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戦国ちょっと悪い話40

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0001人間七七四年2014/08/22(金) 10:48:31.30ID:nt4X+YCy
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400545233/

【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0951人間七七四年2014/12/05(金) 02:32:38.89ID:10qg/MX/
うお、いい話スレと誤爆した
では、信玄が下手こいたちょっと悪い話ということで
0952人間七七四年2014/12/05(金) 03:05:57.30ID:Kgxeaang
「芝居」には「観劇や酒宴のために芝生に座ること」という意味もあったので、
戦後の宴(能見物含む)を開くことを「芝居を踏まえる」と呼んだのではないかな
0953人間七七四年2014/12/05(金) 13:46:33.73ID:sQxpoWZm
あとで勝てばその前の敗戦はノーカンってか
0954人間七七四年2014/12/05(金) 21:41:15.89ID:ny/cwYoi
関ヶ原において西軍が敗れると、宇喜多秀家の士卒たちも思い思いに落ちていったが、
飯尾太郎右衛門安延は山中に逃げ退いた。この間に家人に離れ馬も乗り捨て兜も脱ぎ、
ただ一人で逃走していた。

しかしこの後から、池田輝政の家臣である砥倉市正が人数2,30人を連れて追撃をしていた。
実はこの市正は、太郎右衛門の叔母聟であった。
市正は落人を追いかけ接近してよく見ると。それが太郎右衛門であることに気がつき、声をかけた

「そなたは飯尾太郎右衛門ではないか!?」

「いかにも太郎右衛門である!そのように申すそなたは何者か!?」

「私は砥倉市正だ!」
そういうと後ろに続く兵卒に、彼を討ってはならないと下知した。
そして太郎右衛門の所に行き
「まず落人を一人、下人でも何でも良いから、それを討ち留めるのだ。」
そう言って下人2,3人を付け遣わした。
太郎右衛門は納得できなかったが、市正が強いて落人を討たせに向かわせたので、
見知ったものは討たず、そのうちに見慣れぬ下人を見つけてこれを討ち首を取って戻ってきた、

市正はこれを見ると、その血を太郎右衛門の口に塗るなどした。そして
「これは降人の法なのだ。敵の首を取って降人に来たといえば、主人に理屈を言うことができる。
そのうえ落人というものは、樊カイを欺くほどの勇者であっても、臆病神の付く物だ。
また落人を討たせその上で血を飲ませるなどする事は、昔より定まりたる法なのである。
このように、降人の法となる事と臆病になっている事の二益がある故に、そなたに落人を討たせたのだ。」

これによって飯尾太郎右衛門は、一命を許されたのである。

(黒田家臣伝)
0955人間七七四年2014/12/06(土) 14:14:46.60ID:/6xIWDLx
島津義久が大友氏を攻めて所々に乱れ入った時、志賀太郎親次は一人、義久に
降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。

大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。

そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。

「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。

親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。

――『常山紀談』
0956人間七七四年2014/12/06(土) 20:41:19.01ID:j5mUhdpM
>>955
多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。
0957人間七七四年2014/12/07(日) 12:30:28.15ID:yNnhc+L4
白鳥長久討たるるの亊

※この話にもパターンがいくつかあります

さる日、志村黒兵衛(以降志村九郎兵衛=光安)は谷地の城取十郎義国(※以降白鳥長久)を訪ね
「山形の主(最上義光)が病に倒れ、明日をも知れぬ命であります
義光は稚姫さま(長久の娘)と嫡男義康君の婚姻の縁で大事を託せるのは白鳥様しかおられない
生きている内に幼少である義康君の後見人引いては最上家の後事を是非にお頼みしたいとの事で、山形城へとお越し願えませぬでしょうか」と深刻そうな面持ちで話をした

長久は席を少し外すと

「山形からの使者が最上義光が死に掛けていて、婚姻関係のよしみで後事を託したいと言って来ている
使者を待たせているがどうしたものだろう?」と谷地城を訪れていた羽柴勘十郎に尋ねた

勘十郎はそれを聞くと
「最上義光は最近飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、病に倒れ婚姻関係を頼りに後事を託したいと言って来ているのだ
子供の行く末を案じている親の心は大層不安であろう
彼の言を汲んで山形に見舞いに行ってあげなさい」と答えた

その頃山形城下では最上の家宰氏江尾張(※以降氏家守棟)が寺社を廻り
「殿(最上義光)の容態が思わしくない。急ぎ祈祷をしてくれ。今殿に倒れられる訳にはいかんのだ」と僧や山伏らに声を掛けていた

この様子は草の者によってつぶさに谷地の長久の下へと届けられていた

日を置かず今度は氏家守棟が谷地城の白鳥長久を訪ねて来た

守棟「主義光の病は悪化するばかりで、もう我らでは見守る事も辛うございます。是非是非生きている内に一目見舞うてやっては頂けませんでしょうか」

「仮に義光の策だとしても精兵を連れて行き、城の要所を押さえれば何事も問題なかろう」と長久は兵500と抱え大筒数十を供え、輿で山形へと向かった

長久が山形城御殿に着くと義光の病状は相当悪いと見え
一間には医師らが治療の評議の言い争いをし
また別の間では僧や山伏らが護摩を焚いたり経を一心不乱に唱えていた

奥の間にも上座下座に仏僧が並び座り、手に汗を流して法を取り行っていた

長久「ただ今、参りました」
守棟「おお、これはよくぞよくぞ
お供の方はそちらでお休みくだされ。長久様、殿の寝所はこちらになります」
0958人間七七四年2014/12/07(日) 12:48:48.48ID:Fa83kjke
>>956
茶器とられたのか…壊れなくてよかったな
0959人間七七四年2014/12/07(日) 12:53:50.76ID:yNnhc+L4
守棟「殿(義光)、長久様が遠路はるばるいらっしゃいましたぞ」

義光は顔を傾け目をそばめると喉から咳を二三し
「おぉ、おぉ、よくぞよくぞいらっしゃいました…
生きている内にお会い出来て本当に良かった…
志村に言伝を頼んだ様に嫡男義康は未だに幼少
私が死んだ後も実の息子の様に可愛がってやってくだされ
そればかりが心残りで…」と呻いた

長久は「義光殿、我等の仲ではございませんか」と感激して涙を流し、袖を濡らした

義光「ごふっ、尾張(守棟)…、系図を持て。長久様に託したい…。九郎(光安)、系図の説明を…」

氏家守棟が巻物を恭しく掲げ持ち、志村光安を連れて閨に入って来た

義光「…拡げてくれ…」

守棟が長久の目前の床に最上氏の系図を拡げた

義光「伝来の羽州探題を証明する、家宝の系図でござる…」

守棟と光安が長久の左右に付いた

義光「長久殿…」
長久「なにか?」

守棟と光安が長久の着物の袖をかすがいで床に抜い付け
はっと顔を上げた長久が最期に見た物は枕元の太刀を抜き、袈裟掛けに切り降ろす最上義光の姿だった

「山形軍談」ほか

油断している相手を拘束して斬殺する
ちょっと変わった謀事のお話
0960人間七七四年2014/12/07(日) 13:27:25.60ID:pQak1rhA
とられたというか足利将軍家から宗麟に贈られた茶器じゃ無かったっけ
0961人間七七四年2014/12/07(日) 15:50:33.56ID:W3X3PcoP
関ヶ原合戦の前哨戦、伏見城の戦いで内藤家長は守将の一人だったが籠城の方針をめぐって
総大将の鳥居元忠と対立した。

元忠はいう
「こたびの合戦は討ち死に必定である。だから大将として城を預かる上は鳥居元忠と名乗って
見事に討ち死にするのが勇ましい武士のあるべき姿だ。」

しかし内藤家長はこれに反論した。
「そうではない。こういう場合は名乗らずに大将の死をかくし、いまだどこかに逃げているのではないかと
敵に疑心を生じさせるのが古来からの兵法である。」

元忠は敵にただで城を渡さない三河武士の覚悟を示そうとしたのに対し、
家長は石田三成の進撃を少しでも遅らせ、徳川家康の西上の時間稼ぎをせよというのである。

二人は死に方をめぐってついに喧嘩になった。

家長が「大将が堂々と快死する地ではない。」というと元忠は怒って
「大将が堂々と死なねば後で必ず窓から逃げたなどといわれるぞ。」
「雑兵の首に混じって捨てられては不覚きわまりない!」と反論する。

結局二人は同じ伏見城の中で対照的な最期を迎えた。

元忠は城の入口の石段にすわり、敵に名乗った後で堂々と切腹した。

一方
「家長もとより弓の達者なれば、手先をめぐらし、さんざんに射て敵を斃すといえども、
大軍おりかさなり松の丸の余煙もはげしゅうして逆風吹きめぐり、本丸西丸一時に亡す。
家長防戦の術つくるがゆえに、猛火のうちに飛び入りて焚死す」(武家事記)

家長の首はいくら探してもついにみつからなかったそうである。
0962人間七七四年2014/12/07(日) 21:10:01.73ID:sBYgMYaU
>>960
足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。
0963人間七七四年2014/12/07(日) 21:57:43.74ID:w3202xSl
なんで戦場に茶器持ってってんだと思ったら略奪品かw
0964人間七七四年2014/12/07(日) 22:29:29.80ID:HTCupOW+
島津が茶なんて出来るわけがない
茶器オークションが目的
0965人間七七四年2014/12/07(日) 22:40:54.18ID:fXGl/uHn
義弘は茶人でもあるけども
0966人間七七四年2014/12/07(日) 23:20:42.72ID:w3202xSl
義弘は在坂歴も長いからな
0967人間七七四年2014/12/08(月) 00:47:35.46ID:SywZhC9j
魔のしょゐか天けんおかみ法華教 一向宗にすきの小座敷
(天権を拝んだり法華や一向宗・茶道にハマったりするのは、魔に魅入られたせいである)

日新斎
09681/22014/12/08(月) 01:45:19.73ID:6ZE/ro+x
播州において織田信長による三木城攻めが行われていた頃のこと。

毛利輝元の中国勢、並びに紀伊淡路の兵あわせて8千あまりは軍議し、
「別所長治に同調せず、織田方についた別所孫左衛門(重棟)の籠もる別府の阿閉城を攻め落とし、
その上で三木城の別所の人数も相加え、大軍を以って姫路へ押し寄せたなら、羽柴秀吉・小寺政職も
こらえかねて城から出て戦うだろう。その時に勝負を決すべきである。」

そう決定し天正6年(1578年)4月1日、船手より阿閉城へと侵攻を始めた。

この動きを察知した小寺官兵衛孝高は、即座に精鋭五百を率いて阿閉城へと入り、諸卒に下知した

「この城は人数少なく城郭も堅固ではない上に兵糧も乏しい。敵が時間をかけ、攻め支度を備え
軍法を整えてここを攻略されては、小勢を以って防ぐこと難しく、必ず落城するだろう。
であれば、長期の籠城をするよりも、敵が寄り来たばかりで行列も未だ整わず、攻める用意も無い内に、
速やかに門を開き突き出て戦えば、必ずこの一戦に理を得ることができる。

この城が要害おろそかであることが幸いである。敵がこの城を見れば必ず侮り、大勢であることを頼んで、
仕寄(攻城施設)も付けず攻め支度も用意せず、盾ばかりをつき並べて攻め寄せてくるであろう。
その時、城中静まり返って鉄砲も撃たず、敵を近々と矢頃まで引きつけた上で、打ち損ぜぬよう
弓鉄砲を一斉に射撃させ、また弓鉄砲を持たぬ者は石を多く集めておいて、これをひたすら投げ打つのだ。

私は大手の矢倉に上がり、敵が弓鉄砲に打たれ、恐れ浮足立った時分を見て太鼓を打つ。
その時味方の諸卒が城門を開いて突き出れば、その頃は寄せ手が大軍であったとしても、鉄砲に当たり
石に打たれ手負い多く戦うものも少なくなっているだろうから、ここで鬨の声を上げ
競い攻めかかれば、敵の勇気も一時に挫けて、必ず大崩れするだろう。」

そうして予め軍法を定め敵が攻めくるのを待っていた。
09692/22014/12/08(月) 01:45:51.54ID:6ZE/ro+x
襲来した敵軍は、案の定城の形状を見て「この程度の小城、いとも容易く、即座に攻め落とす事が出来る。
であれば仕寄も作る必要はない。ただ直攻めに攻め落とそう。」と、盾を一面につき並べ、
柵際まで攻め寄せ、柵を破り堀下へと侵入した。

城中の者達は、かねて議定していたことなので、鳴りを静めて音も出さず、敵が既に石垣に乗らんとした時、
思ったとおりに引きつけたと、鉄砲を一度に、雨が降るように撃ちかけた。
寄せ手の兵はこの城を侮って、ただ一挙に攻め落とそうと勇んで進んでいたため、石に当たり鉄砲に撃たれ
多く死傷者が出たが、それも顧みず死骸を踏み越え我先にと城内に乗り込もうとしたが、
城中の防戦激しくこれを破ることができず、やがて死傷者の増加に浮足立ち始めた。

ここで孝高「時分良きぞ!」と太鼓を打ち鳴らすと、かねて決めていた通り、城中の兵城戸を開け、
鬨の声を上げて三百余人一度にどっと突いて出た。
寄せての内、城下に近づいていた先鋒の者達は、鉄砲で多数が撃ち殺され、残った者も多くは負傷していたため、
これを防ぎ戦う力なく、即時に敗退した。
その後ろの敵は先陣の崩れに押し立てられ、一支も出来ず大崩れとなり敗退した。
阿閉城勢はこの機に乗じて強く勇み、追い打ちしたため多くの敵を討ち取った。

このことが姫路に聞こえると、羽柴秀吉は大いに喜び、孝高に感状を与え、また秀吉より信長へも注進された。

(黒田家譜)

そういえばこれも若いころの官兵衛の有名な戦なのに、大河ではやらなかったなあ。
0970人間七七四年2014/12/08(月) 12:49:05.76ID:0690pWDd
血染めの桜の悪い話

白鳥長久が山形城の最上義光の寝所で斬り殺されると、氏家守棟は法螺貝を鳴らさせ伏せ隠していた兵300で近間で休んでいた白鳥家の家臣らを討ちに掛かった
白鳥の兵の大半は城外の宿に分散して置かれ、城内に同道した30人程の白鳥家臣たちは主の長久が殺されたことを知り、山形城から逃れ様と奮戦をしたが既に門は閉ざされ、
銅鑼に太鼓が鳴る度に最上の兵は増え、白鳥家老の熊野三郎友重も本丸北西の角に追い詰められ、壮烈な斬り死にを遂げた
そこには春になると見事な花を咲かせる江戸彼岸の桜の木があった

明治時代末から大正初期に山形の史跡について纏められた「山形散見」といったものがある

山形城本丸跡の霞城連隊広場脇にある桜は最上義光の謀により討ち取られた白鳥主従の反り血を浴びた事から「血染めの桜」と呼ばれる様になったとされる

この伝承は古老の伝える口語の昔話によって「谷地の白鳥某(なにがし)が彼の地で討たれた際にあった桜」「白鳥長久が寝所から逃れたが、留めを刺された所にあった桜」「白鳥は寝所で斬られ、その家臣らが最期を遂げた場所」等という事で幾つかの話がある

山形城跡南東の済生館の入口付近にも「白鳥長久首洗いの石桶」と呼ばれるものがあるが、こちらも一説には山形城本丸の手洗いの石鉢か、山形城内に当時あった歌掛稲荷の手水鉢(ちょうずばち)ではないかとも言われている

血染めの桜は戦後まであった
連隊解体後の城地整理で一旦二ノ丸北西に移植されたが、土が合わずに昭和32年頃に枯れてしまい、その幹の一部が山形城跡の郷土資料館と谷地の資料館に展示保存されている
0971人間七七四年2014/12/08(月) 17:52:06.97ID:hhTpV3Lt
>>969
ぷろでぅーさー「合戦はお金が掛かりますので出来ればなるべく無しの方向で・・・」
0972人間七七四年2014/12/08(月) 20:24:54.34ID:bp7jPN4n
この秀吉は、人を斬ることが嫌いなのです。って太閤殿下も言ってたじゃないか
0973人間七七四年2014/12/08(月) 21:54:57.27ID:Paa8DOv0
というか好きな方がおかしい
0974人間七七四年2014/12/08(月) 22:07:57.22ID:o8xywyyW
>>972
脅迫状にさらっとあれを書ける太閤殿下はホンモノさ
0975人間七七四年2014/12/09(火) 02:25:33.02ID:v2MtIaxh
>>973
当時は多分そうでもないぜ
0976人間七七四年2014/12/09(火) 02:45:46.21ID:VHXXMKOc
前田利家「俺は不義な殺しはした事はないぞ」
越前住民「利家は一揆千人あまりを生け捕りにして、みせしめに磔、釜いりで皆殺しにしたぞ。」
0977人間七七四年2014/12/09(火) 06:59:52.34ID:uKneZsTT
永禄十二年、将軍義輝を奉じて入洛した織田信長がフロイスと面会することになったときのこと

パーデレもキリシタン達も暢気にしていられないように、悪魔は早速自分の仕事をやり始めた。
それというのは、先ず第一に、まえに公方様を殺してパーデレを追放した松永霜台(久秀)は、信長やかの殿たちが皆パーデレに示した歓迎
を見たときに、
 
「パーデレが説くあの忌まわしい教えが伝わる所はどこであろうと、忽ち国も街も破壊されるということはこれまでにあれほ
明瞭に経験したことであるのに、どうして殿下が御命令になるのか、呆れるばかりである。」

と信長に言った。すると信長はそれに答えて、

「霜台、歳も長け、思慮もある其方が、かくも小心臆病であることを予は呆れておる。たった一人の異国の者が、この大きな国ではどんな
害悪をなすことができるというものか。それどころか、ここで自分の教えを説くために、かくも遠方から、またかくも遠い国から一人の男
がやって来ることは、かほどまでに多くの宗派が存するこの町にとって名誉なことだと思われるのだ。」

 信長に不機嫌な顔をされると、その者はもう一言も言えず、もう目も上げる勇気もなかった。それで、霜台は一言も答えず黙り込んでし
まった。
 こういう反対者達は仕返しをせずにはいられないものなので、信長は霜台から日本にある最良で最も価値の高い茶の湯の器を奪った後
で、彼と息子を彼らが強奪した大和国から追出して、河内国の山間、信貴山に移させた。そうして、そこでも彼らの悪意が止まらなかった
ので、信長は彼らを殺すことを命じた。しかし、襲撃を受ける前に、霜台は城に火を放ち、城中にあった全財産、婦女もろともに、生きな
がら焼け死んだ。しかし、息子は助かる途も見出すことを期待して窓から飛び降りたが、脚を折り、忽ち敵方がやって来て、彼を完全に殺
した。
(ルイス・フロイス『日本史』)


平蜘蛛は無事だったみたいですね
0978人間七七四年2014/12/09(火) 07:07:39.75ID:2V9S/OTD
ここで取り上げたってのは九十九髪茄子だろ
0979人間七七四年2014/12/09(火) 08:18:40.22ID:lVwjUkjr
切支丹が一向宗と同一視(一揆という意味で)されるようになった後の世からすると霜台の危惧は当たっていたと考えるべきでしょうね
彼の家臣に切支丹に改宗した高山・結城などがいるのでその影響力は肌で感じていたと考えられます
0980人間七七四年2014/12/09(火) 18:25:37.33ID:MIVD3f6y
いや、坊主から金もらって言ってただけで全く関係ないよ
この時点でのキリシタンの数からしても
0981人間七七四年2014/12/09(火) 22:50:24.09ID:PpDqgtbf
将軍義輝を奉じて
まえに公方様を殺して

さすがフロイスさんやで
0982人間七七四年2014/12/09(火) 23:55:38.58ID:lVwjUkjr
>>980
買収されていた証拠はあるのかい?
それに有識者の改宗は意味があると思います
領主なら尚更
0983人間七七四年2014/12/10(水) 08:25:24.67ID:VjK+BKx4
山崎甲斐守(家治)は、日頃から家臣が武器を拵える事を大いに喜び、資金不足の者には
それを貸してでも武具を拵えさせたため、家中は皆武道を嗜み武具兵器等を具えていた。

そんな中、大越治左衛門という者、
「武士が武道を嗜み、武具を揃え置くことは士の道であり、武具を拵えたからといって
人に見せるには及ばない。またそれを見たとしても、賞するに及ぶものではない。」
そう考え家中一同が嗜み具える所に、治左衛門一人わざと武道も嗜まず、武具も蓄えのないような顔をして居た。

ある時山崎甲斐守がこの治左衛門を召して言った
「その方の武具を私は未だ一見したことがない。今日、それを出して見せるように。」
すると治左衛門は「畏まり候」とその座を退き、やがて小さな旗を拵え、その旗に

『運は天に在り 具足は質屋に在り』

と書いて甲斐守の前に持って出て
「私の武具はこの旗に候」と言った。

これに甲斐守は呆れて暫く黙っていたが、やがて
「その方は貧者と見えたり。この金を遣わすので早々に武具を拵えるように。」と百金を与えた。

治左衛門は心中「さてさて、律儀なる主人である。」と思い、「畏まり候」と言って帰宅すると、
その百金を親類縁者の内困窮している者へそれぞれ分配し、残った金で酒肴、菓子など沢山求め
家内の者達に食わせ、一両日の間にその百金を皆使い果たした。

その後、山崎甲斐守が家中の士の騎馬を閲兵した時、大越治左衛門は太く逞しい黒馬に打ち乗り、
鞍の輪に網の袋を、前に5つ、後ろに5つ下げていた。甲斐守はこれを見て不審に思い
「治左衛門、その網は何の為のものか?」と問うと、治左衛門
「これは事あらん時、君の御馬前にて討ち取った首を入れるための袋です。」と答えた。
甲斐守は「そんなにいくつも要る物なのか?」と尋ねると、

「10人までは必ず討ち取りますので、10袋用意いたしました。」

と答えた。

(明良洪範)

島原の乱の後、天草を復興させた名君である山崎家治とその家臣についての逸話である。
0984人間七七四年2014/12/10(水) 16:25:54.29ID:LyU+oQmF
こういう役に立つんだか立たないんだか分かんない部下は苦手だなあ
名君たる人は器が違うわ
0985人間七七四年2014/12/10(水) 23:02:00.40ID:xg/BxYrK
名君は変質者の扱いに長けてる
0986人間七七四年2014/12/11(木) 02:13:40.44ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)
0987人間七七四年2014/12/11(木) 22:18:40.13ID:CGMxavUs
もう980超えか
0988人間七七四年2014/12/12(金) 00:12:55.27ID:iPgindBB
新スレ行ってみる
0989人間七七四年2014/12/12(金) 00:15:20.29ID:iPgindBB
ダメだった。どなたかお願いします…

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戦国ちょっと悪い話41

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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0990人間七七四年2014/12/12(金) 00:23:44.02ID:nM66HCLk
立ててみるわ
0991人間七七四年2014/12/12(金) 00:24:47.54ID:nM66HCLk
戦国ちょっと悪い話41
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1418311460/
0992人間七七四年2014/12/12(金) 01:57:05.44ID:iPgindBB
>>991
ありがとう
埋め代わりに

池田輝政が播磨の領主であった時代、直に村々に触れられて、一石につき二升宛の年貢免除を許された。
この事について、堀甚兵衛という名主の家には今も、輝政自筆の免状が伝わっている。
このように大名が村に直接指示を出したというのは、戦国の時であったからそんな事もあったのだと
言う人がいるが、新太郎少将(池田光政)の時代でも、その領内の村々を、大名自ら万事委細に理解し
扱いを行っていたのである。

現在では代官と言われる者さえその管理する村について知らない事すらある。

(明良洪範)
0993人間七七四年2014/12/12(金) 02:36:55.79ID:hpG2DEKq
00:23:44.02

00:24:47.54


立て乙www
0994人間七七四年2014/12/12(金) 02:42:16.58ID:on4xVGIO
 騎射放鷹の禁止

 いい話スレに投降した島津久保の虎狩り、その続き。
 本当は一つの逸話として悪い話スレに投稿する予定でしたが、長くなったので二分しました。 

 文禄元年(1592)初冬、金化城外の広野。鷹狩りの筈が虎狩りになってしまい、しかし首尾よく猛虎を仕留めた次の瞬間、悲劇は起きた。

 虎が疾風怒濤の勢いで小山から駆け下りてきた時、咄嗟に反応できたのは大山、大田の両名だけでは無かった。

 ここに今ひとり、羽生(はふ)某と苗字のみ記録されている士も、主君の危機に置いて虎を射止めるべく、鉄炮を発射したのだ。

 今まさに、大田吉兵衛が虎の口に一刀を突き込んだ瞬間に。

 銃弾は誤って吉兵衛の股に命中。
 ……不幸中の幸い、傷は薄手にて傷まずと『征韓録』には記されている(当時というか、幕末でも現代の重傷も浅手なので疑問だ)が、羽生は一発だけの誤射でも深く恥じた。

「楚忽(粗忽)の至り、面目なし」

 と腹を切って死んだ。


 この虎狩りの顛末を聞かされ、島津義弘は嘆いた。

「暴虎馮河で死して悔いなきとは、君子の取らざる所なり」

 以下、故事成語を引いて戒めた後さらに続けた。

「すべて久保の粗忽の儀、今に始まらぬ事なり」

 かつて忠清道(チュンチョンド)の普天(ポチョン)に在城した時、久保は島津の御家芸である騎射を練磨すべく原野に出た時。
 敵兵の大物見数十騎が出現し、島津家の秣を狩りに出た小者を二〜三人ばかり討ち取ったと聞くや、即座に追撃を決意。

「その時も、供の集まるのを待たず一騎懸けで一里余りも追撃したり」

 遂に追いつくや、敵兵二騎を討ち取る。その頃、漸く川上休右衛門久智らの駆けつけたのだが……。

「休右衛門まで一緒になって敵の首を得て帰ってきた」

 往時といい、今日の事といい、彼これ将の器に当らず。能々(よくよく)慎まれるべし、と義弘は久保に騎射放鷹の禁止を申し渡した。

 その後、石田三成まで伝聞で事の顛末を知るや、使者を送って久保に放鷹を誡めた。

 以上、『征韓録』より。
0995人間七七四年2014/12/12(金) 21:13:24.39ID:QYjmpExE
いつも興味深き逸話の御披露、忝なく存じまする。
拙者も埋め立てに加勢仕る。
0996人間七七四年2014/12/12(金) 21:42:29.87ID:VHR9G5VM
( ゚д゚) ウオオオゥゥー *・゜゜・*:.。..。.:*・゜゜・*:.
0997人間七七四年2014/12/12(金) 23:01:42.80ID:guHhG1L/
失敗を恥じて切腹するくらいなら敵に特攻して死ぬべきだよな
もう20年くらい昔の侍なら敵地で自害しなかったと思う
0998人間七七四年2014/12/12(金) 23:16:07.57ID:M09AsNsX
中川秀政「戦場で鷹狩りとか余裕ですわ」
0999人間七七四年2014/12/13(土) 11:29:14.14ID:IURlute4
うめ
1000人間七七四年2014/12/13(土) 11:30:05.90ID:IURlute4
1000げと
10011001Over 1000Thread
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
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