通にあったことを知らんのか?天正壬午で北条が信濃攻略に失敗したのは、寝返った
真田に碓氷峠の糧道を切られたからだし。
0584人間七七四年
2016/02/21(日) 21:25:04.22ID:I8bZ/AB30585人間七七四年
2016/02/21(日) 22:00:51.45ID:ckrHeM9h付城は敵城に兵糧を渡させないこと。
城包囲の一点を突破する話と、補給路や補給線の概念とは全く別物。
補給戦は17世紀に欧州でやっと整備された概念。
小規模の軍なら小荷駄で賄えるが、大規模な軍隊に常時補給できる
補給部隊なんて荷馬車や舗装道路すらも無い戦国時代に存在できない。
0586人間七七四年
2016/02/21(日) 22:36:00.68ID:7u5khkAM17世紀になってようやく取り戻した概念と言うべきだな。
中国の方は紀元前から基本的にそういった概念はあったが、
欧州の方はローマ帝国滅亡で失った、あるいは整えられないぐらい退化した。
0587人間七七四年
2016/02/21(日) 23:11:12.32ID:7BN1egNq0588人間七七四年
2016/02/21(日) 23:12:41.66ID:aeWKhncJ0590人間七七四年
2016/02/21(日) 23:44:28.43ID:ckrHeM9h備蓄している矢玉は最初から携帯すればいいだけ。
備蓄で無い(後方で生産した)矢玉を前線に送るというのは、
産業革命による大量生産が前提条件。
0591人間七七四年
2016/02/22(月) 00:08:05.39ID:BqlhHHFr0592人間七七四年
2016/02/22(月) 01:13:38.96ID:BqlhHHFrそもそも本気で西上する気無かったんちゃうん?
0593人間七七四年
2016/02/22(月) 03:31:38.53ID:yq1y/2Cg俺は「筋肉美のイケメン・ビルダーですね」と皆からよく褒められる肉体の持ち主だから
知り合いの医師に頼まれて、気軽にデッサン会場へ向かった。
会場に来てたのは、なぜか男性ばかりだったけど、別に気にもせず、ビルパン一丁になって
台上で指示通りにポーズをとらされた。
そのうち、「人体デッサンだから裸になってくれませんか」という声が聞こえた。
主催者の医師の指示でやむなく小さなビルパンも脱がされてしまい、一糸纏わぬ素っ裸に。
男性ばかりとはいえ、大勢の人々の前で全裸をさらすのは、生まれてはじめての経験だった。
「でかいマラだな」とか「すげえ濃密な陰毛だ!」「玉もでかくて左側のほうが垂れてるぞ」「見事なズル剥けだ」
等々といった言葉が洩れ聞こえて来る。
それから、「両腕を頭の後ろで組んで腰を前に突き出して」とか「仁王立ちになって。よーく股間が観察できるように」
だなどと様々な注文に応えて、次々に恥ずかしいポーズを取らされたぜ。
おっと。だけど、ここから先は、俺の口からは、ちょっと話せないな。
また機会があれば、ってことにしよう。
0594人間七七四年
2016/02/22(月) 09:22:56.93ID:k9VQtHEn謙信ならやりそうだけど、信玄はそういうの無駄と考えそう
やっぱ京都行く行くって言っといて信長を釘付けにして、
徳川領を削れるだけ削り取る作戦だったのかも
0595人間七七四年
2016/02/22(月) 09:51:26.37ID:lnB//fJw信長みたくフットワーク軽ければいいけど、もう晩年間近の信玄じゃあね
0596人間七七四年
2016/02/22(月) 18:42:55.31ID:rc32JwDO完全にこれだろ
信玄は甲斐中心に所領を拡大してっただけだから遠江とか奥三河が欲しかっただけに過ぎない
謙信も春日山中心に所領を拡大してっただけだから手取川あたりが限界ライン
単身上洛はできても維持はどちらも不可能よ
0597人間七七四年
2016/02/22(月) 18:57:23.80ID:vmSB5/EH信長は美濃という比較的近い位置にいたから、反信長勢力に攻められても援軍が間に合った感じです
0598人間七七四年
2016/02/22(月) 18:59:30.02ID:SJ7VbbD+織田信長は言うに及ばず、上杉謙信も本庄、北条高広、柿崎とかなり離反されているが、信玄の統制は厳しかったのかね?
0599人間七七四年
2016/02/22(月) 19:40:42.14ID:ecGSJKNB0600人間七七四年
2016/02/22(月) 19:41:00.59ID:O2Ta1F3Z0602人間七七四年
2016/02/22(月) 21:55:13.29ID:sA9kOEiY結論を出せたら一躍時の人になれるわ。
0603人間七七四年
2016/02/23(火) 00:41:21.45ID:7UQI/bph離反ぐらいでもいいのなら結構あると思う
上田原直後とか戸石崩れ後とか、
川中島周辺の豪族も内通したりとかあるし
原が出奔したこともあったしあと従兄弟が謀反したことも
従属勢力の遠山なんかの離反も含めればさらに増えると思う
でもまあ甲斐国内は信虎が頑張ってくれたし
国外も基本敵対勢力に対して国力的に優勢で攻勢に出ていることが多いからってのも
離反が少ない理由かと思う
0604人間七七四年
2016/02/23(火) 09:09:44.69ID:FkPoxyQB滅亡まで付き合うほうがおかしいだろ
武田は信玄が俺が俺が好きすぎて自分の寿命考えんといろいろやったのと
勝頼が全部投げ出して降伏できんかったから滅びた
降伏できる当主もそれを望む家臣もまあおらんけど
他人に仕えるものなどというのはそんなもんだからな
降伏も滅亡もてめえの利益に適わんというだけよ
0605人間七七四年
2016/02/23(火) 10:18:48.21ID:nmHVNykd途中で織田を打倒」どれが狙いだったとしても実際の行動は中途半端かつ鈍重過ぎる。
信玄の体調が激悪だったら、本人の錯乱気味だったのかもね。
0606人間七七四年
2016/02/23(火) 15:23:01.14ID:3cLlhagBスンシンって将軍は本当に強かったの?
ここの住民歴史に強そうだから教えて下さい
0607人間七七四年
2016/02/23(火) 16:04:28.76ID:FkPoxyQB0608人間七七四年
2016/02/23(火) 16:06:21.47ID:gCMayHBJ資料から見えてくる秀吉の姿は本気であったとしか思えない
0609人間七七四年
2016/02/23(火) 16:26:39.33ID:vqUKKPJk朝鮮侵攻が滅亡のきっかけと言われてるから
本当なのかなぁって
あとイスンシンにボコられたって
聞くけど評価が分かれてるので
ここの猛者たちに聞きたかった
0610人間七七四年
2016/02/23(火) 20:34:01.41ID:EQ58lMbI0611人間七七四年
2016/02/23(火) 21:39:58.94ID:bl28Z7+f一度だけレスする。
海戦でボコられたら倭城が海沿いにあったり、
大規模な撤退に成功したりするわけが無い。
どちらが制海権を握っていたかは明白。
倭城(わじょう)
http://www.junk-word.com/taiga-drama/xn--f6qx0wq4bm15evzg/002307.html
0612人間七七四年
2016/02/23(火) 21:51:18.63ID:bl28Z7+f中国の史書は大げさだから。
そもそも食料を消費する人や馬で食料を運ぶというのは、非合理的。
最低でも船か、陸だったら列車がある時代じゃないと補給線は構築できないかと。
但し古代南米や中国は人肉食文化があるから、食用の捕虜を使って補給線を構築できた可能性は皆無では無いけど。
0614人間七七四年
2016/02/24(水) 04:38:53.59ID:KwBG8W7Whttp://i.imgur.com/vap8Fou.jpg
0616人間七七四年
2016/02/24(水) 11:09:29.58ID:Y1vPvw2q0617人間七七四年
2016/02/24(水) 11:13:02.45ID:bIPm7UsE三国志の北伐の逸話考えるなら普通に陸路で兵站担おうとしていたろ
補給線って概念はあるはずだぞ、完全な構築は不可能だったが
まあ欧州でも完全に現地調達に頼らないで済むようになったのは20世紀近くになってからだから
完全な構築なんて不可能だったろうけど
0619人間七七四年
2016/02/24(水) 12:16:52.09ID:DUx+d+mO0620人間七七四年
2016/02/24(水) 12:23:33.38ID:7G9m6CZe信越国境は謙信の支配下
統一したのは駿河だけ
0621人間七七四年
2016/02/24(水) 14:18:25.12ID:Y1vPvw2q徳川家はともかく、北条は河東に領地なかった?
0623人間七七四年
2016/02/24(水) 18:28:00.42ID:DzN9dgrS令制国(旧国)の完全支配なんて、実力=戦争と調略で達成しない限り誰も保障してくれない時代だからね。
争奪が繰り返された地域や、二つの大名に両属した「半手」の村も多かった。地形的な理由等で、軍事的に
安定する辺りが事実上の国境になってた。
信濃で言うと、飯山城や野尻城は御館の乱で景勝が勝頼に割譲するまで上杉が押さえていた。越後の政治・
経済の中心が上越だったから、上杉にしてみれば越後の防衛線として譲れなかった。武田にしても、川中島を
確保できれば、南進より信越国境までの制圧を優先する必要性はない。
駿河の河東は今川時代から北条との係争地だったけど、甲相同盟の再締結で興国寺城辺りまでは武田の支配を
認めたはず。
0624人間七七四年
2016/02/24(水) 21:45:52.79ID:v3hS/S4T信長の美濃統一は天正3年ということになるのか。
隣に大勢力が居ると手間がかかるってことか。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています