慶長元年(1596)7月12日、地がおびただしく揺れて、豊臣秀吉の居城である伏見城の楼閣は
尽く破損した。(慶長伏見大地震)

この時伏見屋敷にあった徳川家康は、急ぎ伏見城へと登り、太閤秀吉と対面してその無為を賀した。
その上で「速やかに内裏のご様子を伺うべきでしょう。」と申し上げると、秀吉も

「私もそのように思っていたのだが、このような大変で陪従の者達が未だ整わなかった。
しかし徳川殿がいち早く参ってくれたのは幸いである。徳川殿、私とともに参られよ。
あなたの従士を貸していただきたい。」

そう言って、徳川家の家臣たちばかりで共に出立した。
この時秀吉はこう訴えた

「私は久しく刀を挿していなかったが、今日は特に腰のあたりが重く耐え難い。
徳川殿の従臣に私の刀を持たせて頂きたい。」

そこで徳川家康自ら秀吉の刀を持ったが、秀吉はこれに恐縮した様子で
「いやいや、それはかえって心苦しい。どうか家臣の者に渡すように。」
と言ったため、家康は井伊直政に刀を渡した。
そうしている内に、秀吉の家臣たちも追々駆けつけ、駕輿も昇り来たため、秀吉はこれに乗ることにした。
この時、秀吉は供の一団の中にあった本多忠勝を呼ぶと、こう言った

「汝の下心には、今日こそ秀吉を討つのに良い時節なりと思っていたことであろう。
しかし汝の主人である家康は、懐に入った鳥を殺すようなことはしない人物である。

さっきはな、私の刀を汝に持たせたいと思っていたのだが、折り悪く隔たった場所にいて、
思うように行かず大変残念だ。汝に持たせたら、きっと面白かったのになあ。

私がこのように思うのも、汝が結局は小気者だからだ。
小気者よ。小気者よ。」
(かく思はるるも、汝らは必竟小気物なれば云。小気物よ小気物よ)

そう笑いながら輿に乗り込んだ。
忠勝は何も言わず、ただそこで平伏していたそうである。

(柏崎物語)