戦国ちょっと悪い話40
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0001人間七七四年
2014/08/22(金) 10:48:31.30ID:nt4X+YCy戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話39
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1397633133/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1400545233/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年
2014/08/22(金) 19:01:00.02ID:9uNg/Py50003人間七七四年
2014/08/22(金) 19:53:32.08ID:zB3rYigx0004人間七七四年
2014/08/22(金) 20:26:28.72ID:kgIpwxII0005人間七七四年
2014/08/22(金) 20:32:12.31ID:+DBCS/sn0006人間七七四年
2014/08/22(金) 21:01:33.83ID:fr01M5PT尽く破損した。(慶長伏見大地震)
この時伏見屋敷にあった徳川家康は、急ぎ伏見城へと登り、太閤秀吉と対面してその無為を賀した。
その上で「速やかに内裏のご様子を伺うべきでしょう。」と申し上げると、秀吉も
「私もそのように思っていたのだが、このような大変で陪従の者達が未だ整わなかった。
しかし徳川殿がいち早く参ってくれたのは幸いである。徳川殿、私とともに参られよ。
あなたの従士を貸していただきたい。」
そう言って、徳川家の家臣たちばかりで共に出立した。
この時秀吉はこう訴えた
「私は久しく刀を挿していなかったが、今日は特に腰のあたりが重く耐え難い。
徳川殿の従臣に私の刀を持たせて頂きたい。」
そこで徳川家康自ら秀吉の刀を持ったが、秀吉はこれに恐縮した様子で
「いやいや、それはかえって心苦しい。どうか家臣の者に渡すように。」
と言ったため、家康は井伊直政に刀を渡した。
そうしている内に、秀吉の家臣たちも追々駆けつけ、駕輿も昇り来たため、秀吉はこれに乗ることにした。
この時、秀吉は供の一団の中にあった本多忠勝を呼ぶと、こう言った
「汝の下心には、今日こそ秀吉を討つのに良い時節なりと思っていたことであろう。
しかし汝の主人である家康は、懐に入った鳥を殺すようなことはしない人物である。
さっきはな、私の刀を汝に持たせたいと思っていたのだが、折り悪く隔たった場所にいて、
思うように行かず大変残念だ。汝に持たせたら、きっと面白かったのになあ。
私がこのように思うのも、汝が結局は小気者だからだ。
小気者よ。小気者よ。」
(かく思はるるも、汝らは必竟小気物なれば云。小気物よ小気物よ)
そう笑いながら輿に乗り込んだ。
忠勝は何も言わず、ただそこで平伏していたそうである。
(柏崎物語)
0007人間七七四年
2014/08/22(金) 23:47:21.14ID:G++3tVg/0008人間七七四年
2014/08/23(土) 05:04:06.81ID:fG2q6kna明治・大正と、日本の各地では地域の武将や賢人の顕彰が行われ、広く知られる様に楠正成や二宮尊徳が持て囃された
宮城では大志の伊達政宗が、米沢では倹約の上杉鷹山が、そして山形では山形城跡(現・山形市霞城公園)に詰める陸軍の連隊内で勇壮たる最上義光が教本や修身の題として取り上げられた
催事は江戸末期の水野氏が山形城内に奉った義光社の慰霊行事が拡大し
郷土の礎を築いた英傑義光を奉る催しとして、大正時代には市民らが市内を練り歩く「義光祭」にまで発展
戦時中は休止され、霞城陸軍連隊の軍旗祭がそれの代わりも務めたが、戦後に期せずして、商工会議所と一部議員の間から「義光祭不要論」が持ち出された
当初は「最上義光と仮装祭を結び付ける低俗さ」が指摘され
やがては「周囲の国人を攻め従え、秀吉に続き家康にまでみっともない追従外交をして死の暇乞いをしてまで国を整えすら出来なかった梟雄の祭など必要あるのか」といった
義光叩きの騒動へと発展した
(つづく)
0009人間七七四年
2014/08/23(土) 05:10:57.26ID:fG2q6kna戦後進駐軍が霞城兵舎を接収し、市民らに反戦・平和思想が推された事も一因として考えられる
有識者と呼ばれる人が「水増し百万石の虚像を崇めるのは思わば哀れ」「庄内浜を製塩のやり過ぎで、後世にまで残る劣悪な砂丘とさせたのは義光の過ち」と
郷土史家や在地実業家らと揉める騒ぎもあったが
偉人崇拝の催事とは分け、別に文化的で人の呼べる祭を行う事が商工会議所事務局の役員らによって定められ、義光祭の廃止の幕引きとなった
義光論争はこの後も尾を引き
『山形県史』『山形市史』の編纂には義光美化に楔を打つ識者の参加が求められ
昭和50年代の初頭に霞城公園に銅像を建立する際にも
「市民の憩いの場にいくさ姿の像など置くな」
「連隊のあった地に戦争賛美の像を置くのか」
「周囲から恨みを買っている野蛮人の像は不要」
「どうしても置きたいなら治水監督の姿にでもしろ」と連日に渡り地方紙で市民らによる投書の応酬があった
山形のボスと言われた服部天皇の義光嫌い以外にも
嫌・最上騒動のあったお話
山形市の理想像を語る会『霞城公園銅像問題をもとにして最上義光公を考える』
「義光公銅像に対する賛否両論」ほか
※資料の読み方によって、解釈が様々に分かれる可能性がございます
0010人間七七四年
2014/08/23(土) 08:27:39.23ID:0IosOAsGしかし何故そこまで義光を嫌っていたのか
同郷ともいうべき長尾上杉に親しみを感じていたのか、あるいはただ単に自分が何かを創始することに執心だったのか
まあ本人のいないいまだからこそ、都合の悪いことは服部氏のせいにされているものもあるのかもしれんが
0011人間七七四年
2014/08/23(土) 12:40:34.76ID:fG2q6kna長谷堂の戦いを「義光自身が招いた戦争(自業自得)」、「欺された上杉(上杉は正義)」、「ナリフリ・カマワヌ追従哀願(みっともない)」等とのこき下ろしが各所に読み取れます
0012人間七七四年
2014/08/23(土) 14:46:31.31ID:b9faCLty0013人間七七四年
2014/08/23(土) 15:09:23.02ID:7o21wXZS評価低いのは仕方ない
0014人間七七四年
2014/08/23(土) 15:15:29.86ID:fG2q6kna『霞城公園銅像問題をもとにして最上義光公を考える』を刊行した山形市の理想像を語る会と協賛者の中には
PTAや商工会議所役員、山形県史編纂委員等の名前がちらほら(35〜40年前の話なのでまだ生きている方々も)
義光顕彰派の地元郷土史家やでん六豆の社長、鮭様やお祭好きの山形市民らとは
かなり熾烈な争いがあった様です
0015人間七七四年
2014/08/23(土) 15:19:11.05ID:loTLXcnZ素朴に純朴にそういう人だと信じてただけかもしれない
0016人間七七四年
2014/08/23(土) 15:28:16.79ID:fG2q6kna上杉クラスタと北条クラスタと武田クラスタの考えの違いみたいなものでしょうか?
北条クラスタ「上杉のどこがいいの?」
上杉クラスタ「武田のどこがいいの?」
上杉クラスタ「北条のどこがいいの?」
0017人間七七四年
2014/08/23(土) 15:33:15.57ID:fG2q6kna0018人間七七四年
2014/08/23(土) 15:51:44.77ID:Nh75DstQ0019人間七七四年
2014/08/23(土) 16:20:18.73ID:fG2q6kna義光顕彰派とアンチ義光派とどうでもいい派が少なくてもいる
『山形県史』を参考資料に作られた大河『独眼竜政宗』の全国の信奉者は?
0020人間七七四年
2014/08/23(土) 16:21:50.49ID:K9Obi4I3お前の話は終わりだよ、話書いたら黙ってろ
0021人間七七四年
2014/08/23(土) 16:26:56.27ID:5BenpRFkさすがにそれ以上は自分でブログでも作って書け
0022人間七七四年
2014/08/23(土) 16:37:42.02ID:RLbRkTeE0023人間七七四年
2014/08/23(土) 17:29:31.05ID:6vgo74md街道の整備を行っていた大久保長安は、将軍秀忠の御前に罷り出でると、
「街道の一里塚に植える木のことですが、植える木を松にしてしまうと、
道端の杉並木と紛らわしくなってしまいます。如何いたしましょうや?」と申し上げた。
秀忠は、「確かに松ではどうかと思われる。余の木(他の木)を植えよ」と命じた。
長安は、「然らばそのようにいたしましょう」と御前を下がると、
直ちに一里塚に榎の木を植えさせた。
長安は当時60歳、年を食って少し耳が遠くなっていたので、
秀忠が言った余の木(ヨノキ)と、榎(エノキ)を
聞き間違えてしまったのである。
これが起りとなり、街道の一里塚には榎を植えるようになったという。
「多摩の伝説」より
一里塚に榎を植える由来の話。
なお別バージョンで大久保長安が土井利勝に、秀忠が家光にそれぞれ置き換わっているものもあるが、
大久保長安のとぼけた逸話は珍しいと思ったのでこちらの方にした
0024人間七七四年
2014/08/23(土) 17:50:48.32ID:7YuriXv5長い墓があるんだなーと…
0025人間七七四年
2014/08/23(土) 20:36:22.20ID:xmvQs2DIある時、豊臣秀吉は孝高を呼んで酒宴を催し、「おい孝高、いま天下に英雄や豪傑は
たくさんいるが、天下を保つことができる程の者は誰だと思う?」と尋ねた。
孝高は打ち笑って「それがしの如き者に、どうしてそれを知ることができましょうか」
と答えたが、秀吉は「我は試しに議論しようと思うのだ。まずは言うて見られよ」
と言うので、孝高はやむを得ず、「それがしが考えますに、現在天下に威名高く、
天下をも掌握できる者は、中国の毛利輝元でありましょう」と、述べた。
すると、秀吉はにっこりと笑い、「誠に輝元はいま十余ヶ国を切り従えて、その威勢は
破竹の如くである。けれども、それは皆父祖の余徳であって、輝元の器量によるもの
ではない。であれば、どうして天下を保つことが叶うだろうか。その他に一人おるのを
知らぬのか?」と、言った。
孝高が驚いて問うと、秀吉は「目の前におる」と言う。これに孝高が「目の前とは、
どこにおるのでしょうか?」と言うと、秀吉は「すなわち、其の方である」と言った。
これを聞いて孝高は大いに驚き、額に汗を流して、「どうして愚昧のそれがしが、
そのような大器に当たることでしょうか」と、答えた。だが、孝高は自分の胸中を
秀吉に見抜かれ、針の莚に座る心地がして、その日の酒宴を退出し、
自分の館に帰って、「結局、秀吉に見抜かれた以上は、我が身の命も危うい」と考え、
それからは世(時勢の意か)を悟ってすぐさま入道し『これまでの望みを水の泡にする』
という意味で『如水』と号して、家督を子息の甲斐守長政に譲り、隠居した。
――『常山紀談(異本に拠る)』
0026人間七七四年
2014/08/23(土) 20:44:46.82ID:lCeyV+k80027人間七七四年
2014/08/23(土) 21:57:34.39ID:G8Z/X4egこの時のラスボス笑顔だろうけど絶対目は笑ってないんだろうな
汗だらけになって顔面蒼白になってる如水の表情が想像できる
そしてバッサリディスられるTERUw
0028人間七七四年
2014/08/23(土) 22:01:22.34ID:rw6g+rlZ0029人間七七四年
2014/08/23(土) 22:34:56.77ID:nzaMxAU9華陽国志にその時雷がなって、劉備が雷にかこつけてごまかした、
と書かれてるわけですが、羅貫中?
0030人間七七四年
2014/08/23(土) 22:41:56.42ID:ou2If9HK0031人間七七四年
2014/08/24(日) 01:13:49.39ID:uMH8pU3G0032人間七七四年
2014/08/24(日) 03:56:44.71ID:X1lQPXma元和の最上家信(義俊、最上義光の孫)改易の後、山形には徳川普代の鳥居忠政が入ったが、市井の民らからは鳥居氏は傲慢で融通がきかぬと毛嫌いされた
この殿(鳥居忠政)気侭(わがまま・自分勝手)にて、長源寺と法祥寺との本尊を取替える等無理を通し、二十四万石大名となりたるは、汝が働きにあらず
「玉井本松ノ木枕」
山形の民百姓らは言うに及ばず、僧や神官までもが鳥居氏の衰退と早めの移封を神仏に祈り、寺や三山参りに庚申講が巷で流行った
最上時代を懐かしむ民や旧臣からは、光禅寺の玉山廟(最上義光)を詣でる人らが続いたが、それを良くは感じなかった鳥居氏からは「もかみ賛美禁令」札が立てられ、おおっぴらに旧主を讃える事が戒められた
やがて領主が転々と変わる中、最上の旧臣は新領主に仕えるついでに山形城内に「城(白)稲荷様」と称して義光を奉る神棚を設置
旧臣らは秋元時代(1767年〜)の頃には本丸に義光を奉る社を建てる事に成功し
義光の250年忌に当たる慶応元(1865)年には藩主水野忠精を推して義光の法要も行われた
幕末絵図にはちゃっかりと山形城の本丸に「義光社」の文字が記述され、義光はご神体として奉られていた
しかし明治維新と城地破却、神仏習合の流れもあり、山形城内の義光社も陸軍連隊の練兵場の一角にあっては管理もおろそかになり
義光だけでなく天照皇大神も併せて奉られる様になる
社は大正から昭和の頭に移る頃に山形県護国神社の敷地に移された
「義光公(ぎこうこ)さん」と呼ばれ、神号が別にあったかは今は定かでないが
現在護国神社内の境内東側にある敷島神社が
かつては山形城内にあった義光社の姿である
0033人間七七四年
2014/08/24(日) 08:32:50.69ID:galrGbIi0036人間七七四年
2014/08/25(月) 01:55:33.63ID:9K4T4MFw0037人間七七四年
2014/08/25(月) 07:50:14.27ID:2zaoHMEQ昨日はν速+で大坂の街作りに失敗したダメ親爺と扱き下ろされてたなあ
まあ、秀次のスレなので致し方ないが
0038人間七七四年
2014/08/25(月) 10:10:43.80ID:882BIRaR廃仏ではないけど、その流れで神道の地方神が有名神社と併合されて名前が消えたところもある。
義光公は名前が残ったから良かったと思う
0039人間七七四年
2014/08/25(月) 13:03:22.12ID:9K4T4MFw0040人間七七四年
2014/08/25(月) 18:03:31.84ID:9K4T4MFw直江兼続の最上陣は畑谷城攻めから行われた
畑谷城は山谷の間の街道を縫い、街道は番所と柵によって隔てられ、城の本丸のある館山を中心に深い空堀が巡らされていた
直江の大軍は街道に沿って城の東側からまず力攻めを実行
直江軍の先陣鉄孫左衛門尉と色部式部に対し、畑谷城では敵を近くまで寄せ付けて弓と鉄砲を散々に撃ちかけた
直江軍の初戦の被害も小さくなく、兼続は畑谷城を守る江口道連に「城を明け渡すなら、名誉ある処遇を確約する」と使者を出したが、
守将の江口道連は
( ´_ゝ`)「敵を目前にして城を明け渡す輩の何処に名誉があるのか。他の国の兵ならいざ知らず、最上の兵は最期の一兵まで戦う所存である。城が欲しくば腕で取られるが良かろう」と降伏を拒否した
その夜畑谷城にいた軽技の得意な者が直江陣に忍び込み、兼続の番指物1本と鉄孫左衛門の陣屋の吹貫布1本を盗って戻った
畑谷城内ではさっそくそれを大手口の高い所に掲げておいた
夜が明けて直江の兵が畑谷城を見ると、そこには最上軍の旗に囲まれて兼続の番指物の旗が晒されていた
「馬鹿にしやがって」と直江軍の力攻めが再開された
やがて城山の搦手の急造三重堀の北側の手薄な部分を攻め立てられ、陽が正中を過ぎる前後に城は落ち、城内にいた者たちは悉く撫で斬りにされた
直江軍の挙げた畑谷の城兵の首級は500余
味方の被害は死者200余だったと伝わる
0041人間七七四年
2014/08/25(月) 18:16:21.13ID:882BIRaRてつさん? くろがねさん?
かっこいい苗字だな
0042人間七七四年
2014/08/25(月) 18:17:12.03ID:9K4T4MFw色部式部→色部(修理)光長
と思われる
0045人間七七四年
2014/08/26(火) 23:31:33.80ID:8GJNCn2q帰雲城の位置が特定できないのも納得できる。
0046人間七七四年
2014/08/27(水) 00:00:04.88ID:NEqzQDiA0047人間七七四年
2014/08/27(水) 17:38:24.57ID:9CG7uBaR父義光の死から幕府内の減役・出馬軽減を受けた最上家親は大坂冬・夏の陣で江戸城留守居役を命ぜられたが「武門の最上家が留守居のみとあっては面目が立たぬ」と近臣らを大坂の地へと派遣した
大坂御陣中為伺御機嫌、武久庄兵衛(昌勝)・冨田加兵衛と申者、両度為使者差上候
『最上家伝覚書』
童部なりし時物学びたりし桐江先生と言える人の、一日賓客に(中略)、
慶長末の一年難波津の御合戦ありしとき、
(最上殿の)御内の武夫ばかり軍の御供をして罷り上りたるが、彼地にてはなばなしき功名せし。
その武夫共の戦の仕様をそのまま絵に写し主のもとへ土産にせしを彼国に残し伝へ侍る(中略)。
その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり(中略)。その屏風見し人の申したるよし語られたり
杉田玄白『いくさの絵の記』(部分:大坂の陣の「最上屏風」についての思い出)
二人とも冬と夏の両陣に参戦し、その功績により武久庄兵衛は500石から1000石へ、冨田加兵衛が300石から600石への加増となっている。
しかし家親や最上の本隊が直接大坂冬・夏の陣へと参戦したわけではなかったので
現代地元の山形でも「大坂の陣に最上家の兵が参戦した事を知らない人が多い」悪い話って事で
0048人間七七四年
2014/08/27(水) 17:43:30.92ID:ZwnCDNgH0049人間七七四年
2014/08/27(水) 18:13:23.74ID:+yVMDvYr0050人間七七四年
2014/08/27(水) 22:45:40.07ID:kq7L3kEHhttp://i.imgur.com/ByiHP1C.jpg
0051人間七七四年
2014/08/27(水) 23:39:15.48ID:BunP9iuh0052人間七七四年
2014/08/28(木) 09:07:49.56ID:tPhy6cwL香川勝雄かな?
ttp://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1210835372358/
0053人間七七四年
2014/08/28(木) 10:11:55.23ID:vMTcuLBi0055人間七七四年
2014/08/28(木) 11:18:33.93ID:bVm8PDwd0056人間七七四年
2014/08/28(木) 15:38:51.20ID:d1rmKI5k1614年、にわかに上方の風行きが怪しくなると、各地では主君の大名と絶縁し、豊臣秀頼の大坂方へと靡く者が現れた
鶴ヶ岡の一栗の内乱から家中転覆を恐れた最上家親は、依然として重臣らからも人望の強い弟の清水義親(一説には家親よりも早生まれの腹違いの兄とも)に「家内の安定を図るために」と人質を求めた
清水義親は若い頃に豊臣家に小姓として出仕していた経緯もあり、また山形を離れ江戸育ちだった家親とも違い、
暗殺された長兄義康とも懇ろで、家内騒動の虚しさを実感していたために、嫡男の義継を山形へと質に出す事を決め、
重臣の鳥越九兵衛(久兵衛。武種・武重とも)に事を託した
そんな折、豊臣攻めが決定し、最上家親にも江戸留守居が命ぜられる
家親は葛藤の中、後顧の憂いを絶つために義兄で重臣の延沢光昌に清水義親討伐を命じ、山形にいた義継も害せられた
0058人間七七四年
2014/08/28(木) 22:52:12.91ID:lrETnTcC0059人間七七四年
2014/08/29(金) 05:00:25.18ID:tayKb6Jk天正12(1584)年、最上義光は寒河江の大江尭元と親交の深かった谷地城主の白鳥長久を山形城に滅殺した
義光のこの行いを知った大江氏は難を逃れた谷地旧臣を保護。最上氏と大江氏の仲は一触即発の険悪なものとなった
義光は寒河江攻めを決意し、密かに大江一族の有力者である寒河江肥前(寒河江広俊)や寒河江外記(寒河江光俊)を懐柔した
寒河江城には城主大江尭元の弟で周囲に豪力を知られた羽柴勘十郎(大江頼綱)があった
最上義光(´・ω・`)「…(なんとしても欲しい人材だな…)」
義光は羽柴勘十郎方に便りをしたためた
義光「白鳥長久の手打ちの件は最上家としては羽州探題の名誉を守り、出羽の安寧を守らんがためのやむを得ない事でした
我等(最上・大江)に行き違いがあっては由々しき事態ですので、軍(いくさ)をせずに仲良くしませんか?」
羽柴勘十郎「…」
義光「…それと、もし宜しければ最上家にいらっしゃいませんか?今のままでは勘十郎さまは在地に埋もれてしまい、その素質が活かされないのは天も嘆くくらい非常にもったいない事です
最上軍に来て頂けるのなら、寒河江と谷地をお任せしたいのですが、いかがでしょう?(´・ω・`)」
勘十郎「…(^ω^#)ピキピキ…兄じゃを裏切れってか?」
志村光安「…で、無謀だと思いましたが、羽柴からの返事はどうでした?」
義光「息子の嫁の父(長久)を殺しておいてまったく反省の色の見えない、最上義光といった野郎の首級をくれたら考えてやらんでもない、と」
氏家守棟「…でしょうな」
力こそパワー大好きな鮭様の
やっちゃった系の引き抜き失敗のお話
0060人間七七四年
2014/08/29(金) 09:03:15.11ID:tayKb6Jk天正12(1584)年6月7日、病を装い「最上家の後事を託したい」と谷地に使いを出した最上義光は同月12日に山形城内で白鳥長久の誘殺に成功
日を置かず3000の兵をもって蔵増・溝延方面から寒河江北方の谷地に侵攻し、わずかな間に谷地城を占拠した
最上軍の電撃戦に寒河江領主大江尭元は谷地の白鳥旧臣らと寒河江国人の連合軍2000人をかき集めたが、すでに旗下の一族衆の何人かが氏家守棟の工作により敵方である最上軍へと寝返っていた
義光自らが先陣を切り、寒河江城の出城である寒河江東方の新田楯・本楯・高屋楯を攻撃
大将を先頭に鐵の人波が逆茂木や土塀を乗り越え、各城館を呑み込んだ
寒河江城の喉元を抑えられた大江軍は勇将羽柴勘十郎が氏家守棟の庶子の氏家三之助を討ち取る等の戦果を挙げたが
勘十郎も最上軍の策に嵌まり銃撃により落命し
月の変わらぬ6月末に寒河江領主大江尭元は自害し果て
名門大江家は最上軍によって滅ぼされた
0061人間七七四年
2014/08/29(金) 09:28:30.86ID:tayKb6Jk6月…白鳥長久暗殺、谷地攻め、寒河江攻め
夏?…八ツ沼攻め
10月…天童攻め、東根城調略
月不明…庄内の東禅寺兄弟と提携
0062人間七七四年
2014/08/29(金) 10:09:02.22ID:tayKb6Jkすいません…
本によって天童攻めや東根城調略が1579・81・84年
長久暗殺が1586年とまちまちです
1584年に鮭延攻めの年表まで出て来たりしてます
(誤差ありすぎ…)
0063人間七七四年
2014/08/29(金) 16:33:55.00ID:Oh+rsbAc0064人間七七四年
2014/08/29(金) 16:57:40.75ID:tayKb6Jk山形の周辺が敵だらけなのに、さらに遠方の小国の細川直元を関連年代より先に討っていたり、天童合戦も終わらない内に敵方の延沢満延を家中に加えて上山攻めをした事になったりするので
0065人間七七四年
2014/08/29(金) 17:48:47.34ID:tayKb6Jk1603年櫛引で最上義康が暗殺されると、最上義光は側衆の斎藤光則を使い、事件の首謀者の洗い出しにかかった
義康一向を襲撃した慶長出羽合戦の後に最上家に降った実行犯の旧上杉家臣・土肥半左衛門は大山の屋敷から兼山の関を越え、南部領へと逃走を試みたが盛岡城下で追手に囲まれ斬り死に
旧上杉降将を纏める下吉忠と吉忠の相談役である新関久正にも暗殺共謀の嫌疑が掛かったが、証拠となるものは出て来なかった
義光は義康暗殺の元となった親子不和の原因をつくった里見権兵衛(正光。里見義近の孫、里見民部の子)に腹を召す様に命じたが、これを不服に思った上山城の里見義近・民部親子は2万1000石の知行を捨て、一族の主だった者を連れ加賀前田利長を頼り、突如として出奔した
暗殺事件の首謀者も挙げられず、また里見一族に体面を汚されたと義光の怒りは収まらず
大領の前田利長に
「山形から逃げた問題のある者を匿わずに、すぐに捕らえて山形に送り返してほしい
返還に応じられないとしてもせめて放逐して頂きたい」との回状を送った
利長は慶長の役での里見民部の勇名を聞き及んでいたので、民部を3万石で雇う試算ではあったが義光からは続けて
「民部一族を家来として召し抱える等もっての他である。払願(奉公構)を切望する」と重ねて回状が送り届けられた
奉公構の倣いに従い民部が前田領に居られなくなると、福井宰相松平忠直から民部に2万石での仕官話が出たが、義光は福井をはじめ幕府と各大名家に奉公構を拡散
民部は高野山に窮鳥居場所を求めた
高野山にも最上家からは「里見一族を山形に返して頂けます様」「山には置かぬ様」と執拗に文が届き
高野山は義光に「里見一族を弑さぬ事」を約定に
里見一族を山形へと還した
里見一族は出羽各城に数人ずつお預けの身となり、義近と民部は大山の下吉忠の下へと送られた
1614年、義光が死の床で「吾死後七日以内に里見一族を誅せ」と遺言したと伝わる
義光の死後数日の内に最上義康の暗殺された場所のそばで
里見義近・民部一族20余名の処刑が執り行われた
※里見一族の処刑は
最上家内での権力争いの貧乏くじや、家親による絶対制確保のための儀式といった説もある
0066人間七七四年
2014/08/29(金) 19:09:07.74ID:2bvAlbg40067人間七七四年
2014/08/29(金) 19:44:30.06ID:P7nFNRHb0068人間七七四年
2014/08/29(金) 20:32:37.32ID:7t0m7ntB毛屋主水武久一人は、関ヶ原の武功者の中で加増がなかった。
これを知った黒田如水は長政に尋ねた
「どうして毛屋に領地の加増がないのか?」
「先年、私が彼に加増をすると言った時、彼はそれを嫌って受けず、私は面目を失いました。
この為、今回も施さないのです。」
如水はこれを聞くと
「往昔の事を今に至ってまで心底に残してはいけない。武功が優れているのなら、躊躇なく
恩禄を与えるべきである。」
このように言われたため、長政もそれを了承し、主水に四百石を加増し、本領と合わせて七百石を
領させ、さらに足軽30人を預けた。
(黒田家臣伝)
黒田長政、如水に「昔のことをウジウジ気にしてるんじゃない」と窘められる、というお話。
0069人間七七四年
2014/08/29(金) 20:36:01.03ID:WSwk8WNd0070人間七七四年
2014/08/29(金) 21:27:46.84ID:eEykDr0m0071人間七七四年
2014/08/30(土) 02:46:22.45ID:R3cmJUQK0072人間七七四年
2014/08/30(土) 23:50:58.64ID:ZJ7dQShh0073人間七七四年
2014/08/31(日) 00:47:31.43ID:BdX1QqB8里見義近・民部親子の処刑には他の話も伝わる
1603年最上義康が暗殺されると、主君最上義光から子・里見正光(里見権兵衛)を切腹させる様に命じられた里見民部は憤りを感じ、一族を連れ長崎城(慶長6年に上山城より移封とも)から逐電した
民部は義光から各大名への奉公構もあり、ついには高野山にしか行き場が無くなっていた
慶長19(1614)年に義光が死ぬと、義光の跡を継いだ最上家親は高野山の里見民部に「父の死により出奔の咎を赦免する。かつての所領の上山城を与え、遇を厚くする故帰郷せぬか」と使者を送った
里見民部はかつて家親が徳川家康に人質として出された際に付き従い、家康や本多・井伊といった幕府の年寄方にも幾分面識があったので、望郷の念もあり高野山を下り、北路から山形へと向かう事にした
しかし庄内尾山で志茂對馬(下吉忠か子の下秀実か?)の番兵に囚われ、丸岡の地で一族共々23名が斬られた
処刑された一族の長・里見義近の荷物には桐紋の文箱があり、中には「大坂方勝利の暁には、庄内二郡を与える」といった豊臣秀頼の印朱状が入っていたと云う
赦免の話自体が最上家親による謀事で、里見一族を生かしたままにしては将来に禍根を残すとして、当事者の死により遺恨がうやむやにされた悪い話
『史籍集覧』ほか
関連:戦国ちょっと悪い話「里見の謎」
0074人間七七四年
2014/08/31(日) 01:25:04.75ID:BdX1QqB8家中騒動(伊達騒動)で名が上がります小姓頭の里見勘十郎(里見重勝)と申す者は里見勘四郎(里見元勝)の子なり
勘四郎は天正10(1582)年に最上上山の里見民部少輔が主君の上山満兼を討った際、民部は兄の内蔵助をも弑せられた
勘四郎は内蔵助の子なるがそのとき齢二歳にて、乳母に連れられ逃げ、やがては父の仇の民部一族の多くを討ち取り後に貞山公(伊達政宗)に仕えられた
しかし仙台で百姓訴訟に不備があり碌を離れ、大坂で幕府の後家人になった
勘十郎は最新紀州公に仕えたが、縁により仙台に仕えた
『伊達治家記録』
どこかなにかで繋がりの見える、東北の血縁のお話
0075人間七七四年
2014/08/31(日) 01:27:13.10ID:BdX1QqB8○勘十郎は最初紀州公に
でした
0076人間七七四年
2014/08/31(日) 09:13:07.14ID:ROZLsEFt武家奉公の禁止
要するにどこの家にも仕えることが出来なくなる
0078人間七七四年
2014/08/31(日) 12:00:33.09ID:NZ4PDQlK0079人間七七四年
2014/08/31(日) 12:05:14.67ID:ove5EWuN0081人間七七四年
2014/08/31(日) 12:37:22.78ID:ROZLsEFt加藤(清正)家と鍋島家がこれで揉めた
0082人間七七四年
2014/08/31(日) 12:42:42.16ID:3NCjn91W0083人間七七四年
2014/08/31(日) 13:04:15.51ID:olPMQPof0084人間七七四年
2014/08/31(日) 13:08:46.00ID:i+Z3YF2j0085人間七七四年
2014/08/31(日) 13:48:28.32ID:4+Xin9oD捕まえるから匿わないでくれ。出来れば逮捕のために便宜を図ってくれちゅう。
よく嫌がらせみたいに解釈する人居るけど
0086人間七七四年
2014/08/31(日) 14:00:20.68ID:wWZHwm8F奉公構「私○○ちゃんのこと嫌いだから、皆○○ちゃんとはお話しないで」
0088人間七七四年
2014/08/31(日) 14:10:18.40ID:4+Xin9oD0089人間七七四年
2014/08/31(日) 15:06:55.21ID:NZ4PDQlK0091人間七七四年
2014/08/31(日) 17:06:19.93ID:ROZLsEFt0092人間七七四年
2014/08/31(日) 18:57:35.23ID:bD7Afnvj0093人間七七四年
2014/08/31(日) 21:17:19.39ID:BdX1QqB8奉公構を受けた歴史上著名な人物
水野勝成- 旧主水野忠重(実父)、後に帰参・家督相続
後藤基次- 旧主黒田長政
塙直之- 旧主加藤嘉明
渡辺了- 旧主藤堂高虎
茂庭綱元- 旧主伊達政宗、後に帰参
伊達成実- 旧主伊達政宗、後に帰参
屋代景頼- 旧主伊達政宗
平賀源内- 旧主松平頼恭
あとは
里見民部- 旧主最上義光か
0095人間七七四年
2014/08/31(日) 22:37:44.00ID:Me8eT4Xf0096人間七七四年
2014/08/31(日) 22:38:13.53ID:10DPTSms奉公構を出した主人のほうが悪い・器が小さいという印象がつくのはなぜなんだろう
0097人間七七四年
2014/09/01(月) 01:00:41.03ID:lW9XLkck仕方なく徳川は職人として雇ったとか何とか
0098人間七七四年
2014/09/01(月) 02:39:26.47ID:BOhy3Jxc0100人間七七四年
2014/09/01(月) 18:57:09.67ID:hi1ah9LO徳川殿の嫡男であり信長公の婿であったので、
信長の信の字が遣わされ徳川次郎三郎信康と名乗り、岡崎殿と呼ばれた。
信長公はこの祝い事に大変お喜びだった。
しかしこの時あやしげなことがあった。
信康の元服の祝いとして浜松城にて十五番の猿楽の興行が行われたのだが、
この時猿楽師の観世十郎がうっかり次のような不吉なことを言ってしまった。
「今日の能組は、以前今川義元が信長公に討たれる前、駿府において氏真が所望して行った能組と全く同じですね」
(今日ノ御能組ハ、十年以前今川義元ヲ信長公ヨリ御討捕ノ前カタ、
駿府ノ城ニテ同ク氏真の御所望ニテ仕リタル能組ニ一番モ替ラザル番組ナリ)
家康・信康はこの発言を殊の外気にかけ、ついには観世十郎を勘当した。
後で思い返してみれば、これは信康の行末が不幸なものになる前兆だったのだろう。
織田軍記・松平記などより、信康元服時の異変についての悪い話
元服は確か8月28日だったはずなので、その時に投稿しとけばよかった……
0101人間七七四年
2014/09/01(月) 19:51:11.09ID:1noRbxLo0102人間七七四年
2014/09/01(月) 20:18:52.58ID:wQw+R2C8徳川家康の旗本である米津清右衛門正勝は、敵の首を取って来て、小栗又一忠政に向かい
「俺は早くも高名をしたぞ!」
と言い放った。米津と小栗は、かねてより仲が悪かった。
小栗はこれを聞くと
「お前ががシラミ首を取るのなら、俺は兜付きの首を取って見せよう!」
そう叫んで前線へと向かった。
米津清右衛門はこの首を家康の御覧に入れたが、家康は見るなり
「清右衛門、お前は使番ではないか!使番は敵の先手の様子を見てすぐさま本陣に注進するのが
その役割である。首の一つや二つ取って何の用に立つか!」と叱りつけた。
米津が御前より下がると、やがて小栗又一が兜首を取って帰ってきた。そして米津に向かって
「これを見よ!お前に出来る程度の事が、俺に出来ないと思ったか!」
そう言うと取ってきた首を道端の谷川へと投げ捨てたのである。
(明良洪範)
米津清右衛門さん、せっかく首をとったのにふんだり蹴ったりというお話。
0103人間七七四年
2014/09/01(月) 20:25:35.97ID:IBLbPvNW0104人間七七四年
2014/09/01(月) 20:32:13.96ID:i9DExyOu前にも出てるようだが出典は書いてないな
0105人間七七四年
2014/09/02(火) 02:03:17.38ID:o8ng+hzKhttp://livedoor.4.blogimg.jp/nwknews/imgs/a/d/adde6955.jpg
0106人間七七四年
2014/09/02(火) 04:37:36.67ID:Q4BWDwK2最上家信(義俊)は生後を江戸屋敷で暮らしたが、父家親の急死により山形の遺領を継ぐ事となった
十とわずかばかりの年端も行かぬ新君主に、戦国の世を生き抜いた老臣らはまるで言う事を聞かぬ暴れ馬にも等しかった
亡き祖父義光と父家親の影響は余りにも幼少の家信には大きな壁となって、到る所で重圧となった
(家信は)平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし
『治代普顕記』
殿とは言え、尻の青いガキが酒や女にうつつを抜かし、寺社の再興はするが政事には不安が多過ぎる、と感じた生え抜きの重臣らは、家信を廃し、義光の四男の山野辺光茂(義忠)を最上家の当主として認めてもらいたいと幕府に願い出る行動に移った
最上家信は日枝神社に納める絵馬を描きながら、近習に悩みを打ち明けた
家信「わしは絵は好きだが、他の倣いには向かない様だ。天は何故にわしを最上家の世継ぎに生んだのだろうな。まるで芸を仕込まれる猿じゃ…」
鳥越久兵衛「殿はまだ若うござる。松根光広さま等のご助力を仰ぎ、ゆっくりでも確実に、政道をも修めて行きましょうぞ」
絵馬奉納の二年後に「家内騒動をまとめられぬ者に、奥羽の抑えの山形を領する資分なし」として、最上家信は改易された
最上家信の筆とも言われる猿の絵馬
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10077011995180&c=10
0107人間七七四年
2014/09/02(火) 05:58:11.45ID:Q4BWDwK2元和3(1617)年3月6日、江戸表で最上家親が頓死(急死)した。37歳であった
在府(江戸最上屋敷で)(略)猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ
『徳川実紀』
徳川秀忠の見舞い状や、家親と親交のあった僧・寒松の日記等がそれを裏付けている
同三巳(元和3年)
病気之節
賜御書
所労之由無心許、能々養生肝要候。猶酒井備後守可申候也
三月秀忠
最上駿河守とのへ
「徳川秀忠文書」
同月一二日 最上の疾病を筮ひ、翌(日に医者の)侶庵を遣す
『寒松日記』
三月十八日
(家親)四日晩に俄かに患い、六日の四ツ時に亡す
『梅津政景日記』
しかし人の死にはあらぬ噂が付き纏うもの
先に家親が滅ぼした清水義親の旧臣・加藤惣内の娘のおひさによって湯殿で刺殺された
『羽陽軍記』
鷹狩の帰りに楯岡光直の屋敷で膳に毒を盛られた
(出展不明)
インターネット等もなく、人の噂に尾鰭が付き
「毒殺」の噂が後の最上騒動の一因にもなった悪い話
0108人間七七四年
2014/09/02(火) 06:01:22.30ID:Q4BWDwK2○(出典不明)
でした。申し訳ございません
0109人間七七四年
2014/09/02(火) 06:07:37.09ID:Q4BWDwK20111人間七七四年
2014/09/02(火) 19:56:57.59ID:Q4BWDwK2架空の商品のネタだそうで
0116人間七七四年
2014/09/03(水) 00:13:24.52ID:NAQ/kN5Jあと付けっ放しにしといたら鳥取城になる
0117人間七七四年
2014/09/03(水) 00:37:37.74ID:BVaVGKK7と黒田筑前守(綱政か)を上座と定めなさった。
既にその日になって取持衆の一人は気付いて、「細川と黒田は代々音信不通だ。
今日の対座はどうしたものだろうか」と申し、評議する間に、両家ともに入って
来たと申すので、上座へと案内した。
それから食膳などが出たけれども、互いに挨拶も無く不興だったそうである。
その理由は島原一乱の時にある。細川と黒田は両家とも出陣の命を受けた。
細川(忠利)が「これから直ちに出発いたすべきか、帰宿して出発いたすべきか」
と言って相談になり、これに黒田(忠之)は「ひとまず帰宅いたして、それぞれの
用意をし、今日中に出立しよう」と言うので、その約束により細川は屋敷へ帰った。
すると黒田は「これより直ちに品川へ出るので、家来はすぐに品川まで駆け付けよ」
と申し、直ちに品川へ出て、餅の類やその他便利な良い食物を皆買い取り出発した。
その後で細川がやって来て聞いたところ、「黒田は先刻出立した」と申したので、
それから細川は急いだけれども、始終黒田の後になった。かつ黒田の大人数が
先々で食物を皆買い切るため、細川は大いに差し支えがあったということである。
島原へ着いても半日出陣が遅れ、これより両家は不快の仲となったのである。
しかし、近年和親になったとのことだ。
――『明良洪範』
0118117
2014/09/03(水) 01:55:56.69ID:BVaVGKK7本筋に関係ないけど「便利な良い食物」じゃなくて「便通に良い食物」
と解釈したほうが正しかったかもしれない。(餅類其外便利能食物)
0119人間七七四年
2014/09/03(水) 07:52:07.27ID:9YxrKypW1622年に出羽の最上家が改易になると、由利本城(本荘)4万5000石を治めていた楯岡満茂※(※改名が多いので、この名前にさせて頂きます)も知行没収となり、上野の酒井忠世に預けられた
満茂は当地で没し、長昌寺に葬られた
現在同寺に「本城一族の墓」と呼ばれる三基の五輪塔がある
満茂夫人、満茂の次女、満茂の養子の親茂のものと伝わる
文化8(1811)年の「長昌寺絵図面」には
初代満茂、3代満旨、4代満武等一族の墓19基や満茂の位牌があったと記されていたらしいが
いつの間にか歴史から消えてしまった
哀しい一族のお墓の話
0121117
2014/09/04(木) 01:01:31.55ID:Q+01Q0lX家康の生米の話が頭にあって「腹を下さないもの」ってことかと思ったんだけど、
それで「お通じにいい」ってのも変ですわな。確かに考えすぎでした。
0122人間七七四年
2014/09/04(木) 01:11:00.45ID:u2I46lAI父・家親の急死により山形は12歳の最上家信(後の義俊)が継ぐ事となったが若年であったために、重要な決定は義光・家親の慣例に従う他に、幕府に許可を得る事が求められた
国元を離れ江戸で育った家信は重臣らと水が合わず、また重臣らも若年な上に文楽に興じる家信の政道と指揮力に不安と不満を感じた
氏家光氏「家宰の私が言うのもなんだが、…若殿は国を束ねるには…ちょっと、な…」
楯岡光直「義康君、家親君、義親君は已にあらず
…若の代わりに光茂(後の山野辺義忠)君ではどうであろう?」
鮭延秀綱「あぁ、光茂殿なら亡き大殿(義光)譲りの才覚もあるし、誠に主として申し分無いな!」
楯岡光直「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする」
東根景佐「あまり大きな声で騒ぐな。若の耳に聞こえるぞ」
家中は山野辺派と家信派に別れ、険悪な雰囲気となった
やがて元和8(1622)年、反家信の山野辺派の横暴に憤りを感じた松根光広は鬱憤を抑え切れず老中の酒井忠世に「家親の頓死は楯岡光直の毒殺に違いない」と訴えた
忠世は訴えに基づいて光直岡を取り調べたが証拠はなく、光広は筑後の立花氏にお預けとなった
騒ぎを重く見た幕府は旗本の島田利正(後の二代目南町奉行)と米津田政(後の初代北町奉行)を代官として山形に派遣
幕府の調停に従わず、家内騒動が続く様なら問題を起こした責で一旦国替と減封を命じ、家信には新たに他国で6万石を与え、
成長の後様子を見ていずれは山形と出羽の本領を段階的に還す、という決定を下した
しかし光茂と秀綱は「松根のような家臣を重用する家信を仰ぐ事は出来ぬ」と反論し、
最上家で最大の光茂擁立派である秀綱は「もし願い叶わぬなら、吾等山野辺派は知行を返上し、頭を丸め高野山へ参る」と続けた
島田と米津は江戸に急ぎ戻り、この様子を忠世に報告した
幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易された
山野辺光茂は備前岡山の池田忠雄の下に追放され
楯岡光直は肥後熊本の細川家に預けられた
0123人間七七四年
2014/09/04(木) 01:22:50.45ID:u2I46lAI○忠世は訴えに基づいて光直を取り調べたが
それと鮭延と楯岡のセリフの間に一行スペースを入れて頂けますと助かります…
0124122・123
2014/09/04(木) 02:35:14.51ID:u2I46lAI>>122は
松根光広「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする」
でお願い致します
0125人間七七四年
2014/09/04(木) 04:29:14.01ID:tENVPmda秀吉亡きあと、前田利家が他界すると上方
での情勢が慌ただしくなってきました。
誰もが戦が起きると感じ取っていたようです。
しかし、その頃の島津義弘の在京兵力は
わずかに200人ほどでした。
「義弘が京で兵がなく困っている」というニュースは口コミで伝わり、なんと義弘を
慕う家来たちは陸路を京へと走り出したのです。
その時、中馬大蔵は畑にいて甲冑を着て走
る者を呼び止め、その話を聞くなり、その
者の甲冑を奪い、走り出しました。
大蔵は九州統一のころから、朝鮮出兵にも
義弘軍に従軍し、非常に義弘を慕っていた
ことがうかがえます。このように、陸路を
走って、関ヶ原の合戦の開戦の前に着陣し
た者は1000人ほどいました。そして、大蔵
が着陣すると義弘は「大蔵は真っ先に来て
くれるだろうと思った」と涙まで見せたと
いいます。
0126人間七七四年
2014/09/04(木) 06:32:04.97ID:tFlF7n/cってか奪うなよw
0127人間七七四年
2014/09/04(木) 07:33:08.46ID:TtX6PoK20128人間七七四年
2014/09/04(木) 08:30:50.29ID:s1I28lv4ちゅうまんさんの有名なエピソードだとだとおもったのに、
そういう反応がないってのは、もしかしてこの話が有名なのは鹿児島だけだったのだろうか
鹿児島の自分の伯父なんて、島津義弘の名前は知らないのに、なぜか中馬重方の名前は知っていた
0129人間七七四年
2014/09/04(木) 08:56:31.45ID:TRRUjqoYもっとも、畑仕事に行くのに銭なんか持って出ないだろうが
0130人間七七四年
2014/09/04(木) 10:40:44.49ID:eB71V3XZだからこそ最強のお留守番も、くじを引いて視覚的に納得させたのだろう
0131人間七七四年
2014/09/04(木) 10:52:20.50ID:s1I28lv4以前にも出たが、関ヶ原の退き口後薩摩に逃げ帰る途中、
弱った馬を潰し、義弘の駕籠かきが義弘に馬肉を差し出したところ、
中馬「こら!殿様はいざというとき腹を切るだけの力が残っていればいい。
馬肉は駕籠かきのお前が食え!」(自分が食ったという話も)
と思慮深い発言を
0132人間七七四年
2014/09/04(木) 21:56:55.96ID:LotvBoFB石田三成ら、西軍は挙兵したが、小早川秀秋は上洛したものの、狩猟ばかりを行っており、またその兄である
木下勝俊は伏見城松の丸を守っていた。
この状況に石田三成は、秀秋がこのままでは敵味方の判断ができない、伏見城を攻めさせてその色立てを見ようと、
使者を立ててこれを要請した。
秀秋はこれに、すぐに京都へ登り北政所にこの事を相談した。北政所は秀秋に尋ねた
「其の方はどのように考えているのか?」
「石田は秀頼の命と言って西国の大名を動員しましたが、ここからは徳川殿を滅ぼして自身が天下の権を奪おうとの
目論見が鏡に写すように見えています。
私は、徳川殿の麾下につくのは仕方がないと考えますが、石田の下につくのは無念の次第です。
ですので、どうにかして徳川殿に属したいと時節を見ておりました。しかし石田はそんな私を危ぶみ、
伏見の攻め手として信を見極めようとしています。
これにより私は今、大変難渋しています。ここで東軍への色立てをすることで西軍の諸大名によって
攻め滅ぼされるのも口惜しいことです。」
北政所はこれをじっと聞いて
「私は女の身でありますから、軍の計らいはよく解りませんが、女であっても勇士の家に生まれた身でありますから、
私の考えを一つ申しましょう。私の言うことが良いと思われたら、これを用いなさい。
其の方は先ず、伏見城の攻め手に加わり城攻めに向かいなさい。少将(木下勝俊)が城中にあるのは
幸いの事です。あなたが出陣した後から、この私が伏見城に入ります。そして『戦いを止めよ、和睦せよ』と
敵味方に停戦を呼びかけます。
伏見城中では、私が城内にいることを幸いに、これを人質であると思うでしょう。
大阪方は、私を城から出すようにと申し入れるでしょう。
秀頼は私が産んだ子ではありません。しかし今日、秀頼は私を母君の崇めています。
我ともに攻め殺せとは、五奉行もよもや下知することは出来ますまい。
そうして時を稼いでいる内に、徳川殿が軍を率いて上洛されましょう。
万一、この謀が案に相違し、西軍が私共々攻め殺すと言うことになれば、運を天に任せる事こそ
勇将の決断の場です。」
秀秋はこれを尤もであると思い、伏見攻めの人数に加わった。
ところが、木下勝俊はこの内談を知らなかったため、弟の秀秋が攻め手に加わったと聞くと驚き、
また城中の者達は勝俊を疑うようになった。
木下勝俊はこれに耐え切れず、松の丸から密かに脱出した。
これ故に北政所の謀も水泡に帰し、その怒りのため、北政所は京に帰ってきた勝俊に
対面を許さなかったのである。
(明良洪範)
0133人間七七四年
2014/09/05(金) 00:56:57.25ID:QeRVVbAx0134人間七七四年
2014/09/05(金) 06:54:29.50ID:Q2ixne+i0135人間七七四年
2014/09/05(金) 07:39:26.28ID:XUeoxQbj0137人間七七四年
2014/09/05(金) 12:59:14.63ID:ELs3ohGk鬼武蔵の妹を嫁にしたらそりゃ合わない
0138人間七七四年
2014/09/05(金) 13:04:13.02ID:JURDapnT0139人間七七四年
2014/09/06(土) 11:04:00.90ID:3Q6lDSEc0140人間七七四年
2014/09/06(土) 13:19:11.12ID:mJxQGt9i0141人間七七四年
2014/09/06(土) 13:47:11.37ID:5CwXbNVQ0142人間七七四年
2014/09/06(土) 13:58:53.33ID:ZRBXH1I00143人間七七四年
2014/09/06(土) 15:11:00.66ID:QkepDTxJ0144人間七七四年
2014/09/06(土) 16:36:57.46ID:0w7yHmTh0145人間七七四年
2014/09/06(土) 20:45:33.52ID:Zibgnl2J0146人間七七四年
2014/09/06(土) 20:46:22.45ID:Zibgnl2Jhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html
既出なんだなあ
0147人間七七四年
2014/09/06(土) 20:47:52.24ID:Zibgnl2J0148人間七七四年
2014/09/06(土) 21:42:22.98ID:FmXxlIRxところが正信はこう申し上げた
「大変ありがたく存じますが、私は元はただの鷹匠に過ぎませんでしたが、現在このように
お取り立て頂き、今の禄でさえ身に余ると思っています。この上過分の御加増を拝領しては、
冥加恐れ入る事であります。どうか、御加増のこと、下されませんように。」
「しかし正信よ、今のような低い禄のままでは、お前も万事不自由ではないか?」
「いえ、私は御政治を預かっていますので、天下の大名より金銀財貨が送られてきます。
それ故不足などということはありません。ですので、御加増は拝領いたしません。」
そう言うと正信は、袂から小さな壺を取り出し秀忠に差し出した。
秀忠はそれを手にしじっと眺め
「これは誰が送ってきたのだ?」
「黒田からです。」
「そうか…。私はお前のことを羨ましく思うよ。」
秀忠はそう、戯れを言ったという。
(明良洪範)
0149人間七七四年
2014/09/06(土) 22:54:37.22ID:Zibgnl2J0150人間七七四年
2014/09/06(土) 23:27:26.19ID:5CwXbNVQ0151人間七七四年
2014/09/06(土) 23:56:32.98ID:YBTkKxbE0152人間七七四年
2014/09/07(日) 00:34:49.85ID:2Oaj9lMoラスボスが出した書状がトーハクにあったけど
徳川、前田、蒲生などの大大名に並んで木下勝俊の名前があったのに
驚いた
http://i.imgur.com/jPe60KQ.jpg
0153人間七七四年
2014/09/07(日) 00:41:06.83ID:jTF9m9zr0154人間七七四年
2014/09/07(日) 01:24:57.76ID:QqURm2zpある時家康の大事にしていた鷹が眼病にかかったので、この鷹を浅利兵庫に診療させた。
浅利兵庫は「目に血筋が浮き出ています。これは大病であって、このままにすれば死に至りますが、甲州の秘薬を用いれば治るかもしれません」と報告した。
家康は秘薬を買いに行かせた。秘薬によって鷹の目はすっかりよくなったため、彼に黄金を与えた。
ところで、丹沢久助のもとで養育されていた、一条信龍の娘は大変な美人として有名であった。徳川の侍たちは何とかこの高貴な美しい姫君を得たいものだと考えたが、姫はどうしても嫁ごうとしなかった。
浅利兵庫は、特に執心だった三宅正次に媒酌を申し出て「私がよく説得いたします」と言うと、言葉通り姫を輿に乗せて帰ってきた。三宅正次は多大な礼物を送った。
ところが、である。
浅利が姫を連れてくる際、「家康さまがお呼びになっているのです」と嘘をついていたことが分かった。
浅利は蒲生氏郷のもとへ逃げ込み、「家康さまは我が秘薬を相伝せよと無理強いされました。断れば殺されると思い逃げてきました云々」と言った。
それを聞いた家康は激怒し、氏郷にこれをとらえさせ、誅殺した。
後に、浅利が臙脂を使って鷹の目を充血させたことを知ると、家康は「あの時は余りに鷹好きが過ぎたので、初めて人にたばかられたのだ」と言った。
0155人間七七四年
2014/09/07(日) 01:29:14.86ID:QqURm2zpそれでも娘が嫁ごうとしなかったのは、父が徳川によって攻め殺されているためでしょう。
丹沢久助と浅利兵庫は、代々の所領が上野城至近であることから、一条信龍の与力だったと思われます。
そのため、丹沢は姫を養育し、また姫は浅利の甘言に騙されてしまったのはないでしょうか。
浅利兵庫、家康をコケにするという悪い話。
0156人間七七四年
2014/09/07(日) 02:39:53.50ID:1T7A176d立身出世のためについた嘘、高くついたな
蒲生を頼ったのは鷹匠の浅利繋がりかしら…
0158人間七七四年
2014/09/07(日) 15:58:27.08ID:OjKmRC1Xやられたらかなり腹立つ
0159人間七七四年
2014/09/07(日) 17:00:55.14ID:lYqmOsBm0160人間七七四年
2014/09/07(日) 18:27:26.49ID:WjP/WeLG蒲生さんとこは、浅利牛蘭が鷹匠頭だったね。
浅利兵庫を推挙した「ある人」というのは、状況から言って丹沢久助なのでは?
史料に残す際に、名誉を思って削除したのでは。
0161人間七七四年
2014/09/07(日) 19:14:55.81ID:mCr0EhBt0162人間七七四年
2014/09/07(日) 23:49:46.11ID:kKUD18SAその後、大阪の陣のため出陣がある、という時、高力左近は仰せを承り、増田に語った
「あなたは豊臣秀頼の御恩深き人です。今回の大阪の様子、秀頼の行末も見届けたいと
思われているでしょう。ですのでどうぞ、ここを出て大阪城に入城なされませ。
これは駿河の家康公が、お許しになった事です。」
増田はこれを聞くと
「家康公は誠に、天下の仁君であられる。その仰せを、私がどれほど有難く存じていることでしょうか。
尋常の大将では、それを許すことはないでしょう。
ですが、私は現在孤独の身分であり、大阪に参って新規の浪人たちを下知したとしても、おそらく
はかばかしい活躍をすることが出来ず、それは却って、私を抜擢した故太閤の御眼力に疑いを抱かせる
結果となるでしょう。
それは私にとっても残念なことでありますから、私はこのまま、この配所において生涯を終わりたいと思います。」
この事を家康は聞いて、「兎も角も、彼の心に任せよ。」と言った。
大阪城の落城を以って大阪の陣は終わり、秀吉は切腹して果てた。
増田長盛は高力左近を通して、家康に願い上げた
「今度の一乱の終わりを承りました。時節は参りました。
秀頼公が御自害された上は、何を望みに存命すべきでしょうか。
よって、この身の暇を給わりますように。」
そう申し置いて、切腹して果てたとのことである。
(明良洪範)
0163人間七七四年
2014/09/08(月) 01:19:33.00ID:SMGg68aE0164人間七七四年
2014/09/08(月) 01:22:36.21ID:1FrQwl0e痛覚が鈍感だったのかな?
0166人間七七四年
2014/09/08(月) 01:43:05.49ID:mNnIrhoMないこともない感じ
0168人間七七四年
2014/09/08(月) 20:13:07.59ID:soAPo8Ny領民に圧政してただけあって東北以外に住んでる
0169人間七七四年
2014/09/08(月) 21:02:16.92ID:bQLu5Ff7それでも生かしてあげてたんだから恩で報いるのは人の道だろ
0170人間七七四年
2014/09/08(月) 22:46:29.10ID:UGSHgts3一度もなかった。そのままでは諸人も勇気が出ず勢いも自然と落ちてしまうと、大野治長や
七手組の面々が評議し、織田信長の舎弟である有楽斎(長益)の子息・織田左門(頼長)を
秀頼公名代として、城中大将の諸持ち口を毎日一度づつ廻り、その他は横目衆が代わる代わるに
廻る事となった。
織田左門は、最初は諸将の持ち口を礼儀正しく廻っていたが、しばらくすると市十郎という
18,9歳の遊女に具足を着せて諸士並に騎馬にて召し連れたため、軍中の諸卒は
「軍中に女性を召しつれないのは古今定まった禁制であるというのに、今、
大将の名代として城中を巡見する人が女を同道するのは法外なことである!」
そう言い合い、左門のことを嘲り軽蔑した。
この事について、織田左門に懇意の者があり、この様に異見した
「昔、判官義経は静御前を愛せられ、木曽義仲は巴という女性を戦場にも召し連れたといいますが、
死を前にしてはそれを召し連れることはありませんでした。
その上、両将は名高き良将です。
貴殿はこの事を学んでいるのでしょうか?」
これを聞いた左門は赤面し
「私がどうして、かの両大将から学ばないことがあるでしょうか?もしもの時急用があった場合に、
秀頼公に御使として申し上げさせるために、女性を一人召し連れていたのです。
しかし今後はこれを止めることにします。」
と言った。
(明良洪範)
織田頼長が巡見に女性を召し連れていたことについてのお話
0171人間七七四年
2014/09/08(月) 23:38:31.13ID:GEQNFXDGありえそうな話。
丹沢久助が浅利兵庫を推挙、久助が鷹の充血の偽造を指摘、浅利が姫を盗み出して久助に復讐・・・とすると筋が通る。
そうじゃなきゃ、家康が呼んでいるなんて言えまいよ。
姫を養っている丹沢もガードが甘いが。
0173人間七七四年
2014/09/09(火) 01:02:41.83ID:xlHIeBfN身長六尺九寸、熊の如く鬚有りて尋常の五、六人して喰うべき飯を一人して食し、其の上大なる鮭の魚の丸焼を一本引けるに首尾ともに少しも残さず食し、弥々数の料理を露も残さず
酒を飲むに五器の大なるを以って七度まで傾けたり
『奥羽永慶軍記』
由利のフードファイターの食べっぷりのいい話
0174人間七七四年
2014/09/09(火) 01:08:49.00ID:aUde9E1w0175人間七七四年
2014/09/09(火) 02:07:21.20ID:erNnMib90176人間七七四年
2014/09/09(火) 02:11:00.16ID:zRutfYBe0177人間七七四年
2014/09/09(火) 02:20:26.96ID:SYUCtubi自分の脚ぐらいあるタンパクの塊ですよ
0178人間七七四年
2014/09/09(火) 02:28:51.53ID:NDGwcPfA0179人間七七四年
2014/09/09(火) 10:10:22.53ID:H2XoInPS0180人間七七四年
2014/09/09(火) 10:27:39.65ID:AussOw1J0181人間七七四年
2014/09/09(火) 13:28:56.28ID:mFEr7xQSこれはお隣スーパームーンの地元飯らしい
本場鮭様の領地ではなかったのかな
0182人間七七四年
2014/09/10(水) 00:51:44.90ID:JTkezIJA0183人間七七四年
2014/09/10(水) 00:56:01.36ID:jkFj27Lw0184154
2014/09/10(水) 01:27:26.22ID:6LPwMxqg姫がそのまま三宅正次の妻となったのかは文献上わかりませんが、wikipedia「一条信龍」の「子」欄に「 一条信就、武田信貞、女子(三宅正次 室)」とありますから、その可能性が高いかと。
0185人間七七四年
2014/09/10(水) 01:49:57.32ID:OGA+UiPN(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html)
彼は足軽20人を預かっていた。ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を
殺し、出奔した。この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて
来たので、左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、
たちまち足軽たちに近付いた。足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、御身様に
おかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。さもなくば、
敵対いたします」と、言った。
左文は静かに馬から下りて「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ」
と言った。6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。
左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。そして「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。敵対せぬ者をどうして切る
ことだろうか。早く来たれ」と、言った。
すると、また2人が切りかかる。左文は「はてさて、愚かな奴だな」と言いつつ、
2人とも切り倒した。残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、左文は1人を
切り捨て、2人に怪我を負わせた。これは6人一同に掛かってくれば面倒であろう
と思い、静かに言葉をかけて、6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。
さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、自らその馬を
引いて帰った。これにより「天晴れの者である」と言って、筑前の士の多くはこの
左文の門人になった。
ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。鉄砲の他にも総じて武芸を
好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、諸人がその理由を問うても、ただ
笑って答えなかった。その後、左文は罪あって刑せられた。
その時、源右衛門は親や数人に「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。師弟に
なった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、組すれば
主君に背くことになる。これが“愚者も千慮の一得”である」と、笑って語った
ということである。
――『明良洪範』
0186人間七七四年
2014/09/10(水) 14:32:55.25ID:lfTYGnOM山形県大石田町の次年子の里には塚群といった土まんじゅうがいくつか固まっている場所がある
この中の一番大きな土まんじゅうには天正年間に最上義光に討たれた白鳥長久の遺骸を、白鳥の重臣の平林玄馬が落ち延びて葬ったとされる言い伝えがある
郷土史家の川崎利夫氏が発掘をしたところ人骨が出土し、
札幌医大の石田肇助教授の調べで
人骨は約400年前の40代ほどの筋骨隆々とした成人男性のもので
大腿部に治癒しないままの刀傷が見つかった
伝承が裏付けられた平成初期の発掘の話
※ただし服装品や墓碑が無いために
伝承の域となっている
0187人間七七四年
2014/09/10(水) 15:55:08.41ID:lfTYGnOM※原典準拠で鮭様の言動をお楽しみください
−寒河江合戦の終盤−
(羽柴勘十郎、)川をさして引退しに折節水増りければ兼而、渡し船を流さじとて陸にひきあげ置たるをやすやすと押おろし
軍兵共に打乗て向の岸へ上りつつ、舟をばつきながしつつ、川端に陣をとり
(勘十郎)「義光公一戦の御望ならば是へ御出あれ」
とぞ呼りけり
(最上軍の)味方の先陣も川端に打望わたさんとしけれ共
流れはやく底ふかきに、舟をは勘十郎押流しければ、中々以てわたりがたし、不及力歸陣有之
(最上義光が)氏家尾張守(氏家守棟)を召され仰けるは
(義光)「とかく智略を以、勘十郎を可打取
其智略といふは川を打越働ならば定而
勘十郎可出向間味方先陣左右の芝原に鉄砲の上手を貳十人斗伏置合戦始るものならば先陣いつはりて可引退
然らば勘十郎血気の強き若武者なれば如例諸軍に先立てすすみ来たらんは必定なり
其時眞中におつ取こめ打ならばいかでか貳十丁の鉄砲のあたらでや可有」
と宣へば尾張守承
(守棟)「御掟尤至極せり。とくとく御方便あられ候へ」
と申上ける間、諸手の内より日ごろ飛鳥をものがさす打落す鉄砲の上手共貳十人えらび出され、右の通委いいふくめ
若目立はやく打ならば洩事も有やせん、各能拍子を揃へ打へしとて相圖を定め置つつ、明る卯の刻より諸勢打立川を越て働ければ
勘十郎出向既に合戦始けるに兼而の事なれば、味方の先陣偽りて退きければ、案の如く勘十郎勝にのりて諸軍兵に先立て柄に鐵をのべたる大長刀を打ちふりて来る所を近々と詰寄、相圖の拍子を揃へ打けるに
さてこそあたりつると打見えて馬もしきりにはねあがり、鞍つほに有かね乗なをし引退す
0188人間七七四年
2014/09/10(水) 16:13:26.18ID:lfTYGnOM(義光)「かくまぢかき敵を何とて打はづしけるそ」
(あんなに近い敵をし損じるとはなにやってんの?)
と大きに怒り給へば
浦野源右衛門と申者進み出て申様
(源右衛門)「拍子を打揃へ討候へば必あたり候はん」
(一斉射撃でしたから当たったはずですよ)
と申ける
その如く(戦場を離脱した勘十郎は馬の)前輪よりどうと落、其日の中の申ノ刻に相はてける
此由義光公聞召
(義光)「惜き若ものかな。寒河江を根城になし、最上川を前にあて、ふせぎ戦ふものならば、はすなく責破られまじきを
おのれが血気の過たるままに勝利をわきまへず
やすやすと味方の方便に乗りてうたるるよ」
と仰ける
鮭様激おこの記録
(戦場から離れた所で気力の尽きた勘十郎が落馬し、腹に源右衛門らが撃った数発の弾丸が当たっていた事が後ではっきりとした)
0189人間七七四年
2014/09/10(水) 16:23:09.29ID:lfTYGnOM0190人間七七四年
2014/09/10(水) 18:03:10.18ID:JTkezIJA0191人間七七四年
2014/09/10(水) 19:32:30.51ID:UEQF7Jzw個性があっていいと思う
0193人間七七四年
2014/09/10(水) 20:00:31.37ID:speW8beY山田風太郎がこれを元に「妖剣林田左文」
って小説を書いてたな
栗山利安がしょうもない死に方してた覚えがある
0194人間七七四年
2014/09/11(木) 13:51:09.60ID:6EVqz2OS「(秋山定綱殿へ)
(13日に畑谷城を落とし、)昨十四日最上居城に向け在陣し候處に
山形近辺の城五六ヶ所是も明け逃げ候
此の外二三ヶ所降参し候
仕置丈夫に申し付候
近日に隙明け申す可く候
御心安かる可く候」
『編年文書』
直江兼続は畑谷から富神山を抜け、軍の一部を菅沢から長谷堂北の平地にも展開した
その夜、長谷堂の鮭延秀綱の切り込み隊とは別に山形城からは夜陰に乗じて楯岡光直と清水義親の軍兵800が直江軍の本陣を突こうとしたが、水原親憲の鉄砲隊に奇襲を予期され、兵200ほどが討ち取られた
「尚々此書中調候半ばに敵働き候由申し候あひだ則ち乗り出し
敵の打つけにのり頸弐百余り取り候
飛脚見分の如くに候」
(手紙を書いてる途中に最上軍からの夜襲があり、迎撃して敵の首級を200ほど上げました)
『編年文書』
兼続は近日中には山形城も落とし、最上攻めはすぐにも終わるでしょうと結んでいる
長谷堂合戦序盤の
直江兼続の意気揚々振りを伝える手紙
0195人間七七四年
2014/09/11(木) 13:56:55.21ID:6EVqz2OS「庄内人数白岩さが江(寒河江)迄請取り在陣候」
(庄内の志駄義秀と下吉忠らの別動隊も最上領の白岩城や寒河江城を落とし、着々と軍を進めています)
『小山田家文書』
関ヶ原の戦い直前の時期の
地方の戦いの一幕
0196人間七七四年
2014/09/11(木) 15:56:00.86ID:Fh9Jk2yU1560年代の筑前国は毛利家と大友家の覇権を賭けた時期である。
筑前には博多という商業都市があり、毛利も大友も博多の富の利権を得るために争っていた。
1567年、毛利元就は岩屋・宝満山城督である高橋鑑種を調略により寝返らせた。
これに呼応としたのが宗像一帯に勢力圏を形成していた宗像氏貞であった。
彼は1度大友家を裏切っていたが、毛利家と大友家の講和をきっかけで大友家と講和した。
しかし今回も前回同様に秋月家(1回目・文種、2回目・種実)の離反に同調した形で大友家に牙を剥いた。
宗像氏貞は大友に味方する城主を攻撃することにした。
ターゲットになったのは立花山城主・立花鑑載である。
彼も過去に1度大友家に叛旗を翻していたが、今回は行動を起こさなかったために9月にこれを攻めた。
宗像方の作戦はこうだ。
陸と海からの挟み撃ちである。
陸からは宗像家の一門格の大将・許斐左馬大夫氏備(このみ・うじつら)を派遣、海からは宗像家自慢の海軍で立花山城を陥れようとした。
しかし、これを察知した立花方は立花山のすぐ近くにある白岳(糟屋郡新宮町)にいた怒留湯融泉直方(ぬるゆ・なおかた<号・ゆうせん>)に連絡をとった。
融泉は和白(福岡市東区)に宗像の軍勢が押し寄せていることを知ると手勢を率いてこれを襲った。
許斐氏備「この軍勢は、融泉か!!
あいつは代官とかばかりしていたから油断してしまった!」
海軍を待っていて不意を衝かれながらもこれに応戦していた氏備もこれに耐え切れずに50〜100程度の死傷者を出して退却していった。
和白は立花山城の麓にある農村で、神功皇后の三韓征伐では日本最初の議会が開かれた場所と名を残している。
0197人間七七四年
2014/09/11(木) 15:56:28.80ID:Fh9Jk2yUそのころになると立花方も陣容を整えており、宗像勢を撃退せんとしていた。
氏備が退却した今、不利を悟った水軍は村に火を放ち宗像へと退却していった。
立花勢は逃げる宗像勢を追い、体勢を立て直した宗像勢も飯盛山城(福津市)でこれを迎え撃ち今度は立花勢が撃退された。
なお、立花鑑載が大友宗麟に再び叛旗を翻すのはこれからわずか半年後のことである。
そして両者が大友家に屈するのもまもなくのことであった。
大友家を離反したことにより結果論では損をし、城を攻めたら落とせずに撃退された立花勢と宗像勢のちょっと悪い話。
※なお、出身小学校の120周年誌を参考に書きました。
誌では毛利方ではなく大内方と書かれていました。
出典先がわからないのですみません。
0198人間七七四年
2014/09/11(木) 16:07:55.01ID:jEMdqkoaなんだこの名前は
0199人間七七四年
2014/09/11(木) 16:12:00.74ID:Fh9Jk2yU0200人間七七四年
2014/09/11(木) 16:19:10.25ID:+1ZMa2Fb0201人間七七四年
2014/09/11(木) 17:30:40.78ID:DAvsj1i8すげーなw新種の温泉かと思った。
0202人間七七四年
2014/09/11(木) 17:58:29.21ID:rMq1L97L0203人間七七四年
2014/09/11(木) 20:04:10.59ID:a5hpG1ii0204人間七七四年
2014/09/11(木) 20:46:17.03ID:kpMZFy8U(例の黒田屏風やおきく物語で)
城の姫や城下町の民衆が徳川軍にめちゃくちゃ狼藉やられてたみたいだけど
そのへんの詳しい史料って本当に少ないよな
徳川方がかなり史料隠滅してんだろう、イメージ悪くなるから
0205人間七七四年
2014/09/11(木) 20:56:31.81ID:q2O+c4JI詳しい資料も何も、アレは当時の戦場において当然のことで、記録するまでもない話だから記録が少ないだけだぞ。
あと「城下町」って何だ?城に籠っていた連中のことか?
0207人間七七四年
2014/09/12(金) 01:23:40.69ID:LCoEhvFV0208人間七七四年
2014/09/12(金) 01:28:57.78ID:c/uKUEIu0210人間七七四年
2014/09/12(金) 12:08:38.76ID:jdcRgOtU0211人間七七四年
2014/09/12(金) 17:33:57.87ID:QZBCJ1Oj無知が必死www
0212人間七七四年
2014/09/12(金) 17:58:33.05ID:8PUcIGvU39 :マンセー名無しさん:2012/09/21(金) 11:19:05.41 ID:tEuQz/lC
それと、つい軍勢の全員が戦闘員のようなつもりになっちゃうけど、実際の構成の実例
天正19年(1591年) 立花統虎(宗茂)勢3000人
(士分)
騎士150
徒士150
(足軽)
鉄砲足軽 200
弓足軽 100
槍足軽 500
昇足軽 100
徒歩差物足軽 200
-戦闘員計 1400-
(士分の世話他)
馬卒 300
挟箱持 150
(足軽の世話他)
鉄砲小者 200
弓小者 100
徒歩小者 200
(輸送専門)
手明夫 650
-非戦闘員計 1600-
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936357
21-24/63
-------------------
今のごく普通の日本人の感覚だと、弓や銃が全員に行き渡らないとおかしい気がしちゃうよな
0213人間七七四年
2014/09/12(金) 18:31:49.78ID:mSexSNNb旗指物を持つ足軽、幟の当て字
徒歩差物足軽
日本刀だけ装備している足軽
乱戦で一番有効なのは日本刀だから手明や歩者とか名前は違えど何処の大名も編成している
0214人間七七四年
2014/09/12(金) 19:40:11.24ID:HfMeoKga0215人間七七四年
2014/09/12(金) 19:57:46.55ID:mSexSNNb0216人間七七四年
2014/09/12(金) 19:57:46.81ID:dDtKQ60f冬の陣だか夏の陣だか、人捕りに関しては幕府から各藩にたいして捕らえた場所と人数、名前性別を提出するように命じてなかったかな?
適法かどうかを調べるためだったと思うが
0217人間七七四年
2014/09/12(金) 20:00:06.06ID:mSexSNNb0218人間七七四年
2014/09/12(金) 20:31:17.47ID:DHKqFkOS※口語伝承のため、特に原典となるものはありません
慶長5(1600)年の旧暦の9月13日、山形西方では十三夜の月見に合わせてこの日のために取っておいた餅米で餅を作っていた
そこになにやら鎧兜をつけた集団が次々と現れ、掠奪や狼藉をはじめた
人々は村から追い立てられ山野に逃げ込み、我が家を振り返ると
せっかくこしらえていた楽しみの餅が、軍兵に食い荒らされていた
村人「こんな事なら月が出るまで待たずにもっと早く食べておけばよかった…」
突如として村に現れたのは先に畑谷城を攻め落として勢いに乗り山形盆地へと進軍する上杉の兵で
畑谷城が直江兼続に攻撃された日は「十三夜の餅」の日だった
恐ろしい目にあった畑谷ではいまでも十三日に餅をつかないという
畑谷から東の方面では
十二日や十三日の早い時間に餅をつき
時間を置かずに急いで食べる風習になったと伝わる
0219人間七七四年
2014/09/12(金) 22:42:48.39ID:2qSlf0xFこないだNHKヒストリアで関ヶ原の地元民に関する回だったんだが
徳川家康は狼藉禁止令を出しているんだよ
(余談だが東軍に寝返った竹中家の領土な)
そういう過去例があったにも関わらず
戦争直後のケアをあらかじめしてないろこが本当に気持ち悪い
要するに豊臣を祀ってそうな一般人は知ったこっちゃねーと
むしろ意図的に雑兵に大坂城下民衆を襲わせた可能性があるくらい
どんだけ豊臣アレルギーなんだこの糞狸は
3英傑に含んで欲しくない
ヒーローは信長と秀吉の二人でいい
0220人間七七四年
2014/09/12(金) 23:06:01.73ID:ElvzUF28あのねえ、乱暴狼藉などに対する禁制というのは村などのほうが要望して「出してもらう」ものなの。攻撃する側が予め出すようなものじゃない。
大阪城に籠っていた連中が幕府軍に禁制を要望したのか?
そもそも大阪の籠城している以上武士かそうでないかの判断は攻め手には出来ないんだぞ?
もう少しでいいから、俗論まみれのテレビじゃなくて、ちゃんとした専門書読んで勉強した方がいいよ?
0221人間七七四年
2014/09/12(金) 23:31:24.32ID:2qSlf0xFいや女子供がそうとうやられてるし
船に乗って逃げる無防備な人たちを鉄砲で撃ちまくってるんですけど
武士かそうでないかの判断ぐらい出来るでしょう
ネットでもなんでもいいから一度黒田家の大坂の陣屏風を見てくれ
豊臣に関わる女子供を狂気の顔で襲ってる徳川軍を見れるよ
あなたの大好きな徳川軍の正体だよ
0222人間七七四年
2014/09/12(金) 23:40:58.56ID:S25Mdm8K0223人間七七四年
2014/09/12(金) 23:41:42.29ID:sQ8DSWXo0224人間七七四年
2014/09/12(金) 23:48:28.16ID:ElvzUF28黒田屏風は残虐行為の記録などではなく、「戦争に負けるとこういう目に遭うからよくよく自重しろよ」という意図で書かれたもの
0225人間七七四年
2014/09/13(土) 00:02:37.87ID:weKjGsy2禁制なんて893のミカジメ料と一緒で金と引き換えに自分らの安全買う様なもんだぞ
中世日本にハーグ陸戦条約なんてねぇぞ
0226人間七七四年
2014/09/13(土) 00:31:46.88ID:TQdoFR0eおそらく戦の悲惨さを際立たせた番組構成になっていたと推察される
0227人間七七四年
2014/09/13(土) 00:40:44.91ID:m6a90FWaツッコミ入れる側にも自重を期待
0229人間七七四年
2014/09/13(土) 10:01:05.28ID:K2vwxNuv0230人間七七四年
2014/09/13(土) 10:17:47.22ID:O05ThHlu武家ならばみんな幕府にはそれなりに恩があるから良い気はしない
もちろん関ヶ原、大阪陣をきっかけに落ちぶれた祖先を持つ人もいるからそこへの配慮も必要
0231人間七七四年
2014/09/13(土) 10:29:11.18ID:br53l3F2慶長5(1600)年9月13日の昼過ぎ、直江兼続は畑谷城を落とした
挙げた首級は500余り
味方の死者は200余り、負傷者は数百ほどと、寡兵の城を落とすには被害は少なくはなかった
直江軍の支隊の中条三盛・吉岡家能・土橋惟貞らは付近の鳥屋ヶ森城・左沢城・山野辺城・八ツ沼城を攻撃
山野辺城は明け逃げ策が取られていたが、左沢城には最上方に与する地元の国人が百姓らと立て篭もり、上杉軍相手に気勢を上げていた
しかし上杉軍の侵攻の早さに八ツ沼城では、山形城に入っていた城主和田正盛の代わりに留守を任されていた望月隼人らが撤退の期を失い、衆寡敵せず自刃して果てた
最上義光は畑谷城の江口道連をどうにか連れ戻す様に飯田播磨(信兼)と谷柏相模(直家)を畑谷への救援へと派遣したが
援兵が畑谷口に入る頃にはすでに城は攻め落とされていた
上杉軍の電撃戦のお話
0233人間七七四年
2014/09/13(土) 11:23:03.05ID:FQV86Y5h幕府側が悪いってイメージが植え付けられたんだろうな
0234人間七七四年
2014/09/13(土) 11:51:07.91ID:bfMj3WC7外施仁政(後水尾天皇の諱、政仁を冒している)
秀頼の諱も冒せばよかったのに
0235人間七七四年
2014/09/13(土) 12:07:44.15ID:qomIoP/Zまぁあれはそういうのが発端ではあるけど言いがかりではあるだろうな。
仮に大坂方が鐘銘にその文言使ってなかったとしても別の言いがかりつけて大坂の陣は起こったと思うよ。
豊家を完全に屈服させないと家康は安心してあの世に行けないからな。
0237人間七七四年
2014/09/13(土) 12:23:24.61ID:CemopqQiうちは放屁を叱ったら逆恨みされたとこの陪臣だ
落ちぶれても何だかんだで仲間通し姻戚関係を続けたりするもんなんだな
20世紀になっても付き合いがあるとはおもわなんだ
(21世紀を迎えてから里帰りしとらん)
0238人間七七四年
2014/09/13(土) 12:39:15.18ID:FQV86Y5hそう考える理由って大抵「同じ状況におかれたら俺はそう考える。だから家康もそう考えていたに違いない」だよな
0239人間七七四年
2014/09/13(土) 13:16:33.77ID:qomIoP/Zそういうことじゃなくて鐘銘の件は正規な理由がついてるけど
元々改易ないしは大幅な減封したいんだから何かしらの理由つけて潰されるだろうなということ。
>>238
黒田伊達に当てた書状に豊家が従ってくれなければ合戦になるからよろしくと言う内容のものがあるだろ?
秀吉が丹羽家にやったみたいに領地削りたいのその書状からも明らか。
0240人間七七四年
2014/09/13(土) 13:42:50.85ID:TGd9xp7/0241人間七七四年
2014/09/13(土) 13:47:54.34ID:FQV86Y5h0242人間七七四年
2014/09/13(土) 13:56:38.61ID:m6a90FWa0243人間七七四年
2014/09/13(土) 14:17:11.73ID:eu9ziVCk0244人間七七四年
2014/09/13(土) 14:44:07.05ID:Bxk3bKMI0245人間七七四年
2014/09/13(土) 17:35:12.75ID:lzvsYBF+家康が自叙伝書いてるわけじゃなし、側近の日記があるわけでなし、
昔の人間の行動を推し量るには類推するしかあるまい。その論拠を固めるために
証拠を積み上げていくのは必要だが
0246人間七七四年
2014/09/13(土) 18:31:02.95ID:TGd9xp7/つこみたいけどスレ違な流れになってるので自重できる俺えらい\(^o^)/
0247人間七七四年
2014/09/13(土) 22:43:09.12ID:khOaiitp0248人間七七四年
2014/09/13(土) 23:31:19.92ID:zs8tPGbLまあ記録するまでもなにも徳川側からしたら都合が悪いからだろ
未だに恨んでる人たくさんいるんで
それと堺区の採掘現場では当時の食器や羽子板が見つかったそうだ
子供や女性が多数犠牲になった証拠だね
>城下町
のことについてわかってないみたいだけど
大坂城では普通に一般の人も働いてたみたいだよ
籠城したキリシタンも大勢いて徳川兵士に服をとられて
裸で逃げた宣教師のエピソードは有名だよね
0250人間七七四年
2014/09/14(日) 00:15:01.21ID:2GqFZXff0252人間七七四年
2014/09/14(日) 06:04:23.93ID:pXZRTHXC山形西方の加藤家には加藤清次にまつわる言い伝えがいくつか残っている
慶長5(1600)年、直江軍の大軍に昵懇の仲であった江口道連篭る畑谷城が攻められている様を聞いた清次は、すぐに従者らに武装をさせ、わずかな手勢だけで独自に救援へと赴いたが、援軍は間に合わずに落城の瞬間を目撃してしまう
(直接道連の自害を見届けたといった話もあり)
悪戸には山形城から明け逃げをし、山形へ集合せよとの命令があり、清次は一族の子女を避難させ、山形城へと向かった
清次は長谷堂城北方の戦いに出陣し、現在「掃部の碑」がある辺りで討死したと伝えられている
しかし、半月に渡る混戦で、悪戸から参陣した兵らも多くが還らず、清次の死の詳細は不明な事が多かった
上杉軍の撤兵後にわずかに生き残った悪戸衆の兵士らから加藤家に、概その戦死の際の話がもたらされた
加藤家では9月14日を加藤清次の命日としている
0253人間七七四年
2014/09/14(日) 06:10:42.29ID:pXZRTHXC翌15日の清水義親・楯岡光直隊による夜襲や
9月16〜29日の局地戦が可能性として上げられる
0254人間七七四年
2014/09/14(日) 08:11:10.60ID:f1cMkLl0勝者が歴史を作るという一面はあるから明治以降損な立場に立たされているところもなきにしもあらず
0255人間七七四年
2014/09/14(日) 08:37:22.16ID:f1cMkLl0「近頃、鍋島の槍先は一寸五分折れてしまった。
その理由は、直茂さま勝茂さまの武勇や物語を覚えている者が少なくなって、
鍋島家の気骨、家風を知らぬやからどもが蔓延り、
もう古いなどと言って昔話を嫌うようになったからだろう。
まずこれで五分折れた。
また、昔は質素に玄米と千葉汁で朝夕の食とし、身の程に馬を飼って、
その馬には米、大豆を食べさせて、ずいぶんと大切に可愛がったものだ。
これは一朝時のため、馬と心を通わせたのである。
ところが今風の者どもは毎日の食事にさまざまな趣向を凝らし、
妻子を駕籠に乗せて、縫箔の贅沢な着物を着せ、
弓矢の家に生まれたのに、馬を飼おうとする者がいない。
これでまた五分折れた。
また、近年は江戸、上方との往来が多くなり、
他国の風に憧れ、肥前風を見下げるようになり、古来の気骨が弱くなった。
これでさらに五分折れた」 【葉隠】
0256人間七七四年
2014/09/14(日) 09:16:02.56ID:qJglegUF0257人間七七四年
2014/09/14(日) 09:55:29.79ID:x+AY94Zb0258人間七七四年
2014/09/14(日) 10:07:43.39ID:fFuNcM5Xピラミッドの壁画だったかな。最近の若いものは…みたいなのあったらしいね。
4000年前でさえ言ってるんだから俺達もきっと年取ったらそう言うんだろう
0259人間七七四年
2014/09/14(日) 10:13:33.87ID:VFSr4d1f0260人間七七四年
2014/09/14(日) 10:25:56.31ID:Wq8euVbd「世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は、目にあまる」
と書かれていて、最近の若い者は〜みたいなのはソクラテスやプラトンの言葉だったが
古代エジプトバージョンもあるのか
0261人間七七四年
2014/09/14(日) 12:33:48.27ID:H/2s0b8m0262人間七七四年
2014/09/14(日) 13:08:41.55ID:8tyGaRkz大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。
長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。
珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。
時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。
年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。
そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。
20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。
9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。
かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。
0263人間七七四年
2014/09/14(日) 13:25:51.01ID:cbRYxJFg0264人間七七四年
2014/09/14(日) 13:51:05.79ID:8tyGaRkz1488年、富樫政親は一向一揆によって斃された。
そこで一揆側は政親の大叔父・泰高を担ぎ出した。
泰高は齢71、嫡子の泰成は夭逝し、その子で嫡孫の恒泰(のちの稙泰)は元服したばかりの15歳の若武者。
しかも泰高は加賀、恒泰は当時は京で両者は別々。
傀儡当主にするには一揆側にとってはうってつけの人選であった。
しかし、傀儡当主として担ぎ上げた富樫泰高はとても一筋縄でいくような男ではなかった。
泰高が当主になるのは実にこれが3回目である。
1回目は1441年、2回目は次兄・教家一派を追い出した1445年である。
いずれも加賀国内の内乱を経験しての当主君臨である。
24年ぶりに当主として復帰した泰高ではあるが、今回の領国経営は泰高にとっても一筋縄ではいかないものだと考えていた。
加賀支配権は事実上蓮如の3人の息子である、蓮綱・蓮誓・蓮悟によって握られていた。
また、泰高としても強力な後ろ盾を欲していた。
泰高はこれまでは細川持之・勝元親子の後ろ盾のもと、強力な領国経営を行っていた。
しかし強力な後ろ盾を得られないまま本願寺勢力の傀儡として生きていくのには癪に障る。
ということで泰高が行った行動は本願寺勢力に敵対せずに国内の荘園をとにかく横領しまくることであった。
荘園を横領して勢力を広げることで独自の権力の強化を努めようとした。
1493年、泰高にまたとない好機が訪れた。
明応の政変を避けて足利義材が越中へと下向した。
泰高は老体を押して義材のいる越中の放生津へと馳せ参じた。
そしてちゃっかりと越中公方の『加賀守護・富樫泰高』として越中公方の政権の中枢の一角を担った。
1500年になったころから、領国経営の調子が芳しくなくなってきた。
とうとう業を煮やした本願寺勢力が泰高の守護支配に介入したためであった。
しかもこれに裏で糸をひいていたのは後ろ盾をしていた細川勝元の子・政元であった。
これによって泰高の領国支配はなくなるようになり、孫・恒泰へと家督を譲った。
1531年の享禄の錯乱で富樫家の権威がほぼ完全に失墜するのはまたのちのお話。
勢力を広げて権力を確立するためにやりたい放題をした挙句、かつて後ろ盾だった細川家が敵方となり、本願寺との疎遠となり支援を得られずに富樫家衰退へと繋がった泰高の悪い話。
0265人間七七四年
2014/09/14(日) 19:13:00.82ID:ePBPg36tだとしたら、爺ちゃんは政元派の寺院にでも手をつけちまったか、目障りになっただけか
0266人間七七四年
2014/09/14(日) 23:19:39.14ID:ePBPg36t0267人間七七四年
2014/09/15(月) 01:11:29.30ID:nOmT0qUw大津城攻めの立花宗茂と兵1万が関ヶ原の本戦にいたら、勝敗は変わっていたのだろうか?
0268人間七七四年
2014/09/15(月) 07:26:04.39ID:RD2WhMbe0269人間七七四年
2014/09/15(月) 13:51:34.56ID:AbwVZa6w0270人間七七四年
2014/09/15(月) 14:22:10.29ID:FT3Fxgx3裏切り前提かよw
0271人間七七四年
2014/09/15(月) 16:24:15.00ID:qwl0jnNc0272人間七七四年
2014/09/15(月) 16:51:34.01ID:yY725NJTそれとも単に最初から大津城攻撃隊に参加せず関ヶ原に向かってて大津城へは別の大名が向かったパターンなのか
で結構話は変わってくる気がする
0273人間七七四年
2014/09/15(月) 17:19:19.70ID:jPWfGCIa0274人間七七四年
2014/09/15(月) 17:27:12.01ID:nUfYhoqZ0275人間七七四年
2014/09/16(火) 18:08:59.96ID:4aJmXg7Qあの人たちは御館の乱への言及で、景勝の家督「簒奪」って書くのが一致してるな
0276人間七七四年
2014/09/16(火) 19:07:04.39ID:bNwPi0Uw0277人間七七四年
2014/09/16(火) 21:16:50.45ID:LaOE0GBpいろんなのが来るさ
0278人間七七四年
2014/09/16(火) 21:46:41.08ID:0ETIXKAX0279人間七七四年
2014/09/17(水) 13:24:27.27ID:1K2mI4dM0280人間七七四年
2014/09/17(水) 17:41:52.94ID:VPUM/uZ5戦において援助を受けるため悪魔と契約を交わした。
その誓いとは、多くの人が通る件の橋で悪魔のため千人を殺すことであり、昼夜、橋で待ち伏せ、彼一人で数か月のうちに九百五十人を殺したが、
それも一人の甚だ勇ましく名だたる仏僧が通行人とともに現れるまでのことであった。
仏僧は彼を負かしたが、その素性を知ったので殺さず、彼はそれ以後誓いを捨てた。
1571年10月6日付け ガスパル・ヴィレラの書簡より
ヴィレラの勘違いなのか当時そういう説があったのか、なんだか逆である源義経の話
0281人間七七四年
2014/09/17(水) 19:44:16.38ID:mK6lYglD0282人間七七四年
2014/09/17(水) 21:31:08.04ID:3RQtDag8僧侶(弁慶)の方がいい奴になってる不思議
0283人間七七四年
2014/09/17(水) 23:44:47.07ID:KqskDwr10284人間七七四年
2014/09/18(木) 02:19:34.70ID:540eOArG0285人間七七四年
2014/09/18(木) 05:41:44.23ID:zLb3UDzUつーことはやっぱそういう話が当時あったってことか?
ところでこの「皇帝」って天皇じゃなくて頼朝のことだよなたぶん
0286人間七七四年
2014/09/18(木) 05:55:05.41ID:t9HAUqx3指物、三尺あまり(約1メートル)の大刀、立物は大位牌に一首の歌
『咲く頃は 花の数にも足らざれど 散るには漏れぬ 矢部虎之助』
と記されていた。
この様相での出立に、諸人は目を驚かせたが、これらはあまりに重すぎて馬が進まず、
戦場でも人より遅れて功もなく、残念に思っていた所、家中からも武道不案内の者との評判に会い、
虎之助は心中これを恥じ憤り、食を絶って20日ばかりの内に死去した。
誠に惜しき士であった。
凡そ甲冑指物等には心得があるべきなのだ。目立つのはその大小には寄らない。小印だ大印だなどと
言われるが、小印であっても大いに目立つ指物もあるのだ。
(明良洪範)
0287人間七七四年
2014/09/18(木) 06:38:13.47ID:21kY6S2M見た目特化は男子の夢だから仕方ない
0288人間七七四年
2014/09/18(木) 07:18:18.20ID:FHW/AJiO0289人間七七四年
2014/09/18(木) 08:23:24.61ID:EsXIyVPY0290人間七七四年
2014/09/18(木) 10:42:55.65ID:EsXIyVPYでも重すぎてろくに動けないのはやっぱり突っ込まれるなw
0291人間七七四年
2014/09/18(木) 12:24:23.08ID:NoFUxqT+せっかく勲功上げても誰も見てないんじゃアレだし
0292人間七七四年
2014/09/18(木) 12:41:03.05ID:iCbg1FQ+0293人間七七四年
2014/09/18(木) 12:44:49.85ID:WzSeADYm0294人間七七四年
2014/09/18(木) 12:55:09.46ID:WTOzLdeR0295人間七七四年
2014/09/18(木) 13:42:03.33ID:JttA5Pst0297人間七七四年
2014/09/18(木) 17:46:01.59ID:gWxu6Ktj0298人間七七四年
2014/09/18(木) 17:55:36.45ID:M3qJal5E矢部虎之助の「位牌」・悪い話
まあ既出ではあった
0299人間七七四年
2014/09/19(金) 08:58:28.67ID:35uCFHa0大坂の陣で目立つ云々にもちょっと関係しているが
まずはこの徳川美術館本「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)で描かれている人物を見てほしい
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5321207.png
この場面、どうやら牢人同士の喧嘩を描いているようで、朱鞘を見ると
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5321211.png
「いきすぎたりや、廿三、八まんひけはとるまい」
と当時の傾奇者たちにはやった死生観を表しているものと一般的に解釈されているようだ
(歴史番組?ヒストリアでもそのように紹介)
しかし、黒田日出男「豊国祭礼図を読む」でちょっと驚くような考察がされていた。
黒田氏の考察によれば、この図屏風は元和元年頃、蜂須賀家政の注文によるものだそうだが、
「いきすぎたりや〜」の若者の、喧嘩相手の側を見ると、卍紋や梅鉢紋をつけた男たちが
必死になって仲裁し、鷹羽紋をつけた男が加勢しようとしている。
(卍紋は蜂須賀家、梅鉢紋は前田家、鷹羽紋は浅野家の家紋である。)
また、喧嘩のせいで倒れたと思われる、紋が散りばめられた上等の駕籠が描かれているが、
その紋の中心は豊臣家の桐紋であり、中から女の手が伸びている。
そして、1612年に処刑された傾奇者、大鳥一兵衛の刀には「廿五迄いき過ぎたりや一兵衛」
と「廿五まで」、となっているのに、絵の若者は「廿三」と中途半端な年齢である。
実は廿三とは豊臣秀頼の享年である。
結論を言えば、岩佐又兵衛は大坂の陣をかぶき者同士の喧嘩にみたてたのではないか、という考察だった。
つまり、この画像のかぶき者は秀頼ということになるのだが・・・
0300人間七七四年
2014/09/19(金) 09:21:05.72ID:Q+rEPIak0301人間七七四年
2014/09/19(金) 09:21:43.09ID:35uCFHa0http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5321249.png
※スレ汚しなのでまとめには入れなくて結構です
0302人間七七四年
2014/09/19(金) 12:23:21.22ID:FDoaW1L50303人間七七四年
2014/09/19(金) 13:38:27.95ID:rfjCCa7Eもう23歳だ。生きすぎたくらいだろう。
この喧嘩、八幡大菩薩に誓って、退かないぞ
訳するとこんな感じ?でいいのかな?
古文得意な方教えてください
0304301
2014/09/19(金) 20:48:57.59ID:xpudGxGYまとめの方に誤解されたかな
0305人間七七四年
2014/09/19(金) 21:08:08.82ID:JyLJUgo+司る事になった。
彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。
羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。
第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。
これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。
と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。
だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。
(ルイス・フロイス『日本史』)
織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。
0306人間七七四年
2014/09/19(金) 22:19:56.78ID:PrWfNCVT全盛期の一条信龍伝説
・3出陣5討ち死には当たり前、3出陣8討ち死にも
・感状発給討ち死にを頻発
・一番槍討ち死にも日常茶飯
・甲州崩れ、三河勢1万に対し手勢3百から1人で討ち死に
・駿府城代も余裕で討ち死に
・一回の戦で討ち死にが三回起こる
・殿で討ち死にが特技
・討ち死にでも納得いかなければ三途の川を渡らないで帰ってきてた
・合戦の無い移動日でも2討ち死に
・刀を使わずに手で討ち死にしたことも
・自分の討ち死にを自分で捕縛して弓矢で射返す
・所領巡察で討ち死になんてザラ、2周することも
・三段撃ちしようとした射手と、それを受け止めようとした二番備、遊撃、中堅の武将ともども討ち死にした
・唐入りの朝鮮人のヤジに流暢な朝鮮語で反論しながら背面討ち死に
・グッと鬨の声を挙げただけで5回くらい討ち死にした
・討ち死にでハリケーンが起きたことは有名
・湾岸戦争が始まったきっかけは信龍の討ち死に
・甲斐の深い位置から木曽谷のウグイスも討ち死にしていた
・自分の討ち死にに飛び乗って涅槃まで行くという功徳積み
・信龍の討ち死にによる衝撃波で体が真っ二つになった武将がいた
・スカイフィッシュの正体は信龍の討ち死に
・討ち死にで全米が泣いた
・信龍の出陣のときだけ犯罪率が下がる
・討ち死にのおかげで信龍の出陣のときだけ地球の気温が2度下がった
・流れ星の正体は信龍の討ち死に
・実はノドンで一度討ち死にしてる
・数字の1は信龍の討ち死にした姿がモデル
・信龍の出陣のときの視聴率は200%。2〜3台のテレビで見る公家もざら
・日本には討ち死にに乗って帰る
・信龍は、いつも店先のトランペットを物欲しそうに眺める家臣に自身の武具を贈ってあげたことがある
0307人間七七四年
2014/09/19(金) 22:22:30.77ID:sUxkV9mz0308人間七七四年
2014/09/20(土) 05:26:42.96ID:5hFl6qT+死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」
0309人間七七四年
2014/09/20(土) 06:54:20.06ID:DLha5Ble0311人間七七四年
2014/09/20(土) 14:50:12.80ID:4HNxXxNNさて、この田地にまだ庶人だった豊臣秀吉が通りがかった。
秀吉は田地のどじょうを取ろうと思ったがあぜを通っていかなければ無理だったので、
やむなく通った所あぜを踏み壊してしまった。
それを目撃した善右衛門は「俺がせっかく作らせたのに憎い奴め!」と怒り、部下達に命じて秀吉を殴らせた。
後年になって秀吉が天下を掌握してから、秀吉は「三河に河合と言うものがいたが、今は何をしているのか?」と人々に尋ねた。
しかし、いずれの者も「彼はもう亡くなりました。今は子孫もあとかたもありません」というので、
秀吉は「彼が生きていたなら、昔の礼をいったのだがな」と語ったという。
『武功雑記』より、若き秀吉と三河武士の話。
とあるスレで題材にされていたので
0312人間七七四年
2014/09/20(土) 15:19:14.76ID:9wmAzgSC0313人間七七四年
2014/09/20(土) 17:01:41.07ID:k6DcBn6N0314人間七七四年
2014/09/20(土) 19:56:09.67ID:tK53CTzd0315人間七七四年
2014/09/20(土) 20:18:25.72ID:1UqiAsFN尾張中村の仁王と福島正則
ほい、市松の珍しくいい話
しかし、戦国無双4ではなぜか仁王に税の免除をする秀吉といういい話に
0316人間七七四年
2014/09/20(土) 22:00:27.88ID:rTETO/zDこの時、本多佐渡守正信は例のごとく空寝していたが目を見開き、「殿はどなたを褒めたのですか?」と
尋ねた。家康はこれを聞くと
「加藤肥後の事だよ」
「加藤肥後…?それは太閤の時に虎之助と言っていた小倅のことですか?」
家康呆れたように
「肥後の事を知らない者がおるものか!」
「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきたその御目で、加藤などのことを
褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとってはこの上なき名誉なことです。」
「肥後のことは、私はよく知っている。現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」
正信、驚いたように
「疵?それはどういうものですか?」
「肥後は、ものに危うき心がある。今少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」
「なるほど、仰るとおりです。危うき心があって剛気に過ぎるのは大いなる疵です。
武田勝頼にもそのような癖があった為に、ついには国を失いました。惜しむべきことです。」
この座には京の商人などが陪席していたのだが、彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正はこれを聞くと
「さては家康公は私を、心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。
後年、本多正純がその父正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が語ったことは
「これは実際には、清正を褒められたものではない。その頃は当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ』との一言が、彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く
果てた。これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。
それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。よくよく工夫せよ」と諭したのである。
(駿河土産)
0317人間七七四年
2014/09/20(土) 22:11:22.12ID:fqb2tt9n酷いw
0318人間七七四年
2014/09/20(土) 22:18:14.41ID:0mUHFou+これにもあるけど、狸寝入りが正信の助言スタイル
0319人間七七四年
2014/09/20(土) 22:19:29.43ID:0mUHFou+実際有名だったようだ
0321人間七七四年
2014/09/21(日) 01:36:52.79ID:agaXous50324人間七七四年
2014/09/21(日) 09:03:52.19ID:sarunVYn0326人間七七四年
2014/09/21(日) 15:24:27.70ID:FX1cmuU70327人間七七四年
2014/09/21(日) 15:29:27.27ID:agaXous50328人間七七四年
2014/09/21(日) 15:50:08.85ID:+2YtYkdN0329人間七七四年
2014/09/21(日) 17:38:40.29ID:agaXous50330人間七七四年
2014/09/22(月) 18:11:57.52ID:6N1GWqw5>>315
これ絶対創作だろ
昨日の軍官でも触れていたが
太閤は尾張中村出身をなかったことにしてるんだよ
故郷凱旋なんて記録聞いたことない
>>311はいかにもありそう
>>320
清正が長生きしてたら間違いなく豊臣は存続していたろうに
家康は真田昌幸と加藤清正には最後まで恐怖していたのだから
0331人間七七四年
2014/09/22(月) 22:09:33.78ID:mld1qJgw0332人間七七四年
2014/09/22(月) 22:30:14.78ID:FkKhJNnA0333人間七七四年
2014/09/23(火) 06:35:11.60ID:kWscWACT0334人間七七四年
2014/09/23(火) 08:33:23.26ID:Wa3gJHuA他スレでも公表したけども、5月に城井谷の城に行ってきた。
大河で城井(宇都宮)朝房が肥後で殺され、鶴姫が脱走(黒田説でもねえじゃん)ということで。
一応タイムリーな話題で。
http://i.imgur.com/hRY6Ae8.jpg
http://i.imgur.com/A9etGTe.jpg
http://i.imgur.com/VTdOR7W.jpg
http://i.imgur.com/FeN6XnB.jpg
http://i.imgur.com/6E5hasx.jpg
http://i.imgur.com/aZ6VbCy.jpg
http://i.imgur.com/QYOko5q.jpg
http://i.imgur.com/bsnxHSr.jpg
http://i.imgur.com/x4v6yNT.jpg
http://i.imgur.com/cXAeKv4.jpg
http://i.imgur.com/peCETYF.jpg
http://i.imgur.com/5kDKnRY.jpg
http://i.imgur.com/jDh7KHb.jpg
http://i.imgur.com/P7lnjEA.jpg
http://i.imgur.com/AEIrkQV.jpg
http://i.imgur.com/7q86bH9.jpg
http://i.imgur.com/UOBfcrP.jpg
黒田長政はよくこんな城を攻めようとしたよね。
城井(宇都宮)鎮房もよく守ったよ。
本拠地の大平城とは3kmしか離れてないそうだけど
ところで何故この城の写真を撮ったかって?
エロゲーの題材に使うからだよw
0336人間七七四年
2014/09/23(火) 09:18:22.92ID:IdVE6cw7無駄話つまり世間話でひとつネタを投下。
うちの親父と母親の馴れ初めきいたことあって無駄話ができないということに
関連づいたことを母が話していたのを記憶にある。
うちは父がエンジニアで母が銀座のクラブのママだった。
父は客として母のお店に通っていたみたいだが
父は母とまったく視線もあわさなくて、
面白い話も一切しないただ本当にそこに座っている客で
暗い人だと第一印象もったみたい。
ほとんど会話しないのに仕事終わったあとに周期的に店に通いつめている人だったときいた。しかも一人でいつもきていたらしい。他の人は同業者とか仲間引き連れてきていたからそれと比較するとかなり浮いてたみたい。
あと気になることをいっていた。
他のお客さんで父と違う業界の人はよく喋る人多く、父と同じ業界の人で半分ぐらいの客は父みたいに
喋らずに視線もあわずにただ座って相手の子が一生懸命はなしかけていて無視したりとかぽつりとうなづくだけで話も広がらないしつまらない客が多かったといっていた。
もしかして業種別に傾向あるのかな?
母いわく設計図かく仕事している人にそのようなタイプが多かったらしい。
それといい大学出ているの多くて設計図かけるってことは高IQは間違いないはず。
0338人間七七四年
2014/09/23(火) 12:48:53.77ID:TSBI00DD0340人間七七四年
2014/09/23(火) 13:22:39.97ID:Wa3gJHuA三丁弓の岩の看板の上のやつは地元の自衛隊の方の手作りらしい
自然の門とか入口とかあったね。
何も残ってない。
籠城するための城は確かみたい
0341人間七七四年
2014/09/23(火) 13:28:09.18ID:LxEW4jTe0342人間七七四年
2014/09/23(火) 13:37:41.96ID:sGawgak60343人間七七四年
2014/09/23(火) 16:49:09.32ID:/gS95BtJ03451/2
2014/09/23(火) 20:16:59.07ID:Xw3iSN0C紀伊国なる別の一国が続いている。そこには一種の宗教団体が4つ5つあり、その各々が大いなる共和国的存在で、
昔から同国ではその信仰が盛んに行われてきた。いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことが出来なかったのみか、
ますます大勢の巡礼が絶えずその地に参詣していた。
これらの集団の一つをコウヤ(高野)と言い、三千ないし四千の僧侶を擁している。その宗祖は弘法大師て、
彼は七百年前、そこに生きたままで埋葬されることを命じた。同宗派はシンゴンジュ(真言宗)と称し、
この高野の宗団は、頂上に大いなる平地と自分たちの憩いの場を持つ高山にある。
毎年大勢の参詣者や巡礼が訪れるが、いかなる女性もそこに登ることは許されないし、また女性に関連した物品も
持ち入ることができない。そのために、周知のように、同所の仏僧達は忌むべき輩であり、その生活は淫猥を
極めたものとなっている。
同国にある2番目の宗団はコカワ(粉河)と呼ばれる。それは前者に比すると人員や規模においてはるかに劣るので、
改めて特筆する価値はなく割愛することにする。
三番目の宗派ないし宗団は、やはり一部の仏僧が構成するものであり、ネゴロス(根来衆)と称する。
彼らは当初、高野の仏僧らと同一の宗団に属していたが、後に分離して独自の宗派を形成するに至った。
これらの仏僧たちは、日本の全ての宗派とは全く異なった注目すべき点をいくつか有している。すなわち彼らの本務は
不断に軍事訓練にいそしむ事であり、宗団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ、多く作った者ほど多くの功徳を
積んだ者と見なされた。彼らは絹のキモンイス(着物)を着用して世俗の兵士のように振る舞い、裕福であり収入が多いので
立派な金飾りの両刀を差して歩行した。カタギン(肩衣)を着物の上に纏っていない点を除くと、その服装は他の俗人と
異なる所がなかった。それについては、既に日本人の服装を論じた際に言及した通りであり、彼らの衣服は飾り用に羽織る
一種の薄いサンペニート(袋状の衣)である。更に彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ、
いかなる事があっても僧帽を着用しなかった。
彼らを一瞥しただけで、その不遜な面構えといい、得体のしれぬ人柄といい、彼らが使えている主(すなわち悪魔が
如何なるものであるか)を示していた。
都に隣接した諸国に住む日本の武将や諸侯は、互いに交戦する時ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って
戦わせた。彼らは軍事に極めて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては日頃不断の訓練を重ねていた。そして
戦場においては自分たちに有利な条件を提示する側に容易に屈するのであった。
彼らの寺院なり屋敷は、日本の仏僧の寺院中、極めて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華な点において抜群に優れている。
そしてその寺院なり住居が清潔であればあるほど、一方で彼らは生活において忌むべき人間に堕落しているのである。
彼らは根来の宗団内にとどまって戦に参加していない時には、他の仏僧らと同様に偶像崇拝並びにその宗派の儀式に従っていた。
彼らはその地を訪れる巡礼者たちを懇切丁寧にもてなし、2,3日無料で食事を提供した。
彼らに奉仕する家僕を除き、仏僧だけで八千人から一万人もいたが、それらの家僕の大部分は下賤の出で、主人の元から
逃亡した下僕とか、悪人、また下等な輩の寄り合いであった。だか彼らはひとたびネゴロス(根来衆)になると、
たちまち尊敬を受け、血統の賤しさも、以前の生活や習慣における卑劣さももはや己が身に汚点を残さなくなると信じていた。
03462/2
2014/09/23(火) 20:17:30.36ID:Xw3iSN0C裕福な農民たちであった。だかヨーロッパの農民たちと全く同じというわけではない。すなわち彼らは海陸両面での
軍事訓練において、根来衆にいささかも劣らなかったし、常に戦場で勇敢な働きぶりを示してきたので、日本において、
彼らは勇猛にして好戦的であるとの名声を博していた。
彼らは僧籍を有せず、全て一向宗の信徒であり、かつて大阪の市および城の君主であった仏僧(本願寺顕如)を最高の主君に
仰ぎ、彼に従っていた。織田信長は6年にわたって顕如を包囲したが、しばしばこの大阪勢には悩まされ、信長勢は彼らの
攻撃を受けた。
当時、この僧侶を最も支えたのは、彼が常時手元においている6,7千人もの雑賀の兵であった。彼らは自ら奉ずる宗教への
信心並びに熱意から、不断に大阪の城に馳せ参じ、自費を以って衣食を賄うとともに、海陸の戦いでは武器弾薬を補給した。
(ルイス・フロイス『日本史』)
フロイスの日本史より、紀伊国の宗教勢力に関する描写である。
0347人間七七四年
2014/09/23(火) 23:59:46.10ID:TzWQWK3c当時の日本では珍しくなくても、宣教師からしたらとんでもないわな
0348人間七七四年
2014/09/24(水) 00:38:47.54ID:LY5nv8Svねえフロイスさんどんな気持ちですか?
0349人間七七四年
2014/09/24(水) 04:23:06.88ID:ojoMC+8wなんと嘆かわしい」
0350人間七七四年
2014/09/24(水) 09:07:12.13ID:jjnT6EAAつかなんでイタリア製作じゃないんだ
0352人間七七四年
2014/09/24(水) 13:51:17.30ID:FJwfTTB00353人間七七四年
2014/09/24(水) 15:44:10.82ID:1DlCOhZD服従精神で嫁や息子でも殺しちゃうのか
0355人間七七四年
2014/09/24(水) 19:51:22.51ID:6r+3f+h2いや、しかもただの糞じゃない
恐怖におののいて自然と漏れ出した糞
日光東照糞
0356人間七七四年
2014/09/24(水) 19:58:32.60ID:KFHpx6KJ0358人間七七四年
2014/09/25(木) 00:35:55.20ID:PbYAiOlA0359人間七七四年
2014/09/25(木) 00:37:00.82ID:pU/XqBo90360人間七七四年
2014/09/25(木) 02:28:57.40ID:1Rp8XVOm0362人間七七四年
2014/09/25(木) 09:44:38.77ID:p+Wz+xjT「粉河寺は詳しいことわからへんし余計なこと書かんとこ」
「5つ目は熊野…まあちょっと他んとこより遠いし省略してもええやろ」
4つ5つといった言い回しにこんなような思いが滲み出てる気がしてこの逸話見聞きした時に
モヤっとしてるのは俺だけだろうか
0363人間七七四年
2014/09/25(木) 12:07:54.17ID:8WD0aY5c魔王が怖くて自分の妻と子供平然と殺す
太閤亡き後、しゃしゃり出てその妻と子供を殺す
女子供にはやたら強い神君
得意技は戦場で糞を漏らす事だそうだ
0364人間七七四年
2014/09/25(木) 16:16:12.48ID:VmB40qBI0365人間七七四年
2014/09/25(木) 16:22:23.32ID:rBySjxku0366人間七七四年
2014/09/25(木) 17:13:54.32ID:cjAhD/Z20367人間七七四年
2014/09/25(木) 18:40:19.21ID:e92f8F2Fしかし孕石の意志は俺たちの中に生きている
0368人間七七四年
2014/09/25(木) 19:41:44.20ID:HBI3MB18家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、
「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」
そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。
やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永井は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った
「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして巧妙無きか!?」
これに答える者は一人もいなかった。
(明良洪範)
0369人間七七四年
2014/09/25(木) 19:55:23.56ID:NHQhAPWH病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?
0370人間七七四年
2014/09/25(木) 20:07:39.05ID:R4D+AFtJ0371人間七七四年
2014/09/26(金) 02:55:42.73ID:TqisjQvZ0372人間七七四年
2014/09/26(金) 16:07:17.20ID:Lv7rbv730373人間七七四年
2014/09/26(金) 17:22:35.87ID:71cO/wZg0374人間七七四年
2014/09/26(金) 19:37:34.02ID:zKaBtR1kもう死んでるけど
0375人間七七四年
2014/09/26(金) 20:00:18.13ID:XYmsWdGLこの森本政右衛門が18歳の時のこと
勝入の元に、稲葉伊予守一鉄より備前焼の焼き物が贈られてきた。しかし政右衛門はこれを見て言った
「これは備前焼ではありません。偽物です。こんなもの、伊予守の面前で打ち砕いてみせましょうか。」
勝入はそれを聞くと
「それは無礼なことだ。しかし伊予守の面前で打ち砕くことが出来るものなら、打ち砕いてみよ。」
「どうして彼の面前で打ち砕くことが難しいでしょうか!」
そう答えると焼き物を持って稲葉一鉄の元に向かった。一鉄はそういうことだとも知らず対面すると、
政右衛門はその焼き物を取り出して
「これは備前焼にあらず、偽物でありますからお返し申す!」
そう言うと側の柱に打ち付けて砕き、そのまま走って逃げた。
この事態に一鉄は「そいつを止めろ!」と下知したが、政右衛門は逃げ延びて勝入の元へ帰った。
勝入は政右衛門の身を心配して門の内で待っていた所に彼は帰ってきて、「しかじかしました。」と、
証拠として砕けた焼き物の一片を見せた。
その後、政右衛門は勝入に申し上げた
「先程殿は、『無礼であるが砕けるものなら砕いてみよ』と張り合いをかけられました。
このように煽られては、若き者達は、例え骨を砕かれようとも必ずやってやると思うでしょう。
今回私が、逃げ切って帰ってこられたのは幸いでした。どうか、以後お慎み有りますように。」
(明良洪範)
森本政右衛門、稲葉一鉄の目の前で焼き物を砕く、というお話。
0376人間七七四年
2014/09/26(金) 20:14:21.86ID:1tk20FeK0377人間七七四年
2014/09/26(金) 20:25:58.62ID:yY2ICs9nよしやってみろと乗っかり不幸にも逃げ帰れなかったお話ですね
0379人間七七四年
2014/09/27(土) 12:19:23.36ID:iPkEM/Cw0380人間七七四年
2014/09/27(土) 14:01:50.52ID:KdeACkG4徳川忠長はその川に浮橋を渡した。その往来はやすらかで平地の
ようであったため、身分の高い者も低い者も、こぞって忠長の
巧智に感心した。
ところが、家光はその橋に臨むと、にわかに表情を変えて、
「箱根大井は、海道第一の険要にして、関東を隔てているのだと、
神祖(家康)も大御所(秀忠)も、常に仰せられた場所である。
それなのに、このような浮橋を設けて、往来を自由にさせるのは、
あってはならないことである!」
と、甚だ憤った。後年に至り、忠長が罪を蒙ったのも、この時の
事より起こったということである。
――『徳川実紀(坂上池院日記)』
0381人間七七四年
2014/09/27(土) 14:36:51.89ID:FWSCc+kO受けじゃねえからこんな発想になるんだよ
後年町娘を囲って江戸から出られないようにした色情狂いには臣下も苦労しただろうな
0382人間七七四年
2014/09/27(土) 15:22:29.29ID:q9ICDCm30383人間七七四年
2014/09/27(土) 16:33:22.94ID:vx3j+Dpe0384人間七七四年
2014/09/27(土) 17:54:26.92ID:VlJywYPD「帯刀め、腹を切るべきところを、二度も許してやったものを・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4521.html
これに被る話
この二度お許しにとの事は、
安藤直次が若輩の時、家康公の御愛童である井伊万千代を恋慕い御小姓部屋へ忍び込んだ事が二度有った。
一度は見つかりそうになったところを屑籠に隠れて難を逃れた。
二度目は部屋へ忍び入って居るところへ家康公が御成りになったので
万千代は部屋の入り口まで出迎え
「今夜は障りで気分も優れぬのでお相手出来ませぬ」
と気色ばんで申し上げため、家康公はそのまま帰って行った。
その後、横須賀衆がふと部屋へ入って来た。
直次急いで屑籠の中に万千代を隠し蓋を被せた。
「他に人影が見えていたのだが」
と横須賀衆が申し、その蓋の上へ腰掛けるた。
「はて?他には誰も居ませんよ。」
と直次は少しも臆せずに言った。
後にこの事を家康公がお聞きになったのでは無いだろうか。
(安藤旧段)
後半の訳に自信が無いからここに掲載されているので確認してみてくだされ。
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899839/3
尚、この逸話は『新東鑑』にも紹介されているらしい。
0385人間七七四年
2014/09/27(土) 18:04:51.86ID:AmO+dV8k0386人間七七四年
2014/09/27(土) 18:44:02.28ID:VlJywYPD出典は安藤旧段ではなく『安藤旧談』です
0388人間七七四年
2014/09/28(日) 08:51:20.38ID:wCR2Mv68この横須賀衆って誰?
とゆうか、権現様が怪しく思って横須賀衆に様子を見に行かせたとかだったら怖い
籠に閉じ込めたのも見ていてその蓋の上にわざと腰掛けたとかさ
まさか横須賀衆まで小姓部屋に夜這いに来たわけじゃあるまいよな
0389人間七七四年
2014/09/28(日) 09:13:27.00ID:9sTixHBQ0390人間七七四年
2014/09/28(日) 10:46:58.53ID:UMTVnVYd横須賀衆だとチト分からねエなあ
面倒臭い野郎だって ここにゃ沢山いるからねエ
ワルイなあ 他をあたってくれよ
アンタ 万千代の何んなのさ!
海老江の勝左 里勝 ヨコスカ〜
0391人間七七四年
2014/09/28(日) 10:53:24.01ID:ODGZljEx0392人間七七四年
2014/09/28(日) 11:04:17.46ID:rvsXJ7UG0393人間七七四年
2014/09/28(日) 19:30:14.15ID:VCrdkJr20394人間七七四年
2014/09/28(日) 19:36:40.17ID:bayXO4W9近臣である稲垣将監、石川主馬、中川清九郎などが追腹したと徳川家康が聞いた時、殊の外
機嫌を悪くした
「江戸の老臣たちはどうしてこれを制しなかったのだ!?制しても聞かぬのなら、将軍へも申し
厳かに咎を申し付けるべきなのだ!」
そして重ねて、この様に言った
「おおよそ殉死というものは昔から有るものだが、これは意味のない行為だ。
それほど主人を大切に思うのならば、己が身を全うし後嗣に仕え忠義を尽くし、万一のことが有れば
それに臨んで一命を投げ打つ事こそ誠の忠誠である。何にもならぬ追腹を切るのは、犬死にというものであり、
事のつまりは主人がうつけで、重ねて禁じおかない故である!」
この家康の発言は江戸にも聞こえ、その年の閏4月、越前黄門結城秀康が北之庄で卒去した時、
将軍家よりかの家に御書が送られ、その中で第一に殉死を止めた。駿府の家康よりも同じ趣旨が
仰せ下された。その大略は
『黄門が卒去したことにより、殉死の者があると聞き及んでいる。
一旦の死は易く、後嗣を守り立てて節を尽くすのは難し。北之庄は北国枢要の地であり、国家鎮護の
第一であれば、死去した黄門に忠義を尽くそうと思う者は、一命を全うして後命を待つべし。
ゆめゆめ無益の死を遂げるべからず。もしこの旨に違背する者は、子孫までも絶えさせるべし。』
この書が到着する前に、永見右衛門、土屋左馬助といった秀康の近臣が殉死したが、その他に殉死したものは
無かった。
殉死に関してはこれ以後も重ね重ね厳禁したため、家康の死去の時も秀忠の時も、殉死する者はなかった。
(徳川実紀:東照宮御實紀)
徳川家康の、殉死に対する考えを表した記事である。
0395人間七七四年
2014/09/28(日) 20:48:52.22ID:DZVv7E0o追い腹なんていう益にならないことで死なれるのは許せないか
0396人間七七四年
2014/09/28(日) 21:00:50.34ID:eNLoSSs/0397人間七七四年
2014/09/28(日) 23:19:51.82ID:ZcTXCrpo今も嫌われてるけどな
0398人間七七四年
2014/09/29(月) 01:03:30.06ID:ex4PbjiF0399人間七七四年
2014/09/29(月) 02:43:50.45ID:PnoCTjTN成仏しろ
0400人間七七四年
2014/09/29(月) 06:57:27.20ID:6q8pVIeQこの後から殉死が流行りだした
0401人間七七四年
2014/09/29(月) 11:21:02.93ID:esA5HWjc0403人間七七四年
2014/09/29(月) 11:55:54.92ID:ZXz9rxM10404人間七七四年
2014/09/29(月) 19:11:16.41ID:sXyecKUGなんのための同調圧力だよw
0405人間七七四年
2014/09/29(月) 20:49:49.34ID:PnoCTjTN0406人間七七四年
2014/09/29(月) 20:55:09.74ID:Df4IE6D8http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140923/wlf14092303400020-n1.htm
>厨子内部に墨書された一文。最初の2文字が「文禄」と書いてある
http://sankei.jp.msn.com/images/news/140923/wlf14092303400020-p1.jpg
どう見ても「元和」です。本当にありがとうございました。
0407人間七七四年
2014/09/29(月) 21:40:48.09ID:+6uGb5EJ0408人間七七四年
2014/09/29(月) 21:41:51.16ID:b4hq3FCf0409人間七七四年
2014/09/29(月) 21:47:12.48ID:1BBydUsO>「文禄七年」の墨書が見つかった。大工とみられる署名もあり
大工の署名みたいね
>文禄は5年(1596年)に改元されており、実際は慶長3年(1598年)に該当し、秀吉が死去した年にあたる。
>秀吉の治世が続いているという認識で、あえて「文禄」年号を使ったと考えられるという。
これはありえない。無理がありすぎる。
0410人間七七四年
2014/09/29(月) 22:00:16.91ID:qNJ2Gqob0411人間七七四年
2014/09/29(月) 22:05:06.54ID:ZXz9rxM10413人間七七四年
2014/09/29(月) 23:18:39.75ID:2lzu0029秀吉が死去した1598年から家康の近侍として仕え、寵臣として過ごす予定であった。
しかし、1615年の大坂夏の陣で軍令違反を起こし、軍功をあげたにも関わらず賞されなかった。
その後牢人となり、林羅山の勧めで藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。
江戸初期における漢詩の代表的人物となり、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通した。
丈山と号し、『石川丈山』としてJR東海のCMにも紹介されるほど歴史に名を残した。
と、俺が言いたいのはこれではない。
問題は彼が重之の後につけた諱である。
それは『凹』である。
あちこち調べてもサッパリわからない。
他のところで質問しても回答一切なし。
フリガナも出てこない。
「くぼむ」なのか、「へこむ」なのか、なんなのかわからない。
とりあえず渡辺氏方式(一字漢字に三字読み、同系統の松浦氏も該当)と見てるけど、正式の読み名がわからない。
わかる人いない?
0414人間七七四年
2014/09/29(月) 23:29:44.93ID:BYTve94f0415人間七七四年
2014/09/29(月) 23:52:30.80ID:KnEs6cQg諱だし漢語読みのわけないよなあ
0416人間七七四年
2014/09/30(火) 00:34:45.22ID:Ix//vwzK0417人間七七四年
2014/09/30(火) 01:27:57.57ID:viD8lcOd凹ちゃんは「ぼこちゃん」でいいんじゃない
0418人間七七四年
2014/09/30(火) 20:46:09.30ID:WgerDUPe「世の中の、侍の事は申すに及ばず、奉公人、下々までも、それぞれに生まれついた気質という物がある。
これらについて、三種類の見損なうことがある。
一つには、分別者を佞人と見ること。
二つには、遠慮の深き者を臆病と見ること。
三つには、がさつな人物をつわものと見ること。
これらは大いなる誤りである。
分別のある人は、言いたいことが十あるうち、七分を残して三分を申す。
遠慮深きものは後先を踏み、常に万事をよく考えている。
それは例えば、言い出て勝負をかけるより先に、自分の妻子の今後について思案をしている。
それ故、いざ物を言う時は実否が出るまで徹底的に行うのだ。これを遠慮と呼ぶのである。
この遠慮を知らずに、臆病と見る者が居る。そういう者達は皆未練なのだ。
また、がさつな人物は、分別も遠慮もなく、無理に物を申す。
このような者達は、遠慮者、分別者の言葉少ないのを未練と思っているが、勝負を付けるところで
初めて妻子に思いを致すため、いざ決行するという時に成って、がさつ者は必ず最期に非常識な
行いをしてしまう。
すなわち、がさつは臆病の端緒なのである。
(甲陽軍鑑)
武田信玄による、人物の見誤りについての記述である。
0419名無し募集中。。。
2014/09/30(火) 22:24:48.46ID:+0kAmDC0史実に近いのは漫画あずみに出てくる秀忠だそうだ
ビジュアルも性格もそっくりなんだと
0420人間七七四年
2014/09/30(火) 23:24:59.43ID:sTR86tFG関ヶ原のとき20代なんだな
0421人間七七四年
2014/09/30(火) 23:42:41.00ID:v+N7qgZD葵徳川三代の初っ端で、半泣きになって「血の小便じゃぁ(´;ω;`)」っつってた西田敏行はハタチ過ぎた辺りだったのか。。
0422人間七七四年
2014/10/01(水) 10:54:57.17ID:k8yg2CNI約10歳の養女って…
0423人間七七四年
2014/10/01(水) 11:36:06.60ID:Qc6u0v4j0424人間七七四年
2014/10/01(水) 11:49:30.43ID:YnF5EsZC慶長5(1600)年10月1日、伊達政宗から山形に援軍として遣されていた将兵の中に湯目加賀(湯目守重)といった将がいた
当初伊達の援軍は留守政景を大将に屋代勘解由や白石若狭ら兵3000が派遣される手筈であったが、
福島攻め等に半数以上が引き抜かれ、都合1200が最上軍とともに山形で戦い、直江軍を追撃した
この追撃戦において湯目加賀は遅沢川で戦場の露となる
現在湯目の碑といったものが山形市の田の中にある
石碑から西に100メートル程離れた所に、湯目の遺骸は葬られたといった話がある
その場所には直径10メートル、高さ数メートルの土まんじゅうの塚があり
上には五輪塔が建てられていた
昭和48年、区画整理の際に塚の発掘作業中に中央から粘土郭が発見され
灰と人骨が確認された
湯目の碑は後年湯目守重の慰霊のために作られた比較的に新しいものだと伝わる
0425人間七七四年
2014/10/01(水) 20:38:13.25ID:i9ZSPCrP彼は度々戦功を成した者であり、その戦功を他人は『越すに越されぬ』という心でその名を付けたと言われた。
水野勝成はそれを聞いて大いに腹を立て、合戦の有る時に鳴門之助に対面して
「貴殿の名は越すに越されぬという心で名付けられたと聞き及びました。明日の合戦、
越せるか越せないか、私と貴殿とで先陣を争おうではありませんか!」
鳴門之助これを聞くと
「それは皆、そんなことを言っている者達の誤りです。私の名は祖父より受け継いだものであり、
貴公の言うような意味ではありません。その上貴公の武勇は比類無いものですから、私ごときが
先陣を争うなど、到底及びの付くことではありません。ですのでその事は、どうか御免下さるように。」
そう自らを下卑した。勝成はそれでも食い下がり、何度も先陣争いを求めたが、硬く辞したため
ついに「この上は」と諦めた。
その夜子の刻(午前0時頃)、鳴門之助は密かに勝成の陣屋に人を送り伺わせ、気が緩み
油断しているのを確認すると、そのまま単騎出陣し敵陣に馬を一文字に乗り入れ鑓を合わせた。
が、当然ながらたちまち多勢に取り巻かれ、数カ所の傷を受け、終に息切れて倒れた。
そこで敵兵が首を取ろうとした、まさにその時、佐々成政の総軍が押しかかった。
これにより敵も首を取らずに引き返し、鳴門之助は従者が肩に担いで自陣へと戻り、幸いにも
蘇生した。
すると鳴門之助は勝成の元へと使いを立てこう伝えた
『今日の合戦の先陣はきっと貴公出会った事でしょう。』
勝成はこれに甚だ面目を失い、後年に成っても「あれはこの勝成、一代の不覚であった。」と
人に語っていたという。
(明良洪範)
0426人間七七四年
2014/10/01(水) 20:40:47.97ID:9IR4zcwC0427人間七七四年
2014/10/01(水) 20:57:47.30ID:UwA7Wa/z同じ話だが出典は違うか
0428人間七七四年
2014/10/01(水) 21:26:37.32ID:YnF5EsZC慶長5(1600)年9月29日、直江兼続から菅沢の上杉軍の将士に上方石田勢の敗北が伝えられると、米沢に引く前に動静を探られぬ様に最上勢への一斉攻撃が定められた
兼続の山形攻めの采配に不満を抱いていた上泉泰綱は牢人組三千人を率いて最上軍に討ち掛かったが
深田に足を取られ味方は往生
泰綱「今度の合戦に付直江に異見をせし事有といへども、更に承引せざるの間、此上は軍の勝負にもかまはず偏に討死すべき物を
(今度の合戦に兼続の指揮下で異見をしたが、もういくさの勝ち負け等知らん。討ち死にしよう)」
泰綱は近習20騎程で立ちはだかる最上勢に抗い、その戦い振りは鬼神を思わせ
周辺は田を鋤き返したかの様に踏み荒らされた
最上勢の兵が泰綱一人に十数人が斬られる戦いの最中、上山里見党の添山九郎兵衛といった者が上泉泰綱に飛び掛かり、組みついて落馬をさせると、その隙をついて金原七蔵といった16才の若者が泰綱の首級を掻き切った
首級は眼をかっと見開き、歯を食いしばった物凄い形相で
瞼を押さえようとも眼を閉じようとはしなかった
首実験で武者の武具の象眼から、首級の持ち主が上州の剣聖上泉秀綱の子の上泉泰綱と知った最上義光は、首を熊野社に埋め懇ろに弔う様に指示を出したという
長谷堂周囲には上泉泰綱を弔ったとされる「主水塚」が複数(長谷堂〜菅沢、門田、朴の木屋敷など)残る
また上泉泰綱は上山で討たれたといった別な話も伝わる
「山形の昔話」
0429人間七七四年
2014/10/02(木) 02:47:43.56ID:8Su1yeoU単に昔の話を紹介すればいいってもんじゃねーぞ、最上よ
0430人間七七四年
2014/10/02(木) 02:48:12.35ID:8Su1yeoU○最上厨よ
0431人間七七四年
2014/10/02(木) 07:41:38.96ID:LZpqmcHD0432人間七七四年
2014/10/02(木) 08:47:55.25ID:GcuwFjvA身勝手な泰綱くん
まあ譜代と他国衆なんてそうそうウマがあうわきゃないんだけど
飄戸斎さんが泰綱だけ死なすなと突っ込むのはフィクションだけ?
0433人間七七四年
2014/10/02(木) 12:29:39.55ID:S1ELZRpMくさそう
0434人間七七四年
2014/10/02(木) 15:52:48.72ID:iKnkFy9T0435人間七七四年
2014/10/02(木) 15:59:26.61ID:dysr96r5上杉御年譜・越境記とかに詳細はあるかな?
0436人間七七四年
2014/10/02(木) 18:27:40.49ID:JULjGu6r「計算高い者は卑怯である。
その理由は計算高さは損得勘定であるから、いつも損得の心が絶えない。
死は損、生は得であるから、当然死を好まない。
だから卑怯なことをする。
また学問のある者は、才知と言葉で生まれつきの臆病と浴心をうまく隠している。
ここは人々がよく見誤るところだ」
とのこと 【葉隠】
0437人間七七四年
2014/10/02(木) 19:39:18.57ID:GwUSVapQ0438人間七七四年
2014/10/02(木) 20:31:15.05ID:rV4CfoK9×浴心
○欲心
0439人間七七四年
2014/10/02(木) 20:32:59.77ID:dysr96r5逸話(いつわ、英: anecdote)とは、世間や世人にあまり知られていない興味深い話、エピソード。
特定の武将が出て来るだけで相手側の話でも噛み付きたいだけの山師がいるのか。
0441人間七七四年
2014/10/02(木) 21:07:49.76ID:GcuwFjvA0442人間七七四年
2014/10/02(木) 22:42:33.03ID:iKnkFy9T0443人間七七四年
2014/10/03(金) 01:56:51.01ID:7q/j47pPしかし3000人も配下がいれば、むざむざ死ぬ事もなかっただろうに、余程兼続に含む事があっての諌死か武士の体面を気にしていたのだろうか?
0444人間七七四年
2014/10/03(金) 02:13:14.29ID:lb0+unoP与力みたいなもんだろ
負け戦ともなりゃ我先に逃げ出す
0445人間七七四年
2014/10/03(金) 19:37:06.50ID:M8uTy27D太閤秀吉を始めとして、高貴の人も多く門人があった。中でも瀬田掃部(正忠)と言う人は
真の弟子の式を伝授された人であった。
ある時、この瀬田掃部が利休方に招かれ、茶の湯会席も過ぎ利休が棚に柄杓を置いているのを、
瀬田はしきりに感心していた。これが気になった利休は
「何をそんなに感心しているのですか?」
と尋ねると、瀬田
「今日の柄杓は、いつもの格好よりも勝れて見えます。」
「勝れている?それはどう言う所が勝れているのでしょうか?」
「今日の柄杓はいつもより5厘(約1.5ミリ)ほど短く見え、その格好は至極宜しく、
斯様にこそありたく思いました。」
その後、瀬田の茶会に利休が招かれた。茶の湯が済んだ後、利休はこのように問うた
「今日のあなたが用いた柄杓は、随分短かったようですが。」
「はい、先日宗匠の柄杓が短かったのが、随分格好宜しく見えましたので、私の柄杓も短くしたのです。」
これを聞くと利休はため息を付き、
「貴殿は茶道の本意を心得ていると思っていたのに、未だ心得はないようです。
私は身体小兵ですから、普通の柄杓では身に余る様に思って、それ故短くしたのです。
あなたは身体大兵ですから、長くしてこそ然るべきなのに、短くする道理があるものですか。
さてさて、貴殿は存外に茶道未熟です。」
そう語ったという。
(明良洪範)
>私は身体小兵ですから → 千利休の推定身長180cm
瀬田掃部さんはどれだけでかかったのだろうか。
0446人間七七四年
2014/10/04(土) 06:55:28.48ID:4MFqRPFY0447人間七七四年
2014/10/04(土) 12:15:55.97ID:KlJsq/ex0448人間七七四年
2014/10/04(土) 13:13:27.37ID:ldOnwHp90449人間七七四年
2014/10/04(土) 16:06:22.99ID:952/XcN7ふさわしくなければ無理やりここの人が逸話にもってってくれる
0450人間七七四年
2014/10/04(土) 16:11:25.72ID:/AhpAQrH残念
0451人間七七四年
2014/10/04(土) 16:13:54.27ID:ldOnwHp9時には名前がダブることはよくある。
一族内で同じ名前になることも珍しくなかった。
しかし、それは当主ではないただの一族衆も含めてである。
当主名前が『A⇒B・・・・A⇒B』となっている当主は朝倉氏景⇒朝倉貞景、松浦隆信⇒松浦鎮信、河野通宣⇒河野通直、岩城親隆⇒岩城常隆の4ケースがある。
毛利家の家臣である福原家の場合は広俊⇒貞俊と元俊⇒広俊がある。
見落としあったらすまん。
0452人間七七四年
2014/10/04(土) 16:20:18.78ID:ldOnwHp9毛利家の家臣である福原家には4人の福原広俊が存在した。
1人は毛利元就の祖父。
1人は毛利元就の家督相続時の15人の宿老の起請文に署名した際に筆頭として署名した。
1人は関ヶ原で毛利家の断絶を防ぐために徳川家康と内通し、毛利家の居城の選定を話し合った。
1人は江戸期の人で当初広次を名乗るが、父・元俊の一字をとり広俊と名乗る。
河野通直カルテット
伊予の大名・河野家には4人の河野通直が存在した。
1人は南北朝の人で河野通堯であり、改名して通直と名乗った。
1人は通堯の曾孫であり、教通から改名して通直と名乗った。
1人は教通の孫であり、来島騒動を巻き起こした。
1人は事実上最後の河野家当主である。
朝倉教景クインテット
越前の大名・朝倉家には5人の朝倉教景が存在した。
1人は結城合戦で足利持氏の子を生け捕りにし、足利義教から偏諱を賜り教景と名乗った。
1人は教景の子で、最終的に家景と名乗った。
1人は家景の子で、敏景、孝景と名乗った。
1人は英林孝景の子で、宗滴の兄である。
1人は朝倉宗滴でおなじみの朝倉教景である。
朝倉クインテットのみ2名が当主となっていない。
それでも親子4代続けて同じ諱(一時的に名乗ったのも含む)はそうそうないだろう。
幼名ならば竹千代の親子8代が最高。
0453人間七七四年
2014/10/04(土) 16:27:44.93ID:ldOnwHp94代目と9代目がつけた貞景
4代目と6代目が為景
3代目と8代目がつけた氏景
7代目と10代目がつけた孝景
0454人間七七四年
2014/10/04(土) 16:33:27.45ID:ldOnwHp9宗滴さんの場合は混乱しないだろう。
0455人間七七四年
2014/10/04(土) 17:06:41.37ID:NnSZ5mC+0456人間七七四年
2014/10/04(土) 17:07:03.93ID:lh91U3Xj0457人間七七四年
2014/10/04(土) 17:13:33.48ID:952/XcN7服部正成(まさなり)
服部正就(まさなり)
牧野新次郎康成(やすなり)
牧野半右衛門康成(やすしげ)
松平家忠×3
深溝松平、形原松平、東条松平
0458人間七七四年
2014/10/04(土) 17:15:36.63ID:4MFqRPFY0460人間七七四年
2014/10/04(土) 17:50:55.40ID:ldOnwHp9相馬義胤は3人なのでこれも同じ。うち1人は鎌倉前期だし
0461人間七七四年
2014/10/04(土) 17:56:34.08ID:ldOnwHp9能登系 義続───義綱
二本松系 義継───義綱
畠山氏のサイトの人のところもちゃん親子の読みが同じってのを見てた。
0462人間七七四年
2014/10/04(土) 18:01:52.19ID:ldOnwHp90465人間七七四年
2014/10/04(土) 21:48:30.67ID:f60r///+諱のかぶりは、極論すれば知られていなければ問題にならないから
逆に官名まで含めた被りは支障をきたすね
特に朝廷から正式に官職名をもらう場合は氏姓と官職名まで含めた重複は許されないし、
江戸時代に入ってからは結構厳しかったらしい
0466人間七七四年
2014/10/05(日) 06:10:03.26ID:fA1T0Sss0467人間七七四年
2014/10/05(日) 22:12:20.15ID:qclDonCW河野氏
通直(通堯)┳通義━通久┳通直(教通)━通宣━通直━通宣━通直
┃ ┗(3代)━通直
┗(5代)━通宣
相馬氏
盛胤━顕胤━盛胤━義胤━利胤━義胤
0468人間七七四年
2014/10/05(日) 22:40:12.27ID:uyeY3UZO漫画のおぼっちゃまくん家の歴代当主の写真(茶魔とお父さんそっくりの顔が代わりばんこ)を思い出す
0470人間七七四年
2014/10/07(火) 20:04:24.61ID:ghlDxEaW緊急の申し入れがあった。それによると
「春日若宮両社の木が折れました。神木がこのようなことになるのは、昔から、
国家の大事、兵乱の兆しと伝えられています!」
しかし、これを聞いた家康は
「両社共に、創建以来、数多の星霜を重ねています、であれば、古木が折れないわけでもないでしょう。
特に怪異とすべきではありません。
その件に関しては、将軍家に申して、修植を願うと宜しいでしょう。」
そう両者に仰せ付けたという。
(天元実記)
0471人間七七四年
2014/10/07(火) 22:37:19.20ID:zLTmOulT0472人間七七四年
2014/10/07(火) 23:29:39.84ID:asngUhsT郡山城の合戦も終わりに近づく天文10年1月13日、毛利勢3千が宮崎に陣取る尼子勢に攻撃を開始した。
宮崎に陣取った尼子勢第一陣の高尾豊前守率いる2千の兵は散々に矢を射たが、毛利勢はひるむことなく柵を押し破り、
高尾率いる2千の兵はとうとう打ち負けて左右の谷へ引いていった。
第二陣に控える黒正甚兵衛の兵1500は弓を射て、敵のうろたえた所を襲いかかろうと待ち構えていたものの、大内の3大将の率いる
兵2万余が毛利との約束どおり吉田の城近くへ打って出た。
これで毛利勢が勢いづいた為、黒正率いる二陣はよく持ちこたえたものの切り崩され、続く味方も皆逃げてしまい、
黒正甚兵衛も逃げるに逃げれぬ状況と相成った。そこで黒正甚兵衛は鹿の角の冑の立物と笠印を抜いて捨て、正体を隠し、
味方の首一つ引っさげて毛利勢の中へ紛れ込み、元就の実検に備えた。
元就は旗本勢も備えを崩してかかって行っており、わずか14,5騎で控えていたが、黒正が持ってきた首を見ると
「一段と見事な首じゃ」と、声をかけた。
元就の実検を受けた後、黒正は首をその場に捨てると陶の陣へ紛れ込み、そのまま姿を消した。
その後、毛利勢は長時間戦い続けた疲労と空腹のために第三陣の吉川興経の陣を崩すことはできず、その日の戦は終いとなる。
さて、先の黒正甚兵衛はそのまま大内勢に紛れ込むと翌朝の大内勢の尼子本陣攻めにもついて来ていたが、乱戦のさなか尼子勢の
川副美作守と名乗って戦う者を見つけると走り寄って相手の槍を打ち払い、勢に加わろうとした。
川副が敵だと思って黒正の頬当て目掛けて突きかかると、「黒正じゃ、目を開けてよう見よ」と言うので、川副も槍を引き、
黒正はそのまま走り入り、味方と一つになって、危ういところで命を助かった。そののち、黒正は
「当家に人も多い中で、川副以外に目を開けて敵味方を早う見分けるものもあるまいと存じ、美作守に巡り合うまでと、折を待って
いたが、かねて思うていたとおり、川副に会うて命が助かったことだ」
と後日語ったということである。
(陰徳太平記)
0473人間七七四年
2014/10/08(水) 13:56:53.64ID:7uNGXIsp0475人間七七四年
2014/10/08(水) 16:53:58.74ID:LjN7ttzh一条教房の長男であり、一条兼良の孫にあたる。
さて、応仁の乱が起きてしまうと単独で後醍醐天皇のゆかりの宿でもあった摂津福原の福厳寺に隠れた。
この時父・教房は奈良に避難していたが、祖父・兼良が奈良に避難すると土佐へと下向した。
応仁の乱の勃発により家族バラバラとなってしまった。
1469年10月17日、東軍方の山名是豊・宇野政秀らが福原に乱入した。
その時の服装は御装束のまま直衣狩衣の優美な御姿であったといい、東軍の兵は政房を敵と思ったのか長槍を持った兵に心臓を一刺しされ、少しも抵抗せず「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて死んでしまった。
兼良をはじめとした人々は政房の死を嘆いたという。
弟・房家が誕生するのはこれより6年後のことであった……。
応仁記を基にわかりやすく付け加えたり脚色したり
というか政房も父と一緒に奈良に避難して土佐に下向すればまた歴史は違ってただろうに。
0476人間七七四年
2014/10/08(水) 17:53:14.08ID:TCLUMhjd0477人間七七四年
2014/10/08(水) 19:54:17.73ID:GJvp27M/陰徳太平記には載ってなかったけど、後にこの黒正甚兵衛という武将が第一次月山冨田城戦で
大内勢の敗因となった、吉川、三刀屋、三沢の寝返りに関わったとwiki先生が言ってた。
0478人間七七四年
2014/10/08(水) 20:21:37.77ID:GJvp27M/陶隆房が主君、大内義隆を弑した後に陶晴賢と名乗り毛利元就と瀬戸内海の宮島で決戦を行った時のこと、
元就は自軍の兵同士が相打ちせぬよう、合言葉を考えていた…
そして元就が宮島に船で上陸した際、部下に
「ここはなんという所か?」
と、問うと
「浦は包ヶ浦、尾根は博奕尾と申します。」
と答えがあった。
「鼓も打つ物、ばくちも打つ物、いよいよ敵に勝つ時が来た!」
と喜び、毛利側の合言葉は「打」、「勝」と決めたと言う。
なお、この合言葉は他にも「勝つか?」、「勝ち勝ち!(勝つ勝つ)」で有ったとも言われ、今では広島に以下の様な形で伝わっている。
♪ ∧_∧ ♪
( )¶ ♪
¶<Т |> 宮島さんの神主が
⊂/ Σ | おみくじ引いて申すには
 ̄ し ♪
♪
♪
∧ ∧ ♪
( ゚Д゚) ¶ 今日もカープは
¶< ‖y‖つ 勝ーち 勝ーち 勝っち勝ち
Σ0. || ♪
∪ ♪
♪
(民名書房 刊 サインはV)
0479人間七七四年
2014/10/08(水) 20:23:27.30ID:hpOE/5R00480人間七七四年
2014/10/08(水) 20:29:06.49ID:ZxtYeTEf0481人間七七四年
2014/10/08(水) 20:49:14.58ID:PoEsg75V0482人間七七四年
2014/10/08(水) 20:55:58.80ID:GJvp27M/菊池寛の書いた厳島合戦とか地元に伝わるお話ね
ちなみに陰徳太平記では元就が宮島上陸後に兵を率いて山に登った時にここはどこか?と尋ねたら兵から「博奕尾です」
と、返答を受け
「敵陣にかかる門出に博奕尾へ登るとは、敵に打ち勝つ前触れじゃ。源義経は勝浦に着いて平家に勝ち、それがしは博奕尾に登って敵に勝つ!」
と、兵を鼓舞したと記されており、
合言葉に関しては「誰か?」と問われたら「勝つ」としていて、
陶方は「月」、「よし」だったそうな。
0483人間七七四年
2014/10/08(水) 20:58:46.35ID:Von/PAtyよし
ヒロキ
・・・すまん
0484人間七七四年
2014/10/08(水) 21:02:14.24ID:GJvp27M/彡⌒ ミ
(´・ω・`)・・・・・
0485人間七七四年
2014/10/08(水) 21:03:26.23ID:LjN7ttzh「今日のホームラン」という動画見てたから何とかわかったけどさあ…
0486人間七七四年
2014/10/08(水) 21:57:21.97ID:ZZydB7uU0487人間七七四年
2014/10/09(木) 07:14:36.88ID:1SOl0GHW0489人間七七四年
2014/10/09(木) 08:22:08.93ID:LX+s7qK80490人間七七四年
2014/10/09(木) 10:53:06.29ID:a0GWm6lw0491人間七七四年
2014/10/09(木) 11:59:46.86ID:0xhtJtiD//}:::::::::ド \___ ヽ_____/ .メ:::|r',:!
.∨',::::',ヾ`ヾ=ヽ`ヽ r''イヺフ メ:::}ソ/
ヘ ヾト ゝ`゙‐'゙ . } `ー ' //}/
_ `ヾ', ./ト,_
|`ヾヽ,_|∨|/`ヾ`ヘ ,__ ./∧ `ヾ へへっ
__/- ` ヾ', ヘ `ヽ'~ //{ |i
ト, ヽ ヽ',\ ー __ -‐' /|ヽ ` 痛ぇ目には、会いたくねえだろ?
ゝ ヾ _____| \ ‐--- ./ ∧ゝ
___ゝ ヽ | .} ', \__, .イ .{
`ヽ ./ / /.i .', / |ヽ,_
`ヽ / / ./} / .', ./ .',:::::::`丶、
! ―く{~ヽ `ヽ /_,イ ゙ ', / ',`ヽ:::::::::`
ゝ--‐‐',`ー- ,/`ー―- ,__,,,, .} { .',::::::`ゝ::::
.,ゝ .∧∧ \`メ',rメヽゝ ._, <::::::/ ̄ }
.////!i ∨|/`ヽ fフ ̄ヾ ̄ ̄/:::::::/r‐ 'フ //
/// , ' メ}くヽ,__メ, \....::::::::::://ゝ}i___/}―
0492人間七七四年
2014/10/09(木) 13:26:47.03ID:olL1Hgd0パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
叩かせるために書き込むな貼るなID変えるな誤字とか訂正とかするな
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話貼って書き込んでID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
容赦なく反論する>>492に草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿
0493人間七七四年
2014/10/09(木) 13:27:35.85ID:olL1Hgd0パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
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名誉ある憤死だろ
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根源見ねぇよ
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てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話貼って書き込んでID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
容赦なくてめぇらとか臆病者とかに
反論とかする>>492とか>>493とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿
とか言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
0494人間七七四年
2014/10/09(木) 13:28:46.46ID:olL1Hgd0>>436>>437とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
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名誉ある憤死だろ
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ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
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0495人間七七四年
2014/10/09(木) 13:32:01.85ID:olL1Hgd0>>436>>437とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
悪い話とかではないし
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなID変えるな誤字とか訂正とかするな
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とか悪い話とか扱いとかして悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
0496人間七七四年
2014/10/09(木) 13:33:03.69ID:KR4zJa2B0497人間七七四年
2014/10/09(木) 13:36:19.88ID:olL1Hgd0>>436>>437とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
悪い話とかではないし
ちょっと悪い話とか扱いとかにしてんじゃねぇよ。
叩かせるためにちょっと悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなID変えるな誤字とか訂正とかするな無駄に敬語とか丁寧な言葉遣いとか気安くしとかてんじゃねぇよ。使ってとかしてんじゃねぇよ。
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とかちょっと悪い話とか扱いとかしてちょっと悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とかに>>496とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか
無駄にてめぇらの使う丁寧な言葉遣いとか砕けた言葉遣いとか気安くしてとかして気安く使ってとかした
言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0498人間七七四年
2014/10/09(木) 13:41:35.54ID:olL1Hgd0IDとか変えて自演とかしまくってる
>>436>>437とか>>
ID変えて訂正とかした438とか>>
439とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
ちょっと悪い話とかではないし
ちょっと悪い話扱いとかしてんじゃねぇよ。
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなIDとか変えるな誤字とか訂正とかするな敬語とか丁寧な言葉遣いとか気安くしてとかしてんじゃねぇよ。気安く使ってとかしてんじゃねぇよ。
IDとか変えてんじゃねぇよ。自演とかしてんじゃねぇよ。>>とかアンカーとか付けてんじゃねぇよ。やり取りとかしてんじゃねぇよ。
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とかゲンダイとかのちょっと悪い話とかゲンダイとかの凄い悪い話とか扱いとかしてゲンダイとかのちょっと悪い話スレとかにゲンダイとかの凄い悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とに>>496とか>>そのてめぇらとかに反論とかした人とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか
無駄にてめぇらとか使う
丁寧な言葉遣いとか
砕けた言葉遣いとか気安くしてとかして気安く使ってとかして
ID変えて自演とかして>>アンカーとか付けてやり取りとかして
言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0499人間七七四年
2014/10/09(木) 13:49:03.89ID:olL1Hgd0IDとか変えて自演とかしまくってる
>>436>>437とか>>
ID変えて訂正とかした438とか>>
439とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
ちょっと悪い話とかではないし
ちょっと悪い話扱いとかしてんじゃねぇよ。
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなIDとか変えるな誤字とか訂正とかするな敬語とか丁寧な言葉遣いとか気安くしてとかしてんじゃねぇよ。気安く使ってとかしてんじゃねぇよ。
IDとか変えてんじゃねぇよ。自演とかしてんじゃねぇよ。>>とかアンカーとか付けてんじゃねぇよ。やり取りとかしてんじゃねぇよ。
編集する側とかがバレないようにとかしてんじゃねぇよ。隠してんじゃねぇよ。書き込んだりとかしてんじゃねぇよ。
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とかゲンダイとかのちょっと悪い話とかゲンダイとかの凄い悪い話とか扱いとかしてゲンダイとかのちょっと悪い話スレとかにゲンダイとかの凄い悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とに>>496とか>>そのてめぇらとかに反論とかした人とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか
無駄にてめぇらとか使う
丁寧な言葉遣いとか
砕けた言葉遣いとか気安くしてとかして気安く使ってとかして
ID変えて自演とかして>>アンカーとか付けてやり取りとかして
編集とかする側とかがバレないようにとかして隠してとかして書き込んだりとかしてんじゃねぇよ。
言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0500人間七七四年
2014/10/09(木) 13:51:27.54ID:olL1Hgd0IDとか変えて自演とかしまくってる
>>436>>437とか>>
ID変えて訂正とかした438とか>>
439とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
ちょっと悪い話とかではないし
ちょっと悪い話扱いとかしてんじゃねぇよ。
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなIDとか変えるな誤字とか訂正とかするな敬語とか丁寧な言葉遣いとか気安くしてとかしてんじゃねぇよ。気安く使ってとかしてんじゃねぇよ。
IDとか変えてんじゃねぇよ。自演とかしてんじゃねぇよ。>>とかアンカーとか付けてんじゃねぇよ。やり取りとかしてんじゃねぇよ。
編集する側とかがバレないようにとかしてんじゃねぇよ。隠してんじゃねぇよ。書き込んだりとかしてんじゃねぇよ。卑怯なマネとかしてとかしてんじゃねぇよ。やめろと言われてもやめずとかにしてとかしてしてとかしてんじゃねぇよ。
卑怯だぞ。やめろ。
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とかゲンダイとかのちょっと悪い話とかゲンダイとかの凄い悪い話とか扱いとかしてゲンダイとかのちょっと悪い話スレとかにゲンダイとかの凄い悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とに>>496とか>>そのてめぇらとかに反論とかした人とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか
無駄にてめぇらとか使う
丁寧な言葉遣いとか
砕けた言葉遣いとか気安くしてとかして気安く使ってとかして
ID変えて自演とかして>>アンカーとか付けてやり取りとかして
編集とかする側とかがバレないようにとかして隠してとかして書き込んだりとかして卑怯なマネとかしてとかして言われてもやめずとかにしてとかしてとかして
言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0501人間七七四年
2014/10/09(木) 17:46:57.55ID:xif6SZ3d0502人間七七四年
2014/10/09(木) 17:53:02.32ID:3q/q1EOY0503人間七七四年
2014/10/09(木) 18:04:57.95ID:I6dJDj+9拗らせ堕ちる
2ちゃん脳
0504人間七七四年
2014/10/09(木) 18:35:06.57ID:olL1Hgd0IDとか変えて自演とかしまくってる
>>436>>437とか>>
ID変えて訂正とかした438とか>>
439とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
ちょっと悪い話とかではないし
ちょっと悪い話扱いとかしてんじゃねぇよ。
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなIDとか変えるな誤字とか訂正とかするな敬語とか丁寧な言葉遣いとか気安くしてとかしてんじゃねぇよ。気安く使ってとかしてんじゃねぇよ。強気なほざき方とかしてんじゃねぇよ。書き方とかしてんじゃねぇよ。
IDとか変えてんじゃねぇよ。自演とかしてんじゃねぇよ。>>とかアンカーとか付けてんじゃねぇよ。やり取りとかしてんじゃねぇよ。
編集する側とかがバレないようにとかしてんじゃねぇよ。隠してんじゃねぇよ。書き込んだりとかしてんじゃねぇよ。やめろとか言われてもやめずとかにしてしてとかしてんじゃねぇよ。
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後腰抜け臆病者バカアカバカサヨとかのとかとかの反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とかゲンダイとかのちょっと悪い話とかゲンダイとかの凄い悪い話とか扱いとかしてゲンダイとかのちょっと悪い話スレとかにゲンダイとかの凄い悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とに>>496とか>>そのてめぇらとかに反論とかした人とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに対して
だよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwとか
ですよねーwとか
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか
無駄にてめぇらとか使う
丁寧な言葉遣いとか
砕けた言葉遣いとか気安くしてとかして気安く使ってとかして
ID変えて自演とかして>>アンカーとか付けてやり取りとかして
編集とかする側とかがバレないようにとかして隠してとかして書き込んだりとかしてんじゃねぇよ。やめろとか言われてもやめずとかにして
強気な言い方とかにして書き方とかにして
言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0505人間七七四年
2014/10/09(木) 18:58:19.03ID:bzLAHa7Hその部屋には誰も入ることを許さず、それ故に光広卿の座る場所以外は埃が積もっていたそうである。
この烏丸光広卿が或る年江戸に下向し、3年ほど江戸に滞在したことがあった。
京都の邸宅の留守居に置かれた雑掌の某という者は、この様に考えた
「光広卿は長い間、江戸の広い所に慣れて、この狭い所に帰ってくれば定めて窮屈に思われるだろう。」
そこで先ず土倉の中の物を皆取り出して家人たちに分配し、土倉を打ち壊して庭園を広くして
卿の帰りを待った。
光広卿が帰ると、いつもの様に居間に座り庭園を眺めたが、何も言わなかった。
雑掌は「お留守の間に私が、庭園を広くいたしました。」と申し上げた。
光広卿は「至極眺めが良くなった。ところで土倉はどうしたのか?」
「はい、土倉は打ち壊しました。」
「土倉の中の物はどうした?」
「中の物は家人に全て分配いたしました。」
「ふむ…。汝は何を取ったか?」
「私は何も取っておりません。」
光広卿は頷いて
「よき哉」
そう一言だけ言ったそうである。
この主従は共に博学の人で、かつ禅学を好み頗る悟道に入った人たちであったという。
(明良洪範)
悪い話というか変な話というか
0506人間七七四年
2014/10/09(木) 19:44:22.62ID:m0ZnlYZL___|二ニー-、、;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|;::;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
/rヽ三三三三三─‐-- 、;:;:;:;:;:;:;:|;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;l
',i ,-三三三三三、 _,.ニ、ー-、!;: -‐二 ̄彡′
',、、ヾ三三'" ̄ ̄ `ー‐" ヾ-'" .〉′
ヽ ヽヾ三,' :::..,. -‐- 、 _,,..-‐、、,'
`ー',ミミ ::.弋ラ''ー、 i'"ィ'之フ l
/:l lミミ ::::.. 二フ´ l ヽ、.ノ ,'
,.-‐フ:::::| |,ミ l /
/r‐'":::::::::| |ヾ /__. l /
_,. -‐"i .|::::::::::::::::::',.',. \ ⌒ヽ、,ノ /ヽ,_
" l ヽ:::::::::::::::::ヽヽ. \ _,_,.、〃 /l | ___,. -、
',\\:::::::::::::::ヽ\ \ 、. ̄⌒" ̄/:::::| | ( ヽ-ゝ _i,.>-t--、
\\\;::::::::::::\\ `、.__  ̄´ ̄/::::::::::l | `''''フく _,. -ゝ┴-r-、
ヽ \`ー-、::::::ヽ ヽ  ̄フフ::::::::::::::ノ ./ ,.-''"´ / ̄,./´ ゝ_'ヲ
`ー-二'‐┴┴、__/‐'‐´二ー'".ノ / _,. く / ゝ_/ ̄|
 ̄`ー─--─‐''" ̄ / にニ'/,.、-t‐┴―'''''ヽ
/ / .(_ヽ-'__,.⊥--t-⊥,,_
/ / /  ̄ ) ノ__'-ノ
/ / ゝニ--‐、‐ |
/ /‐<_ ヽ |ヽ
0507人間七七四年
2014/10/09(木) 21:29:54.88ID:PYIQj9n3http://www.ss-alpha.co.jp/products/sengokuhime5/char/117.html?iframe=true&width=710&height=560
DQN四天王のうち政宗しかエロゲーに登場してないし。
0508人間七七四年
2014/10/09(木) 21:33:46.64ID:l5IACc+V烏丸が女役って
0509人間七七四年
2014/10/10(金) 08:56:44.89ID:6dJVohiv0510人間七七四年
2014/10/10(金) 09:58:59.78ID:KzXCM98Bもしくはオランダ妻は電気うなぎの夢なんたらの流れに持っていくとか
0511人間七七四年
2014/10/10(金) 10:22:53.61ID:cxOpSIEH0512人間七七四年
2014/10/10(金) 11:03:25.03ID:HogXw4s9,彡ニ三三三三三三三ニ=ヾ;:;:;:;:;:;;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:i;:;:;:i'
,彡ニ三三三三ニ三三ニニ;〃ヾ、;:;:;:;:;:;::;:;::;:::;:/;:;:/
,彡彡,'',ニ=ミミミ三三三三ニニ彡 `゙゙''ー-、;:;:;:;/;:;/
',彡'/ r' ノヽヾミ三三三三三彡' _,,,,,,、ヽ;:;ィ''|
彡'|.|(‐'''" 'iミニニ三彡"´ ̄ `゙゙ー' ;;;:| _,,,,._ 、-r r--, 、-r
. 彡i、ヾ (' ヾミニ三' __,,、 ....ノ / .,','" ̄',〈... _,,,_ _,,,_ _,,,,,| | ~`l | _,,,_ | |,,,,,_
彡ゝ `'' " |ミミミ' ‐'"ひi,;'´ ,ィ;;ァ' { { ,___ ,'r⌒!゙! ,'r⌒!゙! ,.'r⌒| l .| | ,'r⌒!゙! ..| |⌒','i
'彳`ー‐i |ミミミ' `゙ーシ' |、ニ' .ゝヽ、 ~]| ,i i i l i l i i .i i .i .i .| | i i i l .| i .i |
--、/ i |ミミ .,,r‐''" | ノ `ー-‐'" ゞ_,.'ノ ゞ_,.'ノ ゞ__,.',、'ュ .l l ゞ_,.'ノ.. .L、-_,'ノ
く'ノ :i ミミ ´ ., ' |' (~'-'ノ
、\ .l ヾ .ノ(_,,、. | `~~
:\ヽ, ヽ / `t‐一' __
::::ヽ ヽ `::. ,; ' .:i 〈 ヽ
:::::::ヘ ヽ `::. ''"⌒゙''一ノ | }
::::::::::ヘ.ヽ ヽ、 ` ー'ーノ !>'⌒ヽ、
::::::::::::::ヽヘ `ー┬‐一;;''""´ /ヽ、 , )
\、:::::::::ヽヽ /::ヘ ) `゙'ー、_ /:::::::::Τ  ̄ `l
〃`゙ー、;;;;\\ /i:::::::丿 ' , ' , '`゙ヽ、 /:::::::::::┼‐- -ノ
0513人間七七四年
2014/10/10(金) 19:18:06.51ID:HMIm6fzG>>436>>437とか>>469とか
パーカじゃねぇよ馬鹿はてめぇらだろ死ねカス^^バーカ
悪い話とかではないし
叩かせるために悪い話スレとかに書き込むな貼るな投稿するなID変えるな誤字とか訂正とかするな
名誉ある憤死だろ
精神主義でもない日本だけに限らない
根源見ねぇよ
悪しき戦後の反精神主義の根源を見た気がする
無能でもない無能とかてめぇら突撃素晴らしい
てめぇら臆病者なの事実だろ
容赦なくではない的外れな腰抜けオナニー草生えない
悪い話とかてめぇらとか臆病者とかがしてることとかだろ。言動行動とかだろ。
てめぇらとか臆病者とか死ねカス^^
てめぇらとか叩かせるためにてめぇらの話とか悪い話とか扱いとかして悪い話スレとかに貼って書き込んで投稿とかしてID変えて誤字とか訂正とかするのはいい
てめぇらとか臆病者とかに容赦なく反論する>>492とか>>493とか>>494とか>>495とかに草
ですよねーwじゃねぇよ
だからてめぇらは逃げてばかりの腰抜けなんだよに
ですよねーwとなる
臆病者が突撃否定して突撃しようとすると嫉妬して無謀とほざく腰抜け馬鹿とか言って書いてしてやっていい。だな。だろ。その通りだな。
てめぇら図に乗るんじゃねぇよ捏造偏向歪曲するんじゃねぇよ生きてる価値ねぇからさっさと死ねカス^^
ねぇねぇてめぇら何で生きてるの〜^^生きてて恥ずかしくないの〜^^死んでも誰も悲しまねぇからよ〜^^さっさと死ねよ〜^^さっさと死ねカス^^
0514人間七七四年
2014/10/10(金) 21:42:23.88ID:X3bc2F8q0515人間七七四年
2014/10/10(金) 22:27:03.93ID:s7oJc1BH「奉公人が大小、上下に限らず付き合って悪しき者はあるでしょうか?願わくば
修理亮の意見を聞いて、私が召し使う者達の後学としたいのです。」
これに対し内藤修理亮は
「先ず二人の者達があります。それはいさかい好きの坊主と、同じくいさかいの好きな座頭です。
どう言う意味かといえば、男子たるもの、寄り合ってその場のはずみで雑言などあれば、殴り、殴られ、
斬り合う。その時死んだほうを負けと申します。然らば、人の口論と殴り合いは、坊主も座頭も雑人も侍も、
力次第、口次第、あるいは贔屓次第で勝負があります。成敗は何れの形であっても甲乙の無いものであり、
最期にはぶった斬る以外の方法はありません。(後はぶつきるより外の儀はなし)
しかし坊主、座頭達はこれに負けたとしても恥になりません。
男子たるもの、雑言の上で少し義理が違っても恥でありますから、ここを以って斬るに極まるのは
武士の技と申し定まっています。
斬って理を得るのはその人の普段のたしなみ、又は冥加です。そうして、その時の有り様で勝負に勝って、
それによってその人が世間から褒められる事は武士の行儀というものです。
ですが、坊主、座頭を斬ってしまうのは恥だとされています。
でありますから、いたずら坊主、座頭に付き合わないのが秘訣なのです。」
そう言って、さらに修理亮
「それにしても典厩様は、さすが信玄公の甥子であり、しかも故典厩信繁様の書かれた法に嗜みがありますから
このようなご詮索までなされるのでしょう。」
と、信豊を大変に褒めたという。
(甲陽軍鑑)
坊主座頭とケンカして斬り合いしても、勝っても負けても恥なんだからそもそもそういうことが起こらないよう
付き合うな、という内藤修理の忠告である。
しかし口論が即斬り合い殺し合いになると断定しているのが、いかにもこの時代の武士ですね。
0516人間七七四年
2014/10/10(金) 22:35:59.66ID:PzTpVacq0517人間七七四年
2014/10/10(金) 22:50:33.96ID:ajTUXYlz0518人間七七四年
2014/10/11(土) 05:24:34.05ID:cKluqkxT戦国時代末期の当主に東根頼景という人がいた。
彼は天童頼貞の子であり、東根頼息という人の養子になった。
頼景は兄・天童頼澄らと共に長年に渡り最上義光と争った。
しかし、1584年に義光が延沢満延を懐柔したことで『最上八楯』(天童八楯とも)と呼ばれる国人連合は足並みを崩し始めた。
それでも頼景は兄と共に義光と戦った。
ここで義光は一計を案じ、頼景の重臣・里見源右衛門に「裏切って最上の味方になるなら東根の領土安堵するから」と言うと、源右衛門はあっさりと裏切り、頼景はそのために殺されてしまった。
まもなく頼澄も逃亡し、最上八楯はあっさりと瓦解してしまった。
実はこの源右衛門、東根頼息の子であり別名を東根景佐という。(別人説あり)
のちの最上改易の予言をしてた人物である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1325.html
※なお、wikiでは頼景の謀殺を1581年、里見源右衛門の内応を1584年とごっちゃになってます。
『最上・天童・東根氏系譜』の一説を採ったのが原因かも。
0519人間七七四年
2014/10/11(土) 07:19:30.70ID:Ie0URXO+0520人間七七四年
2014/10/11(土) 20:01:48.98ID:sFkWLxP10523人間七七四年
2014/10/12(日) 14:25:31.14ID:qvvYM4+00524人間七七四年
2014/10/13(月) 19:29:03.19ID:PNmC/KAZ山本勘助という大剛のつわものは、武道の手柄ばかりではなく、兵法の上手であり、
ある時、信州諏訪においてこの南部殿の家臣、石井藤三郎という者を南部殿が成敗しようとして失敗し、
石井は斬り合いをしながら逃亡した。
その頃、山本勘助はたまたまその近所の家に滞在していたのだが、その座敷に石井が刀を抜いたまま
入り込んできた。これに勘助は刀を取らず、そばにあった棒を取るとこれに向かい合い、石井が
斬りかかってきたのを受けて組ころばし、縄をかけて南部殿へと引き渡した。
この時、勘助は3ヶ所ほど少しばかり負傷した。それは負傷というほどのものではなく、30日ほどで
疵も消えたほど軽いものだった。そもそもこの山本勘助は戦場での武辺の時も、罪人を放し討ちする時も
数度にわたって少しずつ負傷し、86ヶ所の疵があった。
ところがこの時勘助が負傷したのを、南部殿は悪しざまに言い立てた。
この南部下野殿は武田家において甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飯富兵部少輔の四人の衆に
続く人で、少しは武辺の覚えがあるのだが、心変わりしやすく常に無穿鑿なことばかり言い、
遠慮もなく明け暮れに過言を言い、嘘をついた。無分別な人でこの山本勘助を憎み、
国郡を持たぬのに城取り、陣取りを行う実力の持ち主で、また外科医者も深い傷ではないというのに
「兵法使いのくせに手を負うとは!」
などと言って、山本勘助に尽く悪口を言っていた。
この事を目付衆、横目衆が信玄に報告し、長坂長閑、石黒豊後、五味新右衛門を使いとして
書面を以って南部下野殿に仰せ付けた。
その内容は、山本勘助という大剛のつわものへの悪口の事を穿鑿するものであった。
『一、山本勘助が小身者であるから彼の城取り、陣取りのやり方も正しいものではない、と言っていた
件であるが、これは物を知らい言い様である。昔唐国は周の文王が崇敬していた太公望は
大身ではなかったではないか。
一、兵法使いのくせに手を負ったなどと申すのは、一層武士道不案内である。兵法とは
負傷しないということではない。負傷しても相手を仕留めるのが本物の兵法である。
殊更、その方の被官である石井藤三郎が白刃を構えていた所に棒で立ち向かい組み倒したというのは
勘助がたとえそこで死んだとしても、その屍の上にまで誉れがあるというのに、嫉むとは
無穿鑿なる事である。
一、其方南部は、手柄が実は家中の者である笠井と春日両人が仕ったものであるのに、自分の手柄のように
申していたと聞き及んでいる。
この三ヶ条の罪を以って成敗してしまおうと考えたが、それでは山本勘助も定めて迷惑に思うであろうから、
ここは勘助に免じて命を助けるので、遠き国へと参れ。』
そう命ぜられ改易となった。彼は奥州会津へと行き、飢え死には免れた。
彼のもとにあった70騎の足軽、旗本、その他は家中の者達に分け与えられた。
ちなみに春日左衛門、笠井備後はこの南部下野殿の二人の家老の子である。
(甲陽軍鑑)
南部下野の改易についてのお話
0525人間七七四年
2014/10/14(火) 09:35:05.78ID:2o0XIMaR0526人間七七四年
2014/10/14(火) 10:12:32.28ID:9b0wE0oR0527人間七七四年
2014/10/14(火) 10:53:55.92ID:XnD+a83e0528人間七七四年
2014/10/14(火) 11:39:41.01ID:eXxXvJuk0529人間七七四年
2014/10/14(火) 21:00:58.05ID:qBeoyuNj「織田信長は今や天下を意見するほどの人です。ところが聞き及ぶ限りでは、彼の軍法で
人の手本に出来るほどのものはひとつも有りません。これはどういう事でしょうか?」
馬場美濃はこれに答えた
「信長の敵は、美濃衆に7年ほど手間取ったばかりで、残りは皆信長に怯えた人々ばかりでした。
なので軍法も必要としなかったのです。
それに信玄公は上杉輝虎との間で、おおかた世間にあるほどの手立て、はかりごとは行いましたので、
他国の弓矢の事は御当家において、さほど面白く感じないのです。
織田信長は今年38歳。天下も三好殿を押しのけ、都のことで本当に自分の意見を通せるようになったのは
去年7月からのことです。
軍法というものは大敵、強敵に逢っての手立てですから、信長は国を隔てているため、信玄輝虎とは
終に武辺の参会が無く、なかんずく只今は信長の嫡子城之介殿(信忠)を信玄公の御聟にとある
縁辺であります。であるに付き信長が手立てを考えねばならない敵はさほども有りません。
12年以前の今川義元との合戦の時、信長は27歳で無類の手柄を立てました。そのころ信長は小身であり
若かったので、大敵には様々なはかりごとを使って勝利を得ました。
はかりごと・手立ての軍法がない弓矢は、例えば下手が集まって行う能を見物するようなものです。
失敗するんじゃないかと思い、見ながら危なく思います。
信長の弓矢は、美濃国と7年の間取り合いをして武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上殿(義清)との取り合いで武功の分別を定められました。
村上殿は信州の内四郡、越後一郡の、合わせて五郡の領主でしたが、広い国であるため
彼の支配地は甲斐一国の一倍半ほどもあり、その上強敵でした。
現在我々と対立している徳川家康は、今の日本国において北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の
四大将に続く存在で、名のある大将十三人を選べば、おおかた家康はその一人に入るでしょう。
我々は今年か来年の間には、その家康と必ず一戦せねばなりません。
でありますから、織田信長も後のことを考え、今でこそ当家と縁辺の無事を保っていますが、
家康に信長が加勢すれば、我らは両家を相手にしなければならなくなります。
信玄公が合戦を遂げられ、京都までその誉れを輝かせるためにも、ここでは猶以って軍法が必要となります。」
そう申し聞かせたのである。
(甲陽軍鑑)
0530人間七七四年
2014/10/14(火) 23:20:39.73ID:STxrEvR+0531人間七七四年
2014/10/14(火) 23:44:56.00ID:JSs9/Sli0532人間七七四年
2014/10/15(水) 13:31:16.94ID:oZTDHgfD0533人間七七四年
2014/10/15(水) 19:56:39.79ID:CPu1bagB0534人間七七四年
2014/10/15(水) 20:09:02.98ID:HlrvnMwo0535529
2014/10/15(水) 23:28:37.49ID:1wI6gn4V0537人間七七四年
2014/10/16(木) 00:44:54.78ID:1YzBvw9Q0538人間七七四年
2014/10/16(木) 00:47:46.54ID:HH4ukYB70539人間七七四年
2014/10/16(木) 00:54:08.57ID:HH4ukYB70540人間七七四年
2014/10/16(木) 00:55:45.75ID:1YzBvw9Qお詫びして巣に帰ります
0541人間七七四年
2014/10/16(木) 02:14:59.36ID:aGaYwUGG0544人間七七四年
2014/10/17(金) 01:32:48.85ID:xGKd6YAm3万石となったが故あって改易され牢人となり、伊勢国山田に住んだ。
彼が牢人となった理由は、比丘尼祭の資金を横領したことで所領が召し上げられたのである。
その頃、本多上野介正純の家来・寺田勘兵衛という者が牢人となって伊勢に在ったが、これが
ある時、福島掃部介の息子二人と口論の挙句斬り合いとなり、兄弟共に斬り殺したが、寺田自身も
多くの傷を負ったため逃げ去ることが出来ず、所の者達に取り押さえられ奉行所に差し出された。
当時そのあたりを奉行していたのは花房志摩守であったが、彼は福島正則と縁があったので
快からず思い、寺田に切腹させてこの件を落着させた。
後年、福島の後裔として召しだされた福島助六とは、この時殺された兄弟の内、兄の孫であったそうである。
(明良洪範)
福島正則の弟についての逸話である。
0545人間七七四年
2014/10/17(金) 12:32:59.21ID:FV9650aP0546人間七七四年
2014/10/17(金) 19:20:43.94ID:xGKd6YAm占卜に妙を得た法師があって、その事を言い始めたそうだ。
その内容は、淀殿が大野修理と密通して秀頼を産んだとされる。
それは秀吉の死後、淀殿は荒淫となり、また大野修理も邪智淫乱、かつ容貌も美しかったためであったという。
また名古屋山三郎が美男であったため、淀殿は彼に思いを懸け、不義のことがあったともいう。
大阪が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正から起こったことなのである。
(明良洪範)
0547人間七七四年
2014/10/18(土) 07:25:14.16ID:l4SPivIBみたいなネタだよなこういうのってw
0548人間七七四年
2014/10/18(土) 09:54:56.41ID:CwKUNg210549人間七七四年
2014/10/18(土) 10:29:09.74ID:xEZK3GkH0550人間七七四年
2014/10/18(土) 14:26:02.95ID:ptRl+AVr0551人間七七四年
2014/10/18(土) 14:36:12.26ID:2Og4xpmO0552人間七七四年
2014/10/18(土) 14:54:43.01ID:X8Hzw79Jその原型になった話が前に投稿されてた
0553人間七七四年
2014/10/18(土) 15:02:13.98ID:S70b+u1J言いたいことがあるならハッキリ言え。
0554人間七七四年
2014/10/18(土) 15:42:27.25ID:BJFgzsF10558人間七七四年
2014/10/18(土) 18:59:03.23ID:5L8VGV04信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。
この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。
ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。
我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。
四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。
この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。
これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。
(甲陽軍鑑)
信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。
0559人間七七四年
2014/10/18(土) 20:45:32.03ID:lVg2/OKe父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう
0560人間七七四年
2014/10/19(日) 03:07:23.14ID:Tv8WWEMi0561人間七七四年
2014/10/19(日) 08:52:48.57ID:TjrpS9Oh0562人間七七四年
2014/10/19(日) 12:26:39.53ID:LkyVGlJC0563人間七七四年
2014/10/19(日) 14:17:13.78ID:+R+trJScこの身体障害者はよぉ
0564人間七七四年
2014/10/19(日) 15:00:35.36ID:T4GP7fBX0566人間七七四年
2014/10/19(日) 16:31:13.46ID:TUmAzWEe0567人間七七四年
2014/10/19(日) 17:24:33.51ID:9gmNVTqM0570人間七七四年
2014/10/19(日) 19:33:27.63ID:n28V92Fx0571人間七七四年
2014/10/20(月) 06:57:01.37ID:C5OS1VUkなにやら因縁の相手のようでもあるし
0572人間七七四年
2014/10/20(月) 08:33:47.23ID:shtvWMk40573人間七七四年
2014/10/20(月) 11:45:40.27ID:C4z220n40574人間七七四年
2014/10/20(月) 13:53:00.39ID:4NdVGJPQ相手のことに詳しい物が物見をするっていうことなのかもしれないが
個人的感情からそこに残ってたんじゃないかと思って
0575人間七七四年
2014/10/20(月) 20:08:14.63ID:kfPo7VuVここにあった四大将、十三大将の詳しい内容があったので。
当代日本の四大将は、御歳が上の方から先に記す
一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公は、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死であった。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公は、53歳にて天正元年4月12日に他界。病死であった。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公は、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死であった。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生している。
右に続く大将衆大小、老若共に名高き武士は
一、丹波・赤井悪右衛門(赤井直正)
一、四国土佐・長宗我部(元親)
一、同伊予・来島(村上通康)
一、安芸毛利家・吉川(元春)
一、越前・朝倉叔父金吾(朝倉宗滴)
一、安芸・小早川(隆景)
一、江州北ノ郡・浅井備前(長政)
一、三好家・松永弾正(久秀)
一、徳川家康
一、安房里見家・柾木大膳
一、上杉家・大田三楽
一、会津・(蘆名)盛氏
一、上総・万喜少弼(土岐為頼)
合わせて13人。この他、さきの四大将の下に形の如き武士はあれども、主を持っている以上大将とは言わない。
ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。
(甲陽軍鑑)
0576人間七七四年
2014/10/21(火) 03:50:22.56ID:5Z8fl2kS0577人間七七四年
2014/10/21(火) 06:47:01.10ID:hcgNTIxT0578人間七七四年
2014/10/21(火) 08:41:19.28ID:g4cr/wW10580人間七七四年
2014/10/21(火) 12:19:52.60ID:A8BRs30w来島通康は味方に付けたら海戦必ず勝つる、ってくらい地味に西国じゃ重要な制海番長だけど、
東国まで名が知られてたとはちょっと意外
0581人間七七四年
2014/10/21(火) 14:27:34.75ID:5Z8fl2kS0582人間七七四年
2014/10/21(火) 14:36:56.98ID:AreZlHCo村上通康は河野通直の婿で一族に列したし経歴的には妥当でしょ
0583人間七七四年
2014/10/21(火) 15:13:20.85ID:RmqB/YLm0584人間七七四年
2014/10/21(火) 15:22:23.01ID:K7knQcDAだがまあ如何せん来島の通康や能島の武吉らのネームバリューには伍し難い
0585人間七七四年
2014/10/22(水) 01:33:31.68ID:vWKROlyd0586人間七七四年
2014/10/22(水) 01:50:58.43ID:ArfTlqLq>>575に続く文章が
『右四大将よりも大身の衆は、日本国において中国には毛利殿、筑紫に大友殿、関東に上杉殿とあったが、
もはや生まれ変わって前代ほどの勢力はなく、よって現在は先の四人が大領の持ち主である。
そしてこの四大将に次の十三大将を合わせた十七人の大将衆を、この頃の扶桑国の名将として
その名を呼ぶ。』
とあるので、九州は大友氏が衰退したという認識はあったみたい。
0587人間七七四年
2014/10/22(水) 06:46:11.98ID:N9GXbLcM0588人間七七四年
2014/10/22(水) 07:13:37.01ID:Y3gINTJz>> ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。
TERU・・・。
0589人間七七四年
2014/10/22(水) 08:44:49.56ID:PoKFTnPg上杉憲政「…」
里見義堯「!?」
0590人間七七四年
2014/10/22(水) 12:16:39.85ID:r7lBZQqQ0591人間七七四年
2014/10/22(水) 21:22:04.39ID:ArfTlqLq母衣を従者に持てと言いつつ馬を飛ばせて行った。ところがその従者は主人に遅れたのみならず、
母衣を持ったまま途中で逃げ帰ってしまった。
合戦が終わり、先手の者達から「黄母衣の使番が一番乗りでした」と申してきたので、
福島正則は彼に感状を与えようとしたとき、外の使番の者がこのように言い出した。
「彼は一番乗りをしましたが、黄母衣は逃げ帰りました。この事は陣中の者達が皆見た事です。
すなわち彼は黄母衣の名誉を汚したのですから、今日よりこの国から追放すべきです。」
黄母衣の者は、従者に母衣を持たせたことを、越度であると同役の者にかれこれ言われ、
面目を失ったと陣中において切腹し、相果てた。
この話は、使番などを勤める士はよく心得ておくべきことである。
(明良洪範)
0593人間七七四年
2014/10/23(木) 21:57:59.36ID:AroD2P7X悔しかったんだねキタさん
0595人間七七四年
2014/10/23(木) 23:11:49.12ID:zcVWZ+6e「毛利家、と書いてないから独立してると扱っている、
だからTERUをディスってるわけじゃない」
と主張してるんだろう
安芸毛利家・吉川
と上に書いてるのに
0597人間七七四年
2014/10/24(金) 07:55:40.88ID:47bN88dc0598人間七七四年
2014/10/24(金) 13:46:15.44ID:WIDrWUR1これだから読解力のないバカわw
天下の仕置きができる小早川とただの脳筋の吉川が同列なわけなかろう
0599人間七七四年
2014/10/24(金) 13:55:57.19ID:/ZAD3oedという指摘のどこが同列うんぬんなんだろう
0600人間七七四年
2014/10/24(金) 14:10:37.86ID:t7aXjkXJ0601人間七七四年
2014/10/24(金) 14:25:02.13ID:/fOdDmRH0602人間七七四年
2014/10/24(金) 14:43:52.60ID:5wZ5IGEa0603人間七七四年
2014/10/24(金) 19:55:56.60ID:2dsbz9glちゃんと学校はでたのかい?
0604人間七七四年
2014/10/24(金) 21:05:53.01ID:MebWu6ht奥州の豪族・田村家についてなんだが、情報がほしい。
ちょっと前に新長寿キャラに香川光景と一条兼定の娘が登場したけども
田村義顕・顕頼兄弟、義顕の子の隆顕・顕盛兄弟も長寿なんだよな。
んでだ、田村月斎でおなじみの田村顕頼の逸話がほしいんだけど……
何か知らない人はいない?
いくらなんでも100歳超えての出陣とか聞いたことないしさ。
子が孫あたりに同じ月斎を名乗った人物がわかれば越したことはないんだけどさ……。
架空人物説まで出てるし。
0605人間七七四年
2014/10/24(金) 21:37:04.61ID:nGMwD1ehしかしこれが偽書ではないか、という説がある。
その根拠のひとつとして、秀吉・家康が崇敬した高僧である西笑承兌への書状としては、
あまりにぞんざいな文体ではないかという点があげられる。
たとえば冒頭「今朔之尊書、昨十三日下着、具拝見、多幸々々」
(今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
くだけた現代訳:今月一日のあなたの書状が昨日届いた。じっくり拝見、どうもどうも)
は、候すらない体言止め。途中から候を使うようになるが、かなりくだけた言い回しである。
これはやはり失礼ではないだろうか?
ここで同じ時期、慶長五年前後の兼続から主君である景勝への書状を見てみよう。
「御状被見」
「書状被見」
等々。どうも兼続は主君相手でも、体言止めを用いて尊大である。
(漢文に通じているためかもしれないが)
つまり結論から言うと、
「兼続は尊大なのが平常運転なので、ぞんざいな文体でも仕方ない」
のではなかろうか。
というわけで、「直江状」が嫌味たっぷりで一部高飛車な文体でもおかしくはないだろうという話である。
兼続がそんなに傲慢で尊大かどうかは、他の逸話等から皆さんでご判断いただきたいところだ。
0606人間七七四年
2014/10/25(土) 09:46:42.19ID:eqb7g8SL0607人間七七四年
2014/10/25(土) 11:55:03.41ID:SFwG4n+u残存してない原書においてはまともな文書だったんじゃないか、ってのが最近の真書説やね
0608人間七七四年
2014/10/25(土) 13:38:01.77ID:cN62lIFOコ川に刃向かう上杉と直江を無礼者の印象にしたかったのだろう
0609人間七七四年
2014/10/25(土) 14:11:50.19ID:SFwG4n+u0610人間七七四年
2014/10/25(土) 15:52:12.09ID:4nL1cEnI0611人間七七四年
2014/10/25(土) 17:18:53.62ID:5N6VoFH8個人の意見もカタにハメられるし
0612人間七七四年
2014/10/25(土) 18:01:02.06ID:qCndG40/2chでいうコピペ改変みたいなノリなのかしらん
0616人間七七四年
2014/10/25(土) 19:55:00.72ID:luQDqy+Gタメ口とか尊大な口調で訳されてるのも結構見るけど、
それも互いの立場とかを考慮した意訳なんだろうな
0617人間七七四年
2014/10/25(土) 21:37:02.60ID:CVS3oRCjネットのことを言ってるんだったらネットをソースにするのが間違い
0618人間七七四年
2014/10/25(土) 22:07:20.29ID:0b6E2Qj9細川重男「頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉」(洋泉社〈歴史新書y〉
p97
ところが、広常来陣を聞いた頼朝は、激怒。
「すこぶる彼の遅参を腹り、あえてもって許容の気なし」
(激しく広常の遅刻を怒り、全く許す様子が無かった)
意訳@
「遅ーーーい!絶ッ!対ッ!許さん!」
カンカンである。
意訳A
「今頃来たって遅いのよ!顔も見たくない!ベ、くつに広常のこと、待ってたわけじやないンだからね!」
ツンデレである。
0619人間七七四年
2014/10/25(土) 22:10:34.71ID:0b6E2Qj9「腹り」→「瞋り」
0620人間七七四年
2014/10/26(日) 00:34:21.48ID:6Qcj69rk「名大将と言っても、一国ばかりの大将のことは世間でもさほど大きくは申しません。
せめて二ヶ国も取って、その近国三ヶ国ほどと自分の国、五ヶ国のにおいて鉾先を振って名を取り、
三ヶ国、四ヶ国、五ヶ国を支配する大将は、敵も多くその沙汰することも多い。
このように多くの敵と戦って種々の智略を用いれば、世間もそれを沙汰して名を呼びます。
一国ばかりでは敵も少なく、しかし名も少ないのです。
さてまた、どこであっても、一代の間越度のなかった大将の二代目にとって、易き事と大事の二つがあります。
まず、易き事というのは、前代の威光によって、跡を継いだ大将は、少しのことでも四方において
おおいに沙汰する事ができます。これを易きといいます。
しかし一方で、少しの悪しきことでも世間は大きく悪しきと事と取り成します。これを大事といいます。
易き事、大事の中に、易きは稀です。何故なら四方に響き渡る大将の二代目は、少しばかり誉れある働きを
しても、前代より劣っていると批判されるからです。これを以って、大事は多く、易きは稀だということです。」
またある時、室賀入道が馬場美濃にこう語った。
「人が恐れるほどの名大将の二代目は、だいたい9年は苦しからずして、10年目は必ず危うくなります。
それはまず、最初の3年は先代の威光によって何とか取り回し、大事なく過ごせるものです。
次の3年は、代替わりに取り立てた者達が競争し、それによって皆が競って勇むため、これまた大事が有りません。
そして最後の3年は、悪しき仕置と言われながらも、兎も角も過ごせるものです。こうして都合9年。
このようにあった後、10年目は大いに危うい。しかし、それを過ぎれば必ず敵方も代替わりがあり、その仕置に
混乱が生じて、この方にとっては大吉となります。私はそのように考えます。」
(甲陽軍鑑)
室賀入道信俊による、二代目の大将についての考えである。
考えてみれば武田勝頼が滅びたのは、信玄の死から9年目ですね。
0621人間七七四年
2014/10/26(日) 02:01:33.84ID:viWyMq/x0622人間七七四年
2014/10/26(日) 02:22:49.64ID:IlQqpZxb0624人間七七四年
2014/10/26(日) 06:32:24.87ID:nvDGXYSO0625人間七七四年
2014/10/26(日) 07:36:17.96ID:nLwZBdvp0627人間七七四年
2014/10/26(日) 09:12:16.67ID:Lztw9WSA0628人間七七四年
2014/10/26(日) 09:25:48.08ID:axYTwGdZ0629人間七七四年
2014/10/26(日) 09:30:46.27ID:uYyYZ5jH0630人間七七四年
2014/10/26(日) 09:36:09.83ID:FZVfo7yX0631人間七七四年
2014/10/26(日) 10:24:43.52ID:03Sev5Ys0632人間七七四年
2014/10/26(日) 10:33:28.69ID:N6NPnIwQhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778849
0634人間七七四年
2014/10/26(日) 11:08:06.43ID:Lztw9WSA0635人間七七四年
2014/10/26(日) 11:29:45.57ID:nvDGXYSO記載されている出来事や日時をそのまま使うのは危険極まりないと言ってるけどね。
0636人間七七四年
2014/10/26(日) 12:05:11.02ID:0PS2zBrf0637人間七七四年
2014/10/26(日) 12:14:00.21ID:axYTwGdZ0638人間七七四年
2014/10/26(日) 12:29:04.94ID:bJz4o+Xv0639人間七七四年
2014/10/27(月) 00:11:17.39ID:+GEva5ce大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。
これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、尼子晴久は
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、芸州を
切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。
さて、問題はその後に起こった
毛利元就は児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の
筋道ですから、かの城は我々に預けていただきたい。』
しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。
これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、その頃、かねてから内通していた
吉見大蔵大輔正頼が、居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を
加勢として、兵600とともに津和野城に派遣した。
吉見正頼が大内家に背いたことに対し、陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、大軍を以って津和野の城を
取り囲んだ。これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。
(芸侯三家誌)
大寧寺の変の後、当初陶晴賢に従っていた毛利元就が、敵対することを決断した経緯である。
0640人間七七四年
2014/10/27(月) 15:34:44.20ID:9bjUCH30実際は豊前守ではない。
0641人間七七四年
2014/10/27(月) 16:13:01.37ID:9bjUCH30初代天下統一で備後の武将で「祝甲斐守」という人が登場する。
この人は実際にいる人で祝甲斐守貞近(ほうり・さだちか)と言った。
祝職(ほふり)をしていたために苗字を祝とした。
ちなみに本姓は武田といい、安芸武田家の一族であった。
祝家は江田家に属し、高杉城を拠点としていた。
1553年4月に江田隆連が尼子方につくと祝家もこれに従った。
しかし、7月に毛利元就が約六千の兵を率いて高杉城を攻めた。
祝方は江田からの援軍などを併せてもわずか七百余であった。
元就はこれを一気に攻め込み約六百余の首を挙げて祝甲斐守をはじめ、父・高貞と次弟・高智は討死してしまった。
三弟・高家と四弟・広縄は毛利方についていたため、一家断絶の憂き目はあわずにすんだ。
※高杉城の案内板には『尼子方の本項では1552年に毛利父子に攻め落とされました』と書いてある。
※司馬遼太郎は祝家・高杉城を高杉晋作のルーツであると指摘している。
(広島県の歴史、陰徳太平記)の一部から
もし祝家が江田家に従わずに大内・毛利方にずっとついていたならばこんな目にあうこともなかっただろう。
0642人間七七四年
2014/10/27(月) 16:55:53.22ID:9bjUCH30元々は比婆郡一帯であり、更にこの郡は恵蘇郡・三上郡・奴可郡が1898年に合併したものであった。
さて、この奴可郡の一部を宮家という小豪族が治めていた。
久代宮家とも言われ、その一族の小奴可(おぬか)宮家は小奴可村などを統治していた。
区別させるために土地の名前を苗字にした。(のちに宮家に復姓している。)
備後南部にも宮家がいるが、ここでは割愛させてもらう。
>>639にもある旗返城の戦いで時の当主であった小奴可隆盛が戦死してしまった。
大内家の実質の支配者である陶晴賢は隆盛の嫡男・盛常がまだ若年であるという理由で「久代之地」を大内家預かりにしてしまった。
しかし、盛常は当時18歳。既に元服を終えた立派な武将であった。
ここから小奴可宮家の「久代之地」返還の嘆願が始まった。
1555年、陶晴賢が厳島の合戦で戦死し、その2年後に大内家は滅亡する。
支配者が大内家から毛利家に変わったことにより盛常としても「久代之地」返還は叶うものと思われた。
しかし、毛利方からの返事はNOだった。
盛常はそれ以降も返還の嘆願を繰り返すも毛利方から色よい返事はもらえずに1573年に亡くなった。
遺志は盛常の子・盛慶に託された。
父が亡くなった時は盛慶はまだ16歳の若武者であり、盛慶も返還の嘆願を繰り返していたがなかなか色よい返事はなかった。
しかしここで最後のチャンスが巡ってきた。
太閤検地である。
検地完了により全ての家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行う条件は整った。
そこで盛慶は「久代之地」返還の嘆願をおこなった。
しかし、毛利方からの返事はNOだった。
結局久代之地は毛利家の蔵入地になってしまった。
ここに小奴可宮家の38年に及ぶ本領返還運動は幕を下ろしたのであった。
0644人間七七四年
2014/10/27(月) 21:47:18.66ID:yAIuWiM8よくわからないので教えていただきたいですが、久代の分家が小奴可でしょうか。
それならば、小奴可が討ち死にして久代没収に違和感があります。
0645人間七七四年
2014/10/27(月) 23:49:34.59ID:9bjUCH30久代の分家は小奴可です。久代は備南の分家。
当時は久代が奴可郡に勢力を広げ、小奴可が勢力を衰退していたそうです。
久代が小奴可の所領を横領したためとも。
ここからは私の予測ですが、小奴可も負けじと久代にある久代の所領を横領したものだと思います。
或いは最初小奴可が先に久代の所領を横領したら、久代から逆襲を受けて他の所領を奪われながらも本領と久代にある一部の所領を1553年まで死守していたのではないかと思われます。
0646人間七七四年
2014/10/28(火) 02:31:26.13ID:+AXdfRiH武士なら槍働きで取り戻せ
0647人間七七四年
2014/10/28(火) 03:14:10.06ID:LNkhyFX00648人間七七四年
2014/10/28(火) 07:42:02.73ID:hLpTHbfQ0649人間七七四年
2014/10/28(火) 11:31:49.54ID:cBGp6FXX0650人間七七四年
2014/10/28(火) 13:16:28.28ID:4vDE5H6o立花家の今村五郎兵衛さんのお話。
高橋紹運の岩屋合戦の時、高橋統増は宝満城においてわずかな高橋・筑紫両家の兵と籠城していた。
父・紹運の岩屋戦死後、宝満城内は、寄り合い所帯であり兵数も少ないことから戦意に乏しかった。
そこに、島津勢が一万の大軍で迫ってr来る。しかも、軍の前面には岩屋城で捕えた婦女子を押し立てている。
城内が動揺する中、島津氏の使者がやってきて、
「紹運殿も岩屋城にて討ち死にされ、筑紫広門殿もわが陣にある。これ以上の抵抗は無駄である。今、開城すれば統増殿ならびに城兵一同、命はお助けいたそう。」
という。
このままでは、筑紫広門を捕えられている筑紫の兵が反乱をおこし、宝満城は自壊しかねない。
そこで、統増の前で軍議を行った。
「開城などすれば、岩屋城にて討ち死になさった紹運様に申し訳が立たん。世人も我らを嘲笑うであろう。」
との意見もあったが、
「立花城の宗茂様と合流し、下知を仰ぐべき。」
と決まって、返事を出した。
「われわれの立花城撤退を認めれば開城致す。拒まれるならば岩屋城同様、最後の一兵まで戦いますぞ。」
0651人間七七四年
2014/10/28(火) 13:22:37.80ID:4vDE5H6o源右衛門は使者に対して、 「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」
と返答した。島津側はこれを了承し、誓紙を持って保証した。
8月6日、統増以下家中の者は宝満城を下城する。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁するのである。
「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に、 「島津の慣習
として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」
とうそぶいたという。自らの甘さに高橋家中の者は悔しさに泣いた。
郎党が武蔵村へ連行される時の事である。
一行が道を進んでいる時、野道の方からキジが1羽飛び立ち、丁度一行の上を横切ろうとした。
この時、高橋家中の臣・今村五郎兵衛が四尺六寸の大太刀を抜き放ち、一刀の許、真っ二つに斬り裂いたのである。薩軍の将はあまりの早業に唖然としたという。今村五郎兵衛の憤りと怒りの成せる技だったのだろうか。
今村五郎兵衛さんのかっこいいんだか悪いんだかよくわからないお話。
0652人間七七四年
2014/10/28(火) 16:51:59.50ID:gyjQzdCI0653人間七七四年
2014/10/28(火) 22:15:29.55ID:jVucNfPC彼は痘瘡の病癒えて間もなく、今少し養生をしたほうが良いのではないかと人々忠告したが、
安藤は「死にに行くというのに、どうして養生がいりましょうか。」と言って従軍した。
そして彼は大阪夏の陣、5月7日の合戦の最中に、下帯すら無い、素裸の死骸が自軍に回収されて
居るのを見た。安藤は声をかけ「それは一体誰の死骸でしょうか?」と尋ねた。
死骸を運んでいた者はこれを聞くと
「これは安藤治右衛門殿の死骸です。討ち死にして間もないというのに、このように下帯まで
剥ぎ取られてしまったのです。」
と答えた。
戦場には野武士などが集まり来たりて、討ち死にした者の甲冑を剥ぎ取るのは古来珍しいことではないが、
山野とは違う、大阪城下の戦いで討ち死にするや直ぐ様下帯まで剥ぎ取られるとはと、
この時安藤右京之進は意外に思ったそうである。
(明良洪範)
大阪の陣の状況をリアルに伝えている逸話である。
0654人間七七四年
2014/10/29(水) 07:24:05.48ID:G2vast2i0655人間七七四年
2014/10/29(水) 07:43:03.12ID:kEAfZ+9v読んでてちょっと混乱したw
0656人間七七四年
2014/10/29(水) 09:59:46.95ID:ELHw2NW60657人間七七四年
2014/10/29(水) 12:08:56.53ID:diDhm8BI0658人間七七四年
2014/10/30(木) 18:47:44.67ID:2VOZY01M>>631じゃないけど暫く前にここを知ったニワカなので
近代デジタルライブラリーを教えてくれて本当にありがとう
名将言行録以外にも良将言行録とか武功雑話とかその他明治大正の通俗的な本で
とりあえず地元と縁のある細川加藤小西の記述を暇な時間に拾い読みしてはニヤニヤしている
0659人間七七四年
2014/10/30(木) 19:11:01.92ID:gQOwjDV4近デジにあるものはグーグルでも読めるのが多いので、タイトル入れて検索してみるといいぞ。
グーグルのほうが読みやすい
0661人間七七四年
2014/10/30(木) 19:49:09.47ID:YJD3hT2V0662人間七七四年
2014/10/30(木) 19:52:23.09ID:LChg0KL+0663人間七七四年
2014/10/30(木) 20:05:01.06ID:2VOZY01M小説や二次資料、出典を書いてない与太話を鵜呑みにするほどのバカではないつもり…
ホントはちゃんとした郷土資料とかを漁った方がいいんだろうけど
行きつけの図書館が改装のせいで来年まで利用できなくなっちまった
それでも戦国の逸話楽しそう!どうにかして色々自分も資料を読んでみたい!
できればみんなと一緒に語りたい!
と思わせてくれる素敵なスレだと思ってるのよ
0664人間七七四年
2014/10/30(木) 20:10:22.17ID:EG3FtdiGここで紹介されてる逸話読むだけより
名将言行録だろうがなんだろうが実際に読んでみるのは有意義
0665人間七七四年
2014/10/30(木) 20:22:11.35ID:2VOZY01Mありがとう
バカ言われないように勉強頑張るよー
いつか自分も未出の楽しい逸話を見つけてきて、皆と一緒にお喋りできるといいな
0666人間七七四年
2014/10/30(木) 20:30:50.76ID:CGmPkZRv0667人間七七四年
2014/10/31(金) 10:04:18.66ID:H6+M3pDj0668人間七七四年
2014/10/31(金) 19:38:25.38ID:EMuHQAj1夜中に島の周りを「落人乗せん」と呼びながら漕ぎ廻らせた。
そして厳島の対岸にある火立、赤崎という場所に人数を出し置き、この船が乗せてきた者を
尽く捕らえさせた。陶方の落ち武者を捕える罠を仕掛けておいたのである。
そういった落ち武者の中に進藤彦八という者が居た。彼もこの船に乗ったが、
船中で「この船はどこに着けるのか」と尋ねた所、水夫は「火立・赤崎に着けます」と答えた。
これに嫌な予感がした進藤は
「他の場所に着けよ!さもなくば汝の首を打ち落とす!」
そう刀に手をかけ怒鳴った。
水夫はこれに恐れ「静まって下さい。あなたの仰せに従います。」と他の場所に着岸したため、
進藤は虎口を逃れて立ち去ることが出来た。
この進藤彦八はもともと小早川家の侍であったのだが、勘気を得て立ち退き、大内家に仕え
今回の合戦に従軍したのだが、彼はここから直に、備後の在所に帰ったそうである。
(芸侯三家誌)
0669人間七七四年
2014/10/31(金) 21:51:54.41ID:PQdj9lHO0670人間七七四年
2014/11/01(土) 02:08:29.07ID:wE+rxkq30671人間七七四年
2014/11/01(土) 19:01:49.56ID:zM7e2CEJ赤崎は厳島から出た死人を運び込む場所で
火立は毛利勢の出航地か
これは死亡フラグですわ
0672人間七七四年
2014/11/01(土) 19:47:21.03ID:02gwlmI6ここは小説ソースだと拒否されるけど、二次資料なら全然OKだよ
今までも家伝や、寺社に伝わる逸話の書き込みもあったし
0673人間七七四年
2014/11/02(日) 00:06:37.91ID:DlJhDHgwこの事態に大内家当主義長は、重臣である内藤弾正忠(隆世)らとともに、長府(下関)の勝山に籠城し、
これを知った毛利元就は、一門の福原左近将監(貞俊)を大将として軍勢を派遣した。
福原並びに国侍の熊谷、阿曾などにより勝山城を取り囲み攻め立てた、しかし勝山城は地形が
険阻である上、城兵たちも勇を励み堅固に城を守った。
元就はこのことを聞くと、福原に密かに、城を抜く術を伝えた。
福原はこれに従い、城中に矢文を放った
『内藤弾正忠は陶晴賢に与した叛逆の者ですから、切腹させていただきたい。
義長については特に遺恨があるわけでは有りませんので、一命を助けて豊後へ送り返しましょう。』
この内容に、義長は「私は内藤とともに自害する!」と言い張ったが、内藤自身や杉等家臣たちが
様々に申し宥め、義長を長府の長福院に移し退け、その後内藤は切腹することに決め、福原に対し
検使を請うと、金重左衛門尉が派遣され、その上で内藤弾正忠は切腹した。
ところが、福原は直後、義長のいる長福院に攻め寄せた。
『大内義長も切腹させるよう、元就より申し来た。よって速やかに自害あるべき。』
これに義長は「覚悟していたことではあるが、福原に欺かれたことが口惜しい」と激怒したが、力及ばず、
行水にて身を清め、終に自害した。
吉弘右衛門太夫、橋爪美濃守、安田入道、杉民部らの家臣も、続いてみな切腹した。
また陶晴賢の家臣、野上紀伊守房忠は、晴賢の末子である6歳の鶴寿丸を山口に隠し置いていたが、
敵がこの命をよもや助けまじと思い、この子を長福院に抱き来て刺殺し、自身も共に死んだ。
(芸侯三家誌)
大内義長の最期についての逸話である
0674人間七七四年
2014/11/02(日) 00:31:36.48ID:Oz10yxRV0675人間七七四年
2014/11/02(日) 00:41:10.54ID:EHYnYJAt怨みも、用心深さも、使い手次第だと思えば夢も希望もあるじゃないか
0676人間七七四年
2014/11/02(日) 05:48:48.50ID:okk8Z5ME0677人間七七四年
2014/11/02(日) 08:00:46.81ID:LVP3RuBO0678人間七七四年
2014/11/02(日) 10:07:10.82ID:CkoMoT990679人間七七四年
2014/11/02(日) 17:46:02.11ID:OsYo96O5昔々、加藤清正公が相良氏を討つために球磨川を遡ってきました。
しかし球泉洞近くの岩山に上り、はるかに上流の方を眺めると険しい山々が連なるばかり。
実にこの地は天険要害の地、とても自分ごときが攻め落とせる場所ではないとして
諦めて軍勢を引き返したのだそうです。
この岩山は今では「清正公岩(せいしょこいわ)」と呼ばれています。
(熊本県球磨村の民話)
熊本県球磨郡球磨村大阪間にある、日本三大急流の一・球磨川の浸食により
断崖絶壁となった高さ150mほどの岩がこれであると伝えられています。
とりあえずせいしょこさんを出せば伝説になるという扱いの熊本県酷い。
0680人間七七四年
2014/11/03(月) 00:19:27.88ID:kjKdqvYr原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで
「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」
そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。
ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」
これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは
「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」
そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。
ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。
そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。
一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」
これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。
(甲陽軍鑑)
家康の運命についての、武田家家中の予測である。
0681人間七七四年
2014/11/03(月) 06:04:25.26ID:Yzro9C95甲陽軍鑑の人のはあんま面白くない
0682人間七七四年
2014/11/03(月) 08:09:33.05ID:2MHNXuPK0683人間七七四年
2014/11/03(月) 09:08:11.50ID:JaF+NvrOこの(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?
0684人間七七四年
2014/11/03(月) 14:16:17.70ID:fG1bj6150686人間七七四年
2014/11/05(水) 02:32:09.65ID:lw8gvYNi本城越中守(常光)を寝返させることに成功した。
このことを知った尼子晴久は驚愕して言った
「本城が敵に降ってしまっては、この石州の味方が力を落とし、尽く攻め滅ぼされ、もしくは
降参してしまうだろう。
本城については、きっと二心を抱く事は無いと深く頼み、様々な重宝を与え、本領も倍にしてこれを遣わし、
特に、容色勝れているとして私の妾にしていた目黒の娘を、越中守に嫁がせて、我が婿として
扱っていたのに!
この女は、昔、宍戸左馬助が私に恨みがあって、刺し違えようと思い、ただ一人ある宵の内に、
私の居室まで忍んだ。彼と私はいとこ同士なので、怪しむ者もなく思うままに忍び入りて隠れ、
私が寝入った夜半に、外より戸を押し破ろうとした。
しかし私はそれを聞きつけ、そのまま起きて板戸を押さえたが、宍戸は聞こえる大力であったので、
腕に任せて押すほどに、私も叶い難く、一旦押し込みそのまま手を離すと、宍戸は戸板の上に乗って
伏せた形で倒れた。
そこを私は押さえつけたが、宍戸も私にしがみつき、上に下へと組み合ったが、私もさほど微力という
わけでもないので、遂に上になって押さえつけたが、搦め捕る物が無いので「なんでも良い!紐をもってこい!」
と言ったが、そこに宿直しているのが皆女であったため、周章てるばかりで縄を持ってこようとする者もなかった。
しかしその中で、この目黒の女は気の利いた者であったので、小鼓の紐を解いて私に渡したのだ。
その紐で宍戸を縛め、その夜、首をはねた。
このような仔細のある女であったが、本城の心を取ろうと思い、愛念を捨てて与えた所、
彼も抜群の軍功を励んだので、よもや二心は無いと深く頼み、石州山吹城は敵地に隣接した
肝要の地であるので、彼を籠めて守らせていたというのに、たちまち敵に一味したことの
腹立たしさよ!」
そう激怒したという。
(芸侯三家誌)
尼子晴久が本城常光に与えた女性についての逸話である。
0687人間七七四年
2014/11/05(水) 07:41:43.41ID:wQ4cajNj俺と女の思い出話じゃねーかw
しかも与えたっても妾だしなー
0688人間七七四年
2014/11/05(水) 10:17:14.61ID:ghE1b98K0689人間七七四年
2014/11/05(水) 12:13:05.19ID:bsemGf33慶長5(1600)年9月、米沢の直江兼続が山形を攻めた折り、最上方の谷地城将は谷地伯耆といった者が据えられていた
しかし伯耆は山形陣に招聘され、谷地城には伯耆の一族の谷地大学と金山伊豆と300人程の徴用された農民を含む兵らが詰めていた
そこに庄内の大山城を出た下吉忠が3000程の兵力でどっと押し寄せた
谷地城の守兵は命を風塵よりも軽んじ防戦したが
城の各所は破られ、味方も大勢が討たれ、大学と伊豆も手負い傷を負い、大勢は決したかの様に見えた
上杉方からの攻めの手が緩んだ際に、谷地城の谷地大学から下吉忠の元へ使いが出された
谷地方「今は我等(谷地の最上軍駐留部隊)では篭城を続ける事が叶いません。下吉忠さまが武士の名誉を知るなら城内にいる女童と老人を城から出し、
(上杉方の手に落ちていない後方の)寒河江方面に逃がす事を見逃してください。
代償といってはなんですが、城主格の谷地大学と金山伊豆が腹を切り、これ以上は抵抗を止めて谷地城を開城致します」
吉忠は「女童に限らず城さえ明け渡してくれれば、生き残っている将士の命も助けましょう」と回答したが
谷地大学と金山伊豆の他に荒川・虫笠・貝津(貝澤?)といった20人程の士分は「命があろうと城を敵に奪われなんの面目があろうか」と
女童を城から逃がし、城内の掃除をして見苦しい物を武者溜まりに集めて燃やし終わると
身を清め大手門の下吉忠の軍の前で
皆揃って腹を掻き切り果ててしまった
畑谷城・鳥谷ヶ森城・東根城・左沢城以外にも
明け逃げをせずに上杉方に抗った最上軍将士の事跡
0690人間七七四年
2014/11/05(水) 12:21:43.80ID:bsemGf330691人間七七四年
2014/11/05(水) 13:25:35.46ID:bsemGf33以前の話と異なるものがあったので投下
長谷堂合戦の後に谷地伯耆・寒河江広俊の率いる兵3000と、長谷堂城主志村光安の援軍兵1000が上杉軍下吉忠の篭る谷地城を取り囲んだ
志村光安が下吉忠に降伏を求め一人谷地城に入ったが、吉忠は光安に時間を貰い席を外すと、城奥で一族老臣を集めて最上軍に降るか抗戦を続けるかの軍議を開いた
内談は皆渋り顔で結論が中々纏まらなかったが、吉忠の一族の下美作が進み出て申し出るは
美作「敵の重臣の志村光安がのこのこ一人で谷地城内に来たのですから、これを幸いに人質にとって庄内に帰るべきです!
志村ほどの人質ならば最上軍もまさか追撃しにくいでしょう」と発言した
吉忠はこれを聞くと「…人質といっても伊達政宗が二本松に父を人質に取られて敵と共に射殺した事もあったよな。
志村光安は一人で身を捨て我等に道理を説き、敵を助けるために降伏を勧めてきたのだ。光安は人質にせず、ましてや殺さずに陣に帰すべきである。
武士の体面を大切にするならあとは潔く一同城を打って出て討ち死にするくらいしかないよ」と答えた
すると列座の者から
「志村光安は敵に対してもけして嘘いつわりを申さずと聞き及んでおります
その志村が我等が篭城・継戦を無駄と申すなら、一度は捨てた命を生まれ変わった気で新しき主のために使ってみてはどうでしょう?」との声が上がった
この声に我もそう思うと評議は一決し
「志村光安に身を任せて降伏しよう」と慌ただしく谷地城の開城降伏が決まった
『奥羽永慶軍記』
下美作が志村光安を人質にしようとしていた異聞
0692人間七七四年
2014/11/05(水) 13:27:07.25ID:T8ihsOzK0694人間七七四年
2014/11/05(水) 14:23:13.92ID:bsemGf33山形県S市の某所に志村光安の甲冑が伝えられている
平成前期に山形市の最上義光歴史館で特別展示がなされた志村光安の兜はそれまでの出羽の甲冑師の作とは大きく異なり、
二段の淵がある背高南蛮傘風の筋兜鉢に総覆面の面金が付いており、胴廻りが1メートル近くのアンコ体型の巨大な小札胴とセットになっている
全体的な劣化の為に通常一般公開はなされておらず、ネット上画像も検出出来ない模様
例えるなら芦屋雁之助や松村邦洋に南蛮傘風の兜を被せ、その体型に合わせた胴を誂えたかの様なイメージ
延沢満延や楯岡満茂とは異なり、もちもち体型と思われる志村光安の甲冑のお話
0695人間七七四年
2014/11/05(水) 14:58:25.57ID:bsemGf33×出展
○出典
>>694
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0017731
↑こちらを筋兜にした様な形状です
0697人間七七四年
2014/11/05(水) 23:13:06.58ID:0CuTu/ZT0699人間七七四年
2014/11/06(木) 19:55:59.77ID:yx1gvT8Bこの城内に、尼子の勇将と知られた若林伯耆守の孫、宗八郎・宗五郎という兄弟があった。
彼らはこれが初陣であったが、城中より打ち出て比類無い働きをしたものの、首を打ち取ることは出来ず
城に帰った。
この姿を見て、彼らの母が言った
「そなたたちの祖父伯耆守殿は、世に鬼神のように言われた人でした。その子孫として、
兄は十七、弟は十五になった者が、初めての合戦で首の一つも取って来られないとは言う甲斐も有りません。」
そのように強く辱めた。
兄弟はこの言葉を聞いて、再び戦場に取って返し大勢の敵の中に駆け入って
「若林伯耆守が孫宗八郎!同じく宗五郎である!」
と名乗り、大いに手柄をなし、遂に討ち死にした。
(芸侯三家誌)
0700人間七七四年
2014/11/06(木) 21:56:35.36ID:E+L8e5vu0701人間七七四年
2014/11/07(金) 01:22:14.39ID:tHXFCF8o0702人間七七四年
2014/11/07(金) 01:50:41.02ID:trL7jKmu天正9(1581)年、天童八楯を降し勢いに乗る最上義光に対し「山形に仕える道理は無いわ」と臣従を拒否していた若き勇将鮭延秀綱の治めていた兼山領へ義光は出陣
氏家守棟の懐柔で幾つかの鮭延方の城館は戦わずして最上軍の傘下となったが、野沢の沓沢玄蕃といった者が鮭延方で気を吐き、進撃する最上軍を相手に篭城戦を続けていた
玄蕃の篭る城は三方を川に囲まれた断崖絶壁の台地上にあり、城中には清水もあったがいくさの最中に水は枯れ、
兵たちは夜間に最上軍の隙を見ては城塀から
ふもとを流れる川にヒモを付けた鍋を吊り降ろして水をくみ、呑み水を確保し継戦した
結局城は焼打ちに遭って落城したが
この故事にちなんで当地は「差首鍋」と呼ばれるようになったという
0703人間七七四年
2014/11/07(金) 01:57:05.99ID:trL7jKmu0704人間七七四年
2014/11/07(金) 08:24:42.72ID:osbj2YI10705人間七七四年
2014/11/07(金) 18:30:04.79ID:VpsZHgTI0706人間七七四年
2014/11/07(金) 19:04:24.45ID:5Z+p6B/D0707人間七七四年
2014/11/07(金) 19:17:06.09ID:S2gRtrs8所々に関所を据え、落人を絡め取って首を刎ねていたため、雑人達に至るまで、抜け落ちるもの無く
大勢城中に籠った。これは城中の兵糧を無くさせるための謀であった。
その他にも所々に付城を構えて、他国からの兵糧も絶ったため、富田城内はますます兵糧が乏しくなった。
そのように城中が窮乏すると、元就は一転して、富田城から落去する者達に対して、その命を助ける旨を
発表し、所々の道口を開いたため、雑人多く落ち失せ、尼子家臣の者たちすら、縁を求めて降参する者も出た。
ここに熊谷新右衛門、原宗兵衛という者が、尼子義久にこのように申し上げた
「我ら両人、偽って毛利の本陣のある洗合に降人として出たいと思います。そのとき、
元就は必ず我々と対面するでしょう。ここで隙を伺い、彼を刺し殺します。
もしこれに成功すれば、私達の子供を世にあらしめて頂きたいと思います。」
この言葉に義久は、忠志少なからずと感動し、直ぐに両人の子供を召して、それぞれに五千余貫を宛がう
旨を記した判形を与えた。
それから熊谷と原の二人は洗合へと向かい、降参するということを申し入れた。
元就はこれを許し、対面することとなった。
その日は降参の者三十余人あって熊谷、原もその中に混じって出たが、予て考えていたのとは違い、
元就や輝元、吉川元春、小早川隆景は、一間(約2メートル)ほど隔たって着座しており、
その間に福原・児玉以下20余人居並び、奏者、酌に至るまで、みな両刀を差して用心の体であった。
このため二人は終に手を出すことが出来ず、そのまま頓首して退出した。
その後、元就は「今日降参した者の中で、5,6番目に出てきた二人は怪しいところがあった。
手堅く番を付け監視するように。」と命じ、侍十数人を付け置いたが、二人は隙を伺って終に逃げ去り、
富田城へと帰った。そこで義久はじめ城中の者達にその故を語り、大いに恐懼した。
その後毛利に降参した者が、この事を詳しく語ったという。
(芸侯三家誌)
0708人間七七四年
2014/11/07(金) 19:37:32.67ID:dcOtOoaZ0709人間七七四年
2014/11/07(金) 20:14:10.86ID:v0D6NOp1このレスも投稿したら見えなくなるっていうw
0710人間七七四年
2014/11/07(金) 21:03:48.86ID:L/jMMqoa0711人間七七四年
2014/11/07(金) 21:30:47.44ID:TKNaSBsO0712人間七七四年
2014/11/07(金) 22:50:11.60ID:gP7ETV2g2〜3個※できる間隔をおいた連投じゃなけりゃ最上も歓迎よ
興味深い話も出てるし
0713人間七七四年
2014/11/07(金) 22:53:37.11ID:gP7ETV2g一 大かうさま御座候所 御きげんよく見申候事
一 ぢんたちのていにて見申候事
一 人のたか かわへかせにふきおとされ候を 我々とりあけすえ候てまいり候を
大かうさま御さ所より御らん候て ひまありかおにて たかすへきたり候やう御意之様見へ
申候間 我々とりあへす申上候ハ 人のたかかわに入申候て なんぎいたし候を
あまりいたわしさにとりあけ かんひよういたし候ハんと存候て すへ申候よし申上候かと
おほへ申候
そのほかはて申したるほうはいも一両人見申やうにおほへ候へ共 何も出陣之てにて見申候
以上 八月廿五日 本妙寺 清正」
訳:「夢に見た事を書き出しておきます。(夢に出てきた人達の)追善供養をお願いします。
(夢の中で)太閤様(=豊臣秀吉)を見ました。 御機嫌良さそうにされておりました。
出陣の時の出で立ちをされておりました。
他人の鷹が、風に吹かれて川に落ちたのを、私が拾い上げたところ
太閤様がそれを見て「お前は暇なんだなあ、他人の鷹なんぞを助けて。」と
おっしゃいましたので、「川に落ちた鷹が苦しそうにしていて可哀想だったので
看病しようと思って助けたのです。」とすぐさま申し上げたと記憶しています。
その他にも既に亡くなった朋輩を二人ほど見かけたように記憶しています。
彼らも出陣の時の出で立ちのようでした。
以上 八月二十五日 本妙寺宛に 清正」
(年代不詳 江戸初期頃? 八月二十五日付 加藤清正自筆書状)
加藤清正が日真上人(朝鮮出兵時も従軍した本妙寺所属の僧侶)に送った書状(本妙寺所蔵)。
右筆を使わない自筆書状で、夢に出てきた死者達の為に追善供養を依頼したもの。
夢見の悪い話なのでこちらに。
0714人間七七四年
2014/11/08(土) 02:16:16.13ID:/37eLJmV義光の死後、一栗高春は些細な事で家臣を罰する新領主の家親とは水が合わなかった
高春は庄内の添川に館を構えていたが、昵懇であった清水義親を新たな当主に据えようと酒田亀ヶ崎城の志村光惟(志村光安の息子)を訪ね、「義親君の方が最上の総頭に相応しいのではないか」と語らい、同意を求める一筆を取り付けた
高春は光惟から約定紙を得た事を喜ぶと
「田河は大山城の下吉忠も同士になれば心強い」と光惟に言うと
光惟は「吉忠は父の代からの仲ですから、きっと意を汲み賛同してくれる事でしょう」と高春に答えた
高春は「この計画がうまくいけば、義親さまの新体制の下、光惟さまも吉忠さまも私も、きっと加増は間違いないでしょう」と、記念に一首の狂歌を詠んで扇にしたためた
かはるなよ 下も志村も諸ともに 思ふ心は みな一つ括り(一ツ栗)
一栗の乱で三人が一日中にみな斬死したのは後の事である
またこの密談の後に酒田から添川に戻った高春は西馬音内市正と碁を打った
勝敗は高春の負けの様に見えたが、最後に整地してみると高春の二石差での勝ちであった
高春は喜びまた一首を詠んだ
うれしやな 今を賽碁(さいご)の盤の上(へ)に 一つ栗こそ二つ勝ちけれ
この狂歌も一栗の乱の後に思い直せば、志村と下を二人討ちながら高春も仲が悪かった新関久正に討ち取られたのを思合すれば、「一栗は忌まわの最期に二人の将を道連れにしたのだ」と、人々は狂歌の内容は不吉な言葉だったと噂した
『奥羽永慶軍記』
0716人間七七四年
2014/11/08(土) 11:38:31.56ID:/37eLJmV碁を打った翌日が「一栗の乱」の日だと言われている。
下吉忠の意思を確認しないまま、楯岡光直の訪問に気を取られて高春は事を急ぎ過ぎたのか。
0718人間七七四年
2014/11/08(土) 15:30:25.08ID:rp7AZgW+0719人間七七四年
2014/11/08(土) 15:46:50.48ID:ZnZxCYcq0720人間七七四年
2014/11/08(土) 19:01:05.16ID:/YDEqBl9なんでレス番ぴったりなんだよww
0721人間七七四年
2014/11/08(土) 22:59:22.51ID:/37eLJmV三条河原で秀次事件の連座で処斬された女房らの最期を見た者たちが帰路につく中、京の大名屋敷に泣く泣く帰りつく者らの姿もあった
京最上屋敷もその一つ
前夜に荒れた浦山筑後の代わりに使いに出された小者らが戻ると、最上義光は屋敷の奥に篭り遮二無二に法華経を唱えていた
使いの者が部屋の外に居るのに気付くと「…いかに(どうであった)?」と声をかけた
小者らは口を開きかけたがすぐに涙で言葉がうまく言上できなくなり、歯をかみしめ、たどたどしくも処刑の模様を伝えると
義光は「わかった。苦労をかけたな」と言葉をかけ、「過去の業こそ(因果というものか)」と溜息をついた
小者らは言葉が続かず一礼をして席を外したが、
義光は肩をいからせ腿に拳を突き立て「口惜しい口惜しい」と言葉を漏らし、数日間食事を摂ろうともしなかったという
「山形の昔話」
0722人間七七四年
2014/11/08(土) 23:45:09.39ID:4YxLWT4R大河みたら信雄みたいな馬鹿殿で失笑した
実子が出来れば普通は分家を立てるでしょうに
それが出来ないから切腹なのさ
0723人間七七四年
2014/11/09(日) 01:09:04.42ID:bxqb0l/Z米沢の伊達政宗(15才)から伯父の最上義光の許に山形の阿古屋の松の旧跡のある千歳山を謡った歌が届けられた
恋しさは 秋ぞまされる 千とせ山の あこやの松に 木隠れの月
丁度その日、義光の奥方のとしよ姫が産気付き、一人のかわいらしい女子を産んだ
ただこのお産の前後に最上家内には様々な不吉な事が立て続けに起きていた
としよ姫(義光の奥方)「あなた、姫の生まれた日に米沢の伊達政宗殿から山形の名所の千歳山を詠んだ歌が届いたのはきっと厄払いと祝儀でしょう。千歳山は霊験あらたかな名山ですから、この姫の名前は『ちとせ』としてはどうでしょう?」
義光(´・ω・`)「うーんとね、としよ。千歳山は名山だけど『ちとせ』と姫に名付けるのはちょっとまずいと思うんよ
昔出羽の国の安倍貞任の娘が『ちとせ』姫と言った名前だったんだけど、
ちとせ姫は両親を滅ぼしたといった悪い伝承があるんよ
名山に倣うなら他に湯殿山、羽黒山、御駒山などにちなんで名付けた方が良いと思うんよ」
としよ姫「湯殿…、羽黒……(汗」
義光(´・ω・`)「『お駒』でどう?」
こうして珠の様にかわいらしい姫は名山の加護あらんと「駒姫」と名付けられる事になった
0724人間七七四年
2014/11/09(日) 01:55:30.74ID:55E0dqL90725人間七七四年
2014/11/09(日) 02:16:02.79ID:bxqb0l/Z大谷吉継の上意によって山北小野寺領の南方は最上義光の差配する所となり、雄勝には楯岡満茂と鮭延秀綱が軍奉行として入った
雄勝は元来の最上領からは有屋峠を境に異邦であったために、鮭延秀綱は郎党から大友右京といった者を代官として雄勝の寺沢に置いた
しかしこの右京といった者は現地の百姓の疲弊を考えず、定められた年貢以上の取り立てを行い、主君の秀綱の命令をわきまえずに勝手を強行し、少しでも従わない者がいれば私刑をも気のままに行った
寺沢近隣の民らは「こんな代官に居続けられてはたまったものではない」と考えたが
ある夜誰の仕業かわからないものの、大友が屋敷で殺される事件が起こった
大友の下人たちが鮭延秀綱の下に逃れて
「寺沢の土民らによって代官の大友右京が殺されました。私たちでは小勢のために仇討ちも出来ず、長居もすれば全滅する可能性もあったのでこの事を注進するために在地から退散せざるを得ませんでした」と報告した
秀綱はこの事を聞くと大層怒り
「主である右京を討たれて小勢だから逃げ帰っただと?武士なら仇を取るために切り死にして名誉を守るものだろう?自分たちだけ助かろうとここにいる奴輩は武士の恥だ!」と寺沢から逃げて来た下人20人ばかりの耳や鼻を削ぎ、追放してしまった
秀綱は「しかし右京を討った土民どもも放置する訳にはいかぬ」と金山城主の川田三右衛門に与力と足軽を付け、在所の郷士や農民を徴用し、3000人ほどの兵力で雪の山北に向かった
山北では秀吉の検地以来一揆が頻雑していたが
山北に川田の兵らが向かっているとの知らせを聞くと
寺沢の土民らは「いくさの準備だ」と村の近くの横堀といった地に大雪を利用した雪壁を築き、都合1000余人で高さ二丈・厚さ二尺、周囲七・八町の廓を設け、堀を割り
弓や鉄砲までを揃えて立て篭もった
(つづく)
0726人間七七四年
2014/11/09(日) 02:22:40.10ID:80e/Oix90727人間七七四年
2014/11/09(日) 02:24:56.05ID:OXjmW04f修羅の国だな
0728人間七七四年
2014/11/09(日) 03:05:15.29ID:bxqb0l/Z川田の鎮圧部隊と寺沢の土民とのいくさ場の山北横堀の地に裸武太之助といった男がいた
元は鮭延秀綱に仕える武勇で名の知られた豪傑であったが、度重なるいくさに嫌気がさし、知行を捨て牢人になっていたが、寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓側らと篭っていた
川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き、素肌姿で帯に小旗を差し、大太刀を数本身に付け薙刀を杖の様について雪壁の前に現れた
武太之助「裸武者でござる!このたびは土民に助力し敵として相まみえる。川田殿、いざかかって来られよ!我が首取って鮭延の殿に見せるがいい!」
最上兵は「武太之助は何を考えているのだ?大軍を相手に勝てるとでも思っているのか?
討ち取って手柄にしてくれよう」と50〜60人が討ちかかった
武太之助「騎馬でさえ我を討てないのに、徒士のおまえらが束になってもワシに敵うものか?武太之助の手並みを早くも忘れたのか」と打ち笑い、川田の兵らに切り込んだ
土民「武太之助殿を討たせるな!」
雪壁内から野武士や土民らが川田の兵目掛けて打って出たが
川田三右衛門はいくさに長けていたので伏兵を敵の後方に送り
雪壁を占拠すると前後から土民らを包囲殲滅にかかった
土民らは方々で討ち取られ
武太之助の周りにいた者も残らず討たれた
武太之助は鉄砲で身体の三ヶ所を打たれ、雪の中に倒れ、首を取ろうと近づいた敵兵を二・三人倒した所を槍で次々と突かれ、ついに首級を取られて絶命した
川田三右衛門は生き残った土民らを集め「代官大友右京をどうやってあやめたのだ?」と尋ねたが
土民らは「我々は大友右京を討ってはおりません
我々も大友右京を危めようと策を練ってはおりましたが
代官右京は下人にも厳しく、家内でもたいそうな恨みを買っておりました
あの日屋敷の下人たちが主の右京を弑し、そのまま遁走したのでございます」と理路整然と答えた
川田はこの次第を聞き「大友が恨まれるのも当然か」と土民らをそのまま解放し
「もとの如くにあるべき」と立て札を建て最上領へと帰った
翌日にはいくさ場で討たれた者の遺骸が片付けられた
武太之助の妻と11才になる息子は早朝から横堀を訪れ七尺ばかりの首のない武太之助の遺骸に縋り付いて号泣していた
高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族にこれを返した
鮭延秀綱は川田三右衛門から大友右京の悪事と下人らの詐事の次第を聞くと、寺沢の民らを不憫に思い、年貢や雑役を免除したと伝わる
『奥羽永慶軍記』
0729人間七七四年
2014/11/09(日) 03:18:07.34ID:bxqb0l/Z×3000人ほどの兵力で雪の山北に向かった
○3000人ほどの兵力で雪の山北に遣わせた
>>728
×寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓側らと篭っていた
○寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓らと篭っていた
×高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族にこれを返した
○高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族に骨を返した
で訂正をお願い致します
0730人間七七四年
2014/11/09(日) 03:44:49.76ID:KXu8kAK40731人間七七四年
2014/11/09(日) 03:59:45.26ID:MF/FMmoz0732人間七七四年
2014/11/09(日) 08:22:12.70ID:55E0dqL9>川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き
とあるけど、初見にはなんで例のごとくなのかわからんちん
0733人間七七四年
2014/11/09(日) 08:43:06.41ID:bxqb0l/Z既出の「鮭様のおやじギャグ」の逸話
奥羽永慶軍記を元に南方熊楠が書いたものから
近世豚の字を専(もっぱ)らブタと訓(よ)む。
この語何時(いつ)始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔(へんえい)三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其(ようき)、猪を豕々(しし)として居る。
その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。
古くは野牛と書き居る。
綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。
『大和本草(やまとほんぞう)』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。
やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと血眼(ちまなこ)になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。
それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。
「一番に裸(はだか)武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、
上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指(こしざし)して歩(かち)にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、
本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、
余り肥え脹(ふく)れし故豕(ぶた)という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。
0734人間七七四年
2014/11/09(日) 10:27:28.04ID:KXu8kAK40735人間七七四年
2014/11/09(日) 12:47:01.65ID:mNil0/Ht変な名前をいい字に変えてあげた義光さん優しい
0736人間七七四年
2014/11/09(日) 13:03:11.41ID:0xQXnkUC誰か突っ込まなかったんだろうか
0737人間七七四年
2014/11/10(月) 00:36:56.01ID:+UuGUWA/およそ7年の間続いていた。
その間、尼子方の城兵達は、あるいは討ち死にし、あるいは落ち失せ、あるいは降参したため、
今は僅かに300人ばかりが留まり残っているに過ぎなかった。その上兵糧も乏しく、
もはや落城も遠からじと風説されていた。
ところがこの5月の末、毛利元就が風気を患い、徐々に悪化して、様々に薬術を為してもその効なく、
病は日々重くなっていった。
そんなある夜、吉川元春と小早川隆景の兄弟が全く同じ夢を見た。その内容は、
老翁が一人枕の上に立って
『今度の元就の煩いを治したいのなら、尼子の命を助けよ。
我は富田の八幡である。』
と宣ったのである。
この奇妙な出来事に元春・隆景兄弟は話し合い、元就の側まで行って相談した。
その結果
「先年、大樹義輝卿より、聖護院准后を以って、毛利・尼子和議すべしとの上命があった。
尼子はこれを了承したが、元就は八ヶ条の懸念があると上意を返されたが、その内容は
尤もなことであったので、義輝卿もこの件を一旦戻して扱われていた所、三好左京大夫義継、
松永右兵衛佐久通らが義輝を弑し奉るによりて、この和議については完全に停止した。
然れば今度、その旨を以って尼子の命を助け、下城させるべし。」
そう決定し聖護院准后道揩フ弟子である道澄に、元春・隆景はこの趣を言い含めた。
道澄は米原平内兵衛を以って、尼子方の立原源太兵衛尉に申し入れた
「先年、公方義輝卿が、毛利・尼子の和議を取り扱われましたが、尼子義久殿はこれを了承し、
誓詞の提出にまで及びました。その草案もここにあります。であれば、今この城を明け渡し、
諸士の一命を救われる事こそ然るべきと、義久殿に説得すべきである。」
そう詳しく説明した。
立原は帰ってこれを尼子義久に伝え、義久は家の子郎党を集め意見を聞いた。
各々はこう申し上げた
「当家は数年の籠城の間に、味方尽く敵に降り、残卒わずかに300ばかりになりました。
ではありますが、この城は無双の要害であり、今まで残り留まった者達は、義によって
身命を投げ出し、城に残った勇者たちですから、志を一つにして防ぎ戦えば、すぐに落城することは
無いでしょう。
ですが、兵糧は尽く尽きかけています。また諸方に後詰をしてくれる味方も有りません。
このような、行く末頼りない城にこもって餓死されるよりも、先ず一旦はこの和議を受け入れ、
時節をお待ちになるべきです。」
皆一同にこう諫詞したため、義久も同意し、その故を聖護院に返答したため、道澄もすぐにこれを
三家(毛利・吉川・小早川)に連絡した。
これによって永禄9年7月6日、尼子右衛門督義久、同九郎倫久、同八郎四郎秀久、
数代の居城を出て、毛利元就に降伏した。
元就は福原左近将監貞俊、口羽形部大輔通良が、二千余騎にて富田城を受け取った。
そして義久、倫久、秀久の兄弟3人は、侍7,8人を召して、元春。隆景の手のもの一千余騎が警護して
安芸国長田に送られ、そこで内藤下総守が請け取って、同所圓明寺という禅院に押し込め置かれた。
彼らの警護は念を入れられ、二重三重に柵をめぐらし、この他に元就からは桂少輔五郎、元春より
二宮木工助、隆景よりは宗近加賀守が付け置かれた。
(芸侯三家誌)
尼子の降伏に関する逸話である逸話である。
0739人間七七四年
2014/11/10(月) 01:32:18.52ID:bGmfr4sy※原典準拠で雰囲気をお楽しみください
西国より江戸に下りし者の物語りに、我今度洛陽に一宿せしに、京童のいひけるは、江戸将軍の連歌をせられしこそ笑止けれ
江戸に下りて聞き給へば諸人の知り侍る事なりといふを聞くに、将軍の発句に
此春は なぜに鳴かぬぞ 鶯め
と仰せられければ、仙台の政宗脇(句)を仕らんとて
御定を 背かば首(こうべ) ぶつきらん
といはれひとて笑ひあへり
西国の者これを聞き、実に笑しき事におもひ、江戸に下りてこれを語る
いかにしてかこの事政宗伝え聞き
誠にこれを聞かばおかしくぞ思ふらん。東国に生まれをなせる者をば人毎にかかる事とこそ思ふらめ。
太閤秀吉公の御時、紹巴宗匠にてたびたび連歌の有しに、東国の者には当将軍御父子、最上義光、秋田城之介実季、予も連座せしに、
当将軍御父子ともに連歌はかたの如く上手にておはしましけり。公家にも知しめされし事なり。或古歌に
うえて見よ 花のそだたぬ 里もなし
とはいへども、あずま者の声うちなまり、物いふを聞けば、京童はさこそおかしくかようの事をば作りてや語り笑ふらん
と政宗も笑はれけり
此物語り、後には公方へも聞こえ、御一笑なし給ふよし風聞すれば、西国の武士是を聞きて、余りに御あざけりの咄しなれば、御穿□も恐しとや思ひけん、行方知らず逐電す
『続群書類従』「東国ト連歌」
0740人間七七四年
2014/11/10(月) 09:12:54.61ID:lf31lOQA実際がとこ、そのネーミングがあの鬼記憶力とつながってんじゃないの。
名前を検索キーにしてるっていうか。
0742人間七七四年
2014/11/10(月) 16:22:06.07ID:9k1123KI0744人間七七四年
2014/11/10(月) 16:27:06.20ID:+E3xjUUwby政宗
0745人間七七四年
2014/11/11(火) 14:56:58.12ID:qyxZHoS6返り討ちにしたことも1度ならずなのにね
相手を選ばないとねえ
0746人間七七四年
2014/11/11(火) 19:53:40.00ID:NceFi3A/アレだけど
0747人間七七四年
2014/11/11(火) 19:55:04.33ID:avI3smnt難儀に及んだ。幕府は御先手に仰せ付け鉄砲でこれを討とうとしたが、その走ること至って速く、
終に討ち留めることが出来なかった。
そんな中、紀伊大納言頼宣卿は猪狩りが好きでその巧者である事、将軍家も聞き及んでおり、
彼が登城の時に、この八王子の大猪の話題が出、頼宣卿にこの退治を依頼された。
頼宣卿はこれを忝なくお請けし、退出するとそのまま直に八王子へと出掛け、所の名主年寄りたちに
支度を申し付け、それから帰館して、家中に触れを出して皆々に用意させた。
そしてこの事は尾張、水戸の両家にも聞こえ、両家よりそれぞれ優れた猟犬が進ぜられた。
さて、猪退治の当日となり、頼宣は夜明けから出立し八王子に至った。
頼宣卿は床几に座り、焼飯を盛った三方を前に置き、水戸殿より進ぜられた犬を召し出し焼飯を与え
「汝、得たる所であれば、隠れ居る猪を探しだすのだ。」
そう語りかけると、犬はしばらく頭をうなだれていたが、やがて頭を上げて山の方に向かい、
尾を巻き上げて一目散に走りだした。
暫くあって大猪が、山の方より荒れ狂って走り来た。かの犬は猪の前後左右を走り廻り、飛び付き
噛み付きながら共に走り来た。
列卒はこれを見ると他の犬10匹ばかりを猪にけしかけ、かの犬は傍に引き退かせて水を飲ませ
焼飯を食わせて休息させた。
しかし、大猪は大勢の犬を事ともせずあちこち暴れまわった。
ここで頼宣卿は下知を下し、尾張殿より進ぜられた犬を放すと、やがて猪の元へ走り行き、その喉元に
噛み付いた。
大猪はそのまま暴れ廻ったが、次第に弱り、人を踏み倒す勢いも見えなくなったため、
頼宣卿は下知して家士達に槍を持たせ猪に向かって駆けさせせ、終に大猪を仕留めた。
その時、あの犬を見ると、猪の喉に噛み付いたまま息絶えていた。
頼宣卿は「あたら犬を死なせてしまった!」と甚だしく嘆き惜しんだという。
この話は御鷹匠の長田清左衛門が、その時猪退治の人数の中にあって見たものだという。
(明良洪範)
0752人間七七四年
2014/11/11(火) 22:36:51.72ID:nwubIpv20753人間七七四年
2014/11/11(火) 23:18:29.41ID:y/0sBSfV0754人間七七四年
2014/11/11(火) 23:56:26.22ID:nwubIpv2『羽源記抄』
此書ハ羽黒山健之院信弁著作也。此僧ハ本来山形殿之家臣ト謂ヘリ。兄弟三人出家ト為リ荘内ニ住居ス。
中ニモ健之院信□ハ俗称金平質之助(金原七之助?)ト云テ、往古ノ金平如キノ荒モノナレバ世人金平ト異名セリ。
羽源記の作者が最上家の家臣で、仮に韻が当て字なら、上泉泰綱を討ち取った金原七之助との繋がりがあるかも知れない巷咄。
0755人間七七四年
2014/11/12(水) 01:13:53.00ID:jojW1hFp0756人間七七四年
2014/11/12(水) 03:45:38.90ID:49Pqado60757人間七七四年
2014/11/12(水) 05:37:51.64ID:uuLfvMgq0758人間七七四年
2014/11/12(水) 10:58:12.15ID:JnQbvN7m原文転載で終わらずにちゃんと訳せよ
0759人間七七四年
2014/11/12(水) 11:27:34.64ID:GNn9hRDY0760人間七七四年
2014/11/12(水) 11:33:04.09ID:F17jaxZE畝の端から端までラッセル車みたいに一直線にむさぼり食って綺麗さっぱりw
ちょっと頼宣卿をおれも頼みたい
ていうか>>747ですごいのは犬じゃんw
0761人間七七四年
2014/11/12(水) 12:12:52.39ID:akETb3QX0762人間七七四年
2014/11/12(水) 12:27:04.93ID:yZ9owJdf「ここの、ちょっとした土塁と石積み、ちょうど猪垣くらいの感じだな」って言ったら、
都会育ちの友人に、「“ししがき”って何?」と真顔で聞かれた。
それからしばらく、猪垣について解説してやったら、「へぇ〜っ」っとめっちゃ感心された
いや、今でも田舎の方に行ったら田畑の周りに残ってるところあるよ、って言ったんだけどね
うちの実家の周辺は今でも猪も猿も鹿もふつうに出没しますが何か?と言ったら宇宙人でも見るような目で見やがったw
そんな田舎者のオイラが通りますよっと
0764人間七七四年
2014/11/12(水) 21:13:01.00ID:jojW1hFp0765人間七七四年
2014/11/12(水) 21:53:09.16ID:PKvY1zNW0767人間七七四年
2014/11/13(木) 20:31:25.13ID:7Gf/O+oJ隠岐隠岐守為清も300余騎にて隠岐国より渡って来て、山中、立原に申し述べた
「それがしは近年毛利家に従って、隠岐一国を領知しました。これは身において本意ではありませんでしたが、
倅に家を相続させるため、力なくこれに妥協しました。
しかしこの度勝久様が当国に帰還され、恐れながら私も一族の端でありますので、大慶これに過ぎたることは
ありません。旧好を思われて、隠岐を相違なく安堵して頂けるのなら、この身命を忠戦のため
投げ打つ覚悟です。」
山中、立原はこれを聞くと、その内容を勝久に申し入れる旨を伝え、忠山に仮屋をかけ、大幔幕を打って、
為清の率いてきた300余人に饗応し、その後山中幸盛は言った
「為清殿の申し述べられた内容を勝久様に伝えた所、隠岐家が昔の好を思い早速入来したこと、
芳志の至である。従って隠州の事も望みに任すべきではあるが、同姓三郎五郎(隠岐清実)は、
近年我らが流浪している間もその志変ぜず付き従い、忠志浅からざるものがあった。
よって本国である以上、隠岐国は彼に宛てがうつもりである。
為清には意向を聞いた上で、出雲・伯耆の内においていずれの地であっても、望みに任せ現在の領地に
倍して安堵いたすであろう。そう仰られた。」
為清はこれを聞くと
「今度の戦いは勝久様の御本意あるものですから、外に所領を増やす望みは有りません。
また味方に参った以上、所を嫌うべきでは有りません。
どこの国であっても、相応の小郷一所を給われば充分です。」
そう言ってさらぬ体にて対応したが、実際にはこれを不本意に思い、この後、終には再び心変わり
したのである。
(芸侯三家誌)
隠岐為清、所領変えを言われ再び変心する、というお話
0768人間七七四年
2014/11/13(木) 21:43:31.65ID:Meb5omKSそりゃ離反するだろw
0769人間七七四年
2014/11/13(木) 22:19:12.79ID:AoUknHpQ0770人間七七四年
2014/11/13(木) 23:19:04.25ID:CE7rP0aH0771人間七七四年
2014/11/13(木) 23:28:06.42ID:nE/4tcwJ0772人間七七四年
2014/11/13(木) 23:46:38.08ID:Vi1vt8AD0773人間七七四年
2014/11/14(金) 02:30:34.52ID:gPyrjXAv1440年代の逸話ってここに書いてもいいのかい?
戦国時代突入してないのはわかってるけども江戸期の話題も入ってるからいいのかな、と……
富樫満成の記事もあるし………
0774人間七七四年
2014/11/14(金) 05:33:09.65ID:4E/JZRiI流刑地だから意外に中央とのコネクションが出来るのかな?
0778人間七七四年
2014/11/14(金) 08:06:42.05ID:vaY+nm1nその配流地を側近にくれてやる勝久ちゃんwって考えるとお前のレスがおかしいことは理解できるよな。
0779人間七七四年
2014/11/14(金) 19:34:52.80ID:BApKbovI0780人間七七四年
2014/11/14(金) 20:04:40.70ID:dMmI6OKx0783人間七七四年
2014/11/14(金) 20:37:05.47ID:jWvEJCBS今川了俊はさすがにだめかも知れんが
0784人間七七四年
2014/11/14(金) 21:55:33.03ID:wmB/yuqJ小弐家と九州探題の渋川家の争いが始まって、それに大内盛見が
介入してきたことで、小弐側に大友持直が協力して盛見を討ちとったら、
持直が幕府から逆賊扱いされて姫岳合戦で10年くらい戦い続けたりって
なんかずっと戦い続けてる感じだな
0785人間七七四年
2014/11/14(金) 22:17:51.81ID:gPyrjXAv二階堂氏の系図は数種類あり詳しい実態は不明である。
中興の祖とも言われる二階堂為氏は1443年に父・行続の死(1459年とも)でわずか12歳(13歳とも)で家督を継ぐ。
若年の為氏を嘲笑いやりたい放題していた家臣がいた。
一族の二階堂治部大輔であった。
そこで為氏は翌年(1444年)に岩瀬郡に下向して統治することを決意する。
しかしそこを邪魔したのが二階堂治部大輔であった。
為氏は近隣の城主の須田美濃守秀一(須田盛秀の先祖)に助けを求めた。
その後、為氏は須田美濃守の助力を得て治部大輔と戦うも和睦を結んだ。
和睦の内容は『為氏と治部大輔の娘・三千代姫の婚姻ならびに3年後の須賀川城の返還』であった。
三千代姫は当時12歳でありながら奥州でも屈指の美女で評判であり、頭脳明晰でもあった。
若き為氏が三千代姫に惚れたのは言うまでもない。
2人はラブラブイチャイチャでとても仲は良かったのだが、肝心の3年が経過しても治部大輔は須賀川城を返還しなかった。
そこで須田美濃守らは治部大輔にも為氏にもブチギレ、為氏と三千代姫を離縁してしまい、三千代姫を治部大輔のもとに送り返そうとした。
それに激怒したのが治部大輔であった。
三千代姫を乗せた輿がある和田軍一行に襲い掛かり、和田軍は三千代姫を置いて去ってしまった。
捨て置かれてしまった三千代姫はわずか15歳の若さで自害して果ててしまった。
三千代姫の死でひどい落胆を受ける為氏だったが、須田らの激励で元気を取り戻して翌年に治部大輔を討ち、須賀川城入城に成功した。
しかし、その後為氏は三千代姫の霊に悩まされ心身病弱となり、これが遠因となったのか1464年に亡くなってしまった。
なお、為氏の子・行光は三千代姫との間に出来た子らしい………。(年代的にその可能性は大いにあるとか)
(藤葉栄衰記、福島県の歴史などから)
須賀川城を手に入れるために結果的に色々と失った悪い話
0786人間七七四年
2014/11/14(金) 22:29:34.79ID:gPyrjXAv二階堂行光?-?(為氏子、1484年以前死亡?)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584
0787人間七七四年
2014/11/15(土) 01:30:32.18ID:K/26ccRy,';;/ /;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;
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0788人間七七四年
2014/11/15(土) 08:29:22.28ID:9OBAvpn6為行が羨ましいぞ
0789人間七七四年
2014/11/15(土) 19:20:23.83ID:rdZeeh9k毛利は香川光景を美作守とし、大将として新たに派遣した。
蘆田、三浦らは宇喜多和泉守(直家)にも支援を受け毎日のように城下まで攻めこみ、度々足軽の迫合が
あった。この状況に高田城内も動揺し、城の二の丸に熊野入道という者があったが、彼は元来出雲の者で、
尼子に志を通じて、兵糧蔵に火を掛けて敵陣へと立ち退いた。これにより城兵は、殊の外騒動した。
そんな中、城中に佐伯七郎二郎という、大力で知勇優れた者があった。かつて尼子が月山富田城に
籠城していた折、山中鹿之助が自分の下に付けたいと懇望し、妹を嫁がせたほど評価していた人物であった。
そして今、尼子再興の時節であるため、彼が再興軍に志を通じることもあると香川光景は疑い、
佐伯の下僕で、12,3歳ばかりの者を近づけ、折々酒食などを与えよく懐け、その後、様々なことを
尋ねてみると、この下僕は言った。
「三の曲輪の懸出の雪隠の下より、文を持って通う者が居ます。」
香川はさてこそと思い、宗像三郎左衛門、江戸三郎右衛門などに下知して、
かの雪隠の周りに伏兵を置いて待ち受けていた所に、敵が一人忍びきたのを、たちまち絡め取って
持っていた文を見ると、それは尼子方の蘆田五郎太郎の文であった。
これによって佐伯の逆意紛れ無しとなったがしかし彼は優れた力量の持ち主であったので、
たやすく討ち果たすというわけにはいかず、各々詮議して、先ず矢倉の普請を言いつけ
佐伯に奉行させて、その虚を窺って斬り殺すべしとし、討ち手の者達に言いつけたが、
佐伯は以ての外に用心していて少しも油断の体がなく、討ち手の者達は隙を窺うことも出来なかった。
ここで、香川光景の次男・兵部大輔春継が普請場に出て、佐伯とともに矢倉で工匠の働きを監督していたが、
佐伯の気が緩んだ所を見計らい、抜き打ちに、眉間を二刀打った。
佐伯、とっさに矢倉より飛び降りたが、痛手を負っていたためそのまま倒れた。しかしそれでも
刀を抜こうとしていた所を、兵部大輔が続けて飛び降り、その腕を切り落としたため、佐伯は
刀を抜くことも出来ず討たれた。
品川市右衛門はこの時離れた場所に居たが、この様子を見て走り来て、佐伯が倒れた所を斬りつけた。
(芸侯三家誌)
尼子に通じた佐伯七郎二郎を謀殺した折の逸話である。
0790人間七七四年
2014/11/15(土) 21:16:13.67ID:jgIQRXkh○須田軍
和田軍=和田城の須田軍の略である
0792人間七七四年
2014/11/15(土) 23:30:16.09ID:8Vu+Js+a個人的には乱世の大枠としてつわものの時代、源平、鎌倉末から南北朝、
戦国、幕末の枠があるとして、間のことは前後どっちでもいいと思う。
ただ、幕末は語義的に狭い時間を意味するし、南北朝は合一という明確な
完了点があるから、開始点終了点に諸説ある戦国は幅広くなる。
0793人間七七四年
2014/11/16(日) 00:42:31.18ID:935of+Jj0794人間七七四年
2014/11/16(日) 01:55:51.83ID:nF9hxvrC備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。
0795人間七七四年
2014/11/16(日) 01:58:24.17ID:nF9hxvrC勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。
備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、その無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。
0796人間七七四年
2014/11/16(日) 02:06:16.15ID:nF9hxvrC795の文章ですが、
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、その無事を喜び、
→帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、
です。
訂正させてください。
0797人間七七四年
2014/11/16(日) 04:56:37.18ID:fHBYzz2q0798人間七七四年
2014/11/16(日) 06:44:53.54ID:ecniO0zN0799人間七七四年
2014/11/16(日) 06:45:04.16ID:74yGtwhj0800人間七七四年
2014/11/16(日) 06:59:04.65ID:8FmGoyBr0801人間七七四年
2014/11/16(日) 07:49:34.94ID:njtJOn+k詳しくなろうとして詳しくなったんじゃないよ。
興味あることを追求していったら結果的に詳しくなっただけ。
0802人間七七四年
2014/11/16(日) 09:16:10.37ID:fAft7wW5一冊で済む便利本は無い。
史実は置いといて、逸話だけで良いならまとめスレ読むだけでも大分充実する筈。
0803人間七七四年
2014/11/16(日) 09:39:26.27ID:HWNEqOw8概説や通説は大体まとまってると思うから詳しくなった気分になれるぞ
スレチだけどな
0804人間七七四年
2014/11/16(日) 10:14:13.70ID:bKs5HjYCとりあえず総合的なものというのなら、大手出版社の出してる日本の歴史シリーズで、戦国史の巻を
読んでみるといいんじゃないかな?その場合はなるべく出版年が新しいものを選ぶのが大切
0805人間七七四年
2014/11/16(日) 10:24:08.86ID:nF9hxvrC製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。
ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz
>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。
0806人間七七四年
2014/11/16(日) 10:25:34.84ID:UlDy6aZ7コンビニで月1に出る歴史人なんかおすすめ
誤字半端ないけど(笑)
俺は無理に記憶しようとかすると辛くなるからさらっと読んでおしまいにしてる
それに書く人の私見が酷いから一つの資料で知った風になるのは危険だし
いろんな資料読んでって詳しくなるのがベストだと思ってる
ここはムック本じゃお目にかかれない話の宝庫だから楽しいぜ
0807人間七七四年
2014/11/16(日) 10:29:44.18ID:nF9hxvrCもともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。
水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。
0808人間七七四年
2014/11/16(日) 11:59:40.04ID:T0rCjJwx0809人間七七四年
2014/11/16(日) 12:47:13.22ID:1sq92kX40810人間七七四年
2014/11/16(日) 15:25:06.71ID:1T7aCUnZ政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。
そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。
その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。
秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。
政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。
以来両者は、君臣共に絶交となったという。
(『浅野長政公伝』)
0811人間七七四年
2014/11/16(日) 15:27:39.59ID:fHBYzz2q無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-18-80/rokutopuu19551219/folder/413608/76/4632276/img_1?1334578754.jpg
何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・
0812人間七七四年
2014/11/16(日) 15:51:43.37ID:nF9hxvrC面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。
子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。
0815人間七七四年
2014/11/16(日) 21:55:03.77ID:pGddJ81Oとりあえず地元と縁のある武将の本を読みまくって
関連人物へと広げていくのがやりやすいんじゃないか
自分はそうだったし
地元の武将なら地元の書店の郷土史のコーナーにわりとマニアックなものも
置いてあったりする
ただ>>798の出身が沖縄・北海道なら乙
0816人間七七四年
2014/11/16(日) 22:00:50.60ID:njtJOn+k一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ
>>815
沖縄なら乙だけど、北海道ならルーツは内地のどこかじゃね?
0817人間七七四年
2014/11/17(月) 00:45:53.34ID:ETEbGhSa明と島津にいいようにされとるが
0818人間七七四年
2014/11/17(月) 12:50:36.26ID:oxawx0Ei時代が違うけど…
0822人間七七四年
2014/11/17(月) 22:29:07.54ID:TShARMZU>>786で行光の没年がわかっていたことを見落としていた(>>821で確認済)
ごらんのように生年は不詳でも小早川氏ほどではないが、短命続きなのが推測できるであろう。
ま、一部そこそこ生きた人もいるが。(晴行と輝行)
だが、短命ばかりでは折角の勢力拡大・回復もパーだ。
生年が?のところは各自予測をたてるのもよいだろう。
二階堂為氏1432?-1464
二階堂行光?-1477(為氏子)
二階堂行詮?-1495/1497/1500(行光子)
二階堂行景?-1504(行詮長男)
二階堂晴行?-1537/1542(行詮次男)
二階堂輝行?-1564(晴行子)
二階堂盛義1544?-1581
蘆名盛隆1561-1584
蘆名亀王丸1584-1586
二階堂行親1570-1582/1585(盛義次男)
二階堂行栄1581-?(盛義三男or四男、当主形跡なし)
0823人間七七四年
2014/11/17(月) 22:56:27.29ID:/RSIwZRJ>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます
浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。
そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。
そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。
事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。
何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。
そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。
しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。
↑ここまでが能登配流の経緯
0824人間七七四年
2014/11/17(月) 23:03:07.60ID:/RSIwZRJ文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。
そこで徳川家康が、
「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」
と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。
使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。
幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。
これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。
(共に『浅野長政公伝』より)
0825人間七七四年
2014/11/17(月) 23:48:45.67ID:sWAI5QZj0826人間七七四年
2014/11/18(火) 00:42:11.51ID:AhAL2do80827人間七七四年
2014/11/18(火) 00:44:12.62ID:7E5JT4/mこの時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。
ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。
0828人間七七四年
2014/11/18(火) 00:53:55.97ID:i85WcvmH0829人間七七四年
2014/11/18(火) 01:49:10.04ID:4lAv9pPZ確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ
0831人間七七四年
2014/11/18(火) 02:29:12.46ID:4nD8sGuBいくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは
>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。
0832人間七七四年
2014/11/18(火) 02:47:58.93ID:mOvZS9tu0833人間七七四年
2014/11/18(火) 02:57:43.13ID:7E5JT4/m大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw
>>830
功名が辻にも一応いたような…?
0834人間七七四年
2014/11/18(火) 08:55:44.94ID:BuhQ+WP20836人間七七四年
2014/11/18(火) 16:52:14.88ID:LwSHz8/F0837人間七七四年
2014/11/18(火) 17:58:55.50ID:bm2j5plX今の世もそうだが、ちょっとした口喧嘩が原因で殺人事件に発展することはよくあることだ。
現代では男女の別れ話が原因で女性側がよく殺されるパターンは不謹慎ではあるがお馴染みであり、何かと予測がついてしまうものでもある。
戦国時代でも似たようなパターンはあり、男色での浮気で揉めて殺された者もいれば、狩猟中に目当ての獲物をいらない一言で逃して怒られて逆恨みで殺した者もいた。
今回の諍いもちょっとしたことが原因で殺人事件が勃発した。
1498年の寒い季節、松浦家の嫡流である相神浦松浦家当主・松浦政(1477-1498)はちょっと行き違いが原因で家臣の山田四郎右衛門を責め諍いとなってしまった。
これを恨みに思った四郎右衛門は弟・文左衛門を連れて出奔し、平戸松浦氏へと逃げ込んでしまった。
松浦政討伐を山田兄弟に頼まれた松浦弘定・興信父子は数年前に政の父・定によって煮え湯を飲まされた恨みもあり、討伐の絶好の機会ととらえ、政の居城である大智庵城を急襲。
城は一夜で落城し、政は自害し、政の妻子を捕らえてしまった。
ただし、相神浦松浦家が平戸の松浦家に屈服するまであと70年の年月を要するのであった。
0838人間七七四年
2014/11/18(火) 18:39:16.55ID:bm2j5plX高信の父・国信は主君・山名久通(旧名・誠通)の命により久松山城(のちの鳥取城)の改築城を命じられた。
武田国信は若狭武田家の出身であり、若狭武田家3代当主の国信とは別人である。
彼は若狭武田の更に庶流にあたるという。
国信は自分も1国の主を目指すんだという思いがあったのか、若狭を離れて因幡に到着。
そして、この鳥取城の普請の命を受け、完成したら鳥取城を足場と考えた。
結果、鳥取城はかなり堅固な城として完成した。
1545年のことであった。
しかし、この策謀を主君・山名久通が見逃すはずもない。
不審に思った久通はすぐに国信を殺してしまった。
両者の子供たちと鳥取城がどうなったかはまた別のお話。
1人の野心が現代におけるかつ江さん誕生に繋がるとはつい最近まで誰も知らなかったであろう。
0839人間七七四年
2014/11/18(火) 19:42:49.60ID:c3cxOapc>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…
0840人間七七四年
2014/11/19(水) 07:16:00.85ID:jG4jvGsl0841人間七七四年
2014/11/19(水) 08:19:37.26ID:8OLblkt5会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう
0842人間七七四年
2014/11/19(水) 09:08:37.14ID:l80z4riQ久留島(来島)らに退治を命じた。
そこで佐渡守の屋敷へ皆が集って協議していると、左馬之助がやってきて「なんで知らせてくれなかったんだよ!」と言った。
皆は「ここは安宅(大型船)を持ってるやつだけで協議してんだよ。お前は安宅を持ってないんだから教えなかったのは当然だろ。」と口々に言ったので
左馬之助は腹を立て、「安宅なんてなくても皆の集まりには盥(たらい)に乗ってでも参上する!」と言って帰って行った。
『弾塚助之進征韓紀聞』
引用元は参謀本部編「日本戦史 朝鮮の役」
0843人間七七四年
2014/11/19(水) 10:05:03.82ID:bUh9RFbh0844人間七七四年
2014/11/19(水) 10:07:24.44ID:7AfqQ5uK0845人間七七四年
2014/11/19(水) 10:33:40.62ID:fPrFgDdN0846人間七七四年
2014/11/19(水) 10:42:02.61ID:V1V66d1R0847人間七七四年
2014/11/19(水) 11:30:42.57ID:w54PN1cb0848人間七七四年
2014/11/19(水) 12:29:05.45ID:4HaHXYefあれにちょうど海に乗り出すたらいがあったわw
0849人間七七四年
2014/11/19(水) 22:37:07.07ID:Y5ydmYUj0850人間七七四年
2014/11/20(木) 00:43:02.71ID:nN8A1gZk0851人間七七四年
2014/11/20(木) 05:21:03.63ID:/6neHdQ5慶長5(1600)年、徳川家康は上方の石田三成の挙兵の報を聞くとただちに軍を西進し、後に残された奥羽の情勢は急転した
上杉家に伝わる軍記「上杉家記」にこの頃の外交文書のひとつとされるものがある
一、今度当地江御発向可被成と承付而 書状以申上候 跡々御家中の者同前に馳走仕段 申進候事
一、先年御差図を以 家康伏見城へ移被申候 御前様ハ若松へ御下向時分 拙者儀者山科大屋毛の原まで罷出 御門送り仕 御主同前に拝し申候事
一、拙者の儀ハ国本へ飛脚を差越 嫡子修理大夫を若松へ御着之翌日為致出仕 御主同前ニ致候事
一、其後家康伏見之城ニて 五日評定被致候 我等式も其列ニ罷成日々罷出申に調といへ共
直江承引なけれハ 御静謐より外無之と相極申に付而 毎日之評談御留守居千坂対馬守へしらせ 早々会津へ申入よと為御知仕候 定而御覧可有御坐候事
一、御評定相済 若松へ御手向之時分 正宗と拙者ハ隣に御座候付 早々夜を日につき罷下 界之道橋を拵
白川表へ先手着候而 早々御領分へ物色を出し候事と被申に付而 急度□元へ罷下候事
一、正宗儀者国元へ罷下 則儀領分を一郷も二郷も打破り 慮外を申上候に御かまいなく被差置
拙者之儀ハ 右より是非御すねをだき入可申と存候ニ付而 至今日迄御領分へ足軽壱人も出し不申に 慮外を仕正宗をハ被差置
是非可頼入と存 拙者へ御手向之儀迷惑ニ存候事
右条々被聞召分被下候ハハ 嫡子修理大夫を証人に差上 其外家人証人之儀ハ 二重にも三重にも 御差図次第差上可申候
拙者之事ハ人数一万召連 何方迄も御用に相立可申候間 可然様に被仰上可被下候 恐々謹言
最上出羽守 義光
八月十八日
直江山城守殿
「上杉家記」
※ただし『上杉家文書』には上記に該当する文書は原本も写しも存在せず、また上杉家側からの山形攻めを記した『越境記』「最上合戦記」と同時期の上杉将兵の手紙にも
最上義光の降伏文書について記されたものはない
『越境記』には「最上の百姓や代官らが上杉領をたびたび侵犯した」事が山形攻めの理由とされ
上記「上杉家記」の降伏文書も最上家改易後の江戸時代に捏造されたものではないかといった説も存在する
0852人間七七四年
2014/11/20(木) 07:30:08.90ID:TZaO/MC8書いてある内容が現実と一致して無かったりするし
0854人間七七四年
2014/11/21(金) 13:18:20.16ID:Jy+rDUPv0855人間七七四年
2014/11/21(金) 13:50:31.42ID:WiXHrUYDちなみに「日本戦史」でその逸話には「加藤嘉明の気概」ってタイトルがつけられてるから
つまり、やる気を見せた、いい話という扱いなのだ
0856人間七七四年
2014/11/21(金) 23:17:54.78ID:jRwsxZfR0857人間七七四年
2014/11/21(金) 23:40:42.82ID:JvCl2kZo0858人間七七四年
2014/11/22(土) 15:08:27.21ID:16pf4Ac/何かの本で砂加藤の砂食い発言も、加藤光泰の気概とかいうタイトルで紹介されてたわ
0859人間七七四年
2014/11/22(土) 17:26:10.64ID:Hic+C68m0861人間七七四年
2014/11/23(日) 03:23:28.21ID:DnDEKrTy武藤喜兵衛に兄の後を継ぐよう武田勝頼が命じ、真田安房守(昌幸)と称した。
この安房守がある時、高坂弾正に問うた
「織田信長は長篠において当屋形勝頼公に勝ち、その余勢を以って越前の朝倉、伊勢の国司を
完全に滅ぼしました。そうして四国、西国、関東奥州までも末には治めるであろうこと、
長篠の勝利を得て以降一層その姿勢を強めています。
ですが、信長の仕置が、源頼朝や執権の北条家、あるいは足利尊氏にように、代替りまで無事にあって、
末代までも人が沙汰するような仕置に、信長のそれもそうなると、弾正殿は見ておられますか?
願わくばこの事について、ご意見を伺わせて頂きたい。」
高坂弾正は答えた
「信長の仕置についてだが、今は先ず危うい。何故かといえば、家臣に大国を与え彼らを国主に
任じている。その中には才能ある人物が居ないということはない。
そうして、明日にでも信長が病死すれば、子息城之介(信忠)は大身の二代目であるから、
どうしても全てのことを仔細に見ることはない。
一方で出頭してきた侍は何事も明細であるから、元からの大身と出頭の大身とを比べれば、
同じ時代においては出頭の者が勝つものなのだ。
そうした家臣を必要以上に大身にすることを止めれば、そして信長の仕置さえ良ければ、嫡子城介信忠も、
その舎弟で伊勢国司に定められた三介(信雄)も、殊の外能く生まれついた大将だと聞いているので、
信長死後も治まるであろう。」
(甲陽軍鑑)
高坂弾正による信長の仕置についての批評である。
0862人間七七四年
2014/11/23(日) 09:48:46.51ID:LSyOJJKj0863人間七七四年
2014/11/23(日) 11:38:04.18ID:5tWOOnpY0864人間七七四年
2014/11/23(日) 12:12:38.50ID:Yg3gQ5Ct0865人間七七四年
2014/11/23(日) 14:57:01.40ID:YMT1P9bd0867人間七七四年
2014/11/23(日) 17:18:38.37ID:PyDVnSzn0869人間七七四年
2014/11/23(日) 18:52:45.28ID:DnDEKrTy>>868
安国寺恵瓊の、信長が「左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」もそう思うのか…w
0870868
2014/11/23(日) 19:07:29.68ID:fjKL9pZL0871人間七七四年
2014/11/23(日) 19:29:49.25ID:8qA7NOh70872人間七七四年
2014/11/23(日) 19:33:44.16ID:R5XCZ6nuてか朝倉の滅亡が長篠以降だと昌幸が語る件はスルー?
0873人間七七四年
2014/11/23(日) 19:35:23.93ID:Z4d1Bu2W長〜い書状の後ろの方にちょこっとだけ書いてある内容だし。
0875人間七七四年
2014/11/23(日) 19:44:00.59ID:txFhh7/30876人間七七四年
2014/11/23(日) 19:56:03.45ID:L9FleZXD「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」
天正元年(1573年)12月12日付書状
本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日
以上
0877868
2014/11/23(日) 21:58:47.17ID:fjKL9pZL朝倉は見落としてたけど、高坂の記憶違いよりも編纂時の不手際に見える。
恵瓊の引用ありがとう。全文は知らないが、宛所からいって偽造ではなさそう。
0878人間七七四年
2014/11/23(日) 22:00:13.18ID:aApNv2K7同時代の他の武将から高く評価されてたってことなんだろうか
0879人間七七四年
2014/11/24(月) 00:10:28.01ID:qgfRSAdnそのうちしくじるだろうよ、では
秀吉にしたって、なかなかのものである、てだけで天下取るとまでは書いてないし
0880人間七七四年
2014/11/24(月) 01:35:47.97ID:NSOJ21ae0881人間七七四年
2014/11/24(月) 05:47:37.52ID:aquGLh070882人間七七四年
2014/11/24(月) 12:54:21.79ID:MYMJJZGJ完全に違う展開語ってるだろ
本能寺の変が無かった場合の予測だよ
予言が外れたって言ってるやつ、日本語読めないの?
ちょっと昔の文語だからわからない?
「五年、三年は持たるべく候」←本能寺の変まで5年、3年以上持ってる
「左候て後」←5年、3年以上経った後で、という意味
0883人間七七四年
2014/11/24(月) 13:31:13.13ID:kE9YHBFX幕府は、三、五年は持つだろうが
その後滅亡するだろう
でもいいことにならないか
0884人間七七四年
2014/11/24(月) 13:48:19.06ID:8Ui7/5EL誰かしらない?
0886人間七七四年
2014/11/24(月) 18:45:29.41ID:KsWFwMll0887人間七七四年
2014/11/24(月) 19:45:10.58ID:lmqck0Dm結局家康が天下をとっただろうしね
0888人間七七四年
2014/11/24(月) 20:07:17.92ID:jRQzr4P10889人間七七四年
2014/11/24(月) 20:43:23.71ID:y+GediFy諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。
この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。
しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、
「大阪方に止まれと言っても栓もない。」
と、力を落としたそうである。
(明良洪範)
0890人間七七四年
2014/11/25(火) 03:56:56.66ID:B93gk4uE紀州の加太か
0892人間七七四年
2014/11/25(火) 16:10:26.76ID:DCo5GGdU数十年で死ぬことが確実な個人と組織が対等に置き換えられるって?
それに、恵瓊が「予言」って言われてるのは、あっけない幕引きを
暗示してるからじゃないだろうか。あんたの表現が妥当な置き換え
だとはとても思えないよ。
>>885
時期を特定せず、ある人物が病死するか事故死するか、死に方を
特定したら予言と言っていいと思うんだが。
0893人間七七四年
2014/11/25(火) 16:20:51.41ID:DsL9mEjk間違えたんだろ。
0894人間七七四年
2014/11/26(水) 00:44:53.72ID:ZRAx/03K真田安房守(昌幸)は再び高坂弾正に問うた
「大敵の押さえのためには、せめて配下に一国を与えなければ都が危うくなります。ここを考えれば、
信長が配下を大身にしているのも、この他に仕置の有り様がないからでは有りませんか?
彼の行っている仕置よりも、良い方法があるのでしょうか?願わくば高坂弾正殿の工夫を
お聞きしたい。」
高坂は申した
「私が存じているのは大したことではないが、4年前信玄公が御他界されたが、今も御在世ならば
天下の仕置をしていたこと疑いない。なぜならあの時、伊勢、越前、河内、和泉、四国、その他
紀伊国大和国の小身なる者達まで信玄公に内通し、その都入りを皆が待ち望んでいたからである。
であるからあの時は、三河の家康さえ押しつぶせば、信長がいくら大身でも、さほど手間は取らなかったであろう。
(このあと家康の攻略について色々書かれているが略)
家康さえ滅却すれば信玄公の都入りに問題はなかった。しかればその春、東美濃に発向なされる時、
3月15日、その前の14日に私を召し寄せられ、「信州勢1万5千の人数を預けるので、北越の輝虎を
押さえるように。」と命ぜられ、その時「私の煩いもこのように平癒したので、来年中には都に
旗を立てる」と言われた。
天下の仕置とは都をさして申す。何故ならそこに日本の主、帝王が御座なされているためである。
であるから、信玄公の煩いが後まで平癒し、3年の内に都に上がり参内を遂げ、勅命を以って都の意見を
仕るようになれば、天下(畿内近国)信玄公が居ない時は危うくなる。
だからと言って都の周りに大身のものを置くのも危うい。
よって、都のある山城国は禁中への恐れにこれといった城はないので、屋敷構えを良くして
その屋敷のまもりに逍遥軒(武田信廉)を差し置き、都近国には敵を押さえるために、馬場、山縣、
内藤、小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡、安中、相木など、そういった者たちを1国に1人づつ
郡代に定めて、その他は譜代の小身なる者たちをいかほども取り立て、仲の良し悪しを目付け・横目に
尋ねて、それをうまく組み合わせて一国の中に何人も置く。
その他、日本を皆治めれば、遠国にはまた、国の2つや3つもくれて置く仕置ならば、たとえ信玄公の
亡くなられた後、どれほど分別のない侍に跡を継がせたとしても3年は保つことができるだろう。
前の大将が死んで3年も保てるようにするのは、前代の手柄である。
4年目からは後を継いだ大将の分別が良ければ誉れを得て、悪ければ恥を得る。
中でも、天下の権を2代保つのは、ただの家を百代保つより弓箭を取っての誉れである。
信玄公がかつてそのようにおっしゃったのを存じている。
そこから考えれば、今、織田城介殿(信忠)、三介殿(信雄)は信長に良く似た若者たちであるが、
信長死後は危うい。」
そう、高坂弾正が真田安房守に信長に関する話をした。
(甲陽軍鑑)
0895人間七七四年
2014/11/26(水) 02:20:14.72ID:q9TPqEjk単に旧知だから輝虎と呼んだんかな
まあ甲陽軍鑑だからあんま細かい突っ込みはなしか
0896人間七七四年
2014/11/26(水) 10:27:35.38ID:G7qfaeAX0897人間七七四年
2014/11/26(水) 15:52:04.16ID:E4HgbFfa0898人間七七四年
2014/11/26(水) 22:45:33.01ID:bipZtyzt0899人間七七四年
2014/11/26(水) 23:35:56.10ID:FeE1bPRZ0901人間七七四年
2014/11/27(木) 01:44:44.44ID:tMU/qxXI「ここに居る男は松永弾正久秀と言って、人の成し難きものを三度まで成し遂げた者である。
第一は己の主人である三好義長(義興)に勧めて、共に光源院将軍(足利義輝)を襲い殺した。
第二には将軍を弑せし上にて、主の三好をも滅ぼした。
第三には南都の大仏を消失させた。
これらは大胆不敵の所業であり、並々の者の及ぶところではない。良くお見知りあるように。」
そう事も無げに言い、これに久秀は赤面して何も言わず、全身から汗を流してひれ伏していた。
家康はやおら立ち上がると、久秀の側に寄り
「御邊の事はかねてから承っておりましたが、互いに遠路を隔てていたため、これまで面会する機会も
ありませんでした。今後は心やすく声をかけて頂けますように。」と挨拶をした。
帰殿の後、老臣達が御前に出てきた折、家康はこのことを話した
「その時の久秀の様子は大変気の毒であった。彼の悪行というのは確かに言うまでもない。
しかし先ごろ、信長が金崎を引き取る時、前後に大敵を受けていかにも危急ならば、近江の
朽木の領内を通って帰ろうとした。朽木は佐々木氏の領邑であり、同じく浅井の与党であるから、
如何せんと信長は心悩ませていた所に、久秀自ら朽木の方まで行き、種々説得して彼を味方につけた上に、
人質まで出させて立ち帰り、そのことを信長の申し上げれば、信長も懸念を散じ、朽木を通って
帰還することが出来たという。
もしこれが事実だとすれば…。」
家康はこれだけを言い、末の言葉はなかった。
(もし此事の実正ならばと仰せられしのみにて、末の御詞はなかりしとなり。)
(落穂集)
家康はこの後どのように考えていたのか、色々と想像をさせる逸話である。
0902人間七七四年
2014/11/27(木) 02:11:41.88ID:GNA38kss尾張−三河間は境川で分かれるけど地続きみたいなもんだしね
信秀と清康みたいに争って疲弊するより、同盟組んで背中合わせて
愛知県でまとまれば徳川は飯田方面と浜松方面だけ防御すれば良くなる
0903人間七七四年
2014/11/27(木) 07:43:10.05ID:hyVf2W/Q0904人間七七四年
2014/11/27(木) 07:48:21.06ID:X1RObNCd0905人間七七四年
2014/11/27(木) 08:05:58.18ID:hJJyucej0907人間七七四年
2014/11/27(木) 19:37:01.05ID:iTneZW9J0908人間七七四年
2014/11/27(木) 20:23:24.84ID:ZzGuMqWT0909人間七七四年
2014/11/27(木) 21:58:06.39ID:uknHPjtM>>901は信長流の誉め言葉だと思うのだが
弾正は何故赤面するのか
所詮はその程度の器だったと言う事か
0910人間七七四年
2014/11/27(木) 22:04:20.86ID:DcS2Ndx30911人間七七四年
2014/11/27(木) 22:12:04.55ID:OK7R2zc3http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8515.html
0912人間七七四年
2014/11/28(金) 00:15:38.75ID:yBa/RiIY関白が決めた日程に従って、彼のために城に似せた形の宿舎を建築したことである。
それらは最良かつ多額を費やして造られ、いずれも金張りの座敷を備え、その周囲には随行者のための
多数の大いなる借家が用意されていた。かくて関白は毎晩、宮殿のような場所で贅沢の限りを尽くして
宿泊することになったが、このように新築された宿舎は20近く、その全てが豪華であり、しかもほとんど
時を同じくして造られたのであった。その他、朝鮮を征服するための艦船などの準備を推進するために、
関白が日本中に加えた圧政は並々ならぬものであった。
だが関白はその痛みを感じることもなく、またその為に自費を必要もしなかった。
日本の人々にとってそれはまさに耐え難いことであったが、この国の貴賤上下の者が関白に示すこれほどの
屈服と従順さは、この世に類例を見ないものであった。
何故かといえば、我らヨーロッパの強大な国王や大侯ですらも莫大な経費と長い期間をかけねば不可能な
事業を、彼はいとも短期間に遂行せよと命じていたからである。
このような仕事が進み、すべての人がこの征服事業の準備に忙殺されていた間に、次のような噂が広く広まった。
それは
『関白はこの事業を成就し得ないであろう。そして朝鮮に出陣するに先立って、日本中いたるところで
大規模な反乱が蜂起するだろう。』
というものであった。
実は人々はこの征服事業に加わることを嫌悪しており、まるで死に赴くことを保証されているように考えていた。
婦女子たちは父や夫の出征で孤独の境地に追いやられたことを泣き悲しみ、もはや再び彼らに見えることは
出来無いと思っていた。そしてその多くは後に、現実のこととなった。
事実、日本中に不安と慨嘆が充満し、そのために誰か強力な武将が、必ずや関白に向かって叛旗するに
違いないと感じられていた。そして人々はそのように希望し、誰かがそのことを実行する事を期待していたのだが、
結局は、猫の首に最初に鈴をつけることを名乗り出る鼠は、一匹も現れはしなかった。
何故なら、諸侯が関白に対して抱いていた恐怖心は極めて大きく、もし一人が謀反を敢行した場合、その者は
他の全員から直ちに見放されてしまうと考えられていたからである。
そして仮にそういうことが起これば、別の者が、謀反人のことに関わって本年は朝鮮出陣の企てが中止に至ることを
喜ぶことであろう。
諸侯は互いに胸襟を開き親交を結ぼうというような信頼感を全く持ちあわせておらず、自分が胸襟を
打ち明けた相手によって訴えられはしまいかと極度に警戒して、誰一人として動こうとはしないのである。
かくて全員が嘆き悲しみつつも、結局はこの遠征に加わらざるを得なくなった。
関白はいとも安楽な生活を続け、一同の心を奮起させようとして「予は多くの国替えや領地替えを行うであろう。
この度の企てに加わった者には、朝鮮やシナで国土を賞与するであろう。」と言っていた。
また有馬殿(晴信)に対しては、「汝にはあちらで三国を取らせよう。」と言っていたが、
有馬殿であれ他の誰であれ、関白の面前では大いなる感謝の意を表し
「そのようなお言葉を賜るのは無常の喜びであり、死をも厭いません。」
などと言ってはいいたが、皆本心では、たとえ僅かでも自分の生まれた土地を所有する事のほうを望んでいた。
従って、彼ら諸侯一同は関白が実際に国替えをしかねないと思われたので、何一つ逆らわず、厳格に
彼に従ったため、誰一人として反旗を翻したりはしなかったのである。
(ルイス・フロイス「日本史」)
0913人間七七四年
2014/11/28(金) 12:59:19.05ID:He2d5W0A人前で家康age弾正sageされてプルプルきちゃったって事か
0914人間七七四年
2014/11/28(金) 23:07:44.07ID:yBa/RiIY呼び召した)
彼らが入ったあと、関白は多くの質問をし始め、様々な事を語ったが、つねに修道士の答弁に
満足の意を表した。関白はこの件に関して今まで何も聞いていなかったのだ。
また関白は修道士に、先に出されたキリシタン追放令に対し
「伴天連たちにはもともと罪はなかったのだが、彼らの門弟である一部のキリシタン諸侯が、それぞれ
度を越えた信仰熱から、己の家臣を無理やりキリシタンにするという、甚だ慎重さを欠いた行為に走ったため、
伴天連追放という事態に立ち至ったのだ。」
と述べたほどであった。そのことで関白は、諸侯に勧めてその家臣を挙げてキリシタンとさせ、神と仏の社を
破壊したジェスト(高山)右近殿に何か咎を帰せしめようとしている様子であった。
だかそれは右近殿の罪どころか、むしろ彼の大いなる名誉と見なされるべき事であり、また事実
その通りなのである。
関白はまた、インドでは皆、誰もがキリシタンなのかと尋ねた。
修道士はそれに
「インドは大国であり、幾つもの宗教が在って、なりたいものだけが自由にキリシタンになる。
また自ら進んで帰依したいものだけがこの教えを奉ずるに至るので、司祭たちは至る所でこの教えを
説いているが、誰もその教えを悪く思いはいたしませぬ。」と言った。
関白はこれを聞くと非常に満足した様子で
「日本もそれと同様にあるべきである。
また予はポルトガル人と貿易を継続することや、余がインド副王に、また副王が予に使者を派遣することを
望んでいる。
だが宗教は、各人が従来信じていたものを信じるのが良いのだ。」
更に小声で
「日本では下賤の者がキリシタンになるのは、一向に差支えはない。」と語った。
(ルイス・フロイス「日本史」)
キリシタン追放令について、キリスト教側の、宗派への攻撃や強制改宗が問題なのだ、という事を
秀吉が語っている記録である。
0915人間七七四年
2014/11/29(土) 03:47:33.64ID:WE4+AOvdまず信州平賀成頼,なかなかの名大将との評判であったが,武田二十六代目信虎公に討ち負けて討ち死にすれば,その名は伝わらなかった.
越後長尾為景,越中のはっきりした大将がないばらばらの侍共と戦って討ち死にしたので,子息輝虎の十分の一も四方に名を知られていない.
信州更科の村上殿,浅からぬ覚えの大将と言われども,武田二十七代目の信玄入道晴信公に打ち負けて,自分の持分を捨てて越後へ立ち退き,自分より若い輝虎頼みなさったので,諸人村上殿をほめない.
しかし長尾輝虎,越中・加賀の衆に負けられても,どうしてか名高く言われているのかと思うであろう.
それは,輝虎後に工夫して,加賀・越中の大将の居ないばらばらの侍を,北条氏康・武田信玄などのようにまともにあたったので,後れを取ったのであり,
かかる一揆にはみだりに攻めるべきだと,輝虎は家中の者を勝手気ままに攻めさせたので,翌年の合戦は大いに輝虎は勝たれて,加賀の尾山というところまで追い討ちなされた.
是は尋常ではない弓矢の上手で,日本国中の末代までの手本となるだろう.
しかれども,下劣なる者は武勇がわからず,歌を作って歌った.
その歌は,「さても越後の輝虎様は,関東おもてはおてらしあげるな,加賀の鑓にはおくもりあり候候」と歌う.
(甲陽軍鑑)
たとえ謙信でも負け戦で馬鹿にされるもんなんだなあ
0916人間七七四年
2014/11/29(土) 19:17:00.53ID:JDJ5DzKe0917人間七七四年
2014/11/29(土) 19:39:14.58ID:lgU4F5r40918人間七七四年
2014/11/29(土) 20:00:38.02ID:m9RG6jQQ0919人間七七四年
2014/11/30(日) 02:42:13.18ID:pLG88mxo天正10年山崎合戦の時、大いに傷を受けたが、ともかくも治療し、創口は既に癒えたものの、
未だ全快には至らなかったため、翌年正月、摂津国有馬の温泉へ行き湯治をしたところ、
幾日もたたない内に体調も平癒し、創口も完全に癒えた。
と、ここで桐若は思った。
「この有馬の湯の妙なる事、入浴しただけでも傷を癒やすことが出来た。
であればこの湯を飲めば、その功より効くのではないか?」
そして柄杓に三杯ほど飲んでみたところ、たちまち腹痛を起こし、激しい下痢に襲われ、
これによって再び創口も開き、身体衰弱して死んだ。享年四十二歳であった。
官兵衛はこれを聞き、「私の利剣が折れてしまったようだ」と、甚だ惜しみ悲しんだという。
(黒田家臣伝)
0920人間七七四年
2014/11/30(日) 02:49:14.40ID:tguffU650922人間七七四年
2014/11/30(日) 05:17:41.12ID:yMxNelkfhttp://i.imgur.com/SgYzZGm.jpg
0924人間七七四年
2014/11/30(日) 08:00:43.07ID:bLUjRBE2子供は見るな
0925人間七七四年
2014/11/30(日) 10:19:25.19ID:qErjAoXQ子供じゃないんだから…ってふと思ったんだけど、昔の温泉て今で言えば「秀吉と混浴なう」みたいな事ってあったんだろうか
「見てあの黒田さんのとこの…温泉飲んでるし」…[って
0926人間七七四年
2014/11/30(日) 11:32:06.42ID:BZU8KkRU天正16(1588)年8月、庄内に上杉軍が攻め込んだ際に遠く山形城下で大規模な火事があった
そして日を置いた天正17(1589)年3月の伊達家の記録がある
ね(子)、廿九日
天気よし 三女房御参候 白岩殿御参候 牧夕参り被申候 御前にて詩をつくり被申候 御不断衆ニ御酒被下候
白石より鮎参候
山形火事の御到来 黒川義安遠行御到来 夜ニ入御前へめし出され 松伊 片紀 遠将 大喜御酒被下候
最上義光の治世には少なくても二ノ丸以下の城下町を延焼する大規模な火事が「平時」に4〜6回程あったとされ、義光の死後の家親・義俊の代にも数度山形城下は火事に見舞われている運の悪いお話
0927人間七七四年
2014/11/30(日) 11:41:37.53ID:BZU8KkRU山形城は本丸だけを残し、二ノ丸、三ノ丸、侍町、近辺の商民家と多くの寺社が全焼
慶長17(1612)年春城下で火事
元和三(1617)年寺社町付近でまた火事
他にも義光の生前?に年代不明で本丸の一部や城下で火事
0928人間七七四年
2014/11/30(日) 14:59:41.82ID:tk+JrTIL/  ̄ ̄`ヽ / __ / __ / / \  ̄| ̄ヽ |
| | / __ / / / | ノ │
\ _ノ / ヽ__ _) / ヽ__ \/ ノ ノ ヽノ
0929人間七七四年
2014/11/30(日) 17:09:20.22ID:Jgvk3vmjもうそろそろ最上の話は本スレでやってくれ
0930人間七七四年
2014/11/30(日) 17:10:12.75ID:OutoveY40931人間七七四年
2014/11/30(日) 17:12:35.33ID:I4I9k1Mm0932人間七七四年
2014/11/30(日) 20:27:04.23ID:C3/L//j30934人間七七四年
2014/12/01(月) 07:21:21.52ID:/UEWFWtq0935人間七七四年
2014/12/01(月) 15:34:24.79ID:NcWWY9TD0936人間七七四年
2014/12/01(月) 16:20:04.19ID:/ee3S15P平時の火事はどうしてたんだろう?
0937人間七七四年
2014/12/01(月) 17:55:58.86ID:+wcI9v4M0938人間七七四年
2014/12/01(月) 20:47:12.39ID:H8GKU5+x0939人間七七四年
2014/12/01(月) 23:36:47.73ID:Bz1478ynちょっと立ち寄ってみたが、おれは放火なんかしたことないからな。
それじゃ、女子供を天井から撃ちに行くから、ヒャッハー!
0940人間七七四年
2014/12/01(月) 23:49:13.08ID:CHGPaSHAこの時、その家人たちも共に乗り入れようと七兵衛の腰に取り付いたため、
上帯が切れて刀が塀の下に落ちてしまった。
ところが七兵衛は少しも戸惑わず、たちまち塀を乗り越えると柵の木を引き抜き、これで
向かってくる敵を叩き伏せ遂に勝利を得た。
この七兵衛の父は若狭といい、相模国の人であった。
七兵衛は武者修行に出て尾張国前田村に居たのを、信長が召し出したのである。
七兵衛は尾張二本木の戦いの時、戦が急に始まったため甲冑を着る間がなく、
有り合わせの編笠のみをかぶって出て一番槍を合わせ手柄をし、信長はこれを大いに
賞賛した。この時から人々は彼を異名して、編笠七兵衛と呼んだ。
後年豊臣秀吉に仕え。度々軍功あって旗奉行となった。
(明良洪範)
刀を落としても甲冑をつけてなくても特に関係なかった人のお話
0941人間七七四年
2014/12/01(月) 23:57:24.21ID:Bz1478yn防具があっては、そこに油断、甘えが生ずる。
生か死か!
背水の拳の威力は、うーん、戦国時代だと、無手で
殺されたお方って誰だろう?
0942人間七七四年
2014/12/01(月) 23:59:36.59ID:y4XPNVPd0943人間七七四年
2014/12/02(火) 03:28:30.11ID:ICcEcvKN0945人間七七四年
2014/12/02(火) 09:43:55.79ID:E8ThLmSv0947人間七七四年
2014/12/02(火) 12:49:13.81ID:ICcEcvKN0948人間七七四年
2014/12/04(木) 22:40:29.86ID:xbFqXnl6彼は16歳の時に奉公を志し、父の家を出て中村式部少輔(一氏)に仕えた。
この年、小田原の陣における箱根山中合戦があり飯尾もこれに参戦した。
彼の家人である岡村与次右衛門は老功の者であったが、飯尾に対しこう言った。
「敵の草履取りか下辺の者達が落ちてくるでしょうから、それを討つのが良いでしょう。」
飯尾は強く反発し
「それは士のすることではない!また討っても意味のない行為である!」
しかし与次右衛門は「是非これを討つべきです」と重ねて進めた。
こうして飯尾は何の手間もなく敵を突き殺して首を取り、それを式部少輔に見せたのである。
(黒田家臣伝)
0949人間七七四年
2014/12/04(木) 23:15:02.20ID:gDn526bq褒められたの励まされたの
0950人間七七四年
2014/12/05(金) 02:30:48.45ID:10qg/MX/或いは敵が向かってくるのを聞き、先鋒を捨てて甲州へ逃げなさる事、
日本の諸仏諸神に誓って、決してなっかのである。
昔のことは、当屋形の勝頼公はご存知ないであろう。長坂長閑はよく知っておられるはずである。
右のごとく強い大将故、敵の国で、信玄公を雑人が歌に歌う沙汰もなかった。
これほどに剛強なる大将は、前代にもそれほどいなかった。それから末代にも、あまり多くはいないだろう。
されども文武二道の嗜みをもち、物事を華奢でかつ強かにおこなったので、合戦に勝たれても、敵の大将を誹らなかった。
勝利を得ても、一層慎重に考え、
国境つまり三河では設楽郡、美濃では土岐遠山、遠州では二俣、相模は真庄、上野では石倉・鷹巣、越中では神保・椎名、飛騨の江間、
信州では越後との境目に対して、各々に用心を厳しくすべきとの書状を送り、物事を万全に処置しなさった。
また天文十三年に信州戸石で合戦したとき、甘利備前守(甘利虎泰)、飯富兵部小輔(飯富虎昌)、板垣駿河守(板垣信方)、
小山田備中(小山田虎満)といった信玄家での主だった先鋒衆が、村上頼平(村上義清?)に切り崩され、信玄方の衆が尽く敗れ、
特に先鋒の侍大将甘利備前守が戦死した。旗本からの検使役の横田備中(横田高松)も討ち死にした。
横田の息子の十郎兵衛(横田康景)は、その歳二十であったが、朝の競り合いで、村上家で高名な足軽大将小島五郎左衛門を組み打ち
で打ち取り、深手を負って退いた.その他、横田備中の同心たちが、この競り合いで、優れた者二十人余りが手負いとなるか,
あるいは死んだので、横田備中が軍勢を返して討ち死にした時、ひとしお早く討たれたのであった。
それでこの合戦は、信玄公の負であるが、山本勘助と加藤駿河(加藤信邦)が戦況を見切って、諸住豊後(諸住虎定)、小山田備中、
日向大和、今井伊勢守の四人の力で盛り返し、敵を三百二十人あまりを打ち取り、ようやく芝居を踏まえた。
戸石崩れとして、この合戦は信玄公が大方負けなさったようであるけれども、信玄公が芝居を踏み鎮めなっさたので、結局村上は敗北
したゆえに、これも信玄公の勝ちである。
負け戦では、どうしても芝居の場所を踏まえられぬものだ。
無案内な人々は、優れたものが多く討ち死にしたので、信玄公の負けと申すが、昔義経公が屋島の磯で合戦した時、二千あまりいた旗
本が八十三騎にまで討たれたが、その場を立ち退かず、敵が敗北したので義経公の勝ちである。
総じて戦は、唐、日本の昔の事で批判するべきであろう。
そうではあるが、この戸石合戦は、信玄公の代で一番の不手際な合戦であった。このときは、信玄公は少しも大事のようになされず、
帰陣しても何の仕置もなく、猿楽師を集め、七日間能をさせて見物していた。
信玄公は若い時から心の境地が人々の考えを超えていた。
(甲陽軍鑑)
戸石崩れは武田信玄の負けに非ず
合戦とはどれだけ敵を打ち取ったかではなく,戦場を制圧したかどうかであるというをよく知る武田勢が
劣勢を盛り返し戦に勝ったといういいお話
後,合戦を「芝居」と言い換え,制圧・掌握するといった意味を持つ「踏まえる」とかけてるのは武田流ジョーク?
0951人間七七四年
2014/12/05(金) 02:32:38.89ID:10qg/MX/では、信玄が下手こいたちょっと悪い話ということで
0952人間七七四年
2014/12/05(金) 03:05:57.30ID:Kgxeaang戦後の宴(能見物含む)を開くことを「芝居を踏まえる」と呼んだのではないかな
0953人間七七四年
2014/12/05(金) 13:46:33.73ID:sQxpoWZm0954人間七七四年
2014/12/05(金) 21:41:15.89ID:ny/cwYoi飯尾太郎右衛門安延は山中に逃げ退いた。この間に家人に離れ馬も乗り捨て兜も脱ぎ、
ただ一人で逃走していた。
しかしこの後から、池田輝政の家臣である砥倉市正が人数2,30人を連れて追撃をしていた。
実はこの市正は、太郎右衛門の叔母聟であった。
市正は落人を追いかけ接近してよく見ると。それが太郎右衛門であることに気がつき、声をかけた
「そなたは飯尾太郎右衛門ではないか!?」
「いかにも太郎右衛門である!そのように申すそなたは何者か!?」
「私は砥倉市正だ!」
そういうと後ろに続く兵卒に、彼を討ってはならないと下知した。
そして太郎右衛門の所に行き
「まず落人を一人、下人でも何でも良いから、それを討ち留めるのだ。」
そう言って下人2,3人を付け遣わした。
太郎右衛門は納得できなかったが、市正が強いて落人を討たせに向かわせたので、
見知ったものは討たず、そのうちに見慣れぬ下人を見つけてこれを討ち首を取って戻ってきた、
市正はこれを見ると、その血を太郎右衛門の口に塗るなどした。そして
「これは降人の法なのだ。敵の首を取って降人に来たといえば、主人に理屈を言うことができる。
そのうえ落人というものは、樊カイを欺くほどの勇者であっても、臆病神の付く物だ。
また落人を討たせその上で血を飲ませるなどする事は、昔より定まりたる法なのである。
このように、降人の法となる事と臆病になっている事の二益がある故に、そなたに落人を討たせたのだ。」
これによって飯尾太郎右衛門は、一命を許されたのである。
(黒田家臣伝)
0955人間七七四年
2014/12/06(土) 14:14:46.60ID:/6xIWDLx降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。
大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。
そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。
「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。
親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。
――『常山紀談』
0956人間七七四年
2014/12/06(土) 20:41:19.01ID:j5mUhdpM多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。
0957人間七七四年
2014/12/07(日) 12:30:28.15ID:yNnhc+L4※この話にもパターンがいくつかあります
さる日、志村黒兵衛(以降志村九郎兵衛=光安)は谷地の城取十郎義国(※以降白鳥長久)を訪ね
「山形の主(最上義光)が病に倒れ、明日をも知れぬ命であります
義光は稚姫さま(長久の娘)と嫡男義康君の婚姻の縁で大事を託せるのは白鳥様しかおられない
生きている内に幼少である義康君の後見人引いては最上家の後事を是非にお頼みしたいとの事で、山形城へとお越し願えませぬでしょうか」と深刻そうな面持ちで話をした
長久は席を少し外すと
「山形からの使者が最上義光が死に掛けていて、婚姻関係のよしみで後事を託したいと言って来ている
使者を待たせているがどうしたものだろう?」と谷地城を訪れていた羽柴勘十郎に尋ねた
勘十郎はそれを聞くと
「最上義光は最近飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、病に倒れ婚姻関係を頼りに後事を託したいと言って来ているのだ
子供の行く末を案じている親の心は大層不安であろう
彼の言を汲んで山形に見舞いに行ってあげなさい」と答えた
その頃山形城下では最上の家宰氏江尾張(※以降氏家守棟)が寺社を廻り
「殿(最上義光)の容態が思わしくない。急ぎ祈祷をしてくれ。今殿に倒れられる訳にはいかんのだ」と僧や山伏らに声を掛けていた
この様子は草の者によってつぶさに谷地の長久の下へと届けられていた
日を置かず今度は氏家守棟が谷地城の白鳥長久を訪ねて来た
守棟「主義光の病は悪化するばかりで、もう我らでは見守る事も辛うございます。是非是非生きている内に一目見舞うてやっては頂けませんでしょうか」
「仮に義光の策だとしても精兵を連れて行き、城の要所を押さえれば何事も問題なかろう」と長久は兵500と抱え大筒数十を供え、輿で山形へと向かった
長久が山形城御殿に着くと義光の病状は相当悪いと見え
一間には医師らが治療の評議の言い争いをし
また別の間では僧や山伏らが護摩を焚いたり経を一心不乱に唱えていた
奥の間にも上座下座に仏僧が並び座り、手に汗を流して法を取り行っていた
長久「ただ今、参りました」
守棟「おお、これはよくぞよくぞ
お供の方はそちらでお休みくだされ。長久様、殿の寝所はこちらになります」
0959人間七七四年
2014/12/07(日) 12:53:50.76ID:yNnhc+L4義光は顔を傾け目をそばめると喉から咳を二三し
「おぉ、おぉ、よくぞよくぞいらっしゃいました…
生きている内にお会い出来て本当に良かった…
志村に言伝を頼んだ様に嫡男義康は未だに幼少
私が死んだ後も実の息子の様に可愛がってやってくだされ
そればかりが心残りで…」と呻いた
長久は「義光殿、我等の仲ではございませんか」と感激して涙を流し、袖を濡らした
義光「ごふっ、尾張(守棟)…、系図を持て。長久様に託したい…。九郎(光安)、系図の説明を…」
氏家守棟が巻物を恭しく掲げ持ち、志村光安を連れて閨に入って来た
義光「…拡げてくれ…」
守棟が長久の目前の床に最上氏の系図を拡げた
義光「伝来の羽州探題を証明する、家宝の系図でござる…」
守棟と光安が長久の左右に付いた
義光「長久殿…」
長久「なにか?」
守棟と光安が長久の着物の袖をかすがいで床に抜い付け
はっと顔を上げた長久が最期に見た物は枕元の太刀を抜き、袈裟掛けに切り降ろす最上義光の姿だった
「山形軍談」ほか
油断している相手を拘束して斬殺する
ちょっと変わった謀事のお話
0960人間七七四年
2014/12/07(日) 13:27:25.60ID:pQak1rhA0961人間七七四年
2014/12/07(日) 15:50:33.56ID:W3X3PcoP総大将の鳥居元忠と対立した。
元忠はいう
「こたびの合戦は討ち死に必定である。だから大将として城を預かる上は鳥居元忠と名乗って
見事に討ち死にするのが勇ましい武士のあるべき姿だ。」
しかし内藤家長はこれに反論した。
「そうではない。こういう場合は名乗らずに大将の死をかくし、いまだどこかに逃げているのではないかと
敵に疑心を生じさせるのが古来からの兵法である。」
元忠は敵にただで城を渡さない三河武士の覚悟を示そうとしたのに対し、
家長は石田三成の進撃を少しでも遅らせ、徳川家康の西上の時間稼ぎをせよというのである。
二人は死に方をめぐってついに喧嘩になった。
家長が「大将が堂々と快死する地ではない。」というと元忠は怒って
「大将が堂々と死なねば後で必ず窓から逃げたなどといわれるぞ。」
「雑兵の首に混じって捨てられては不覚きわまりない!」と反論する。
結局二人は同じ伏見城の中で対照的な最期を迎えた。
元忠は城の入口の石段にすわり、敵に名乗った後で堂々と切腹した。
一方
「家長もとより弓の達者なれば、手先をめぐらし、さんざんに射て敵を斃すといえども、
大軍おりかさなり松の丸の余煙もはげしゅうして逆風吹きめぐり、本丸西丸一時に亡す。
家長防戦の術つくるがゆえに、猛火のうちに飛び入りて焚死す」(武家事記)
家長の首はいくら探してもついにみつからなかったそうである。
0962人間七七四年
2014/12/07(日) 21:10:01.73ID:sBYgMYaU足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。
0963人間七七四年
2014/12/07(日) 21:57:43.74ID:w3202xSl0964人間七七四年
2014/12/07(日) 22:29:29.80ID:HTCupOW+茶器オークションが目的
0965人間七七四年
2014/12/07(日) 22:40:54.18ID:fXGl/uHn0966人間七七四年
2014/12/07(日) 23:20:42.72ID:w3202xSl0967人間七七四年
2014/12/08(月) 00:47:35.46ID:SywZhC9j(天権を拝んだり法華や一向宗・茶道にハマったりするのは、魔に魅入られたせいである)
日新斎
09681/2
2014/12/08(月) 01:45:19.73ID:6ZE/ro+x毛利輝元の中国勢、並びに紀伊淡路の兵あわせて8千あまりは軍議し、
「別所長治に同調せず、織田方についた別所孫左衛門(重棟)の籠もる別府の阿閉城を攻め落とし、
その上で三木城の別所の人数も相加え、大軍を以って姫路へ押し寄せたなら、羽柴秀吉・小寺政職も
こらえかねて城から出て戦うだろう。その時に勝負を決すべきである。」
そう決定し天正6年(1578年)4月1日、船手より阿閉城へと侵攻を始めた。
この動きを察知した小寺官兵衛孝高は、即座に精鋭五百を率いて阿閉城へと入り、諸卒に下知した
「この城は人数少なく城郭も堅固ではない上に兵糧も乏しい。敵が時間をかけ、攻め支度を備え
軍法を整えてここを攻略されては、小勢を以って防ぐこと難しく、必ず落城するだろう。
であれば、長期の籠城をするよりも、敵が寄り来たばかりで行列も未だ整わず、攻める用意も無い内に、
速やかに門を開き突き出て戦えば、必ずこの一戦に理を得ることができる。
この城が要害おろそかであることが幸いである。敵がこの城を見れば必ず侮り、大勢であることを頼んで、
仕寄(攻城施設)も付けず攻め支度も用意せず、盾ばかりをつき並べて攻め寄せてくるであろう。
その時、城中静まり返って鉄砲も撃たず、敵を近々と矢頃まで引きつけた上で、打ち損ぜぬよう
弓鉄砲を一斉に射撃させ、また弓鉄砲を持たぬ者は石を多く集めておいて、これをひたすら投げ打つのだ。
私は大手の矢倉に上がり、敵が弓鉄砲に打たれ、恐れ浮足立った時分を見て太鼓を打つ。
その時味方の諸卒が城門を開いて突き出れば、その頃は寄せ手が大軍であったとしても、鉄砲に当たり
石に打たれ手負い多く戦うものも少なくなっているだろうから、ここで鬨の声を上げ
競い攻めかかれば、敵の勇気も一時に挫けて、必ず大崩れするだろう。」
そうして予め軍法を定め敵が攻めくるのを待っていた。
09692/2
2014/12/08(月) 01:45:51.54ID:6ZE/ro+xであれば仕寄も作る必要はない。ただ直攻めに攻め落とそう。」と、盾を一面につき並べ、
柵際まで攻め寄せ、柵を破り堀下へと侵入した。
城中の者達は、かねて議定していたことなので、鳴りを静めて音も出さず、敵が既に石垣に乗らんとした時、
思ったとおりに引きつけたと、鉄砲を一度に、雨が降るように撃ちかけた。
寄せ手の兵はこの城を侮って、ただ一挙に攻め落とそうと勇んで進んでいたため、石に当たり鉄砲に撃たれ
多く死傷者が出たが、それも顧みず死骸を踏み越え我先にと城内に乗り込もうとしたが、
城中の防戦激しくこれを破ることができず、やがて死傷者の増加に浮足立ち始めた。
ここで孝高「時分良きぞ!」と太鼓を打ち鳴らすと、かねて決めていた通り、城中の兵城戸を開け、
鬨の声を上げて三百余人一度にどっと突いて出た。
寄せての内、城下に近づいていた先鋒の者達は、鉄砲で多数が撃ち殺され、残った者も多くは負傷していたため、
これを防ぎ戦う力なく、即時に敗退した。
その後ろの敵は先陣の崩れに押し立てられ、一支も出来ず大崩れとなり敗退した。
阿閉城勢はこの機に乗じて強く勇み、追い打ちしたため多くの敵を討ち取った。
このことが姫路に聞こえると、羽柴秀吉は大いに喜び、孝高に感状を与え、また秀吉より信長へも注進された。
(黒田家譜)
そういえばこれも若いころの官兵衛の有名な戦なのに、大河ではやらなかったなあ。
0970人間七七四年
2014/12/08(月) 12:49:05.76ID:0690pWDd白鳥長久が山形城の最上義光の寝所で斬り殺されると、氏家守棟は法螺貝を鳴らさせ伏せ隠していた兵300で近間で休んでいた白鳥家の家臣らを討ちに掛かった
白鳥の兵の大半は城外の宿に分散して置かれ、城内に同道した30人程の白鳥家臣たちは主の長久が殺されたことを知り、山形城から逃れ様と奮戦をしたが既に門は閉ざされ、
銅鑼に太鼓が鳴る度に最上の兵は増え、白鳥家老の熊野三郎友重も本丸北西の角に追い詰められ、壮烈な斬り死にを遂げた
そこには春になると見事な花を咲かせる江戸彼岸の桜の木があった
明治時代末から大正初期に山形の史跡について纏められた「山形散見」といったものがある
山形城本丸跡の霞城連隊広場脇にある桜は最上義光の謀により討ち取られた白鳥主従の反り血を浴びた事から「血染めの桜」と呼ばれる様になったとされる
この伝承は古老の伝える口語の昔話によって「谷地の白鳥某(なにがし)が彼の地で討たれた際にあった桜」「白鳥長久が寝所から逃れたが、留めを刺された所にあった桜」「白鳥は寝所で斬られ、その家臣らが最期を遂げた場所」等という事で幾つかの話がある
山形城跡南東の済生館の入口付近にも「白鳥長久首洗いの石桶」と呼ばれるものがあるが、こちらも一説には山形城本丸の手洗いの石鉢か、山形城内に当時あった歌掛稲荷の手水鉢(ちょうずばち)ではないかとも言われている
血染めの桜は戦後まであった
連隊解体後の城地整理で一旦二ノ丸北西に移植されたが、土が合わずに昭和32年頃に枯れてしまい、その幹の一部が山形城跡の郷土資料館と谷地の資料館に展示保存されている
0972人間七七四年
2014/12/08(月) 20:24:54.34ID:bp7jPN4n0973人間七七四年
2014/12/08(月) 21:54:57.27ID:Paa8DOv00976人間七七四年
2014/12/09(火) 02:45:46.21ID:VHXXMKOc越前住民「利家は一揆千人あまりを生け捕りにして、みせしめに磔、釜いりで皆殺しにしたぞ。」
0977人間七七四年
2014/12/09(火) 06:59:52.34ID:uKneZsTTパーデレもキリシタン達も暢気にしていられないように、悪魔は早速自分の仕事をやり始めた。
それというのは、先ず第一に、まえに公方様を殺してパーデレを追放した松永霜台(久秀)は、信長やかの殿たちが皆パーデレに示した歓迎
を見たときに、
「パーデレが説くあの忌まわしい教えが伝わる所はどこであろうと、忽ち国も街も破壊されるということはこれまでにあれほ
明瞭に経験したことであるのに、どうして殿下が御命令になるのか、呆れるばかりである。」
と信長に言った。すると信長はそれに答えて、
「霜台、歳も長け、思慮もある其方が、かくも小心臆病であることを予は呆れておる。たった一人の異国の者が、この大きな国ではどんな
害悪をなすことができるというものか。それどころか、ここで自分の教えを説くために、かくも遠方から、またかくも遠い国から一人の男
がやって来ることは、かほどまでに多くの宗派が存するこの町にとって名誉なことだと思われるのだ。」
信長に不機嫌な顔をされると、その者はもう一言も言えず、もう目も上げる勇気もなかった。それで、霜台は一言も答えず黙り込んでし
まった。
こういう反対者達は仕返しをせずにはいられないものなので、信長は霜台から日本にある最良で最も価値の高い茶の湯の器を奪った後
で、彼と息子を彼らが強奪した大和国から追出して、河内国の山間、信貴山に移させた。そうして、そこでも彼らの悪意が止まらなかった
ので、信長は彼らを殺すことを命じた。しかし、襲撃を受ける前に、霜台は城に火を放ち、城中にあった全財産、婦女もろともに、生きな
がら焼け死んだ。しかし、息子は助かる途も見出すことを期待して窓から飛び降りたが、脚を折り、忽ち敵方がやって来て、彼を完全に殺
した。
(ルイス・フロイス『日本史』)
平蜘蛛は無事だったみたいですね
0978人間七七四年
2014/12/09(火) 07:07:39.75ID:2V9S/OTD0979人間七七四年
2014/12/09(火) 08:18:40.22ID:lVwjUkjr彼の家臣に切支丹に改宗した高山・結城などがいるのでその影響力は肌で感じていたと考えられます
0980人間七七四年
2014/12/09(火) 18:25:37.33ID:MIVD3f6yこの時点でのキリシタンの数からしても
0981人間七七四年
2014/12/09(火) 22:50:24.09ID:PpDqgtbfまえに公方様を殺して
さすがフロイスさんやで
0983人間七七四年
2014/12/10(水) 08:25:24.67ID:VjK+BKx4それを貸してでも武具を拵えさせたため、家中は皆武道を嗜み武具兵器等を具えていた。
そんな中、大越治左衛門という者、
「武士が武道を嗜み、武具を揃え置くことは士の道であり、武具を拵えたからといって
人に見せるには及ばない。またそれを見たとしても、賞するに及ぶものではない。」
そう考え家中一同が嗜み具える所に、治左衛門一人わざと武道も嗜まず、武具も蓄えのないような顔をして居た。
ある時山崎甲斐守がこの治左衛門を召して言った
「その方の武具を私は未だ一見したことがない。今日、それを出して見せるように。」
すると治左衛門は「畏まり候」とその座を退き、やがて小さな旗を拵え、その旗に
『運は天に在り 具足は質屋に在り』
と書いて甲斐守の前に持って出て
「私の武具はこの旗に候」と言った。
これに甲斐守は呆れて暫く黙っていたが、やがて
「その方は貧者と見えたり。この金を遣わすので早々に武具を拵えるように。」と百金を与えた。
治左衛門は心中「さてさて、律儀なる主人である。」と思い、「畏まり候」と言って帰宅すると、
その百金を親類縁者の内困窮している者へそれぞれ分配し、残った金で酒肴、菓子など沢山求め
家内の者達に食わせ、一両日の間にその百金を皆使い果たした。
その後、山崎甲斐守が家中の士の騎馬を閲兵した時、大越治左衛門は太く逞しい黒馬に打ち乗り、
鞍の輪に網の袋を、前に5つ、後ろに5つ下げていた。甲斐守はこれを見て不審に思い
「治左衛門、その網は何の為のものか?」と問うと、治左衛門
「これは事あらん時、君の御馬前にて討ち取った首を入れるための袋です。」と答えた。
甲斐守は「そんなにいくつも要る物なのか?」と尋ねると、
「10人までは必ず討ち取りますので、10袋用意いたしました。」
と答えた。
(明良洪範)
島原の乱の後、天草を復興させた名君である山崎家治とその家臣についての逸話である。
0984人間七七四年
2014/12/10(水) 16:25:54.29ID:LyU+oQmF名君たる人は器が違うわ
0985人間七七四年
2014/12/10(水) 23:02:00.40ID:xg/BxYrK0986人間七七四年
2014/12/11(木) 02:13:40.44ID:oE57dufK扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ
「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」
と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)
0987人間七七四年
2014/12/11(木) 22:18:40.13ID:CGMxavUs0988人間七七四年
2014/12/12(金) 00:12:55.27ID:iPgindBB0989人間七七四年
2014/12/12(金) 00:15:20.29ID:iPgindBB↓スレタイ
戦国ちょっと悪い話41
↓テンプレ
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話40
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1408672111/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話41
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1412513898/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0990人間七七四年
2014/12/12(金) 00:23:44.02ID:nM66HCLk0991人間七七四年
2014/12/12(金) 00:24:47.54ID:nM66HCLkhttp://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1418311460/
0992人間七七四年
2014/12/12(金) 01:57:05.44ID:iPgindBBありがとう
埋め代わりに
池田輝政が播磨の領主であった時代、直に村々に触れられて、一石につき二升宛の年貢免除を許された。
この事について、堀甚兵衛という名主の家には今も、輝政自筆の免状が伝わっている。
このように大名が村に直接指示を出したというのは、戦国の時であったからそんな事もあったのだと
言う人がいるが、新太郎少将(池田光政)の時代でも、その領内の村々を、大名自ら万事委細に理解し
扱いを行っていたのである。
現在では代官と言われる者さえその管理する村について知らない事すらある。
(明良洪範)
0993人間七七四年
2014/12/12(金) 02:36:55.79ID:hpG2DEKq00:24:47.54
立て乙www
0994人間七七四年
2014/12/12(金) 02:42:16.58ID:on4xVGIOいい話スレに投降した島津久保の虎狩り、その続き。
本当は一つの逸話として悪い話スレに投稿する予定でしたが、長くなったので二分しました。
文禄元年(1592)初冬、金化城外の広野。鷹狩りの筈が虎狩りになってしまい、しかし首尾よく猛虎を仕留めた次の瞬間、悲劇は起きた。
虎が疾風怒濤の勢いで小山から駆け下りてきた時、咄嗟に反応できたのは大山、大田の両名だけでは無かった。
ここに今ひとり、羽生(はふ)某と苗字のみ記録されている士も、主君の危機に置いて虎を射止めるべく、鉄炮を発射したのだ。
今まさに、大田吉兵衛が虎の口に一刀を突き込んだ瞬間に。
銃弾は誤って吉兵衛の股に命中。
……不幸中の幸い、傷は薄手にて傷まずと『征韓録』には記されている(当時というか、幕末でも現代の重傷も浅手なので疑問だ)が、羽生は一発だけの誤射でも深く恥じた。
「楚忽(粗忽)の至り、面目なし」
と腹を切って死んだ。
この虎狩りの顛末を聞かされ、島津義弘は嘆いた。
「暴虎馮河で死して悔いなきとは、君子の取らざる所なり」
以下、故事成語を引いて戒めた後さらに続けた。
「すべて久保の粗忽の儀、今に始まらぬ事なり」
かつて忠清道(チュンチョンド)の普天(ポチョン)に在城した時、久保は島津の御家芸である騎射を練磨すべく原野に出た時。
敵兵の大物見数十騎が出現し、島津家の秣を狩りに出た小者を二〜三人ばかり討ち取ったと聞くや、即座に追撃を決意。
「その時も、供の集まるのを待たず一騎懸けで一里余りも追撃したり」
遂に追いつくや、敵兵二騎を討ち取る。その頃、漸く川上休右衛門久智らの駆けつけたのだが……。
「休右衛門まで一緒になって敵の首を得て帰ってきた」
往時といい、今日の事といい、彼これ将の器に当らず。能々(よくよく)慎まれるべし、と義弘は久保に騎射放鷹の禁止を申し渡した。
その後、石田三成まで伝聞で事の顛末を知るや、使者を送って久保に放鷹を誡めた。
以上、『征韓録』より。
0995人間七七四年
2014/12/12(金) 21:13:24.39ID:QYjmpExE拙者も埋め立てに加勢仕る。
0996人間七七四年
2014/12/12(金) 21:42:29.87ID:VHR9G5VM0997人間七七四年
2014/12/12(金) 23:01:42.80ID:guHhG1L/もう20年くらい昔の侍なら敵地で自害しなかったと思う
0998人間七七四年
2014/12/12(金) 23:16:07.57ID:M09AsNsX0999人間七七四年
2014/12/13(土) 11:29:14.14ID:IURlute41000人間七七四年
2014/12/13(土) 11:30:05.90ID:IURlute410011001
Over 1000Threadー┬――─‐ァ
/ ̄ ̄ ̄ ̄,l,
_/ ,、r'" _」
. | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
/`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
. |エi> ,' イiエ> レ'゙,r .,l }
i. / Y./ノ さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
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