毛利元就を欺いた男

郡山城の合戦も終わりに近づく天文10年1月13日、毛利勢3千が宮崎に陣取る尼子勢に攻撃を開始した。

宮崎に陣取った尼子勢第一陣の高尾豊前守率いる2千の兵は散々に矢を射たが、毛利勢はひるむことなく柵を押し破り、
高尾率いる2千の兵はとうとう打ち負けて左右の谷へ引いていった。

第二陣に控える黒正甚兵衛の兵1500は弓を射て、敵のうろたえた所を襲いかかろうと待ち構えていたものの、大内の3大将の率いる
兵2万余が毛利との約束どおり吉田の城近くへ打って出た。

これで毛利勢が勢いづいた為、黒正率いる二陣はよく持ちこたえたものの切り崩され、続く味方も皆逃げてしまい、
黒正甚兵衛も逃げるに逃げれぬ状況と相成った。そこで黒正甚兵衛は鹿の角の冑の立物と笠印を抜いて捨て、正体を隠し、
味方の首一つ引っさげて毛利勢の中へ紛れ込み、元就の実検に備えた。

元就は旗本勢も備えを崩してかかって行っており、わずか14,5騎で控えていたが、黒正が持ってきた首を見ると
「一段と見事な首じゃ」と、声をかけた。
元就の実検を受けた後、黒正は首をその場に捨てると陶の陣へ紛れ込み、そのまま姿を消した。

その後、毛利勢は長時間戦い続けた疲労と空腹のために第三陣の吉川興経の陣を崩すことはできず、その日の戦は終いとなる。

さて、先の黒正甚兵衛はそのまま大内勢に紛れ込むと翌朝の大内勢の尼子本陣攻めにもついて来ていたが、乱戦のさなか尼子勢の
川副美作守と名乗って戦う者を見つけると走り寄って相手の槍を打ち払い、勢に加わろうとした。
川副が敵だと思って黒正の頬当て目掛けて突きかかると、「黒正じゃ、目を開けてよう見よ」と言うので、川副も槍を引き、
黒正はそのまま走り入り、味方と一つになって、危ういところで命を助かった。そののち、黒正は

「当家に人も多い中で、川副以外に目を開けて敵味方を早う見分けるものもあるまいと存じ、美作守に巡り合うまでと、折を待って
いたが、かねて思うていたとおり、川副に会うて命が助かったことだ」

と後日語ったということである。

(陰徳太平記)